https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200601-00180450/ 【度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代・平安時代の文化と制度】より
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、教授
災禍と歴史
新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンス、コロンブスのアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震とポルトガルの衰退、アイスランド・ラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結とスペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代・平安時代の感染症と自然災害について考えてみます。
天平時代の天然痘・地震と天平文化
729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺や国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺と法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房の摂関政治が始まった時代でもあります。
861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
11世紀末の疫病・災害・改元と武家社会の到来
10~11世紀、清少納言や紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震と南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症と地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱や保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛や源頼朝の時代へとつながっていきました。
災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200611-00182716/ 【鴨長明が「無常」と感じた平安末期から鎌倉初期の感染症と災害】より
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、教授
お坊ちゃんだった鴨長明が無常と語った時代
前回、奈良時代から平安時代の感染症と災害を取り上げてみましたが、今回は、鴨長明が記した方丈記を通して、平安末期から鎌倉初期について見てみたいと思います。鴨長明は1155年に賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜の次男として生まれたお坊ちゃんです。平安時代末期から鎌倉時代初期の激動期を過ごしました。長明さんは、人生の立ち回りが上手でなかったせいか、禰宜になることができず、最後は、日野に作った小さな方丈の庵に隠遁しました。このときに有名な随筆・方丈記を書き記し、1216年に亡くなりました。方丈記の書き出しの「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」は、災害が続発し、形あるものは無くなるという、「無常」の心を見事に表現しています。
動乱と疫病感染の中で育った鴨長明
長明さんが生まれた翌年、1156年に、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱が起きました。源義朝と平清盛の力を借りた天皇方が上皇方を破り、これ以後、武士が台頭しました。さらに、1159年に、平治の乱で平清盛が源義朝を破り、力を付けた清盛は、1167年に太政大臣になります。この間、1160年には兵乱による災異改元が行われて、平治から永暦に改元されました。さらに、疱瘡や疾疫などによる災異改元により、1161年に永暦から応保へ、1163年に応保から長寛へ、1165年に長寛から永万へと2年ごとに改元されました。1175年にも、疱瘡によって承安から安元に改元されていて、いかに感染症が蔓延していたかが分かります。
平氏の興隆から衰亡を見た鴨長明
長明さんが大人になったとき、清盛は、日宋貿易で財を成し、その権勢は「平氏にあらずんば人にあらず」とも言われました。ですが、その後、後白河法皇との確執の中、平氏への不満も高まって、1177年に鹿ケ谷の陰謀が、1179年には治承三年の政変が起き、1180年からの6年間の治承・寿永の乱で、平氏が滅亡しました。長明が成人して見た社会は、公家と武家のせめぎあいや、上皇と天皇、摂政や関白の関係など、ドロドロして見えたのだと想像されます。ですが、方丈記ではこの種のことは殆ど触れられていません。
内乱の中で繰り返し起きた災害
この動乱の中、災害が次々と発生しました。方丈記には、都での災害の様子が克明に記されています。1177年6月3日(グレゴリオ暦、以下同様)には、安元の大火が起き、都の1/3が燃え、空一面が紅になり、公家の家も16軒が焼け、七珍万宝が灰燼になったと記されています。大極殿も焼失し、2か月後に、災異改元で、安元から治承に改元されました。
1180年6月1日には、治承の辻風と呼ばれる竜巻が都を襲いました。方丈記には、強風で押しつぶされた家や、柱だけが残った家、垣根が飛んだ家、屋根の檜皮や葺板が木の葉のように飛ぶ様子が描かれています。この2か月後、清盛は、福原への遷都を企てました。
ですが、翌年の1181年に、養和の飢饉と呼ばれる大飢饉が起きました。前年に、干ばつや辻風があって農作物の収穫ができなかったため、田舎の農作物に頼る京の都では、疫病も発生し、飢餓状態になりました。方丈記には、死臭や悪臭が漂い、都の中心部だけで4万2300もの遺体があったと記されています。飢饉の中、福原に遷都した都は再び京に還都しました。1182年には、飢饉、病事、兵革などによる災異改元で、養和から寿永に改元されました。
壇ノ浦の戦いの直後に起きた大地震
源氏が壇ノ浦の戦いで勝利した3か月後に大地震が都を襲いました。1185年8月13日文治地震です。最近の断層調査などから、琵琶湖西岸断層帯の南部が活動した可能性が指摘されています。方丈記には、地震のときの様子が、「おびただしき大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋み、海はかたぶきて、陸地をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖割れて、谷にまろび入る。」「都の邊には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。」「地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。」と記されています。土砂崩れ、河川閉塞、琵琶湖の津波、液状化、家屋倒壊など、様々な現象が、見事に表現されています。
さらに、「かくおびただしくふる事は、暫しにて、止みにしかども、その餘波しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。」と、余震の発生状況も克明に記されています。
そして、この地震の1か月後、元暦から文治に改元されました。
23回もの改元が行われた鴨長明が生きた時代
鴨長明が生きた61年の間に、改元が23度も行われました。その内、天皇の即位による代始改元が8回、「辛酉」の年と「甲子」の年に改元する革命・革令改元が2回、災異改元が13回ありました。61年間の間に天皇が8人も代わったことも驚きですが、災異改元が13回もあり、災異には、重複を含めて、地震が2回、水災が1回、火災が2回、兵革が3回、疾疫が7回、飢饉が1回あります。疾疫の多さが際立っており、多くの人が感染症で亡くなったと考えられます。
人生の中で、都が何度も壊れ、燃え、吹き飛ばされ、遷都まで経験し、多くの人が命を落としていくのを見て、長明さんは、永続しない物事のはかなさを感じ、「無常」を訴えたくなったように感じます。これは、自然への諦めというよりは、自然と共に歩もうとする思いだと考えたいと思います。
0コメント