https://kashima-able.com/news/archives/85 【露 華(ろか)】より
露 華(ろか)~白露の日に・・・~
雨上がりに、きらきらと光に輝く露の美しいこと。一面に露が降りると、本当に丸い小粒のガラス玉の花が咲いたようです。
花にたとえられるだけではありません。宝石にたとえて「露珠(ろじゅ)」や「玉露(ぎょくろ)」とも呼ばれます。
昔、露と言えば、儚いものの代名詞。「露ほどの」と言えば「ほんの少しの」という意味。特に、「露の命」「露の世」「露の身」など、命の儚さにたとえられることが多かったようです。
いたずらに命の儚さを嘆いてきても仕方がありませんが、確かに、命は儚いもの。
そして、その短さ、儚さを知ったところから始まる物語もあるはずです。
子供のころには、考えもしなかった、仲間の死や親の死に出会い、人生には必ず終わりがあるのだと気付き始めます。
そして、やがて『よりよく生きることはよりよく死ぬこと。よりよく死ぬことは、よりよく生きること。』などと考え出したりして・・・。
命の尊さ、時間の尊さを知っているからこそ、よりいっそう深まるものではないでしょうか。
これから、人生100年と言われる時代に突入していきます。
露ほどの人生などと言えないかもしれませんね。
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20100407&tit=%91%E9%8F%97%8A%F5&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%91%E9%8F%97%8A%F5%82%CC 【季語が鷹女忌の句】より
白露や死んでゆく日も帯締めて
三橋鷹女
今日、四月七日は鷹女忌である。鷹女の凛として気丈で激しく、妖艶さを特長とする世界については、改めて云々するまでもあるまい。一九七二年に亡くなる、その二十年前に刊行された、第三句集『白骨』に収められた句である。鷹女五十三歳。同時期の句に「女一人佇てり銀河を渉るべく」がある。細面に眼鏡をかけ、胸高に帯をきりりと締めた鷹女の写真は、これらの句を裏切ることなく敢然と屹立している。橋本多佳子を別として、このような句業を成した女性俳人は、果たしてその後にいただろうか? 女性としての孤高と矜持が、余分なものをきっぱりとして寄せつけない。弛むことがない。「帯締めて」に、気丈な女性のきりっとした決意のようなものがこめられている。句集の後記に鷹女は「やがて詠ひ終る日までへのこれからの日々を、心あたらしく詠ひ始めようとする悲願が、この一書に『白骨』の名を付せしめた」とある。心あたらしく……掲出の句以降に、凄い句がたくさん作られている。晩年に肺癌をはじめ疾病に悩まされた鷹女は、「白露」の秋ではなく花吹雪の時季に命尽きた。それも鷹女にはふさわしかったように思われる。中原道夫の句に「鷹女忌の鞦韆奪ふべくもなく」(『緑廊』)がある。この句が名句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」を意識していることは言うまでもない。『白骨』(1952)所収。(八木忠栄)
https://blog.goo.ne.jp/mitake157/e/307ac36c13e201ae80ad5f1c2d3f74cf 【時代背景と俳句鑑賞】より
55年前の和裁の独習書が出てきたことから、以前ある俳句の解釈に違和感を持ったことを思い出しました。
ちょっと辛口になるので書かないでおこうかと思ったのですが、書いてみます。
解釈の対象になったのは、三橋鷹女の、とても有名なこの俳句です。
白露や死んでゆく日も帯締めて
作者の三橋鷹女は明治32年(1899)生まれで昭和47年(1972)に亡くなっています。
この句を作ったのは昭和25年、52歳の時です。
この句の季語は「白露」で秋の季語です。
昭和25年当時、52歳といえば初老といってもよい年齢であり、人生の秋と重ねて白露という言葉が用いられ、死を意識し始めての句かと思います。
この句の眼目は、あっという間に年をとってしまう人生のはかなさを白露に重ね合わせつつ、それでも死んでゆくその日も、いつもと同様に帯を締めると表明する、毅然とした生の在り様でしょうか。
私が違和感を持ったのは、俳句の勉強の為に買った石寒太著「初めての俳句の作り方」の中のこの句の解釈です。
この句について彼は「白露のはかなさと清浄さとの配合でナルシズム的な句」としています。
そして句の意味も「私が死んでゆく日も、・・・きちんと帯を締めた正装で死を迎えたい」としています。
私が『えっ?』と思ったのは、「正装」という言葉です。
正装とは、何らかの儀式の際に身に着ける装いのこと、要するに和装洋装を問わないフォーマルな衣装のことです。
句そのものには正装という語は使われていません。ただ、昭和25年という年代から「帯締めて」の言葉だけで正装と考えるのは無理があります。当時、日常的に着物を着ていた人は珍しくなく、帯もまた普通に締められていました。
実は例の55年前の雑誌にも、和服の正装に関する記述がほとんどありません。和服に正装が連想されるのは、近年のことなのです。
そして、この句の帯を締める着物が、正装かどうかで、句のイメージがガラッと変わってきます。
句では、死んでいく日も、ですから、その日だけでなく毎日、正装だということになります。
毎日、正装の人って、どんな人ですか。その勘違いから、「ナルシズム的な句」と評されているみたいなのです。
私がこんなことを書くのは、母が亡くなって、残されていた着物をたまに着るようになって、その時の人の反応が、ちょっとビックリだったからです。
要するに、着物というだけで、カジュアルな場にフォーマルな衣装で来たみたいな反応をされたことがあったからです。(もちろん私はフォーマルな着物、つまり正装で出かけたわけではないのです。)
石寒太氏の解釈は、そういう、着物=正装という感覚に基づいてされているのではないかと思ったのです。
着物=正装という感覚は、現代の、間違った知識による感覚です。
今でも、着物全体から見れば正装といえる着物は少ないのです。
過去の俳句を解釈する場合、作られた時代背景をある程度知っていなければならないのは当然です。
と同時に、着物みたいな日本文化については、基本的な知識を抑えておくべきだと思います。
時代という側面では、女性作家の作品について安直に「ナルシズム的」というような評は、昭和ならともかく平成ではNGだと思うのです。
0コメント