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【Customer Review俳句により、「現代」を超えてゆく】より
この忙しい時代に、のん気に俳句の本を読んでいる人はあまりいない。だが、忙しい時代だからこそ、時代と距離を置いて心を休めることが重要になってきていると思う。俳句は、そのための優れた手段になりうる。
本書は、俳人の黛さんと、脳科学者の茂木氏の本。黛さんの専門知識は勉強になる。また、茂木氏は物知りなので、俳句というものの意義を様々な角度から考え、そこに新鮮な意味を見出している点が私には興味深かった。
印象に残った点を以下に記す(内は私のコメント)。
<第一章 茂木パート>
・「山路来て何やらゆかしすみれ草」という芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性のほかには何もない。山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(「無」の中に「全てがある」と考えるのは、仏教や西田幾多郎の哲学とも共通している。とても東洋的な発想だ。)
・言葉のセンスを磨くために心をくだくことは、内なる感性を磨くことに等しい。私たちは俳句によってそんな習慣を持ちうるのではないか。「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎてしまう感覚を記憶にとどめ、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」が、俳句という文学なのである。
(クオリアとは、感覚というような意味だ。言葉は感覚に対応しているが、俳句では言葉の微妙なニュアンスが非常に重要になる。それが「内なる感性を磨く」ことに繋がる。)
・俳句脳の特徴である「小さなものへの慈しみ」や「ふとした瞬間の気持ちを的確に捉えること」は、論理的思考を優先する西洋近代には見られない、独自の文化である。これだけ効率化が推し進められた近現代では、日本語圏にあっても「異文化」であり「多文化」の一要素たりうるという、ある意味、とても普遍的な価値を持つ存在だと言っていい。
(資本主義にふり回される現代人は効率化を推し進めすぎて、「慈しみの気持ち」など流通しないものを軽視しすぎている。資本主義の反動として、俳句はむしろ「先進的」な存在にすらなりつつあると私は思う。)
<第二章 対談パート>
・茂木; 俳句的な生活とは、どんな生活ですか。
・黛; 日常の中に降る雨が「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘をもっていこう」という雨には、降り方の強弱くらいしかない。でも、「木の芽雨(このめあめ)」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。
(たくさんの言葉を知っていると微妙な違いが分かるようになり、そのぶん世界がよりカラフルに見えるようになるのだろう。)
・黛; 俳句は言葉の上では十七音節しか書きませんが、あとのことは余白に漂っているのです。私たち俳人が十七音を紡ぐとは、同時に余白を紡ぐことなのです。ですから、言葉にどれだけの余白が紡げるか、そしてその余白に、どれだけのものを漂わせることができるかを常に考えます。たまたま文字や言葉として現れたものが短いだけで、実はその余白にものすごいことを紡いで、それを隠そうとしているというのが俳句なのですよ。
・茂木; 神様から見たら、どんなに言葉を尽くしても絶対に余白は生まれる。たとえば、一行の詩でも一万行の文章でも、余白といいう意味でいったら同じことです。そういう意味で言うと、我々が、言葉を尽くせば宇宙全体が描けるなどと思い込むのは、まだナイーブなんですね。突き詰めていったら、どんなに言葉を尽くしても結局その宇宙をそのまま描けることはありえないのですから。であるならば、限られた言葉でどれくらい描けるかで勝負する方が成熟した発想かもしれません。短い言葉で宇宙を表す俳句という表現形式は興味深いですね。
・黛; 芭蕉のいう「言いおほせて何かある」ということだと思います。
(俳句は、情報の密度が高い。密度の低い情報が氾濫している現代に対する静かな反逆となりうる。)
・黛; 芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」では、「や」にはダブルイメージを喚起させる役割があります。目の前には本物の池があっていいと思うんです。しかしもう一つの普遍的な古池が、「や」で一句を切ることにより提示されるんです。これが俳句における「切れ」の役割です。実際、蛙が飛び込んだのは古池でしょう。しかし「古池や」と切れ字を使って切ることで、まず古色蒼然とした古池をイメージします。次に実際の古池に蛙が飛び込む。だからダブルイメージなのです。
(「具体的な池」と「抽象的な池」が「や」によって重なり合うということなのだと私は理解した。)
・茂木; アートって何なんだろうと常々考えます。もともと自然の中に綺麗なものがあった。それを僕らは喪失した。アートと称してそれらを再現している。それだけのことなんじゃないでしょうか。じつは自然の中に全部あるんですよ。夜明けの美しさも、花の綺麗さも。自然は自分が所有できないし、コントロールできないし、値段もつけられない。高度に発達したこの消費社会で、自然だけは商品として流通させようがない。でもアートなら、これは私が作りました、限定何個ですと言えて、商品として流通させられます。
・黛; 本当は所有する必要はないのかも。こちらが心を向けていけばいつでも自然はそこで待っていてくれるのだから。
・茂木; 現在の非常に高度に発達した資本主義に対して、強烈な対抗軸を持っていた方が人間の存在としては立体的になる。自然を所有する必要などない。ただ、思っていれば良い。そうすれば、現代社会のさまざまなやっかい事に対抗するための相対的な視点を抱ける。
(お金がなくても、晴れわたる青空や、日本の四季を楽しむことができる。結局、これらが一番の贅沢ではないかと思う。)
<第三章 黛まどかパート>
・おしなべて表現とは、経験の豊かさから滲み出てくるものです。経験の豊かさが、感じ取る力や語彙の豊富さと相まって、豊かな表現を生み出します。そういう意味では、子どもに比べお年寄りのほうが、俳句に断然有利なわけです。私は俳句のおかげで、むしろ加齢に喜びを感じます。
「俳句を始めて、歳をとることが怖くなくなりました」
私の句仲間には、こんなふうに言う女性たちが大勢います。かくいう私も、俳句のある人生のおかげで、年齢を重ねていくことが楽しみになりました。
(年をとることが喜びになるというのは、俳句の素晴らしい効用だ。)
・韓国を歩いた時、途中出会った韓国人の男性が、私が日本人だとわかるとすぐに
「遣(や)らずの雨という言葉を知っていますか?」
と訊いてきました。知っていると答えると、とても嬉しそうな顔をして、久しぶりに「遣らずの雨」を知っている日本人に会ったと言うのです。そしてこんな話をしてくれました。反日教育を受けて育った彼は、とにかく日本が嫌いだったといいます。しかし今から三十年ほど前、出張でどうしても日本へ行かなければならなくなり、十日ほどの仕事を済ませ、ようやく韓国へ帰れるという日、空港へ向かう車中で突然雨が降り出したそうです。同行していた日本側の担当者は雨を見てこう言いました。
「遣らずの雨ですね・・。日本人はこういう時に降る雨を遣らずの雨と呼んで、あなたを帰したくなくて雨が降り出したと思うのですよ」
と説明してくれたそうです。こんなに詩情あふれる繊細な言葉を育くんできた民族が、自分が教わったような、ただ残酷で悪い民族であるはずがない。彼の反日感情はその一言でにわかに溶けたのだそうです。以来日本人の悪口をいう韓国人に会うと、必ず遣らずの雨の話をするのだとその男性は言っていました。これこそ文化外交ではないでしょうか。
(韓国語にも、きっと「遣らずの雨」のような美しい言葉がある。私は、そう思いたい。)
https://ameblo.jp/taiki-ism/entry-12664874324.html 【正四面体とアンドロギュノス神話】より
見えないもの、余白とされるものが実はもっとも重要なのです。
老子はこう言う。『粘土で器を作る。しかし、粘土が包む虚無の空間が器の本質なのだ』
ミヒャエル・エンデ(ものがたりの中の余白)
この世界は 幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。
それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。
そして、 この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は反対なのだ。この世界こそ幻想である。
(ルーミー語録)
ヒーラーでチャネラーであるAさんは テレビの歌番組を見ているときに登場して歌うアーティストに「あの人はキテル」「あの人はキテナイ」と思いながら 見ているそうです。
「キテル歌手」とは「神や人霊を憑依させて歌ってる歌手」のことで、目の焦点がどこかズレていてトランスしてる様子で、代表的なのがCoccoさんや椎名林檎さん等だそうです。
「神さま(霊)キテナイ歌手」は、目が普通で、歌も技術的に作り込んだ様子で冷静に歌う、
といいます。
そんなAさんですが、「正四面体には不思議な力がある」といいます。
「正四面体には 不思議な力があると感じていて、私…2017年に願い事を紙に書いたんですよ。 「芦屋か西宮の阪急沿線に住む」「誰かに引き上げられる形でヒーラーになる…」
って紙に書いて、正四面体のワークをしたんです。いま思うと 全部叶ってるんですよ」
細かい部分は省略して、要約すると
「正四面体のワークは・病気になりにくくなるし、・若返るし、・願望実現がスムーズになる」そうです。
この話が いつも以上に印象的だった理由は、表情が男性(宝塚の男役)みたいな顔になっていたのとAさん自身は 感覚的な人なのに、幾何学について事細かに語っていたからです。
その話を聞いてから一週間後、なんとカタカムナの丸山修寛氏も「正四面体ってすごい力があるのよ」という話をされてるのを偶然耳にし…さらに その数日後バックミンスター・フラーは、正四面体を、宇宙の基本座標とすべきだって提案していたことを知り、このシンクロやばい?ガーンってなり、
そういえば…あのシュタイナーも四面体について言及していたのを思い出して調べてみたら…ビンゴだった
シュタイナーは、1924年の連続講義の中で、『地球の形と人体』と題して、地球を四面体のピラミッドとして認識した時、その頂点は日本になると語っています。
以下に、その講義の一部を要約して抜粋
「地球は球体であり、球体として形成された、と言われています。 しかし、地球が球体であると言うのは正しくありません。地球が実際には本来どのようなものか、説明してみようと思います。
地球が球体だというのは、空想にすぎません。地球の形態を正しく描きましょう。四面体と呼ばれている形態です。四面体は、このように見えます。
三角形が四つあります。底辺に三角形があり、さらに三つ、三角形があって、ピラミッド形になっています。正三角形が四つ堺を接しているのが正四面体です。
地球を四面体のピラミッドとして認識した時、その頂点は日本になります。」
さらにシュタイナーは興味深いことを述べています。
「火山の分布を調べると、地球は正四面体である、ということが分かる。
火山の噴火は常に、太陽と星との位置関係によって生じるのです。
人間は 自分の形態のなかに、宇宙を模造します。人間は頭に宇宙を模造します。
ですから頭は 丸い宇宙に従って、丸くなっています。
顎の逆三角形は地球の正四面体の形を模したものです。」
ルドルフ・シュタイナー(自然と人間の生活より)
この正四面体が上向き(太陽正四面体)と下向き(地球正四面体)で重なるとスターテトラヒドロン (星型二重正四面体)になります。
「昔、人間は男女背中合わせで一体であった」というギリシャ神話のアンドロギュノスをご存知でしょうか?
「昔の人間」は、<わたし(男)>と<あなた(女)>が背中合わせで ひとつの形態だったが、
人間の力が強くなったのを嫌った神々が、その力を弱めようと、2つに割ったために、今の人間になった…以来、2つに割られた人間は、 失った半身を恋焦がれて彷徨うようになった」と。
この「失った半身」が、「赤い糸」や「ツインソウル」の伝説になりますが背中合わせで一つだった<わたし>と<あなた>を幾何学的に浮かび上がらせると
「星型二重正四面体(スターテトラヒドロン)」になります。別名「マカバ」です。
<わたし>と<あなた>を統合する鍵であり、<生まれて死んでいくアナタ>と
<生まれても死んでもいないワタシ>を統合する鍵です。
先日「マンダラとマンドルラの秘密」の中で左(火)は エネルギーを 天に上げる「男性性(神官)」を表し、右(水)は エネルギーを天から下ろす「女性性(巫女)」を表す言いましたが
これも幾何学で説明すると星型二重正四面体(スターテトラヒドロン)になります。
<あなた(正四面体=身)>の背中合わせに、失われた半身である<わたし(後ろの正四面体=霊)>が張りついています。
「人は失くした半身を求めて恋をする」その失くした半身が 本当は一度も失われていない<わたし>だとしたら?
最初のAさんによる正四面体瞑想の情報源が どうやらアルクトゥルスであることがわかり、
そこに音と幾何学、ライトランゲージなどを加えてさらにブラッシュアップしてアルクトゥルス瞑想が誕生したのでした。
瞑想に来れない人に 最後に面白い話を…シェアします。
願い事を書いた紙を正四面体の中に入れてみてください
それが 深層意識のあなたが合意するものなら通常より10倍早く 叶うと思いますYO!(知らんけど)男性性の強い人は、具現化力があると言われますが、正四面体は火のエレメントを司る
男性的な力だからです。
一時期 流行った「引き寄せ」の上手な人、結果を出す人って 正四面体のエネルギーを
無意識にうまく活用している方だと思います。
逆に正四面体を見て、苦手に感じる人は、もしかすると男性性や力に対するブロックがあるかもしれません。
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