https://ameblo.jp/seijihys/entry-12504699672.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉は伊勢神宮遷座式に参加していた?】より
【原 文】
旅のものうさもいまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)拝まんと、また舟に乗りて、 蛤の ふたみに 別れ行く秋ぞ
【意 訳】
長旅の疲れもまだ抜けきらないのに、九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと、また舟に乗り、 蛤の ふたみに 別れ行く秋ぞ
松尾芭蕉「おくのほそ道」は岐阜大垣から舟に乗り、伊勢へと向かうところで終了する。
この最後の文章を、これまでなにげなく読み流していたのだが、この、九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと…という文章は結構重要な場面ではないか…、とふと思った。
ご承知の通り、伊勢神宮は20年に1度遷座する。
調べてみると、元禄2年(1689)は、伊勢神宮遷座の年で、
9月10日 内宮遷座式 9月13日 外宮遷座式となっている。
芭蕉はただ単に伊勢神宮を参拝するだけではなく、「遷座式」を見ようとしていた、と考えてよく、それに合わせて大垣を旅立った、と考えていい。
元禄2年9月15日、岐阜大垣の木因(もくいん)への書簡には、拙者も寛々遷宮奉拝、大悦に存候と書かれてある。
意訳すると、わたくしもゆるゆると遷宮を拝謁、大きな喜びでした。と述べている。
注釈(『芭蕉書簡大成』今榮蔵)では、ここで、外宮遷宮式を奉拝したこととある。
なぜ内宮遷座式ではなく、「外宮遷座」と限定しているのかはわからない。
ここだけ見ると、内宮遷座はわからないが、外宮遷宮式には参加出来たようだ。
ここでふと「疑問」が湧く。
芭蕉の『野ざらし紀行』の「伊勢」の場面でこういう箇所があった。
我(われ)僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。
暮(くれ)て外宮に詣で侍りけるに…とある。
意訳すると、私は僧侶ではないが、僧侶の部類とされ、内宮神前に入ることを許されなかった。暮れて外宮に詣でて…となる。
これを読んで推量すると、伊勢神宮内宮は坊さんの参拝を許さなかった。
芭蕉は坊さんと判断され、内宮に参拝出来なかった。
外宮は坊さんの参拝を認めていて、芭蕉も参拝出来た。ということである。
「野ざらし紀行」は貞享元年(1684)であるから、「おくのほそ道」の5年前である。
今回はどうなったんだろう、ちゃんと伊勢内宮に入れたのだろうか、内宮遷座式を見れたのだろうか…、と考える。
これも結局、推測になるが、注釈に「外宮」としか書いていないところを見ると、内宮遷座は参加出来なかったのではないか。
そもそも内宮遷座式を庶民が気軽(?)に見学出来るものだろうか、と考える。
このへんは調べてみないとわからない。
芭蕉は最初から、外宮遷座式のみの参加を目的としていた、とも考えられる。
いや、それならば、なぜ芭蕉は9月6日に大垣を出発したのだろう。
外宮遷座だけを見るなら10日くらいに出発しても十分間に合うはずである。
やはり、内宮遷座に合わせて出かけたのではないか。
そして、5年前に断られた経験があるのだから、今回は、例えば、地元の人に、神前に入れるように準備してもらっていたのではないか、とも考える。
ただ、まあ、結局は(現時点では)よくわからない。
ただ、「お伊勢参り」というのは江戸時代爆発的に流行したが、芭蕉にとっても「伊勢神宮」というのは特別なものだった…、と同じく推量する。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sengu.htm 【尊さに皆おしあひぬ御遷宮】より
(真蹟懐紙)(とうとさに みなおしあいぬ ごせんぐう)
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元禄2年9月13日。『奥の細道』の旅を終えて、外宮の遷宮式を見物。芭蕉はこの時伊勢山田に着いたのが9月12日で10日に行われた内宮の遷宮式には間に合わなかった。伊勢神宮では、『野ざらし紀行』では「三十日月なし千年の杉を抱く嵐」と、また『笈の小文』では「何の木の花とはしらず匂かな」などと詠んでいる。
https://jingu125.info/2013/09/30/20130929_08211455211/ 【神宮式年遷宮を祝す芭蕉の句】より
9月25日の朝日新聞に次の記事が掲載されていた。
遷宮 芭蕉も祝う 伊賀市役所、句の垂れ幕(朝日新聞 2013年9月25日朝刊記事より引用)
『尊さに皆おしあひぬ御遷宮』、芭蕉が神宮式年遷宮を祝った句の垂れ幕が伊賀市役所に掲げられた。季語は『御遷宮』。
この句はどこかで目にしたことがある。記録を確認したところ伊勢市駅前の広場に新たに建てられた句碑だった。
新たに設置された芭蕉の句碑(伊勢市駅前)
芭蕉の句碑の説明板(伊勢市駅前)
「たふとさに みなおしあひぬ 御遷宮」 芭蕉
元禄二年(一六八九年)に第四十六回神宮式年遷宮がありました。ご神体をお移しする遷御は、内宮が九月十日、外宮が九月十三日に行われました。
松尾芭蕉が、『奥の細道』の旅のあと、大垣から、九月六日に伊勢に到着し、外宮の遷御の日に参拝したとの記録が残されています。芭蕉はこのとき、宮後(みやじり)西川原の門人であり御師の「島崎又玄(ゆうげん)」のところに十日ほど逗留し、外宮の遷宮を拝してこの句を詠みました。
2013年04月20日の記事(神宮巡々)
https://www.zoezoe.net/2016/08/isetomatuobasho.html 【伊勢と松尾芭蕉(いせとまつおばしょう)(三重県伊勢市宮後)】より
月夜見宮の前に看板
月夜見宮の前に伊勢と松尾芭蕉の看板を見つけました。看板にはこのように記載されていました。
芭蕉は生涯6度伊勢を訪れたといわれています。
お伊勢参り、尊敬する西行法師や俳諧の祖である荒木田守武神主ゆかりの地である伊勢は芭蕉にとって憧れの土地でした。
伊勢は俳諧の盛んな土地で芭蕉のファンや門人も多かったため伊勢人との交流は深く、俳諧興行もしばしば行われました。
芭蕉の伊勢来訪 記録に残っているのは1684年(貞亨元年)8月下旬 芭蕉41歳
第4回目の伊勢参宮「野ざらし紀行」の途中、伊勢大世古の御師、松葉屋風瀑邸に10日程滞在。8月30日外宮参拝。
三十日月なし千年の杉を抱く嵐 蔦植えて竹四五本の嵐かな 蘭の香や蝶の翅に薫物す
芋洗う女西行ならば歌詠まむ
1688年(貞亨5年)2月 芭蕉45歳 第5回目「笈の小文」の旅のとき
何の木の花とは知らず匂いかな 梅の木になほ宿り木や梅の花
御子良子の一本ゆかし梅の花 盃に泥な落しそむら燕
この山のかなしさ告げよ野老堀 芋植えて門は葎の若葉かな
紙ぎぬのぬるともをらん雨の花 物の名を先づ問ふ蘆の若葉かな
1689年(元禄2年)9月 芭蕉46歳
第6回目 奥の細道を終え、式年遷宮を拝まんと伊勢に訪れる。
西河原(宮後町)の島崎又玄宅に宿泊。
月さびよ明智が妻の咄しせん たふとさにみなおしあひぬ御遷宮
門に入れば蘇鉄に蘭の匂ひかな 硯かと拾ふやくぼき石の露
秋の風伊勢の墓原なほすごし
1694年(元禄7年)芭蕉51歳 大坂で10月12日に他界する。
この年の元旦に江戸の深川芭蕉庵で伊勢を偲んで詠んだ句。
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り
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