http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-13/spnl-13-3.htm 【スピリチュアリズムと古神道について】 より
浅野和三郎の和製スピリチュアリズムからの脱却
よく、スピリチュアリズムと「古神道」が似ているかのように述べられることがあります。古神道すなわち「神(かん)ながらの道(惟神の道)」は、霊的な自然性を持ち、スピリチュアリズムに近い理想的な信仰形態であると言うのです。こうした見解に対し――「本当に古神道とスピリチュアリズムを、共通のものとして考えてもよいのでしょうか」との質問が多く寄せられています。
結論を先に言いますと、古神道とスピリチュアリズムを同一視することは明らかに間違っています。古神道とスピリチュアリズムの共通性を強調し過ぎることは、事実と大きく懸け離れています。そもそも「古神道」なるものが実際に存在したかどうかさえ明確でないにもかかわらず、それが日本人の持つ優れた精神性であると言うことは独断論に過ぎません。単なる推理の産物でしかないものが、一部の人々の中で、さも歴史的事実であるかのごとく受け取られ、さらに、それがスピリチュアリズムと類似したもののように考えられてしまっているのです。
古神道という発想は、江戸時代の国学者の“復古願望”から作り出された一つの思想に過ぎません。この後でも述べますが、神道の原初形態を「古神道」と言うならば、それは古代日本人の「アニミズム・シャーマニズム信仰」に他ならないことになります。そうした自然宗教が部分的にスピリチュアリズムと共通性を持っているとしても、本質的な点でスピリチュアリズムと一致しているとは言えません。
少し考えれば、太古の人々の中にどれほどの「霊的真理」への認識があったのかは明白です。古代人が霊的世界について、スピリチュアリズムのような正確な知識を持っていたとは到底考えられません。確かに死後の世界を認め、霊魂の存在を認め、霊との交流が可能であるとする点についてはスピリチュアリズムとの共通性が認められますが、スピリチュアリズムの最大の本質である「霊的成長」という点については、全く無に等しいと言わなければなりません。古代日本人が持っていたと思われる素朴な霊魂観は、世界の多くの地域においても等しく見られるものであり、決して日本独自のものとは言えません。
スピリチュアリズムは、人類の霊性ならびに知性が進化した結果、時が到来したために計画的に地上世界にもたらされたものであり、古代の自然信仰とは本質的に異なるものなのです。
日本のスピリチュアリズムにおいて「古神道」が必要以上に強調されているのは、日本のスピリチュアリズムの創始者である浅野和三郎が、スピリチュアリズムを古神道と関連づけたからです。この浅野和三郎によって作り出された「和製スピリチュアリズム」が、現代にまで影響を及ぼしてきました。浅野による和製スピリチュアリズムを、日本のスピリチュアリズムの独自性のように見なす向きがありますが、その中には多くの問題点があります。時にはそれは、スピリチュアリズムの正しい理解にとってマイナスとなるような弊害さえ引き起こしています。
今日まで、浅野和三郎の和製スピリチュアリズムに対する思想的功罪が論じられることは、ほとんどありませんでした。現在、日本のスピリチュアリズムは初期の段階を抜け出て、新たな飛躍の時代に入ろうとしています。そうした時代を迎え、一刻も早く、これまでの偏狭なスピリチュアリズム観を拭い去ることが急務とされています。
今回は、こうした日本のスピリチュアリズムの抱える思想的問題点を取り上げることにします。「古神道」と、浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」を中心に学んでいきたいと思います。
1.古代日本人の自然信仰(シャーマニズム)と古神道
2.神道の成立と古神道の復活
3.浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」について
1.古代日本人の自然信仰(シャーマニズム)と古神道
先のニューズレター(2001年・新年号:「スピリチュアリズムから見た日本国家と日本民族の繁栄」)で、日本人の宗教性の特徴として、霊的世界に対する感性を自然な形で持っていること、複数の宗教を同時に信仰する宗教的な柔軟性を持っていることを述べました。日本人の宗教心の底流には、シャーマニズム的霊性が一貫として流れています。そうした日本人の宗教性は起源を遡(さかのぼ)れば、古代日本人の自然信仰にまで行き着きます。先に述べたように「古神道」の名で呼ばれる信仰は、実際には、古代日本人の「アニミズム・シャーマニズム」といった自然宗教に他なりません。そのためここではまず、そうした原始の自然宗教について見ていくことにします。
東北アジア型のシャーマニズム――日本人の宗教心の源流
霊ならびに死後の世界の存在を信じ、これとの交流を図るという信仰形態は、太古の昔から21世紀の現在に至るまで、世界中のあらゆる地域で広く見られます。死者やあの世のスピリットとの交流を中心とする「シャーマニズム」は、地球上の人類における最もありふれた共通的な信仰形態であり、原初的なスピリチュアリズムと言えるかも知れません。こうしたシャーマニズムが支配的であった状況は、古代の中国・朝鮮・日本などの東北アジアにおいても同様でした。
東北アジアにおけるシャーマニズムには、大きな特徴がありました。それは精霊崇拝の中で、特に先祖の霊への崇拝を重要視しているということです。東北アジアのシャーマニズムの特色は、自分の先祖の霊に対する信仰が中心となっている点にあります。先祖の霊を招き、先祖を祭ることが子孫一族における最大の義務とされ、それが共通の信仰を形成してきました。このように地上の血縁関係を土台とした強力な「霊魂信仰」が特徴なのです。現在においても、中国人や朝鮮人が一族間の強固な結束と血縁関係を重視しているのは、こうした“先祖霊崇拝”というシャーマニズムに立脚しているからなのです。
極東アジアの国々は一般に儒教文化圏と呼ばれますが、実質的には、東北アジア的シャーマニズム圏と呼ぶべきではないかと思います。日本人の間では普通「儒教」とは、倫理道徳あるいは礼節教育としてのものを意味し、霊魂など宗教的要素とは無縁のものと思われています。儒教が、先祖の霊魂を呼び先祖供養をする「霊魂信仰」であることを知っている日本人はあまりいません。
ところが台湾や韓国・東南アジアの華僑社会に入ってみると、これまでの儒教についての考え方を変えざるを得なくなります。そこで行われているおどろおどろしい招魂の儀式に遭遇し、「これが儒教である」と説明され、理解に苦しむことになります。中国人から言わせれば、日本における儒教は中国の儒教ではない、あるいは本当の儒教ではないということになります。「儒教」は単なる倫理道徳でないどころか、強烈な先祖崇拝を中心とする「シャーマニズム信仰」そのものなのです。これこそ東北アジアのシャーマニズムを伝統的に受け継いできたものなのです。
仏教とシャーマニズム――東北アジアにおける仏教のシャーマニズム化
中国では「儒教」と「道教」は、東北アジア人の死生観と一致していたために人々に支持されることになりました。一方インドで興った「仏教」は、霊魂の存在を否定し、先祖供養による死後の救いを説くのではなく、“輪廻思想”によって死後の救いを説いています。従って本来の仏教は、先祖崇拝のシャーマニズムとは全く一致点がありません。そのため中国に仏教が伝来した当初においては、仏教は人々の支持を得られませんでした。しかし、やがて仏教は自らを変身させ、中国人の風習・霊魂観に合わせていくことになります。そして仏教の教えの中に“先祖崇拝”を取り入れることになります。この時点で、「インド仏教」と「中国仏教」は本質的に違った二つの仏教になりました。そうして大変身した中国仏教が日本に渡来し、さらに日本的な風土の影響を受け、「日本仏教」に作り替えられることになったのです。
日本の仏教は、死者のための仏教・先祖崇拝のための仏教となりました。釈迦の説いた生者の悟りの仏教は180度転回して、死者のための仏教に大変身してしまいました。日本仏教では、人間は死ねば皆、仏になってしまうのです。これが果たして仏教と言えるものかと思うほど変化してしまったのです。とは言っても、それを大きな視点から見れば、仏教というインド発生の思想が、伝播の過程で東北アジアのシャーマニズムの影響を受け、自動的に変化せざるを得なかった当然のプロセスということになります。
日本仏教はその大半がシャーマニズム化されており、まさに本来のインド仏教を、東北アジアのシャーマニズムの衣でしっかりと包み込んでしまったようなものなのです。日本仏教の本質は、まさに「準シャーマニズム信仰」と言うべきものです。日本人はこうした仏教を信仰することにより、歴史を通じて、ずっとシャーマニズム的世界に触れてきたのです。
日本人の伝統的死生観
日本の太古には当然のこととして、東北アジアに共通する「シャーマニズム」が、今日より純粋な形で保たれていたはずです。最近では縄文研究が盛んになってきましたが、その研究の第一人者である梅原猛氏は、アイヌの研究を通じ、縄文人の抱いていた“あの世観・死生観”を次のように述べています。
あの世はこの世とあまり変わらない。ただあの世とこの世は、ものがあべこべである。
あの世には極楽も天国も地獄もない。
生きとし生けるものは皆あの世に行く。そして皆、生と死の絶えざる往復を繰り返す。
また日本民俗学の創始者で権威の柳田國男は、日本各地に残る風俗風習を研究した結果、日本人の“死後観”について『先祖の話』(柳田國男全集)の中で、次のような内容を述べています。
「あの世というものも、この世とそんなに遠く離れてはいない。あの世にいる先祖は、この世とあまり変わらない生活をしているが、一年に何回か子孫のところにやって来る。子孫は、あの世からやって来る先祖にごちそうを差し上げたり色々なお祭りをして慰め、そしてその先祖をまたあの世に送り返す。その最たるものがお盆である。また正月とかお彼岸にも、先祖がこの世へやって来ると信じていた。そうして子孫から手厚い供養を受けた先祖は喜んであの世に帰り、そこで子孫達の無事と幸せを祈ってくれることになる。」
梅原氏や柳田の指摘した日本人の死生観・霊魂観は、中国や朝鮮における儒教の先祖崇拝信仰とほとんど同じと言ってもよいものです。これは、まさに日本人の信仰の本質が東北アジアのシャーマニズムであったことを意味しています。縄文人と弥生人の信仰には本質的に大差はなく、ともに同じ東北アジアのシャーマニズムの中に一括(ひとくく)りすることができます。両者の埋葬習慣に少々の違いはあっても、同じシャーマニズム的死生観という一貫性を持っていることが分かります。仏教が渡来する以前の日本人の信仰は、こうした東北アジア的なシャーマニズムであったと考えられます。これこそが、まさに古神道に他ならないのです。
*日本人の起源について
日本人のルーツは、現代のホットな研究テーマです。これまでさまざまな仮説が唱えられてきましたが、現在、最もポピュラーな仮説とされているのが「新旧モンゴロイドの二重構造説」です。紀元前300年頃、おびただしい数の渡来人が稲作文化を携えて大陸から日本に上陸し、先住民族である縄文人を駆逐し、弥生人となって日本列島の主人公となっていったというのがこの説です。そして純粋な縄文人としての名残は、アイヌと沖縄地方の人々のうちに存在するとしています。
この説によれば、「日本民族単一説」は否定されることになります。この二重構造説を支える根拠は、遺跡から発掘される縄文人と弥生人の骨格の違いです。こうした遺骨の形状比較と人口統計の推定から、縄文人と弥生人が異なった人種であるとの仮説が唱えられるようになりました。これは一見すると、きわめて説得性のある学説のように思われます。
ところがつい最近になって、この仮説に対して真正面から反論がなされるようになってきました。二重構造説の根拠とされる骨格比較は、縄文人と弥生人が別の人種であることの証拠にはならないという見解が示されるようになりました。骨格は栄養や習慣など生活環境の影響を受けて、ごく短期間のうちに変化する以上、骨格比較による人種比定には根拠がないと言うのです。人骨測定においてアイヌと沖縄人が近く見えるのは、生活環境や栄養状態などが似通っていたためであり、それがそのまま縄文人と弥生人の人種の違いを示すものではないとして、「二重構造説」に対して根本的な疑問を投げかけたのです。そして、次のような新たな仮説が打ち出されました。
それによれば弥生人は、もともと列島に住んでいた住人であり、大挙して大陸から渡来した人達ではないと言うのです。北九州地方にいた先住の人々が中国の稲作文化を取り入れ、その結果、人口を急増させ、やがて日本列島全体を覆っていったと言うのです。もしその仮説が正しいとするならば、弥生人と縄文人は同じ人種に他ならないことになります。天皇家の先祖は海外からの渡来人ではなく、もともと日本にいた住人(豪族)であったということになります。
現時点では、どちらの説が正しいのかを決定する段階には至っていませんが、客観的な研究データを見る限り、弥生人イコール大陸渡来人説(二重構造説)は、かなり苦しいと言わざるを得ません。いずれ考古学を始めとする諸科学の結集によって、明確な答えが出されることになるでしょう。
神道はシャーマニズムを排した人工の宗教
一般に神道は、古代日本のアニミズム・シャーマニズムという原始宗教から発達した自然宗教と考えられています。従って神道の中には、こうした原初的な信仰の要素が豊富にあるように思われがちです。しかし事実は全く逆で、現在の神道の中には、シャーマニズム的要素はほとんどと言ってよいほど見られません。卑弥呼(ひみこ)や、神話に登場する天宇受売命(あめのうずめのみこと)や神功(じんぐう)皇后は明らかに女性シャーマン(霊媒)なのですが、7世紀に朝廷によって確立された律令神道の中には、こうしたシャーマン(霊媒)が存在する場所はどこにもありません。それどころか神社の中で霊媒をすることは禁止されるようになります。死者の霊を呼ぶことはタブーとされました。現在神社で見られる巫女(みこ)は、かつては恐山(おそれざん)のイタコと同様な女性シャーマンだったのです。シャーマニズムにおける必須の条件は、あの世のスピリットと交信する「シャーマン」の存在ですが、神道は、そのシャーマン(霊媒)を排除したところに成立しているのです。
神道成立以前には、一族の支配者は政治権力者であると同時に、部族内における中心的シャーマンとして宗教的な権威を持っていました。天皇はかつては最高のシャーマンとして、宗教的権威と政治的権威という二つの権威の頂点に立っていました。時代が過ぎ、やがてシャーマンは政治的営みの中で不要な存在・厄介な存在となっていきます。巨大化した政治機構においては、複数のシャーマンの存在は、むしろ内部の意見の一致を崩すことになり、邪魔者となるのです。そして律令神道の成立とともに、シャーマンは表舞台から切り離され、その代わりに神主・神職という霊感を持たない神との名目的仲介者が力を持つようになります。
このように現在見られる神道は、シャーマニズムを意図的に排斥したところに成立した宗教と言えます。シャーマニズムは「霊魂説」という明確な死生観に立っていますが、それを排除した神道からは、大きな霊的要素が失われることになりました。当然のこととして、あの世の霊との直接的交わりという、生き生きした霊的実感は消え去ることになりました。
シャーマニズムは、仏教と裏の宗教を通して今日まで引き継がれてきた
太古から人々の間において存在したシャーマニズム信仰は、人工宗教である律令神道の成立に伴い、表舞台から追放されることになりました。そしてシャーマニズムは民間信仰の中で、「裏の宗教」として生きながらえることになります。あの世の霊との交信を行うシャーマニズムは、「表の宗教」から淫祀邪教(いんしじゃきょう)と軽蔑されながらも、地方の人々や一般大衆の心をつかんでいくようになります。ここにおいて、中央支配機構として作り上げられた律令神道と、純粋に霊的なシャーマニズム民間信仰という「二重の神信仰」が、日本人の中に存在することになりました。そしてシャーマニズム化した日本仏教が、さらにこうした図式に加わることにより、いっそう複雑な信仰状況ができ上がっていくことになります。
仏教はもっぱら人々の死の問題・先祖の救済の問題を担当し、大半の人々は仏教にすがることになります。神道では奈良時代から平安時代にかけて穢(けがれ)信仰による神道教義の再編が行われ、けがれと祓(はら)いが神道における大きな部分を占めるようになりました。それによって神道はさらに、死や死後の救いといった宗教本来の使命から無関係なところに身を置くようになっていきました。結果的に日本人は、死後の救いや先祖供養の問題を仏教とシャーマニズム的民間信仰に求め、現世の幸福を神道に祈願することになりました。純朴な大半の人々は、寺と神社と祈祷師(シャーマン)を必要に応じて使い分け、それぞれのところに足を運んできたのです。日本におけるシャーマニズムは、シャーマニズム化した仏教と、裏の宗教である民間信仰を通して、今日まで引き継がれてきました。こうして日本人の心の中には、「シャーマニズム的霊魂観」がしっかり根付くことになったのです。
現代におけるシャーマニズムの表面化と興隆
最近の日本人は宗教性を失ったと言われます。また多くの日本人は無宗教であるとも言われます。しかし、こうした発言の際に想定されている「宗教」とは、既成の宗教(仏教や神道)のことです。確かにそうした表の宗教に対する日本人の信仰は大きく後退しています。とは言ってもそのことが、日本人が宗教性を喪失してきたことを示すものではありません。現代の日本人が従来の宗教に対して魅力を感じなくなり、距離を置き始めたということに過ぎません。実はこうした既成宗教の後退は、ある意味では日本人の「霊性復興」にとって嬉しい動きとも言えるのです。
シャーマニズムという純粋な霊魂観に対する日本人の関心は、決して後退していません。従来の宗教の衰退に伴い、これまで隅に追いやられていたシャーマニズムが、再び表舞台に姿を現し始めています。霊界の実在や霊との交わりを教義の中心に掲げる新新宗教やニューエイジが、急激に台頭してきました。また多くの若者が心霊世界に関心を示すようになってきました。これらはまさに、現代における「シャーマニズムの復活」というべき現象なのです。日本人の中に流れて絶えることのなかったシャーマニズムという霊的信仰が、スピリチュアリズムの到来に時期を合わせて現代社会に蘇(よみがえ)ってきたということなのです。
2.神道の成立と古神道の復活
よく、日本人の信仰の原点は仏教ではなく神道であると説明されることがありますが、これは事実ではありません。また神道は、古代日本人の原始信仰から発展して形成されたものとの説明がなされますが、それも間違っています。その理由は先に述べてきた通りです。
ここでは、神道がどのような過程をへて成立するようになったのかを、もう少し詳しく学んでいきたいと思います。古代人のシャーマニズム信仰が、大和朝廷政権下において、どのように「神道」として成立していったのかを見ることにします。それによって、「古神道」の正確な姿が浮き彫りにされるようになるはずです。
大和朝廷の勢力拡大とシャーマニズムの後退
かつて大和朝廷が勢力を拡大し地方の豪族を帰順させる際には、その一族の神宝を奉呈させました。これは一族の祭祀権という、豪族にとっての一番大切な拠りどころそのものを明け渡すことを意味しています。当時のシャーマニズム社会にあっては、政治的権力と祭祀権は同一視されていたからです。政治的強大さは、信仰的・霊的な強さと同格に考えられていたと思われます。大和朝廷は各地の豪族を、そうした「豪族の守護神」ともども自分の傘下に置いていったのです。
4世紀代においては、シャーマニズム信仰の中心的要素である「死者の祭り(葬儀)」は重要な儀礼と見なされていました。当時は、葬儀と神祭り(祭祀)が等しく行われていたようです。ところが5世紀代に入ると、葬儀と神祭りが急速に分離するようになっていきます。このことは古墳に埋葬された副葬品の変化から窺えます。この変化は、「霊魂信仰」に対して「神信仰」という政治的要素が重要視されるようになったこと、言い換えれば、従来の呪術的シャーマニズム霊魂信仰の世界が没落・後退したことを示しています。それまでのシャーマニズム信仰と政治が同等視されていた状況が変化し、政治的祭祀(神祭り)が霊魂信仰に対して優位性を獲得するようになったことを意味しています。政治的権威の優位性という事態は、大和朝廷の勢力拡大の流れの中にあって当然の趨勢と言えます。大和朝廷は、イスラムの聖戦のように純粋な宗教勢力拡大のために他の豪族を支配していったのではありません。単なる権力の拡大と支配を進めていったに過ぎません。
そうした勢力拡大の闘争の結果、朝廷は政治的な「祭祀(王権祭祀)」を重視し、信仰的祭祀である「葬儀」を軽視したり切り捨てるようになっていきました。そして朝廷は、権力支配にとって都合のよい「人工的な宗教」を作り上げていくことになります。
大和朝廷下における神道の形成
こうした動きは、天武(てんむ)天皇の治世に至って最も明確な形で現れることになります。天武天皇は宗教改革を行い、皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を頂点とした神祇(じんぎ)制度を整え、全国の神社が伊勢神宮という天皇の神社のもとに帰順するという宗教的な支配システムを確立しました。伊勢神宮を頂点とする全国の神社に対する支配機構を確立したのです。また天武天皇は「天皇」の称号を確定し、政権のトップにあることを示し、大嘗祭(だいじょうさい)と伊勢神宮の式年遷宮の制度を確立しました。天武の宗教改革は持統・文武(もんむ)両帝に受け継がれ、「大宝律令」として結実することになります。ここにおいて「律令神祇令の神道(律令神道)」が成立することになります。
律令神道の本質と目的
律令神道の本質は、朝廷が天皇の支配機構として作り上げた「人工の宗教」ということです。その目的は宗教界に対する徹底した政治的支配を目指したものであって、本質は政治的支配システムであるということです。当然のこととして、そこには純粋な信仰的要素はほとんど見られなくなります。律令神道(神社神道)は、それ以前からあったシャーマニズムという純粋な信仰要素を意識的に切り捨てて作った、天皇を頂点とする「政治的宗教」であったということなのです。朝廷は意図的に霊魂信仰を排除し、天皇を祭祀王とする人工的宗教を作り上げたのです。
『記紀(きき)(古事記・日本書紀)』は、大和朝廷が天下を統一するにあたって、天皇家が天孫に由来することを強調して、支配の正当性を誇示する目的をもって作られました。記紀が純粋な神話ではなく、きわめて政治性の強いものであることは、これまで多くの研究者によって指摘されてきた通りです。政治的権力を握った支配者が、自らの支配の正当性を神話によって語らせることは、洋の東西を問わずごく一般的に行われてきたことです。大和朝廷による神話(古事記)の編纂も、同様の目的で行われたことは言うまでもありません。
神道の八百万(やおよろず)の神々は、純粋な霊的存在ではない
一般的に神道は、原始宗教であるアニミズムから発展してきた多神教と説明されます。神道をスピリチュアリズムと結び付けたがる人々は、古典に示された高天原(たかまがはら)は、霊界の高級神界を示し、『神代記』における八百万の神々は、高級天使や守護天使の様子を述べたものであると言います。そして神道のバイブル的存在である『記紀』には、霊界の奥義が記されていると説明します。
しかし『記紀』の中に登場する八百万の神々の多くは、朝廷が支配したかつての豪族の守護神を政治的意図をもって再登場させたものであり、アニミズムにおける純粋な霊的存在(スピリットや死霊)とは全く関係がありません。神道の八百万の神々の多くは、アニミズム信仰の中で純粋な信仰の対象とされてきた自然霊(天使・妖精)ではなく、政治的に作られた架空の人工的な神々なのです。天皇家の皇祖神・守護神である天照大神が、古代の太陽信仰に由来することは明白です。太陽神は、政治的な支配力を誇示するに最もふさわしい神です。大和政権の成立以前には、他にも太陽信仰をしていた部族が各地にいました。その名残を残す神社では、天照大神は女性神ではなく、男性神として祭られているのが普通です。太陽が男性で、月が女性とするのが一般的なのですが、どういうわけか古代大和朝廷では、天照大神という天皇家の守護神は女性神になってしまっています。
いずれにしても実際の霊界には、皇祖神に相当する天照大神という神または天使は存在しません。日本国全体に対する守護・指導の任に当たっている天使は現実に存在しますが、それは神道で言われる天照大神とは全く無関係なものです。
神道の祭司王でありながら、自ら仏教の僕(しもべ)たらんとした天皇達
名目上は神道の祭司王としてトップの立場にあり、そして天照大神の直系の子孫を名乗りながら、歴代の多くの天皇達にとって、律令神道は真に心からの信仰対象ではありませんでした。そのことは歴史が明らかにしています。多くの天皇達にとっての信仰対象・心の拠りどころは圧倒的に仏教でした。神道の祭司王たる天皇が、自らを仏教の僕とし、これに帰依するという、神道にとって最も屈辱的なことが、たびたび行われてきました。こうした大きな矛盾が、明治時代に至るまで続いてきたのです。代々の天皇が、死後は京都の泉湧寺(せんにゅうじ)に祭られてきたという事実は、天皇が、いかに死後の世界の問題を仏教に頼ってきたのかを示すものです。
人間が宗教に求めるものは「死の問題」に尽きると言っても過言ではありません。神道が人工の宗教であり、最も肝心な霊的要素や死の問題を捨て去ったために、祭祀王として神道のトップにあり、神の直系の子孫とされる天皇も、死に脅え、その救いを仏教に求めざるを得なかったのです。
仏教に従属してきた神道
律令神道はシャーマニズム性を排除することによって、霊と死後の世界との係わりを自ら放棄しました。さらに平安時代初期になって「けがれ信仰」が神道の中に導入されることによって、神道はいっそう死者との係わりを避けることになりました。そして人々は、死後の救いを神道に期待することができなくなりました。こうしたことが神道を決定的に無力なものにさせることになります。死後の救いや死への恐怖からの救いは、人間にとって最も重要で深刻な問題ですが、そうした問題に対して神道は、何の力も手立ても持ち合わせていませんでした。こうして神道は、一般の人々にとって魅力の乏しいものになり、現世利益と現世の幸福を祈願するだけの儀式宗教になってしまったのです。
このような中で人々は、仏教に死後の救いを求めることになります。すっかりシャーマニズム化され、「先祖供養」によって死後の救いの専属権を得ていた仏教は、人々の心をしっかりと繋(つな)ぎとめていくことになります。明確な死後観と救済観を持った仏教は、精神世界の権威となり、神道は必然的に仏教に従属する存在になっていったのです。神道の最高の地位にあり、天照大神の直系の子孫であるはずの天皇が、心の拠りどころを仏教に求め、これに帰依してきた歴史的事実は、神道が仏教に隷属してきた現実を端的に示しています。日本人の宗教は歴史的に神仏習合であり、神道と仏教の二重信仰と言われますが、その関係は対等なものではなく、仏教が神道を支配し、圧倒的に仏教サイドに偏ってきたのが現実です。こうした状況が明治維新に至るまで続いてきたのです。
古神道の発生と平田篤胤(あつたね)
江戸時代中頃に、国学者による日本史・古典の研究を通して――「仏教や儒教などの外国の思想が渡来する以前の日本人の純粋な精神を明らかにしよう」という動きが起こりました。それに伴い神道の世界においても――「神仏習合・神儒習合といった状況を是正し、日本古来の純粋な神道を取り戻そう」という動きが生じました。日本にはもともと純粋な神道があったのだが、それが十分に発達する前に仏教などの外来宗教が入ってくることによって、神道はそれらに従属することになったと考えたのです。そして神道から、仏教や儒教の影響を取り除こうとしました。こうした経過を経て生まれたのが「古神道」、あるいは「復古神道」と呼ばれるものです。その復古神道の大成者が平田篤胤だったのです。
そうした国学者の憂国の熱意には共感できる点があるとしても、仏教や儒教の渡来以前に日本独自の純粋な精神があったという前提は、単なる空想論に過ぎないことは明らかです。仏教渡来以前の日本に遡れば、そこに存在するのは日本独自の信仰や精神ではなく、「シャーマニズム」という地上人類に共通する信仰世界なのです。篤胤の学問は、空想を前提としたところでの道の探求であり、独断によってのみ進められた仮説に他なりませんでした。とは言っても、篤胤によって唱えられた思想のすべてが無意味であったというわけではありません。
それまでは霊魂の問題・死後の世界の問題は、仏教の独占物であり、神道がこれを扱うことはありませんでした。しかし篤胤は、この問題を彼の神道の中心に据え、神道の立場からの死後観・来世観を確立しようとしたのです。これが有名な、「幽冥論(ゆうめいろん)」と呼ばれるものです。ここにおいて初めて、神道が“死生観”を持った宗教たり得ることを示したのです。この神道の立場で明らかにした霊魂観・死後世界観・来世観という特異な思想が、その後、大きな影響を残すことになります。この篤胤の「幽冥論」は、神道の中に排除されていた「シャーマニズム」を、もう一度復活させることを意味します。それは、これまで歴史の中で裏の宗教としてひっそりと生き続けてきた民間信仰であるシャーマニズム信仰を、古代神道の復活という形で表舞台に登場させようとしたものだったのです。
古神道のその後の動き
篤胤によって呼び覚まされ意義を与えられた霊的要素やシャーマニズム的世界は、その後、江戸後期~大正時代に、古神道神秘主義、あるいは神道霊学(*それを古神道オカルティズムとか古神道カルトと呼ぶ人もいる)として発展していくことになります。その過程で、古典から引き出された、「一霊四魂」や「言魂(ことだま)」といった古神道の思想理論や、「禊(みそぎ)」「帰神(きしん)」「審神者(さにわ)」といった実践理論が生み出されていくことになります。そしてこれらの動きが大本教の中に流れ込み、集約されることになっていくのです。
この大本教に、日本のスピリチュアリズムの創始者である浅野和三郎がいたことは、すでにご存じのことと思います。浅野と大本の係わりについては、他の多くの著書で詳しく紹介されていますので、ここでは省略します。
3.浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」について
浅野和三郎と古神道
スピリチュアリズムと古神道との関係については、浅野を抜きにして語ることはできません。現在、日本のスピリチュアリストの中には、古神道とスピリチュアリズムの共通性を主張する人々がいますが、それは浅野の作り出したスピリチュアリズム観の影響を引きずっているからです。
浅野和三郎は大本教を去ってから、古神道カルトヘの傾斜を避け、より客観的な霊と霊界の存在の実証を目指すようになります。そして欧米の心霊研究・スピリチュアリズムと日本の古神道とを折衷した、「和製スピリチュアリズム」を確立することになります。浅野のスピリチュアリズム観は、現在、私達がシルバーバーチやモーゼスの霊訓を基準としているスピリチュアリズムとは肝心な点で大きくズレています。現代の私達からは、浅野のスピリチュアリズム観のすべてを容認することは到底できません。浅野流スピリチュアリズムは、どこまでも浅野和三郎という個人によって色づけされたものであり、純粋なスピリチュアリズムとは言えません。スピリチュアリズムと神道を折衷すること自体、スピリチュアリズムを本当に理解しているならば、あり得ないことなのです。それはスピリチュアリズムの本質を歪めることだからです。浅野流スピリチュアリズムに内在する問題点が、今日の日本のスピリチュアリズム界にまで、マイナスの影響を残しています。
浅野流スピリチュアリズムの再生観の問題
浅野の和製スピリチュアリズムは、古神道とスピリチュアリズムにおける共通点の上に成立するものです。その古神道とスピリチュアリズムの共通点とは、死後の世界の実在・死後における生命の実在・霊と地上人の交流の可能性という霊魂観です。また天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)を最高位の神とする場合は、神観においても、スピリチュアリズムとの一致点を持つことになります。しかしこうしたスピリチュアリズムとの共通性は、何も古神道との間にのみ存在するものではなく、世界各地の多くの宗教との間においても同様に見られることなのです。
浅野流の和製スピリチュアリズムの思想的ユニークさは、その再生説である「創造的再生説」にあります。彼は自分の再生観を――「内容的にはマイヤースとほぼ一から十まで同一である」と述べています。しかしそれを厳密に比較してみると、浅野が声を大にしてマイヤースとの共通性を強調したのとは異なり、内容的に大きな食い違いが見られます。マイヤースの再生説と、およそ同一のものとは言えません。世間一般的に信じられている「機械的再生説」や「同一人物再生説」の間違いを指摘している点では、浅野とマイヤースは同じ立場であっても、その具体的内容については食い違っています。
*浅野とマイヤースにおいて再生観の内容に違いがあるとするならば、シルバーバーチと浅野の見解の相違は、いっそう大きなものとなります。浅野とマイヤース、浅野とシルバーバーチの「再生観」は、全く別物というほどの本質的違いがあるのです。
マイヤースとシルバーバーチでは、類魂についてはほぼ同一レベルでの解釈がなされていますが、再生観になると、両者間に大きな違いが見られます。きわめて知的ではありますが、新米で未熟性を残すマイヤース霊と、超ベテランで成熟した霊性を持ったシルバーバーチ霊の霊格の違い・貫禄の差は歴然としています。シルバーバーチによって「類魂」や「再生」についての詳細が明らかにされるに伴い、浅野の再生観ばかりでなく、マイヤースの再生観の間違いも明確にされるようになってきています。マイヤースの示した類魂観は正しいのですが、彼の再生説には多くの間違いが見られます。
浅野とマイヤースとシルバーバーチの類魂説と再生説の違いについては、今後のニューズレターで取り上げる予定です。
日本のスピリチュアリズムの創始者としての大きな功績
思想的な間違いがあるとしても、私達は、浅野和三郎を日本のスピリチュアリズムにおける最高の貢献者として敬意を表しています。開拓者としての重責を担い、孤軍奮闘してきた彼の人生に求道者としての情熱と真剣さを見て、尊敬の思いを深く抱いています。心霊研究に心血を注ぐ傍ら、スピリチュアリズム啓蒙のための翻訳に全力を傾けてきた彼の生き方に、スピリチュアリズムに人生を捧げた手本を見ることができます。
今、平成に生きる私達スピリチュアリストにとって何より有り難いことは、浅野が神秘主義的な心霊現象に沈潜してしまうことなく、霊的な諸現象を客観的な視点から眺める姿勢を失わなかったことです。心霊研究者として一貫した態度をとり続けてきたことです。さらには単なる心霊研究に留まらず、霊的知識を信仰の方向に推し進めようとしたことです。(*ただし、そのために古神道を持ち出したところは間違っていましたが……)
スピリチュアリズムの本質を正しく理解できなかった浅野和三郎
地上人類がスピリチュアリズムに至るには、3段階の進歩のプロセスを踏まなければなりません。まず初めは、「心霊現象の研究」の段階です。この段階における心霊研究は、たとえそれが科学的・客観的な方法においてなされたとしても、好奇心のレベルに留まるものであり、いまだスピリチュアリズムの門をくぐったことにはなりません。次の段階は、「霊的真理の研究」の段階です。興味の対象が、現象から思想に進歩したレベルです。人類はここにおいて、やっとスピリチュアリズムの入り口に立ったことになります。そして次が、「霊的真理の実践」の段階です。人々の関心が真理の実践と霊的成長に移り、霊的真理は信仰と一致することになります。ここにおいて初めて、本当のスピリチュアリズムに至ったことになります。
こうしたスピリチュアリズムに至る段階論から見れば、浅野は意識の上では3段階目を目指していたものの、現実には2段階目でつまずいたことになります。なぜなら彼は、霊的真理の研究・理解の段階において、肝心な点からズレていたからです。霊的真理を学ぶ上での最も重要な点は、スピリチュアリズムが、人類史上初めての霊界あげてのビッグプロジェクトであることを理解するということです。スピリチュアリズムの意義と重要性を悟ることが、個々の霊的事実を理解すること以上に大切なことになるのです。スピリチュアリズムの歴史的な意味を知り、スピリチュアリズムに対する自分の正しい姿勢・スタンスを決めることができるようになって、初めて霊的真理を正しく理解したと言えるのです。それは当然のこととして、高級霊による霊界通信に対する謙虚な姿勢として表れます。その「謙虚さ」こそが、スピリチュアリズムを正しく理解したかどうかの一つの目安となるのです。
残念ながら浅野は、この重要な霊的真理のポイントを正確に理解することができませんでした。そのためスピリチュアリズムの霊的真理を、「古神道」という古い皮袋に詰め込んでしまったのです。そのことが、やがてスピリチュアリズムをもって天皇主義を賛美するといった方向にまで、彼を至らせることになってしまいました。浅野は結局、スピリチュアリズムにおける「霊界通信」の本質を正しく理解していなかったのです。
モーゼスの『霊訓』にまで、たどり着きながら……
浅野について考えるとき、いつも残念に思うことは、彼がモーゼスの『霊訓』と出会い、これを翻訳しながら、その最も肝心な点を理解できなかったことです。現在の私達のように高級霊界通信を「絶対基準」として見ていく立場からは、浅野の思想の間違いは一目瞭然です。しかし初めから古神道とスピリチュアリズムを対等に置き、これらを折衷させようとする浅野の立場にあっては、自分の間違いに気がつくことは、ほとんど不可能なことであったようです。
モーゼスの『霊訓』から私達がまず理解しなければならないことは、単なる霊界の諸事実や霊的真理だけでなく、それらの知識を地上人にもたらしているスピリチュアリズムそれ自体に対する重要性を理解することでした。本来なら浅野が真っ先に認識しなければならなかったのは、その点だったのです。
もし、スピリチュアリズムが興された霊的背景に対する正しい認識があったなら、その後の彼の方向は根本から変化したはずです。自分流に作り上げたスピリチュアリズムなどというものを、潔く捨て去ることができていたはずです。モーゼスの『霊訓』が、霊界あげての人類史上最大のビッグプロジェクトであるということを悟ることができていたなら、その時点で、日本のスピリチュアリズムのレベルは一挙に高められたはずです。そしてその時、日本に正しいスピリチュアリズムが定着したと思われます。モーゼスの『霊訓』(純粋な霊界通信)が、高級霊界によってもたらされた重大なものであること、地球にはそれに匹敵するほどの高次なものはないという深刻な背景を自覚できていたならば、日本のスピリチュアリズムは、高級霊の「霊訓」を中心としたハイレベルの“信仰”になっていたと思われます。
浅野がせっかくモーゼスの『霊訓』にまで至りつつも、その背景にある重大な意味を悟ることができなかったことは、実に残念としか言いようがありません。霊訓をスピリチュアリズムにおける最高の拠りどころとして確立し、自分の考えと方向性を霊訓に従わせるようにしなければならなかったのです。古神道とスピリチュアリズムを折衷させようという努力をやめ、これまでの自分の考えのすべてを白紙撤回し、霊訓を「絶対基準」としてゼロから組み立て直すべきだったのです。そのようにして、「霊訓」を拠りどころとしたスピリチュアリズムの方向性を確立しなければならなかったのです。
翻訳者は、ややもすると自分の翻訳した本の内容を理解していないことが多いものですが、そうしたことが浅野自身にも当てはまります。浅野とコナン・ドイルは、ともに日本とイギリスにおけるスピリチュアリズム普及の立役者です。コナン・ドイルも浅野も、モーゼスの『霊訓』とは出会っているが『シルバーバーチ』にはいまだ出会っていないという点で共通性を持っています。しかし両者のスピリチュアリズムに対する理解には大きな違いがあります。コナン・ドイルはスピリチュアリズムの歴史的意義を正確に理解していたのですが、浅野はスピリチュアリズムが興された本質を正しく理解していませんでした。
浅野はあまりにも、自分の研究成果にこだわり過ぎたようです。そして、それに過剰に自信を持ち過ぎたようです。(*霊媒を通じての地上サイドの研究から、霊界の奥義を知ろうとすることが、そもそも無理なことなのです)さらに国粋主義・民族主義的愛国心の影響を受けざるを得なかったことも一因と思われます。当時の社会を覆っていた雰囲気が、何とかして日本の伝統を、欧米のスピリチュアリズムと一体化したものにしたいとの強い意欲を持たせたのかも知れません。欧米の心霊研究を次々と翻訳し紹介するところまでは良かったのですが、その強い愛国心が、心霊研究の成果を信仰化する段階において、日本伝統の宗教「古神道」を持ち出させてしまいました。
当時の浅野は、あらゆることを一人でしなければならないという同情すべき状況に置かれていました。あまりの忙しさの中で、じっくりと「霊訓」の存在している意味を考えるゆとりがなかったのかも知れません。また霊媒を通じて現れる大半の霊が幽界レベルの低級霊であり、スピリチュアリズムの目的を語るほどの高級霊の出現がなかったことも、大きなマイナス要因となっていたと考えられます。
これらが浅野に、純粋なスピリチュアリズム路線を歩ませるチャンスを逸させることになってしまったのです。浅野は、霊訓と自分の考えや自己の研究成果を同等に置いて考え、「古神道」と「スピリチュアリズム」を同格に位置づけするといった大きな間違い・主客転倒をしでかすことになりました。そして霊訓の中に示された真理の実践・正しいスピリチュアリズムの実践へと進んでいく道を、自ら断ってしまったのです。
先駆者浅野のそうした失敗は、現代の私達スピリチュアリストに大きな教訓を残しています。霊界通信に対しては、それが高級霊からのものであっても、一時は理性を通して検討し、理性が納得するまで鵜呑みにしない姿勢をもち続けることが大切です。しかしいったん、それが自分にとって最高のものであるとの確信ができたなら、今度はその「霊訓」を人生の道しるべ・人生の教師として、自らを従わせていくことが必要となるのです。スピリチュアリズムは、地球全体をターゲットにして進められている地球規模の一大プロジェクトです。その中にあっては当然、民族主義は常にスピリチュアリズムに従わなければならないのです。民族意識を離れた霊的な高い視点から、スピリチュアリズムを見ていかなければならないのです。
これからの日本のスピリチュアリズムの歩み――浅野和三郎を乗り越えて
これからの日本のスピリチュアリズムは、シルバーバーチなどの高級霊による霊界通信を最高の拠りどころとして歩んでいかなければなりません。スピリチュアリズムが地球上の全人類の救済を目的として展開されている以上、和製スピリチュアリズムなどというものは本来的に存在してはならないものなのです。私達は、日本におけるスピリチュアリズムの開拓者として最大の貢献をなした浅野和三郎への感謝を忘れてはなりませんが、しかしそれと同時に、開拓者であったがゆえの未熟さから犯してしまった間違いを、一刻も早く払拭し、乗り越えていかなければなりません。本物のスピリチュアリズム確立のために尽力していかなければなりません。私達が「霊界の道具」であるのと同様に、浅野和三郎も霊界の一つの道具としての道を歩んだのです。
今日本は、浅野によって始められた初期のスピリチュアリズムの段階を終え、本当のスピリチュアリズム普及の時代を迎えようとしています。私達が、古神道や神ながらの道、四魂説の和魂・幸魂・荒魂・奇魂といった用語で、スピリチュアリズムの理解を図る必要は全くありません。古典の中に、霊感のごく一部が含まれることがあるとしても、所詮古典に過ぎない『記紀』と、スピリチュアリズムにおける「高級霊訓」を同列に扱うことは間違っています。冒頭でも述べたように、浅野によって作られた和製スピリチュアリズムは、真実のスピリチュアリズムとは言えません。それどころか、スピリチュアリズムの最も本質的な部分をすり替えてしまうほどの大きな問題を抱えています。
今、シルバーバーチのような高級霊からの霊界通信を手にし、霊界に対する詳細な事実まで明らかにされた時代にあっては、和製スピリチュアリズム(神霊主義)といった時代遅れの思想は一掃しなければなりません。新しいブドウ酒は、新しい皮袋に入れなければならないのです。
より高い霊的世界を求めて
現代の日本においては、イギリスと並んで『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』、カルデックの『霊の書』などの優れた霊界通信が、完全な形で紹介されるようになっています。そのことは、現在の日本の霊的上限ラインが、それらを受けられるレベルにまで達したということを意味しています。シルバーバーチなどの「高級霊訓」の示す内容・霊的啓示を受け取ることができるレベルにまで至ったということなのです。50年前の日本は、そうしたレベルにはありませんでしたが、ここ50年間のうちに霊的世界をリードするような、高い霊的レベルに上昇してきたのです。
日本が他国に先んじて、最高レベルの霊的真理「霊訓」を有するようになった背景には、霊界からの大きな期待が込められています。すなわち日本人の上に、スピリチュアリズムの世界展開の先駆けとしての責任が担わされているということです。日本のスピリチュアリズム界が「高級霊界通信」を指針として、より高い霊的レベルを目指すとき、我が国は世界の中で、スピリチュアリズムの見本を示すことができるようになります。21世紀を通じて、経済分野におけるリーダーから、スピリチュアリズムにおけるリーダーとしての貢献が、霊界から望まれているということなのです。
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