https://note.com/cmbyname_lucy/n/n7321985ec109 【余白を愛していきていく】より
木に咲く花を撮る習慣がある。土から生える可愛らしい花も愛おしいけれど、木は命そのものっぽいから好きなのだと思う。良い写真が撮れるわけでもないけれど、ときめくとすぐにiPhoneのカメラを起動してしまう。
陽の光を浴びて歩くとき、ぬるい向かい風に包まれる時、駅近くの階段を登るとき、私は日々を慈しんでいることを実感する。
先日「忙しそうな人をやっている」ということを書いたが、それもこれも、余白を愛しているからできるのだと今更気がつく。何かに夢中になれるからこそ取り巻く環境のやさしさに目を向けられるし、ただ生きる、といった生物としての自分があるからこそ、能動的に活動できるのだと思う。
ひさしぶりにお昼寝をした。
今日は休日で予定はなにもなく、正午手前に朝ごはんを食べて、そこから数時間後にはコンビニのお惣菜で胃袋をちょうどいい感じにした。通信大学の授業を受けようとPCを開いたものの、心の中に住んでいる何者かから午睡のお誘いが来た。実家にいるとソファですぐすやすやしてしまうのだけれど、自分の家にいるとやるべきことがぽんぽん頭に浮かぶので、日の高いうちにベッドに上がることはない。まどろみ自体がめずらしい。振り切って勉強することもできたけれど、眠ってみた。あっという間の2時間半、私の生活と絡み合った夢を伴って。
通っている子ども食堂にいる人たちがでてきた。普段よく乗る電車に乗っていた。見慣れない田舎、草原にあるペンションで、彼女たちと暮らしていた。不思議なくらい、当たり前の生活だった。明日から同じ生活を現実ですることになったとしても、何の違和感もないような世界だった。目が覚めて、ペンションの前の粉っぽい土の駐車スペースとか、妙に天井の高い部屋とか、濃い緑の森を抜けて子どもを迎えに行ったこととかを、未来に起きることのように想った。そして、いい眠りだったと薄暗くなった部屋で思った。
ただ眠る、というのは、私にとって余白で、癒し。空っぽの自分で布団の中にいると、追うことも追われることもなくそのまんまの私でいられる。そんなそのまんまの私の脳は、夢の中でもだれかとのつながりに豊かさを感じていた。人と人との結び目を、やっぱり私は愛しているのだなと思う。いくつでも結んでいきたい。どう結ぶのがいいか、お昼寝で元気になった現実の私はあれこれ思索している。
支援・サポート・手助けといった文脈で説明される活動も十二分に必要なのだけれど、私の望む携わり方とはそれほど広く重ならない。仕組みだけでは満たされない、心のすきまに目を向けたい。埋める必要があるすきまなら、一方的に補完するのではなく、一緒に新しいピースを探したい。その人らしさと私らしさが溶け合っていくように、「共に」を大切にできたらいい。
そう考えた時に、”余白”の必要性にたどり着く。くらしを業務のようにこなしていては見過ごしてしまうかもしれないものは山ほど。日々何を感じて、何に心を揺らされて、どんなふうに動いていくのか。ただの私として息をする瞬間をたっぷり用意しておくことには、やさしい意味があるのだ。映画や音楽を愛して、食べることを愛して、話すこと・書くことに喜びを得て、笑い上戸な自分で過ごすことをもっともっと楽しんでいたい。(今ができていない、というわけではない。むしろめちゃくちゃエンジョイしている)
よく聞く言葉でいえば、「抽斗を増やす」ということなのかもしれない。自分を最大限好きなように生きていくことで、誰かとの結び目を多く持てるようになりたい。というのが今の精いっぱいの気持ちのサマリー。
ただ満たされた休日だった。
名のわからない太い幹の木は、今年ももうすぐ実をつける。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8026330/ 【内臓感覚・フェルトセンス】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8614404/ 【フォーカシング】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/16206446 【口開けて叫ばずシャワー浴びており】
「見出し」は俳句と言えるのではないでしょうか?
フォーカシングで変化が起きる瞬間フェルトシフトについて学んだこと
こんにちは。どいつよしです。
ここのところフォーカシングについての記事が滞っていたので、久しぶりに書きたいと思います。
前回は、フェルトセンスのことを書きました。
今回は、フォーカシングで変化が起きる瞬間を意味する用語、フェルトシフトについて書きたいと思います。
ちなみにフェルトシフトは、聖闘士星矢に出てくる獅子座のアイオリアの必殺技とは大きく違いますのでご注意を。
君はフェルトセンスを感じるか!?
くらえ! フェルトシフトォォォ!!
意外と合うかも。笑
・・・では、さっそくいってみましょう〜!
フェルトセンスあってのフェルトシフト
フェルトシフトを理解するには、フォーカシングとフェルトセンスのことを復習しておかないといけませんので、少しおさらいをします。
フォーカシングとは、
哲学者でもあり心理学者でもある、ユージン・ジェンドリンが提唱した心理学の理論と実践の名称で、
「自分の内側にある言葉やイメージにならない[感じ]に注意を向けていき、
その[感じ]に触れながら、それを言葉やイメージなどで表現して
[感じ]に秘められた意味を明らかにしようとするプロセス」
を誰でもできるようにする方法。
でしたよね。
そして、自分の内側にある言葉やイメージにならない[感じ]をフェルトセンスといいます。
他の言い方をすると、フェルトセンスとは、
「はっきりとした感情ではないが、なんとなく<からだ>に感じられていて、そこには意味が含まれているもの」
のことです。
フォーカシングとフェルトセンスについてはこちらにも詳しく書いています。合わせて読んでみてください。
フォーカシングってなに?どんな生い立ちでどんな効果があるの?
フォーカシングになくてはならないフェルトセンスってどんなもの?
フェルトシフトとは?
さて、ここからが本題です。
<からだ>に感じられるフェルトセンスに注意を向けていき、それに触れながら、それを言葉やイメージなどで表現しようと探っていく中で、
「ぴったりした表現が見つかって、緊張の解消やホッとするなどの感覚的な変化が感じられ、問題や課題に対する新たな気づきも生まれる」ということが起こります。
この現象のことを、
フェルトシフト
といいます。
フェルトシフトには、「あ!わかった」というひらめきや、何かに気づくというアハ体験をともないます。
フェルトシフトが起こると、問題はまだ解決しないままそこにあるかもしれませんが、今までとは違うまったく新しい視点が開けます。それにより、問題への関わり方も変化します。
また、笑いなどの解放が起こり、<からだ>の実感が変化し、フェルトセンスは変わるか消失するという特徴的な変化が起こります。
フェルトシフトが起こることを「生を前進させるエネルギーが見つかる」と言う研究者もいます。
ちなみに、生理学的にみた場合でも、フェルトシフトが起こって気づきを得ると、その内容はどんなことであれ、リラックス効果が得られるのだそうです。
日常でもフェルトシフトは起きている!?
『フォーカシングになくてはならないフェルトセンスってどんなもの?』でも書いたように、私たちはうっすらとしたフェルトセンスを常に感じています。
うっすらとフェルトセンスを感じているということは、フェルトシフトも起きていると考えられます。
池見先生がよく使われるランチタイムの例えをお借りして説明します。
ランチタイムに「空腹ではあるけれど、油っこいものは食べたくない」といった複雑なフェルトセンスをうっすら感じていたとして、
お店のメニューや食事の見本を見ながら、
「ハンバーグ・・・ちょっと違う・・・お好み焼き・・・うん、粉モノはちょっと・・・ラーメン・・・いや、重たい・・・パスタ・・・うん、近いけど、ちょっと違う・・・そば! あ、これだ!」
という流れです。
目に入るレストランのメニューや食事の見本といった象徴と、フェルトセンスが相互に作用し、「そば」というぴったりのものが見つかってフェルトシフトが起きるということです。
「そば」に行き着くまでの<からだ>の実感と、「そば」というぴったりくるものが見つかってからの<からだ>の実感は違うものになっているはずです。
また、あえてランチタイムの空腹感をこの人にとっての【問題】とすると、
「何を食べようか」と迷っている状態での空腹感と、そばを食べることにしようと決めた状態での空腹感は、
空腹感という【問題】はまだ解決されてはいないものの、それへの関わり方は大きく違ってきていると想像できます。
フェルトシフトへは見出しをつけて響鳴させる過程を経る
フェルトシフトが起きるには、
<からだ>で感じられるフェルトセンスに触れながら言葉やイメージを探り、ぴったりした表現が見つかる
という過程が欠かせません。
フェルトセンスを言い表す、適切な言葉やイメージを思い浮かべることを「見出しをつける」と言います。
見出しが決まったら、その言葉やイメージを数回、自分の中で響かせてみます。どうもぴったりくる感じがしなければ、見出しを変更します。これを「見出しの響鳴」と言います。
見出しの響鳴をおこなっていく中で、フェルトセンスがより強く感じられたり、「ぴったりだ」という実感が得られる時がきます。
そして、その瞬間に、「あ!わかった」というひらめきや、何かに気づくアハ体験があると、フェルトシフトが起こったことになります。
産業カウンセラー養成講座では、「感情への応答」を重視しますが、それは、フォーカシングでいう「見出しの響鳴」をやっていることだといえます。
クライエントが感じていることについてカウンセラーに表現し(見出しをつける)、カウンセラーがそれを言い返すこと(感情への応答)によって、クライエントの中で「見出しの響鳴」の作業が行われていきます。
そして、「見出しの響鳴」を通してフェルトシフトが起こることを非指示的に促していくことになるのだと思います。
フェルトシフトを促す問いかけ
「見出しの響鳴」→「フェルトシフト」の過程をさらに促進するために、開かれた質問を使うこともあります。
「このことの何が<見出し>みたいだろう?」
「この<見出し>という感じは何からきているのだろう?」
「これ<見出し>は私にとって、いったい何についてのことだろう?」
何が悪いのかを指し示すための質問
「これ<見出し>ついて、本当のところ私はどう感じているのだろう?」
「何のことで、これほど<見出し>と感じているのだろう。
どうなったら正しいかを指し示す質問
「この<見出し>の感じは何を必要としているだろう?」
「この<見出し>の感じが私に何か教えてくれているとしたら、それは何だろう?」
「この<見出し>の感じは何があればほっと一息つけるだろう?」
などがあります。
フォーカシングのセッションを受けると、問いかけを行った時に、「アタマで考えないように。」と言われます。
アタマの理解で答えを言うのではなく、フェルトセンスから何か新しいことが浮かんでくるのを待つようにすることが大事だからです。
また、問いかけに対する「答え」が出てきたにもかかわらず、フェルトシフトが起こらない場合は、他の質問に変えてみるか、見出しをつけなおしてみることが良いそうです。
フェルトシフトでの気づきを味わう
フェルトシフトでの気づきは、安心感や解放感を得られるようなものが多いですが、時としてアタマの理解と大きく違っていることがあります。
そういう時は、驚きとともに、受け容れることへの抵抗が生じることもあるようです。
ただ、その気づきは<からだ>の実感として、逆らえない確実さをもったもの。
良いか悪いかという評価をせずに、いったん受け容れて、<からだ>に感じられている「気づき」をじっくり味わっていくことがよいそうです。
じっくり味わっていくことで、その次のフェルトシフトに向けての前向きな動きが出てくることと思います。
学びは続くよどこまでも・・・
以上、フェルトシフトについて僕が学んだことをまとめました。
フェルトシフトが起きるためには、「フェルトセンスに注意を向ける」→「見出しをつける」→「見出しの響鳴」という過程が欠かせないことがわかりました。
実は、この過程が行われるには、フェルトセンスと有効的な関係性や、適切な「間」がとられていることが必要とのこと。
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