愛と慈しみの瞑想

http://anzenmon.jp/page/10243166 【その12 愛と慈しみの瞑想】 より

 著名な瞑想の指導者ラリー・ローゼンバーグはかつて、「思いやりの心の伴わないマインドフルネスはマインドフルネスではない」と述べています。これはどういう意味でしょうか。 

 これまで私たちは、マインドフルネスとは、判断を加えず、すべてを受け入れる気持ちで気づきを得ることであることを学び、それを実践してきました。このすべてを受け入れることに欠かせないのが思いやりや友愛の心です。ここでいう思いやりとは、温かく、好意的で寛大な心の持ちようのことです。マインドフルネスを実践する際には、今という瞬間に生じるあらゆるものに、こうした気持ちを向けることがとても重要です。

 思いやりの心は訓練により養うことのできる内的な資質です。

 あなたは思いやりの心を呼び起こす力をすでに備えています。改めて作り出す必要はありません。けれども、その力は育てていかなければならないものです。思いやりの心を養うとは、自分の奥底に秘められた優しさに気づく妨げとなっている障害を認識し克服することです。

 

思いやりの心を養う

 思いやりの心は、行動の中で実践できます。これは、人に何かをしてあげたり、優しくしたりするときに現れる資質です。

 車のバンパーなどに、「いつでもどこでも人に親切にしよう」という類のステッカーがはられているのを見たことがあるでしょう。これは無償の思いやりの行動を促すものです。思いやりの心は、いつでも人に向けることができます。きっとあなたも、これまでの人生のなかで、何度となく誰かに親切な行動をとってきたことでしょう。けれども、思いやりの心は人に対する行為のなかだけに現れるものではありません。

 すべての思いやりある行動の背後には、思いやりの心が存在します。そうした心は、瞑想を通してはぐくんでいくことができます。思いやりの心は、日々の生活や他者と結びついているという感覚や幸福感に直結します。これは幸福を願う気持ちの根幹であり、温かく親しみに満ちた感情なのです。そして愛する力につながるものでもあります。

 瞑想の指導者、ジャック・コーンフィールドは、この幸福と愛との関係についてこう語っています。「私たちのあらゆる行動の根底には、愛を求める気持ちと、愛を示そうとする気持ちがある。私たちが人生に見いだす幸福とは、何かを得るとか、所有するとか、理解することではない。それはこの愛する力に気づくことであり、この世のすべてのものと愛情深く、自由で賢明な絆を結ぶことなのである」

慈しみの心をはぐくむ

 思いやりの心はまた、慈しみの心を生み育てます。両者は密接に関係しています。人生を生きるなかで人は皆、温かな思いやりの気持ちを抱いたり、生や老い、死の苦しみという避けがたい苦痛を感じたりします。

 慈しみとは、他者の痛みや悲しみに同情と哀れみを覚え心を開くという、人間の内面にわき起こる強い感情と言えます。この心を開くこととともに、慈しみの気持ちには、相手と結びついているという感覚があり、その人の苦痛を取り除いてあげたいという強い衝動がしばしば伴います。

 人は他者の苦しみを見ると深い同情を覚えることがありますが、自分自身の苦痛や悲しみに対して慈しみの気持ちを示すことはまずありません。それは、苦痛を自分のもろさと考えたり、悲しみを弱さの印と思ったりしているからです。自分に慈しみの気持ちを向けない傾向は、とりわけ心配や恐怖という感情を抱くことを自分の欠点とか、失態だと考える人によくみられます。

 これまでみてきたように、恐怖や不安、パニックなどの感情に襲われたときにしばしば頭をもたげる、自分に対する否定的な思いや批判的な気持ちは、ストレスの最大要因となることがあります。自分につらく当たり批判することからくるこの悪循環を断ち切れば、自分自身の痛みや苦しみに対しても慈しみの心を向けられるようになります。

思いやりと慈しみの心の力

「その4」で見たように、思考や心の持ち方には非常に強い影響力があります。またそれは、脳を通じて体と「結びつく」ことで、恐怖反応のメカニズムに大きく作用します。

 心と体がつながることにより、自分につらく当たる傾向には著しく拍車がかかります。自己批判的な思考がどれほど大きな危険をはらんでいるかを、次のエレンの例で考えてみましょう。

エレンの場合

 エレンは五〇代後半のとき、強い不安やパニック発作、不眠、慢性の痛みなどの症状を軽減しようと、マインドフルネス瞑想のクラスに参加しました。

 彼女はその数カ月前、酒癖が悪く暴力を振るう夫との長年の結婚生活にピリオドを打ったばかりでした。

 クラスに通い始めて数週間後のある日、エレンは遅刻をしてしまいました。それまで熱心にトレーニングを続けてきた彼女は、目にも明らかなほどうろたえ、皆に事情を説明し始めました。

「車がパンクしてしまって、大変だったんです」

 そして、そのときの様子を尋ねられると、エレンはしばらく考えたこんだあとで、怒りと心痛をあらわにして答えました。「車をパンクさせるなんて馬鹿だと、私は自分をののしり続けました。ほんとに、とんでもない大馬鹿者だと。『おまえなんて、もう死んだほうがまし』。何度もその言葉をくり返しました。何か失敗するたびに私はそうなんです。以前は夫からされていたことを、今では自分でしているんです」

無慈悲な心を向けない

 思いやりの心が日々の積み重ねで培われていくものであるなら、その正反対の心の持ち方である、無慈悲な心もまた同様であることを理解しておかなければなりません。無慈悲な心はかなり頻繁に顔を出すものです。そしてたいがいの場合、それは、自分自身に対して向けられています。私たちは普段、自分がいかに自身に対して無慈悲であるかにあまり気づいていません。こうした傾向は、習慣化した思考や感情となって私たちの心にしばしば現れ、体に強い影響を与えます。

 無慈悲な心は、「私はどうしようもない間抜けだ」「私は大馬鹿者だ」「私はいつも失敗ばかりしている」といったように、批判的な口調や独り言の形で現れます。

 そうした無慈悲な考えや批判的な思い、そしてそれに伴う体のこわばりや収縮感などの感覚は何度もくり返し現れるため、自分のもともとの性質のように感じられるかもしれません。実際に注意を向けてみるまでは、それらが自分の中のどこにあるのかさえわからないこともあります。体の感覚や批判的な思いがよほど不快で激烈なものにならない限り、それらが自分の中に存在していることすら気づかないことが多いのです。

 あなたもエレンのように、内面的な無慈悲の世界に陥り、そうした感情を自分自身だと思い込んでしまうことがあるかもしれません。そうなると、自分に下す手厳しい評価を事実だと信じ込み、自身を批判するたびに身体恐怖の症状にとらわれることになってしまうでしょう。

 無慈悲な心が生じたとき、あなたは自分にとっての最大のストレス要因となっています。あなたの無慈悲さは、ただでさえ惨めな事態をさらに悪化させ、批判したり、判断を加えたり、責めたりすることによって、ますます自分を悲惨な状況へと追い込んでいきます。

 もちろん、無慈悲な心は他者にも向けられます。「おまえ」「あいつら」「あいつ」ー だれでもその対象になります。無慈悲な心を駆り立てる怒りと敵意の声は、だれにでも容赦なく向けられるのです。

 マインドフルネスや思いやりや慈しみの心を培う訓練を熱心に継続的に行っていくと、自分や他人に無慈悲な気持ちを向けそうになったときに、それに気づけるようになります。ものごとを体験し絆を深めることを妨げたり、体に悪影響を及ぼしたりする無慈悲な心の力が弱まり、あなたはその束縛から逃れられるというわけです。

 怒りや敵意の持つ有害な力にうまく対処するには、今という瞬間に注意を集中することによって、それらと結びつくことが必要です。これは、怒りや敵意という内的体験に思いやりの心をもって注意を集中し、それを自分自身ではなくあくまで一つのできごととみなすこと、言い換えれば、あなた自身や怒りの感情と親しくなるということです。

 このことは恐怖や不安にもあてはまります。実際、恐怖や不安は、怒りや敵意の裏に潜んでいることもめずらしくありません。あなたは恐怖や不安と親しくなれますか? 思いやりの心をもって意識を向け、それらを受け止められますか?

 真の優しさが生まれ、自分の中にある思いやりの心が輝き、慈しみの気持ちが目覚めるのは、今に身をおいているときだけです。思いやりの心を呼び起こすには、ほかのすべてのものと同様に苦痛や困難を受け入れながら、今に意識をつなぐ力を養うことが肝要です。

 

自分の内面や周囲の苦痛に心を開く

 あなたは自分が苦痛にどう接しているか、改めて考えてみたことがありますか? ここでいう苦痛には、恐怖や不安、パニックによってもたらされるものも含みます。

 そう、苦痛には人それぞれの接し方があるのです。多くの人はあらゆる苦痛に対して、拒否や排除といった方向で接しています。またそうした苦痛に怒りや恐れの感情を抱いたり、それから必死で逃げ出そうとする人もいます。苦痛はさまざまな形の依存症や絶望感を引き起こします。

 「その5」で紹介したペマ・チョドロンの話の中で、老婦人は彼女にこう言っていました―「物事は悪くとってはいけないよ」と。あなたは苦痛を悪くとっていませんか?

 そしてそのために、生きているという充実感が希薄になっていませんか?

 マインドフルネスを発揮するとは、心を開いて身の回りのものに注意を払うことです。それを助けてくれるのが瞑想です。瞑想とはまさしく心を開く行為なのです!  

 以前、私は瞑想合宿で、どうしようもない状態に陥ったことがありました。座っていても歩いていても、とにかく瞑想をしている間中、険悪で破滅的なイメージや、敵意と憤怒に満ちた思いが心から離れないのです。これはどういうことかと尋ねてみると、先生はとても優しく親切に答えてくれました。「怒りの陰には恐怖があります。そして恐怖の陰には、何かを信じる気持ちがあります。ひとつひとつのものとともに今に身をおき、それらをあるがままに受け入れましょう。そして信じる気持ちが現れたら詳しく観察します。あ

なたの信じているものは正しいのでしょうか? 信じている気持ちはあなた自身なのでしょうか?」

 心に現われ出てくるものに注意を集中するうち、私は、新しく始めた仕事に対する根深い自信喪失感や無力感と結びつきました。そしてさらに瞑想を続けていると、それらの感覚は私から離れていきました。私の信じていたことは、実のところ、ただの思い込みだったのです。

 人にはそれぞれ、苦痛に対する接し方や対応の仕方に一定の傾向があります。これまでの人生の中で、苦痛に関する心の持ち方や考え方が育てられてきたのです。そして多くの場合、これと併せて苦痛を自分と同一視する見方も形作られています。こうした心の持ち方や同一視の傾向が固定化すればするほど、私たちは苦痛から抜け出せなくなってしまいます。

 あなたの場合はどうでしょうか? 普段の生活の中で恐怖や不安、パニックを感じたときに、そうした状態を体験したことはありませんか?

 真剣にマインドフルネスを実践しようと思うなら、進んで注意を集中して今に身をおき、恐怖や不安、パニックの苦しみなどの、自分の奥底にある苦痛をよく観察しなければなりません。思いやりと慈しみの気持ちで苦痛に接することがとても大切です。怒りを向けてしまうとうまく行きません。怒りや敵意は、自分の中の恐怖や不安を増幅させるだけです。

 瞑想指導者のシャロン・サルツバーグは、思いやりと慈しみの心に焦点をあてた瞑想を西欧社会に紹介した第一人者です。彼女はその著書『愛と慈しみ―革新的幸福の技法』(一九九五年)の中で、慈しみの瞑想を「自分の苦しみ、他者の苦しみを問わず、その苦痛と自己との関係を浄化し変化させていくもの」と表現し、「苦痛を認識し、心を開いて優しい気持ちで受け止めることで、私たちは、生きとし生けるすべてのものとつながり、自分が決して孤独ではないことを知る」と記しています。

 この章では、思いやりと慈しみの心を育てることを目的とした「愛と慈しみの瞑想」というトレーニングをご紹介します。先を読めば明らかになるとおり、これはどんな宗教にもなじみやすい基本的な瞑想です。

 

 注意を集中すると、今ここにある無慈悲な考えや感情に気づくことができます。そうした無慈悲な心は、自分の奥底にある思いやりや慈しみの心を感じ取る妨げとなることがあります。思いやりの心で怒りや無慈悲さを受け止めたり、恐怖や不安に慈しみの心で接したりすることは、訓練によって可能となります。内面の深いところで、自分に備わった大きな癒しをもたらす部分に触れることができるのです。

瞑想トレーニング

<愛と慈しみの瞑想>

 思いやりと慈しみの心をもって行えば、マインドフルネスの実践も含め、何事もスムーズに進みます。愛と慈しみの瞑想では、特定の言葉やイメージ、感情をくり返し使って、思いやりや慈しみの気持ちを呼び起こします。この瞑想は厳密にはマインドフルネスを培うものではありませんが、そのための要(かなめ)となる資質を養います。

 愛と慈しみの瞑想は、感傷的になることでも、「よい」感情を意図的に作り出すことでもありません。この瞑想はあなたに生来備わっている思いやりや友愛の心を呼び起こす力と結びつき、それを培っていくものです。

 最初は不自然でわざとらしく思えるかもしれません。また怒りや悲しみなどの不快な感情が生じてくることもあるでしょう。そんなときは、あまり気にせず、ただひたすら瞑想を続け、自分に起きるできごとを感じ取ることです。うまくできないときは、自分自身に思いやりと慈しみの気持ちを向けましょう。

 この瞑想を正式な形で行うときは、まず、一五分から二〇分を一区切りとしてやってみましょう。そして慣れてきたらその時間を三〇分、四五分といったぐあいに延ばしていきます。

愛と慈しみの瞑想の手順

 1. いすに座るか、仰向けに寝るか、どちらか楽な姿勢をとります。

 2. 今この瞬間の呼吸と体の感覚に注意を集中します。

 3. 体の力を抜いて、リラックスします。できるだけ心を鎮め、先のことに対する思いや、気にかかっていることがらを放します。

 4. 自分の中に思いやりや友愛の感情を呼び起こします。そのためには愛する人やペットのことを思い浮かべてみるとよいでしょう。

 5. まず、自分自身に対して思いやりの気持ちを向けます。心の中に自分の姿を思い描いたり、以下に示すような言葉と合わせて自分の名前をつぶやいてみるとやりやすいかもしれません。自分自身を思いやる心がなければ、他人に対しても思いやりや慈しみの気持ちを持つことはできません。自分自身に思いを向けながら、次のような言葉を唱えましょう。

   私が幸せになれますように。

   私が癒され健康でいられますように。

   私の心が平安で満たされますように。

   私が平穏無事に過ごせますように。

 6. これらの言葉をくり返し唱えます。歌を口ずさむようなつもりでやってみましょう。口にする言葉は自分を思いやる気持ちをもっとも呼び起こしやすいものに変えていきます。こんなふうに唱えてみてもよいでしょう。

   私が苦しみや悲しみから解放されますように。

   私が穏やかで安らかな気持ちでいられますように。

   私が恐怖や不安、心配から解放されますように。

   私が元気でいられますように。

 7. 一番効果のある言葉を何度もくり返します。思いやりの気持ちを心身の隅々まで行き渡らせましょう。もし必要ならほかの言い回しも試してみて、自分の心にもっとも響くものを選びます。

 8. 自分自身を思いやることができたら、そのまま続けて、あるいは機会を改めて、他者にもその気持ちを向けます。まずはあなたにとって大切な人や友人に、そして、特別な感情を持っていない人やあまりよく知らない人に、さらにはあなたを苦しめたり傷つけたりする人に思いやりの心を向け、最後にその対象を動物や植物を含めた命あるすべてのものに広げます。興味を持って積極的に行いましょう。

 9. 心ゆくまで続け、十分に思いやりの気持ちを抱くことができたら、静かに目を開けゆっくりと手足を伸ばします。どんな気分になりましたか? 判断や評価を下すことなく、あるがままの感覚を感じ取りましょう。愛と慈しみの瞑想―実践のポイント

 トレーニングを重ねていくと思いやりの心がしっかりと根付き、苦手な相手も含めたすべての人に優しい気持ちを向けられるようになります。

 そしてやがてはどこにいても、慈愛の心を呼び起こせるようになるはずです。お店のレジに並んでいるとき、病院の待合室、道、人ごみの中、街頭など、ありとあらゆる状況や場所において、あなたは瞑想の言葉をつぶやくことで、生きとし生けるすべてのものとの絆や、それらに対する慈しみの気持ちが深まるのを感じることができます。日々の暮らしがより深い穏やかさに満たされ、今に身をおくことができるのです。

まとめ

 マインドフルネスの本質は歓待と友愛の精神です。無慈悲な考え方をしたり、判断を加えたりという、孤独感や苦しみを生み出す習慣を断ち切るには、意識の中に生じたものと親しくなることがとても大切です。親しくなるとは、痛みや苦痛、恐怖、不安、パニックなどを思いやりと慈しみの気持ちで、何も否定せず、意識を向けて受け止めることです。思いやりと慈しみの心は、対自分、対他者のいずれを問わず、愛と慈しみの瞑想を日々の生活に組み込んでいくことで培われます。

著者等紹介

ジェフ・ブラントリー

医学博士。デューク大学医学部精神医学科顧問医師。同大学統合医学センターの「マインドフルネスに基づくストレス緩和(MBSR)プログラム」の創始者、ディレクターでもある。ラジオ、テレビ、新聞、雑誌などでMSBRプログラムに関する数々のインタビューに応じている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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