長谷川櫂著「震災歌集 震災句集」

https://1000ya.isis.ne.jp/1462.html 【関揺れる】より抜粋

 ◆長谷川櫂『震災句集』(2012・1 中央公論新社)

 長谷川櫂については「せんべいの紙たべてゐる子鹿かな」「冬深し柱の中の濤の音」「大雪の岸ともりたる信濃川」など、どこか虚子を思わせる「まわりもってのふてぶてしさ」のある句を作れる俳人だという印象をもってきた。

 別途、『俳句の宇宙』『古池に蛙は飛びこんだか』(花神社)、『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)、『和の思想』(中公新書)を手にしたけれど、こちらはいずれもあまりおもしろくはなかった。とくに『和の思想』が浅すぎた。安藤礼二のようなキレがほとんどなかった。

 もっともウェブを覗いていた以外は、今夜の今夜まで句集としては一度も見ていないので、存分な批評をするつもりはない。『震災句集』も今夜のために入手した。では、御中虫によってキモイと評された句をともかくも紹介しておく。

  燎原の野火かとみれば気仙沼     幾万の雛わだつみを漂へる

  大津波死ぬも生くるも朧かな     春泥やここに町ありき家ありき

  一望の瓦礫を照らす春の月      春の月地震のまへもそのあとも

  みちのくの大き嘆きの桜かな     この春の花は嘆きのいろならん

  マスクして原発の塵花の塵      焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな

  湯豆腐や瓦礫の中を道とほる     あかつきの余震もしらず朝寝かな

  大地震春引き裂いてゆきにけり    願はくは日本の国を更衣(ころもがえ)

  いくたびも揺るる大地に田植かな   政局やいまごろにして柳ちる

  つつしんで大震災の年送る      震災の年のゆきつく除夜の鐘

 比較的まとまった句をあげておいたつもりだが、これがなぜキモイのかと思う読者も多いのではないかと思う。たしかに「大津波死ぬも生くるも朧かな」などは、このたびの数々の震災俳句のなかの名作のひとつであろう。

 けれども、では「燎原の野火かとみれば気仙沼」「幾万の雛わだつみを漂へる」「みちのくの大き嘆きの桜かな」はどうかとなると、出来は悪くないにもかかわらず、作為の結構として「けわい」の気持ち悪さが仕上がっているようなところがある。

 が、ぼくの正直な感想では『震災句集』よりも、おそらくその前に発表された『震災歌集』(中央公論新社)がキモイ評判をたてたのではないかと思う。こういうものだ。

  大津波死したる者は沈黙す生き残る者かくて嘆かふ

  みちのくの春の望月かなしけれ山河にあふるる家郷喪失者の群れ

  かかるときかかる首相をいただきてかかる目に逢ふ日本の不幸

  東電の御用学者が面並めて第二の見解なし原発汚染

  日本列島あはれ余震にゆらぐたび幾千万の喪の灯さゆらぐ

 これではキモイ評判が立ってもしょうがない。かつては読売新聞の重鎮記者だった長谷川が、定型詩を“利用”して、自身のカッコいい位置だけを獲保したと見られても、しょうがない。

 しかし、とはいえ長谷川をそこまで追いつめるにはよほどの図抜けた才能を一気に消費する必要がある。ぐだぐだしていてはダメ、それなら長谷川に軍配が上がる。ここはやはり御中虫ほどの高速ツイートが必要だったのである。


https://ameblo.jp/hiuchi0321/entry-12583608118.html 【長谷川櫂『震災句集』の読み方を考える)より

2020年3月11日朝日新聞夕刊の素粒子欄に、長谷川櫂の「山哭くといふ季語よあれ原発忌」という句(おそらく『震災句集』から引いたのだろう)が感慨深い(≒重い)という体で載っていた。

しかし、どうなんだろうか? なにか災い商売の匂いがする。

長谷川の震災俳句については、すでにかなりの批判がある。

すでに、異端の俳人・御中虫が、長谷川に抗するように『関揺れる』という句集を出している。

哀しみから諦念へ。これが、長谷川櫂氏の『震災句集』所収の句のトーンではないだろうか? 

なにか本質を外してしまった感がある。

長谷川の句をいくつかあげよう。

燎原の野火かとみれば気仙沼            幾万の雛わだつみを漂へる

春泥やここに町ありき家ありき           一望の瓦礫を照らす春の月

焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな           原子炉の赤く爛れて行く春ぞ

原発の煙たなびく五月来る             空豆や東京電力罪深し

これだけで、なんか十分のような気もする。

震災の哀しみを詠むとしながらも、ただ哀しいというばかりで、被災者・被曝者の怒りが見えない。長谷川が福島へ足を運んで観察していたとしても、ただ「視察」してきただけで誰でも知っているようなことを時事俳句にしただけに過ぎないように思える。

哀しみから諦念へ。これが、長谷川櫂氏の『震災句集』所収の句の意味するところではないだろうか? 

焼諸子ことに頭の香ばしき

その「思い」とやらは(不謹慎ながらも)新鮮な句材として最適だったのだろう。しかし、『震災句集』が長谷川の野心の匂いを感じ、紋切型で大政翼賛的なとらえられ方をされたことは、理由があるような気がするのだ。


https://ameblo.jp/sogawashowju/entry-12633966798.html 【長谷川櫂著「震災歌集 震災句集」青磁社】より

下👇の記事を書いてから、現代日本文学は東日本大震災・東京電力原発事故をどう扱ってきたかが自分の中でずっと気になっていました

本書の著者 長谷川櫂は日本を代表する俳人。朝日俳壇の選者を勤め、だからというわけではないのでしょうが、まずリベラルといってもいい方

その人物は震災をどう句にし歌にしたのでしょうか🤔

長谷川櫂著「震災歌集 震災句集」青磁社より

前述のように著者は定評のある俳人。ですが震災直後の10日間は俳句ではなく短歌が集中的に生まれたそうです

そこで詠まれた短歌はこういう作品↓でした

なかなか手厳しい内容が続きます。東京電力の無為無策を憤り、時の菅(かん)内閣を叱り、食品や大地への放射能汚染に警鐘を鳴らします

短歌としての評価はわたしには分かりませんが、同時代のドキュメンタリーとしても優れてた内容と感じました

短歌の作品はそれほど多くはなく、本書のおよそ一章分ほどに当たりましょうか。その部分が「震災歌集」ということになります

引き続き著者の本分である俳句の方に戻る?わけですが、短歌と俳句の違いというだけでは説明しきれない変容にまず当惑しました

575の文字の少なさ、季語を入れるという制約、さらには執筆時期の違いによる変遷も加味すべきことであるものの、著者の怒りが表現から薄れていることがよく分かります🤔

著者は俳句について、自然界の悠久な時間軸から人間社会の出来事をいわば客観的に眺めるものと説明します

しかし短歌では放射能汚染を憂い得ていたものが、どうして俳句では福島のLa France🍐を佳する方向に振れることができるのか?

それは "風化" あるいは "忘却" とすら呼ばれるものではないのかとすら……

やがて2016の熊本地震がやってきます。著者は熊本出身であり熊本地震にも深く関心を寄せます。その頃はすでに民主党 菅(かん)内閣は倒れ、自民党 安倍内閣です

上記👆の斎藤美奈子さんがもう一つの災害とすら称した第二次安倍内閣発足ですが、特に言及はなくスルー😦

安倍内閣の震災対策にはこの当時かなり批判が集まったはずなのですが……

関連して気になったのが、復興のイメージに日本神話をかなり重ね合わせていたところ

震災復興の話題に、古事記やら古今和歌集序やらを真顔で持ってこられても読まされるこっちが良い迷惑としか😡

震災以後の過剰なナショナリズムが勃興した起源をまじまじと見せられたようでかなり辟易しました

美学的には申し分ないし、また短歌の部分には目を引かされるところ多くありました

しかし、肝心な俳句が政治から遠く離れたところでひたすら古典の美学に埋まり、"自然" に復興するのを待つだけの姿勢を取るなら、文学はやはり災害には無力なのではないかという恐れを無きにはできませんでした😡

震災歌集 震災句集

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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