https://rising-cloud.org/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%A8%E7%A6%8A/ 【伊勢とイエスと禊】より
伊勢(イセ)という発音は、アラム語でイエスである、と川守田英二牧師は「ヘブル詩歌の研究」(八幡書店)で述べている。
アラム語というのは、イエス・キリストが話していたことばで、十字架上のことばとして福音書に記されている「エリエリレマサバクタニ」(なぜわたしをお見捨てになったのですか)がそうである。
ヘブル語ではイシュエ、ギリシャ語ではイエスース、英語では、ジィーザスである。2016年G7サミット会場に決定した伊勢志摩のシマはヘブル語で、国とか土地とかいう意味である。
伊勢神宮に流れている清流の名を、五十鈴川(イスズガワ)と呼ばれているが、古くからの本来の呼び名は、イスス川である。
〝いすゞ〟とは濁らない。出所を聞かれても昔からそう言い伝えられているからしかたがない。
どこでどう濁っていすゞになったのか私のようなものにわかるはずもない。ことばはある時何かのはずみで変わっていくもの。めちゃくちゃが「めっちゃ」になったりする。
ギリシャ語はユダヤ人が流ちょうに話していた言葉であったから、イスースとそのところに流れている川の名として使っていたのであろう。
濁ってしまって「いすゞ」となったのは、本来の意味から外れてしまって、形式的になって濁ったとは思いたくはない。
その川で2000年にわたって禊(みそぎ)が行われている。禊とは、全身を川の中に浸し、水からあがってきて身も心も清めてもらう儀式であることは衆知のこと。
過去に犯した罪を赦され、新しく生きていこうとする意味ならば、聖書のいうバプテスマ(洗礼)である。
ヘブル語で「メイ」は水、「ソギ」は流れる、行く、の意味で旧約聖書の清める水の性質は、泉の水、滝の水、川の水であって淀み、溜まっている水であってはダメなのである。
ノアの通過した水(洪水)は、ものすごい水であった。古い世界を禊した洪水であった。
畠田秀生聖書と日本フォーラム 会長
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2018/04/09/japan-and-israel-12/ 【【日本とイスラエル】伊勢とイエスと禊】より
日本とイスラエルに関連する事柄について、畠田秀生著「日本は聖書の国だった!」からご紹介いたします。
イセ
伊勢(イセ)という発音は、アラム語でイエスである、と川守田英二牧師は『日本ヘブル詩歌の研究』(八幡書店)で述べている。アラム語というのは、イエス・キリストが話していたことばで、十字架上のことばとして福音書(新約聖書)に記されている「エリエリレマサバクタニ」(神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか)はアラム語である。ヘブル語ではイシュエ、ギリシャ語ではイエスース、英語では、ジーザスである。2016年G7サミット会場に決定した伊勢志摩のシマはヘブル語で、国とか土地とかいう意味である。
イスス
伊勢神宮に流れている清流の名を、五十鈴川(イスズガワ)と呼ばれているが、古くからの本来の呼び名は、イスス川である。〝いすゞ〟とは濁らない。ギリシャ語はユダヤ人が流ちょうに話していた言葉であったから、イスースとそのところに流れている川の名として使っていたのであろう。
禊
その川で二千年にわたって禊(みそぎ)が行われていたのだ。禊とは、全身を川の中に浸し、水からあがってきて身も心も清めてもらう儀式である。過去に犯した罪を赦され、新しく生きていこうとする意味ならば、聖書のいうバプテスマそのものである。
メイ・ソギ
ヘブル語で「メイ」は水、「ソギ」は流れる、行くの意味で旧約聖書の清める水の性質は、泉の水、滝の水、川の水であって淀み、溜まっている水であってはダメなのである。ノアの通過した水(洪水)は、ものすごい水であった。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、風習、国民性に深く関係していると思います。外国の宗教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 13章10~21節
安息日に、ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。また言われた、「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
モーセの十戒
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(旧約聖書出エジプト記20章8~11節)
これはモーセを通して、イスラエル民族に与えられた神の戒めの一つである。しかし、ユダヤ人はそれを火をともしてはいけない、遠距離を歩いてはいけない、食事を作ってはいけないといった宗教にしてしまった。もちろん、日常の事に追われて、神を忘れてはいけない。全ての仕事を一旦止めて、神だけに思いを向けることは重要なことでしょう。しかし、戒律を守ること自体が目的となってしまうと宗教になってしまいます。
神の国
神の国とは神を中心にして生きること。神の前に正しく誠実に生きること。からし種とは最も小さい種のたとえでしょう。どんなに小さなことであっても、神を中心として生きるなら、やがて大きな木となる。パン種はパン粉全体をふくらませる。神を中心として生きるなら、人生全体、人格全体に大きな影響を持つことになるということではないでしょうか。
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本の表紙Amazonから「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。(Amazonのサイトはこちらです。)日本人の高い国民性は聖書と関係があること、イエス・キリストの教えは日本人の信仰の中にも引き継がれていることについて書きました。ぜひ、読んでみてください。詳しくは書籍情報をご覧ください。
目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
https://saganotsuki.blog.fc2.com/blog-entry-2522.html 【禊と祓-野宮神社】より
禊(みそぎ)と祓(はらえ)の違いをご存知でしょうか。
伊勢神宮へお入りになる斎宮が、川の流れで浄める「禊」は心身の穢れを水で洗い流すもの。対して、「祓」とは実害のあることをした刑罰として罪科を祓い浄めること
『日本書紀』の記述から、この2つを分けて説明すると「禊」は伊弉諾尊(イザナギノミコト)が亡くなった妻の伊弉冉尊(イザナミノミコト)に会いに行くが「私はもうすでに死によって穢れてしまいました」と言われて黄泉の国から追い返されたあとに心身を浄めるために行ったこと。
それに対して、「祓」は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が高天原で悪さばかりをするので、天照大神の逆鱗に触れその罪を祓うためにすべきこと。
☆ 野宮神社主催の講演会
今日は嵯峨野の野宮神社さんの主催で開かれた講演を聴講に行きました。
前もって、メールで申し込みをすると宮司さまがすぐにお返事をくださいました。
丁寧で親切です。
地域と連携して、祭りや行事、こうした勉強会を催してくださいます。
6月30日の野宮神社は「夏越の祓」の茅の輪くぐり毎年9月に行われる講演会にも参加していますが今回のシンポジウムは20年前に復元した「斎宮行列」の記念事業として開催されました。
会場はJR嵯峨嵐山駅前のホテルビナリオ嵯峨嵐山 地下1階の広いスタジオでした。
☆ 野宮神社の懸野直樹 宮司さま
穏やかで朗らかでやさしいお人柄は嵯峨の方らしいです。嵯峨という地域に密着し、祭事の復元や勉強会の開催など目に見える形での数多くの実践とこの地から常に発信されている姿勢にいつも頭の下がる想いがいたします。真に行動する宮司さま、ご尊敬申し上げております。
☆ 禊と祓-渡辺 寛 先生
まずはじめの第一部は、「禊と祓」と題して皇學館大学名誉教授の渡辺 寛先生の講義
伊勢神宮の斎宮について、その群行の行程は禊・禊の連続 伊勢へとお入りになり、斎宮としての任務を全うされ やがて、天皇の譲位や崩御で退下してからも 木津川を下り、河内まで出て住吉の浜まで行き 禊をしながら、もとの生活に戻ることをお伺いしました。
行きでの禊だけでなく帰りも禊が各地で何度も行われているのです。
神の世界と俗世を行き来するための儀礼なのか リセットに近いものか それとも、なんらかの深い意味合いや必要性があったのか?
その後は見事にふつうの皇女に戻り 中宮になったり、貴族に嫁いだり、尼僧になる方もおりました。
ちなみに、私の憧れる式子内親王様は賀茂の斎院でしたが 生涯独身のまま、晩年は出家をされて「承如法」と言いました。
豆知識
・ 伊勢神宮は「斎宮」
・ 賀茂神社は「斎院」
『延喜式』をもとにお話を進められます。
全五十巻のうち、神祇に関わることはなんと、十巻にも及びその中でも、伊勢神宮の斎宮について、一巻賀茂の斎院についても、一巻含まれるということ
天皇の大嘗祭が、一巻ですから如何に重要な役割であったかということがうかがい知れます。
亀の甲羅(おなかの部分)を焼いて、そのヒビの入り方によってものごとを占う卜定(ぼくじょう)によって決められた斎宮は、3年をかけて正式な斎宮になります。
「発遣ノ儀」では、御所で天皇から櫛を差していただき伊勢までの行列は総勢550人に及んだそうです。
渡辺先生いはく
「当時としては最長距離の大旅行だったでしょう。肉体的にも、精神的にも、経済的にも大変な負担を強いられた旅」聖と俗の世界を行き来し、ハレとケを渡る斎宮 皇女であり、神の遣いとして、また天皇の名代として背負うものは大きかったはずです。
そのための浄めの儀式は、禊の連続でした。
未婚の皇女にその役を着せ、世俗から隔離した状態にすることはどこか、ネパールの少女「クマリ」のようでもあり生贄のような雰囲気すら覚えます。
しかし、渡辺先生の見解によると
「悲劇の皇女とか、そういった見方がなされますがそんなに悲壮なものではなかったと思われます」とやさしく微笑まれるのでした。
☆ 洗礼と禊-手島 勲矢 先生
続いて、第二部では「洗礼と禊」と題して大阪大学COデザインセンター教授の手島勲矢先生の講義
聖書の研究、とりわけユダヤ教についての造詣が深く
19歳の頃よりイスラエルで学びハーバード大学でも研究を重ねられました。
ヘブライ語を原書で読むことのできる、数少ない日本人の学者です。
ユダヤ教に伝わる禊「トゥビラー」の意味は「浸すこと」体を水の中に浸す
ゴシゴシ洗ったりはしないもので、プールのような遺跡が見つかります。
戒律の中での沐浴と同じで体を浸して汚れを除く行為、一般人が行うもの
308リットルの自然の水を使う決まりがあったそうです。
それは雨水や川、泉、海の水に至るまで自然に流れているもの。
溜めておいて汲んだ水ではダメだということ。
対して、イエスキリストが訴えたのは「人の中から出てくるものが、人を汚す。外から人の体に入るものは人を汚すことはない」という清めの考え。
大変興味深いものでした。
☆ 私の感想
私の感想ですが
禊や祓が行われたのは現在のように形式化・様式化された単なる儀式のためだけではなく
必要に迫られたものであったからだと思うのです。
古代の人間は、もっとシビアに切実に物事を行っていたに違いありません。
ちゃんと、理由があった。
たとえば、水不足の夏の雨乞いのように目の前に差し迫り、切羽詰まった現実問題があった。斎宮の伊勢への群行の時期は『延喜式』によると、七月~九月上旬の頃 夏から秋にかけての季節、なんども禊が行われるのもうなずけます。
体を清潔に保つことが大事とされた。
それは死への畏れ、病気(特に、感染症の脅威)など医学が発達していない時代、その原因を探る中で
・ 衛生面を重視した人々が、潔癖症なくらいによく手を洗い、食器を洗った→「禊」とするグループ
・ イエスキリストのように、体の内から出るものが汚れの根源であると考えた
この2つの違いが重要で、いずれも病気のもとになるであろうものなのですが
外側からの病原菌への感染や非衛生的な環境でなるものと個人個人の生活習慣や、精神的なものを起因として発生する病やがて、死に行きつくことを懸念しての「禊」であったのではないでしょうか?
死人を出したうちが7日間、カーテンを閉め、襟を破って、家に引きこもり灰をかぶって過ごすというのも死人から病がうつり広がることを恐れての行為ではなかったか
日本でも、「喪に服す」とか「初七日」には本来そういった実質的な意味合いが含まれていたのではないでしょうか?
こんなことは講演の中では全く語られなかったのですがあくまで、「儀式としての禊」をことさらに語られていました。
それは今のように科学が発達し、病や死の原因がある程度分かるようになってから形式としての作法が残っただけのことではないか、と私は思います。
古代の人々にとって病や死は、ブッダも当初苦しんだように重大な問題でした。
だからこそ、内面から清めようとするキリストと自らを律して生きるブッダは、相通じるところがあるというわけです。
彼らは恐れることなく自ら、汚れのほうへドンドンと進んで入って行きました。
苦の根源を見極め、如何にすれば清めることができるか、苦しまずに済むかを説き それらがやがて、宗教となり、哲学となり、医学にも波及していくとしたら人類の英知を感じます。
そして、12世紀のユダヤ教の偉大な宗教思想家・マイモニデスの考えに結実しているように思いました。
「不浄とは、心の意思に依拠している。自分の魂を魂の不浄から つまり邪な思いや悪い知識から、清めようとするのである」
ブッダは言いました。
「誰か一方の者が誰かを浄めるのではない、自らが自らの心を浄めるのだ」
質疑応答でも白熱した議論が続きました。
最後に手島先生の語られたことが印象的でした。
「ノアの箱舟の時、人類は滅びたわけですが、あの原因は大洪水だった。 戦争ではないんです、人類が絶滅するのは… 」自然災害によって滅びる世界 人間同士の争いなどちっぽけなものだ 自然の驚異に比べたら…
しかし、その自然災害を生んでいるのが「人間の欲望による環境破壊」であるとしたら…
そんなことを災害の多い昨今に合わせて考えさせられました。
日本も一度、大きな禊をしなければなりませんかね?国家規模で。
※ 史料に基づき
・ 渡辺 寛先生は「穢れ」と「浄め」
・ 手島 勲矢先生は「汚れ」と「清め」の漢字表記を優先しました。
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