赤尾兜子と蛇

表紙は孔雀明王を連想させます。

https://fragie.exblog.jp/32304696/ 【赤尾兜子と蛇】より

『図書新聞」3499号を送っていただいた。

岡和田晃氏(文芸評論家・現代詩作家)が、「〈世界内線〉下の文芸時評 第七六回」に、寄せた評に藤原龍一郎著『赤尾兜子の百句』

について、すこし触れておられる。その箇所を紹介したい。

藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』(ふらんす堂)は、選句と評釈の妙により、一見して現実の表象とまったくリンクしないような前衛俳句が、矮小化に抗う孤独な闘争のための切り口になる可能性を示している……「北風荒れてしづかに咳けりそのひまを」。

この藤原龍一郎著『赤尾兜子の百句』については、ブログによる紹介もあった。

まず、大井恒行さんのブログ http://ooikomon.blogspot.com/

→日々彼是

赤尾兜子「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」(『赤尾兜子の百句』)・・・

 藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』(ふらんす堂)、藤原龍一郎は、愚生と同じく「渦」に所属していたことがある。その頃は、俳号・藤原月彦である。「俳句研究」の50句競作で頭角を現わした藤原月彦を一本釣するべく、兜子は月彦に手紙をしたためたに違いない。その頃の「渦」は、若い俳人たちで溢れていた。50年以上前ことである。

 ブログタイトルにした兜子「ゆめ二つ全く違ふふきのたう」について、藤原龍一郎は次のように記している。

 『玄玄』の掉尾の一句。『赤尾兜子全句集』(立風書房)の和田悟朗氏のあとがきによると、この句は、兜子の没後み、日記から発見されたのだそうだ。まさに、最後の一句ということになる。

 昭和五十六年三月十七日午前八時過ぎ、自宅近くの阪急神戸線十善寺坂踏切にて急逝。

 二つの夢とは何か? 何がまったく違うのか? 真意はついに不明のままである。春を告げるフキノトウをみつめながら、そこには生きる意志は生れてこなかったのだろうか。

 また、巻末の「異貌の多面体—赤尾兜子の俳句」の中には、

 この本の百句鑑賞では、あえて、編年体をとらず、まず、その異貌が感受できる兜子秀句三十三句を第一部として置き、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの作品から六十七句を編年順に並べて鑑賞した。(中略)

 第三イメージの私の解釈は作品鑑賞の部分に書いたのだが、繰り返しておくと、二物衝撃という具象と具象をぶつけあって比喩を生み出す従来の俳句的技法を一歩進めて、第一の比喩と第二の比喩を衝突させて、第三の暗喩のイメージを産み出す方法ということである。(以下略)

 とも記されている。ともあれ、兜子俳句は、どの俳人よりも、もっとも前衛的だったという評価が相応しいように思えるが(それを異貌の多面体といい)、藤原龍一郎の本書によって、よりその在処が、再確認されると思う。本書より、幾つかの句を以下に挙げておこう。

    会うほどしずかに一匹の魚いる秋     兜子

    「花は変」芒野つらぬく電話線

    帰り花鶴折るうちに折り殺す

    数々のものに離れて額の花

    大雷雨鬱王と会う朝の夢

    音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢

    広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

    煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾

    轢死者の直前葡萄透きとおる

    戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ

    花から雪へ砧うち合う境なし

    霧の山中単飛の鳥となりゆくも

    さらばこそ雪中の鳰とそして

    心中にひらく雪景また鬼景 

 赤尾兜子は、その日の朝、煙草を買いに行くと言って出かけ、近くの踏切で亡くなった。その一週間前に、高柳重信に電話をしている。

 以下には、図々しく、愚生の「兜子の三句」という、かつて、「渦」の記念号に寄せた愚生の駄文が偶然にも、出て来たので、この際だから、以下にコピーしておきたい。 

                  

大雷雨鬱王と会う朝の夢

俳句思へば泪わき出づ朝の李花

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう 

 僕のこれまでに俳句結社とのと関わりがあったとすれば(二十歳代前半のわずか数年に過ぎなかったのだが)、唯一「渦」のみである。

 京都大学前の書店で聞き知っていた「渦」を初めて手にし、購読を申し込んだ。手にしたそれは「渦」50号特集記念号(昭和44年11月)で、「『第三イメージ』をめぐって」という赤尾兜子・和田悟朗・中谷寛章による座談会が掲載されていた。それまでも兜子の「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」などの句に魅せられていたのであるが、中谷寛章にも注目していたからだ。

 冒頭の三句は、僕が後に長く愛唱した句で、髙柳重信の「目覚め/がちなる/わが尽忠は/俳句かな」の句と対をなしていた。

僕が上京して、初めて重信に会った時の挨拶のなかで、「兜子は僕の弟みたいなものだから」という親しみを込めた重信の物言いが今でも耳に残っている。(大井恒行)

 藤原龍一郎(ふじわら・龍一郎) 昭和27年、福岡県生まれ。

大井恒行さんもかつて「渦」に所属しておられたということ。「その頃の「渦」は、若い俳人たちで溢れていた。50年以上前ことである。」と書かれている。そして求められて「渦」に寄せた兜子作品評なども掲載しておられる。

大井さんにとってはこの一書はとりわけ感慨深いだろうなあって思った次第である。

もうひとつは、栗林浩さんのブログ。

→栗林のブログ https://kuribayashinoburogu.at.webry.info/

藤原龍一郎編著『赤尾兜子の百句』

藤原龍一郎 『赤尾兜子の百句』 ふらんす堂

 ふらんす堂の百句シリーズ「赤尾兜子」版が、藤原さんによって纏められ、この6月1日刊行された。

赤尾兜子100句.jpg

 赤尾兜子には筆者も以前から関心を持っていて、お奥様の赤尾恵以さんを訪ねて、いろいろ取材させて戴いたことがある。まず、生駒の和田悟朗さんにいろいろ兜子のことをお聞きし、それから日を改めて、神戸の兜子館を訪ねた。二、三回、いやもっとだったかもしれない。恵以さんはいつも、和田さんか西村逸郎さんにも声をかけ、お呼びして下さっていた。和田さんは亡くなられ、西村さんは如何されておられるだろう。いや、恵以さんご自身も「渦」を終えられて、如何にお過ごしであろうか? ある時は息子さんが作って下さったちらし寿司とサラダをご馳走になったことがありました。

 この兜子百句を読んで、小生にとって意義の大きかったことは、次の二点である。

① 懐かしい兜子の句、その多くは代表句として知られているのだが、今回読み直す機会を得て、感慨が大きかった。

② 小生があまり注目してこなかった『玄玄』や『稚年記』にも佳句があることを指摘され、思いを新たにした。これは、兜子が最も兜子らしい作品を残した『蛇』や『虚像』時代にのみ固執していた小生の間違いを質すものであり、そこに該著の意義を見たのであった。大変勉強になった。

 兜子の百句は、まず藤原さんが重要だとした33句を「第一部」で鑑賞し、ついでそれに準ずる句として全句集から67句を時代順に抽出し、「第二部」として鑑賞している。

 小生にとっての兜子句は、ほとんどが『蛇』(昭和34年9月)、『虚像』(昭和40年9月)、『歳華集』(昭和50年6月)の三冊の句集に集中していた。次のような句であった。

◎鉄階にいる蜘蛛知慧をかがやかす    『蛇』

〇音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢

〇広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

〇ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚

◎ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥 『虚像』

◎会うほどしずかに一匹の魚いる秋

〇轢死者の直前葡萄透きとおる     

〇蒼白な火事跡の靴下蝶発てり     

〇戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ

〇硝子器の白魚 水は過ぎゆけり

◎瀕死の白鳥古きアジアの菫など     『歳華集』

◎機関車の底まで月明か 馬盥

◎帰り花鶴折るうちに折り殺す    

◎数々のものに離れて額の花

◎大雷雨鬱王と会う朝の夢

 藤原さんが第一部に選んだ句を◎で、第二部に入れたものを〇で示した。ほとんどが◎で、我が意を得た感があった。

一方で『玄玄』から、小生が懐かしく思ったのは次の5句ほどであった。

〇俳句思へば泪わき出づ朝の李花     『玄玄』

〇さしいれて手足つめたき花野かな

〇さらばこそ雪中の鳰(にほ)として

〇心中にひらく雪景また鬼景

◎ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう       

 このように、小生は『玄玄』からはあまり多くを選んでいなかったし、『稚年記』からはゼロであった。ところが、藤原さんは『玄玄』と『稚年記』から沢山選んでおられる。その意味で、たいへん勉強になった。これは、藤原さんが全体を丁寧に読みこなし、選んだということであり、小生が好みで前衛俳人としての兜子の作品に、あまりにも拘りすぎていたことを意味する。つまり、『玄玄』のころは、伝統帰りを見せ始めたころの作品が多いので、小生はあまり選ばなかったのだが、藤原さんは、「『玄玄』の作品は兜子ならではの個性が刻印されたものであり、解りやすさ故に読者への訴求力は大きい」として、そこにも沢山の佳句を見出し、紹介してくれたのである。その意味で大変勉強になった、と書いたわけである。

 そこで、『稚年記』と『玄玄』から、小生が見直すに至った句を掲げておこう。それぞれ藤原さんの鑑賞文を読んでの結果である。

 月光に握る母の掌あゝいまはの      『稚年記』

 㡡(かや)に寝てまた睡蓮の閉づる夢

 萩桔梗またまぼろしの行方かな

 征きて死ね寒の没日といま別れ

 黄落や祐三もかくうつむきて       『玄玄』

 横に出てなほおそろしやひがんばな

 秘す花のあらはれにけり冬の水

 初がすみうしろは灘の縹色

 短日はさびし来る夜のおそろしき

 なお、四句目の〈征きて死ね寒の没日といま別れ〉は、兜子が昭和二十一年一月に特別甲種幹部候補生として東京世田谷の陸軍機甲装備学校へ入隊した際、水原秋櫻子を訪ねたことがあったそうだが、生憎留守であった。真新しい日章旗を預けて帰ったのだが、そのあと秋櫻子から〈冬紅葉かがやく君が門出かな〉と揮毫した旗が送られてきたそうだ。

 五句目の〈黄落や祐三もかくうつむきて〉は、兜子が書道の関係でパリを訪れたとき、パリで客死した画家の佐伯祐三を思い出して詠んだもの、と藤原さんの鑑賞文で知った。祐三の暗い画風を思い出す。句柄は伝統派的である。

 六句目の〈秘す花のあらはれにけり冬の水〉は、世阿弥の『風姿花伝』の〈秘すれば花なり秘せずは花なるべからず〉を受けているそうだ。前衛俳句を卒業した人の作品なのだ。

 最後の句〈短日はさびし来る夜のおそろしき〉は、「鬱王」との邂逅が頻繁になっていた頃の兜子の精神状態がそのまま正直に語られている、とある。

 そして先に挙げた、

  俳句思へば泪わき出づ朝の李花     『玄玄』

  さしいれて手足つめたき花野かな

  さらばこそ雪中の鳰(にほ)として

  心中にひらく雪景また鬼景

  ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう       

などの句が、この『玄玄』に収められているのである。最後の〈ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう〉は、兜子没後のメモを恵以さんから見せられた和田が、ただ一句選んで『玄玄』として全句集に入れたものである。小生は拙著『俳人探訪』の「俳句と格闘した男―赤尾兜子」に次のように書いている。       

引用

 和田悟朗は、その『俳人想望』(沖積舎)の中の『人間兜子と俳人兜子』で、兜子の最晩年の句について触れている。

 「兜子には既刊の句集『蛇』『虚像』『歳華集』『稚年記』があるが、前二者は高邁な文芸作品を志向して厳選したものであり、後の二者は、どちらかと言うと自己の心理の克明な記録の性格が強い」

と言う。そして、昭和五十年以降逝去寸前の句までを、勿論兜子の選を経ずして『玄玄』として全句集に入れた。和田の言では、

「はっきり言って玉石混淆、俳句作品を成す前の人間兜子の生のこころがそのまま出てしまった」

と言う。その中に一句、

  俳句思へば泪わき出づあさの李花   

は、兜子の晩年の悩みを端的に物語っている。

 亡くなって半年もたって、最終の日記から三十句ほど見つかった。和田はその写しを赤尾恵以からもらっている。そして言う。

「毅然とした作家赤尾兜子の姿勢はすでになかった。文学と言う仮面の下から人間そのものの顔が出る。子規も漱石もそのふたつの顔のはざまで没して行った。三十句あまりからただひとつを全句集に載せた」

その句は、

  ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう      

である。三十句あまりのうちのただ一句である。

 引用終り

 藤原龍一郎さんにお礼申し上げます。

の6月1日付けのものである。

栗林さんも赤尾兜子には興味があり、奥さまの赤尾恵以さんや和田悟朗さんなどをお訪ねして、俳人赤尾兜子へのアクセスを試みておられたようだ。

「もっとも前衛的だった俳人・赤尾兜子」の作品がいまどう読まれるか、知りたいところである。

では、蛇を紹介します。

そういえば、赤尾兜子の第一句集は『蛇』という句集名だった。

そういう因縁ではないけど、この本の発行日にわたしは今日紹介する蛇を見たのだった。

いまそのことに気づいたのである。

また、表紙の絵は、蛇が鶏に巻き付いているもの。

秦夕美さんが「とてもいいわ」と言ってくださったのであるが、この絵、葛飾北斎である。

赤い舌がチラッと。

このあと叢のなかに消えてしまった。

 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢      赤尾兜子

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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