https://blog.goo.ne.jp/eldiaquemequieras/e/e187a5f5dedd5c514f6aa6cc16a90057 【「無」の思想 老荘思想の系譜】より
森三樹三郎 著
まえがき
1 自然とは何か
<1> 自然と不自然 あいまいな「自然」 ミズカラとオノズカラ
<2> 無因自然 郭象の自然解釈 万物の主宰者は存在しない 物の生成に原因は存在しない
無は有を生じることができない インドの無因論師
2 無為自然
<1> 老子と荘子 老子の人と著者 荘子の人と著者
<2> 老子の無為自然ー虚無自然 無為自然の一般的な性格 無為の道徳と政治
赤子の自然に帰れ 自然の摂理への信頼 虚無自然
<3> 荘子の無差別自然 自然の認識論的考察 無差別自然 万物斉同の思想
<4> 荘子の運命自然 自然と必然 運命自然 死の哲学 生死は循環する
運命の主宰者は存在しない
<5> 中国民族の運命観 運命と天命 儒教の天命観 墨子の運命否定論
運命の神の摂理 中国人は運命論者である 運命随順思想と現代の生活
<6> 数理自然 天地山水の自然 現代の自然観の特徴 神と自然との連続
自然と人間との連続ー天人合一の思想
気の観念 自然と人間とを構成する気 気の種類ー陰陽5行説 自然界と人間界との法則
数をもととした自然哲学と歴史哲学 呪術的自然観ー天人相関説
<7> 本性自然 人間の内にある自然 孟子の性善説と荀子の性悪説 荘子の内篇と外篇・雑篇とにおける自然観の相違 復性ー自然の性に帰れ
<8> 自然の性に帰るための五つの道
性を虚無とするもの 枯木死灰の人間
知足安分 自得の思想
性を生とするもの 生と性 養生説 養生説から神仙説へ
性を天真に求めるもの 真悲は声なくして悲しむ 儒教道徳への接近 享楽こそ人生の目的である 豊屋・美服・美味・美女 本性自然の一般的性格
3 有為自然
https://ameblo.jp/marebitcofe/entry-12469041090.html 【無の思想―老荘思想の系譜 (講談社現代新書 207) [新書] 森 三樹三郎 (著)】
出版社/著者からの内容紹介
無とは何か、死とは何か。真理は言葉によってとらえうるのか。これらの根本命題を課せられた人間を思うとき、われわれは、無を拠点とする東洋思想から、あまりに遠く隔たりすぎたのではないか。本書は、言葉を超えた真理を追究し、自然に帰れと説く老荘の哲学を核に、東洋自然思想の系譜を、禅から親鸞、宣長、芭蕉へとあとづける。西洋合理思想になれ親しんだ現代人にとって、東洋的虚無の立場から存在の本質に迫る必読の書。
人間の言葉は、ありのままの真理をあらわすに不適当である。そこに荘子の「弁ずるは黙するにしかず」という主張も生まれる。それでは沈黙を守ることだけが、真理を伝える唯一の道なのであろうか。沈黙は言葉に対立するものである。たがいに対立するものは同じ次元の上にあることになる。言葉が真理を伝えることができないとすれば、沈黙もまた真理を伝えることができない。とすれば「非言非黙」のみが、残された唯一の道である。それでは非言非黙とは、具体的にどうすることであるか。それは言葉を用いながらも、言葉にとらわれないことである。禅宗風にいえば、言葉は月をさす指であり、月のありかがわかれば、邪魔になる指は切りすてるがよい。――本書・不立文字の思想より
読売新聞書評より(本書掲載)
本書はインド的なものとの出会いによる複雑な展開を充分に腹にすえながら、中国的な無の思想〈老荘思想〉の大本を明確にし、かつその思想の変容のあとを概説した。著者は中国思想の専門家、ことに道家思想の造詣において定評がある。その専門的知識を駆使して、老荘思想の展開に新指標を打ち立てた野心作である。仏教の空思想を知る上で、中国的無の思想の実態を心得ておくことは大切である。本書はそのような要望にも格好の手引き書となる。
著者紹介
1909年舞鶴に生まれる。1935年京都大学文学部卒業。支那哲学史専攻。1986年逝去。主な著書として『支那古代神話』――大雅堂、『「名」と「恥」の文化』『神なき時代』――講談社現代新書、『梁の武帝』――平楽寺書店、『上古より漢代に至る性命観の展開』――創文社、訳書として『荘子』――中央公論社・世界の名著、『世説新語』――平凡社・中国古典文学大系――などがある。
http://www.topscom.co.jp/SPECIAL/column/fugetsu1504.php【芭蕉における運命自然】より
十代後半に、芭蕉における運命自然について、思いを巡らしていた時に、行きついたのも、やはり、昨年の暮れ、先月とふれて参りました
森三樹三郎先生の「無」の思想 老荘思想の系譜で御座いました。
私は、足掛け半世紀、荘子に深く傾倒し、熱烈なる荘子の信奉者でありますが、芭蕉が荘子に深く傾倒しながら、やがて違った方向に向いてゆく様を森三樹三郎先生は、
宣長との対比で素晴らしい描写で綴っておられます。
『両者の老荘思想にたいする反応についてみると、宣長は老荘に反発を見せながらも、無意識のうちに荘子の運命自然に近づき、
芭蕉は深く荘子に傾倒しながら、荘子の饒舌をななれて、言葉を惜しむ芸術の世界をひらいた。そのとりあわせには、なかなかの興味があるといえよう。』
ここでは、芭蕉の荘子への傾倒が絶頂だったころの件を少し記してみたいと思います。
季節は、この春爛漫の花、花、花の四月から半年後の秋、野ざらし紀行の中の富士川に差し掛かる場面で御座います。
『さて富士川のほとりまできた芭蕉は、三歳ばかりの捨て子を見てあわれに思い、たもとから食物を出してあたえ、そのままに通りすぎた。 「いかにぞや、
汝ちゝににくまれたるか、母にうとまれたるか。父はなんぢを悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。」』
この場面で、何故か、いつも横山大観の無我の絵が思い起こされます。
http://blog.livedoor.jp/matsui_kunitoshi/archives/66534623.html 【人類の知的遺産 老子・荘子 森三樹三郎】より
最近のマイブームは古本屋に通うことです。有難い話です。1500円前後のハードブックが105円で買えることもあります。この本は少し高くて700円で購入しました。「老子」、「荘子」の本です。解釈本です。まず、著者は森三木三郎先生で「格調高い日本語」は小職には感動的です。さて、先生は「老子」、「荘子」は中国思想の原点の一つと解説しています。人間の特質として、事象を分けて考える、例えば善悪と考えるのが特質として説いておられます。二元論です。しかし、「老子」は「それは一つの事」として捉えます。それは、世の中の道理、「道」がそうさせているのだと説きます。私は、現代風にいえば「老子」の思想は「弁証法」と考えます。順序を正せば、「弁証法」は「老子」の考え方であるといえます。「老子」は「水」が最善と説きます。「水」はその周りの環境に合わせながら、形を変え流れる。即ち、「上善如水(上善は水の如し)」は、老子の中でも有名な言葉です。もっと詳しくすると、「上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の嫌う所に居る」、「最上級の生き方は、水のようなものだ。水は万物に恩恵を与えるが、相手に逆らわず、多くの人が嫌う低い場所に流れていく」という意味です。さらに、先生はこの思想がインドから中国に伝わった「仏教」に多大な影響を与えていると説きます。「浄土宗」、「禅宗」も根底には「老子」の「無為自然」があると説いています。「無為自然」は万物には「自ら為る力」が備わっていると説かれています。従って、その意味で「万物斉同」であると帰結します。ところで、インド思想の最高の概念は「空」即ち「ゼロ」ですが、プライドの高い中華民族は「老子」の説く「無」を支持しています。更に「無」は「自ら為る力」即ち「道」であると昇華させています。「老子」は政治思想に焦点をあてていますが、「荘子」は人間の内面に焦点を当てています。いずれにしろ、中国の古典から日本人が得られた知見は計り知れない価値があると、私は思います。
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