https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/nri1807re15.pdf【江戸期に現れた日本の哲学思想】より 理事研究員 清水徹朗
1 二宮尊徳の思想の源泉
二宮尊徳(1787~1856)は、著書『三才報徳金毛録』(1834)の中で、自らの思想を円形の
図(大極之図、一元之論図、五行分配之図、因果輪廻之解等)で示している。私は初めてこれらの図を見た時、そのスケールの大きな世界観に感心したが、奈良本辰也(『日本思想大系』校注)によると、これらの図は主に宋学(朱子学)に由来するという。
尊徳は若い頃から儒教(儒学)の書物を熱心に読んでおり、尊徳の思想は自らが「神儒仏
正味一粒丸」(『二宮翁夜話』)と表現しているように神道、儒教、仏教の教えのなかから自らの実践を通じて抽出したものということができるが、その尊徳を生み出した江戸時代の学問・思想の系譜について考えてみたい。
2 江戸期における儒学の普及と展開
日本に儒教が伝わったのは漢字の伝来とほぼ同時期の5世紀であったとされているが、
その後日本では儒教より仏教のほうが広く浸透した。日本で儒教が本格的に普及するのは
戦国時代の内乱が終わり徳川政権が成立して以降であり、徳川家康は林羅山(1583~1657)
を登用し幕藩体制を支える思想として朱子学を採用した。
しかし、その後、儒学者のなかから中江藤樹(陽明学)、山鹿素行(古学)、伊藤仁斎(古義学)など朱子学を批判する人々が現れ、石田梅岩は商人の哲学(石門心学)を唱えた。さらに荻生徂徠(1666~1728)は、古代中国の古典に遡って朱子学を厳しく批判し(古文辞学)、徂徠の思想は8代将軍吉宗による享保の改革(1716~35)にも大きな影響を与えた。
3 封建社会を根源から批判した安藤昌益
徳川幕府の体制が揺らぎ、それを支える朱子学に対する批判が提起されるなかで、幕藩
体制や儒教そのものを根源から批判した思想家・安藤昌益(1703~62)が現れた。安藤昌益
は秋田県で生まれ、京都で医学、儒学を学んだあと、青森県八戸で医者として暮らしてい
たが、『自然真営道』(1752)において武士階級や儒教、仏教、神道を徹底的に批判し、農業(直耕)を中心とした社会への変革を訴えた。
『自然真営道』は、儒教・仏教批判のみならず自然哲学、経済、歴史、言語学、本草学、動
物学、医学など豊富な内容を含んでおり、エコロジー思想としても高く評価されている。
安藤昌益の著作は長く埋もれていたが、狩野亨吉が発掘し、ハーバート・ノーマン『忘
れられた思想家-安藤昌益のこと』(1950)によって広く知られるようになった。安藤昌益
は儒教・仏教に対して「聖釈は妄言」と批判したが、ノーマンは昌益に対する老荘思想や
易学の影響を指摘している。
4 傑出した三浦梅園の自然哲学と経済哲学
安藤昌益より少し遅れて九州に三浦梅園(1723~89)が現れた。三浦梅園も昌益と同様
に医者であり、大分県国東半島で生涯を過ごしたが、藩の儒学者に学ぶとともに、長崎に
行って西洋の学問を知った。当時の日本では、中国の天文学書『天経或問』が翻訳され西洋
の天文学が紹介されており、梅園は同郷の天文学者・麻田剛立から天文学を学んで独自の
自然哲学を生み出した。
梅園は『玄語』(1770)で宇宙論、論理学(条理学)を示し、『敢語』で政治論、倫理学、『贅語』で諸説の検討を行った。さらに『価原』で貨幣論、価格論を展開しており、窮民救済のため自ら慈悲無尽講を組織した。
梅園はカント(1724~1804)、アダム・スミス(1723~90)とほぼ同世代の人物であるが、
三枝博音は梅園の哲学をヘーゲル哲学(弁証法論理学)に匹敵する内容を有していると高く評価した(『三浦梅園の哲学』(1941))。
5 大阪・懐徳堂の山片蟠桃
大阪の学問所として福沢諭吉(1835~1901)が学んだ適塾が最も有名であるが、大阪の商
人が中心となって1724年に設立した懐徳堂も多くの優れた人材を輩出した。当研究所では
数年前にナジタテツオ氏(シカゴ大学名誉教授、『懐徳堂』の著者)を招き講演会を開催したが、その際に懐徳堂に山片蟠桃という大思想家がいたことを初めて知った。
山片蟠桃(1748~1821)は兵庫県で生まれ、13歳で大阪の米仲買両替商に仕え、24歳でそ
の番頭になった。懐徳堂で主に朱子学を学んだが、梅園にも影響を与えた麻田剛立から天
文学を学び、20年近くかけて壮大な『夢の代』(1820)を執筆した。『夢の代』は宇宙論、思想、歴史、地理、経済など多分野にわたる百科全書的な書物であり、その中で蟠桃は仏教、神道の神秘主義を批判し(「無鬼論」)、合理主義的な世界観を示した。
6 東洋思想の系譜と日本の近代化
以上見たように、二宮尊徳が儒教を学んでいた頃、その儒教を根源から乗り越えようとす
る胎動があった。丸山真男は『日本政治思想史研究』(1952)において、荻生徂徠、本居宣長、安藤昌益の思想について、朱子学の「自然」的秩序の論理から主体的「作為」の論理への転換をもたらし日本近代化の一つの基盤になったと指摘したが、江戸期の日本では自然哲学においても革新的な思想的展開があった。
この革新をもたらした安藤昌益、三浦梅園、山片蟠桃の思想のルーツとして老荘思想や易
学(陰陽五行説)があったことが指摘できるが、そもそも朱子学自体が「荘子」や「淮南子」「易経」の影響を受けて深い自然哲学(宇宙論、天文学、気象学、生物学等)を有していた(山田慶児『朱子の自然学』(1978))。その朱子学の基盤の上に蘭学(洋学)や日本独自の要素が加わって江戸期の日本でスケールの大きな思想家が現れたと言えよう。
紀元前6~4世紀に現れたピタゴラス、プラトン、アリストテレス、ユークリッド等のギリシャ哲学は、その後、欧州において数学、物理学を生み出す基盤となった。それに対して東洋思想には科学的要素が乏しいと考えられてきたが、インドや中国にも古代から優れた自然哲学、天文学、医学、農学があった。
また、インドで生まれた仏教は、中国を経由することによって老荘思想、道教的要素を取
り込み、それが日本に伝わって日本人の自然観、倫理観に大きな影響を与えた。
福沢諭吉は日本の近代化にとって儒教は阻害要因であると厳しく批判したが(『文明論之
概略』(1875))、福沢自身が漢学(儒学)の素養を有していたし、儒学のなかから横井小楠や佐久間象山のような開明的な思想家や二宮尊徳のような人物を生み出したのであり、日本の近代化に果たした儒学・東洋思想の役割を再評価する必要がある。また、二宮尊徳や大原幽学の思想についても、東洋思想全体の系譜や江戸期の思想的展開の視点から再検討する必要があろう。
(しみず てつろう)
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