大和魂 ①

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■大和魂・大和心 / 大和魂1・大和魂2・大和魂3・大和魂4・大和魂と大和心1・大和魂と大和心2・大和心1・もののあわれと大和心・敷島の歌1・敷島の歌2・山桜 と大和心・大和心と子供教育・大和心2・日本の心と大和・和魂・大和魂 史・和魂洋才の再構築・・・

■大和[語源] / 大和・「大和」「やまと」・「倭 」・「倭」「大和」・倭国と邪馬台国と大和・「倭国」「倭人」・夜麻登・夜麻苔と夜麻登・神話・夜麻登登母母曾毘売命・まほろば・「記紀」の登場女性・・・

■大和国 / 神武天皇と大和国・ヤマト王権・元明天皇・天の香具山・ ・・

■武士道 / 武士道1・武士道2・武士道3・武士道4・武士道の謎・鎌倉武士・諸話・会津武士道・京都新撰組・新渡戸稲造 の武士道・・・

■大和撫子 / 大和撫子1・大和撫子2・大和撫子3・大和撫子4・・・

■特攻精神 / 特別攻撃隊・特攻の精神・神風特別攻撃隊・特攻の真実・・・

■紫式部の大和魂 / 大和魂・紫式部諸話・・源氏物語「乙女」・・・

■戦艦大和 / 大和・戦艦大和1・戦艦大和2・生還兵・・・

(未整理)

雑学の世界・補考

■大和魂

 

■大和魂 1

 

外国と比して日本流であると考えられる精神や知恵・才覚などを指す用語・概念。大和心。和魂。儒教や仏教などが入ってくる以前からの、日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である。儒学や老荘思想に基づく「漢才(からざえ)」に対比して使われ、江戸後期からは日本民族特有の「正直で自由な心」の意味にもなった。

平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった。

近世までの日本では主に「大和魂」とは以下のような事柄を意味しており、例えば千葉工業大学の歴史の講義でも「大和魂」については以下のような事柄について教えられている。

○世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

○特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。

○中国などの外国文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。

○知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。

○以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。

○日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)

■歴史

大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれた。和魂漢才とは、漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられていた。

江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られる。

江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。

明治に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。

日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。

昭和初期の第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。

○関東軍の重砲兵として入隊した当時、「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる」と教えられた。疑問を挟むと、「貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え」と怒鳴られた。 —中内功「私の履歴書」

○「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。」 砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵や砲兵には有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。—司馬遼太郎「歴史と視点 私の雑記帖」

日本の敗戦直後は使われることは少なくなったが、その後の日本文化論には本来の「大和魂」の意味に近い論立て(日本文化は、外来文化を独自に、実際的に消化したものだ、という趣旨)に基づいた論考は多く見受けられる。

平成も「大和魂」という語は様々な場面で使用されている。

■大和魂を題材とした作品

■和歌

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

■随筆 / 愛国心(三島由紀夫)

「愛国心」という言葉に対して三島は、官製のイメージが強いとして、「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。

「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば、「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。

アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるものだと三島は主張し、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」としている。

「恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。」

 

■大和魂 2

 

■1

日本民族固有の精神として強調された観念。和魂、大和心、日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので、古くは中国に対し、近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には、和魂漢才という語にみるように、日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ)、すなわち漢学上の知識や才能に対して、日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り、国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね、「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで、日本的美意識と、中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。幕末にいたり、対外危機の深まるなかで、佐久間象山、橋本左内らによって「西洋芸術」に対比された「東洋道徳」の思想内容は大和魂であり、吉田松陰の詠んだ「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は、尊皇攘夷の行動精神を熱情的に吐露したものとして有名である(→攘夷論)。明治天皇制国家のもとでは、大和魂はナショナリズムの中核的要素として重視され、内容的にも芳賀矢一らによって天皇への忠誠、国家と自然への愛として強調され、さらに新渡戸稲造によって武士道の国民的規模への展開として説かれた。その後は日本民族の発展のための対外拡張を美化する精神的支柱としての色彩を濃くし、昭和の戦時には軍人の士気高揚のスローガンとして用いられた。

■2

1 日本民族固有の精神。勇敢で、潔いことが特徴とされる。天皇制における国粋主義思想、戦時中の軍国主義思想のもとで喧伝された。2 日本人固有の知恵・才覚。漢才(からざえ)、すなわち学問(漢学)上の知識に対していう。大和心。「なほ才を本(もと)としてこそ、―の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」〈源・少女〉

■3

文献のうえで〈やまとだましい〉が登場するのは《源氏物語》乙女の巻で、光源氏は、12歳になった長男の夕霧に元服の式をあげさせ、周囲の反対を押し切って大学へ入れる。その際、〈才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂(やまとだましい)の世に用ひらるゝ方(かた)も、強う侍らめ〉と述べている。ここでは(1)大和魂は才(漢学の素養、漢才(からざえ))と反対の概念をなしていること、(2)本(もと)が才であり、したがって、末に位置するものが大和魂であること、(3)大和魂の属性として〈世に用ひらるゝ方〉すなわち処世的手腕・功利主義的判断能力が考えられていたこと、この三つの特性が認められる。

■4

1 大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。 「才ざえを本としてこそ、-の世に用ゐらるる方も強う侍らめ/源氏 乙女」 「露、-無かりける者にて/今昔 20」  2 〔近世以降の国粋思想の中で用いられた語〕 日本民族固有の精神。日本人としての意識。

■5

漢才、すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能を意味することばとして平安朝の文献に現れているが、いまは日本民族固有の精神をさすことばとして通用している。和魂とも書く。嘉永(かえい)年間(1848~54)板行の中条信礼(ちゅうじょうのぶのり)著『和魂邇教』一巻はヤマトダマシイチカキオシエと訓(よ)み、この書の姉妹書とみるべきものに1857年(安政4)板行の『和魂邇教山口』があった。大和魂という語は、吉田松陰(しょういん)の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌に典型的に表現されているが、松陰に先だって本居宣長(もとおりのりなが)が「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花」と歌ったときの大和心は、その先駆的表現であったとみてよい。そのようにこの語は徳川期、ことにその末期に盛んに使用されたが、これは、幕藩体制が内外の諸原因から動揺し始めた危機的状況を反映しているものであろう。明治以後も対外戦争のたびごとに強調されたこと、たとえば太平洋戦争時の斎藤茂吉(もきち)に「ひとつなるやまとだましひ深深(ふかぶか)と対潜水網をくぐりて行けり」という詠があるがごとくであった。それに比べれば、大和心はやや平時的、文化的ニュアンスを帯びている。

■6

1 「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。※源氏(1001‐14頃)乙女「才を本としてこそ、やまとたましひの世に用ひらるる方も」

2 日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「事に迫りて死を軽んずるは、日本(ヤマト)だましひなれど多くは慮の浅きに似て」

■7

元来は平安時代に用いられた言葉であり、この古語としての意味は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養などをいった。

平安時代以後、死語となった言葉であったが、本居宣長によって再び取り上げられ、漢意(からごころ)に対して作為をくわえない自然で清浄な精神性という思想的で倫理的な意味合いを与えられた。

吉田松蔭がこの国学的な思想的概念としての意味を継承し、みずからの倫理的思想の中核に据え、理想化した。その後の、国粋主義的なニュアンスの用法は基本的に松蔭の与えた意味に由来する。

日本における住人が理想とし、生き様が美しいとされる心性。「武士道」などに近い。戦前の台湾人などでも大和魂を理想としていたケースもあるから、必ずしも民族では括れない概念であろう。

理想を抱くのは簡単だが、それを実現・実践するのはきわめて難しい。

■8

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて政治や生活の場面で発揮することなのです。源氏物語が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でございますが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられます。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられました。江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した漢意と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていったのです。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られております。 江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されていったのです。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなったのです。明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたのです。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになりました。戦後はGHQの占領政策により、国粋主義的な思想や、軍国主義に使われた大和魂という語の使用が忌避されるようになり、広く使われることが避けられていったのです。しかし今後の本来の日本を取り戻すことを目指す場合、必ず国体と民族のアイデンティティとして復活させることが必要になると考えます。

■9 紫式部と大和魂

遣隋使や遣唐使によって日本に中国伝来の漢学の知識が流入したのであるが彼女はそれを「才」と称しこれまでの日本にあった精神=日本人としての知恵を「大和魂」とよびました。そして「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」すなわち漢学の知識を手段として、日本の智恵を世の中に役立たせるのだと光源氏に言わせているのであります。紫式部の価値観として日本の智恵の実現が上位の目的であり漢学や知識は、そのための手段だと下位に位置づけているわけです。すなわち漢文も大和言葉も使いこなせるバイリンガルキャリアーウーマンとしては長い歴史を誇る日本文化を重要視し中国伝来の知識は、日本精神文化を実現するための用いるべき手段にすぎないとまで、言い切っているのであります。ではこの大和魂とは何か?それは日本語すなわち、当時会話などに使われていた大和言葉に他ならないと考えます。ここで大和言葉=日本語の起源は何かとさまざまな議論が現在になされているが、結論としては、日本語の起源は古すぎるため、確定できないとされています。いずれの議論においても、日本語はどこか他から流入したとの仮説を前提にしておりこれでは、解明できないのも当たり前といえそうです。アフリカ東海岸を出発点に世界中を放浪し、終着点の日本に到達した原始日本人がさまざまな言語を断片的に持ち込んだわけだが、それらが融合し醸造されて、日本独特の大和言葉が完成したものと思うのであります。

■10 

大和魂をもってせば  大和魂を示した  大和魂を表象する  大和魂を目のあたりに見る  大和魂を招き  大和魂を資本主義によって歪曲されている  大和魂と云った  大和魂とも申すべき  大和魂では片づけられない  大和魂というものを認め得ない  大和魂といふものを俗にした  大和魂を研究したいという  大和魂なるものを悉く消滅させなかった  大和魂を益々盛に惹起する  大和魂に加うるに  大和魂の枠を発揮すると  大和魂の精髄と心得ている  大和魂の俺達も殆んど我を折つておる  大和魂という奴がどうしても承知してくれない  大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて  大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾をかける  大和魂といった位では日本でも通じなくなる  大和魂だけで器械を使った  大和魂を持っているとはいえない  大和魂なんて無くなってしまう  大和魂を取戻した  大和魂を除いては  大和魂など振り廻さずに  大和魂を持っている  大和魂を知らねえ  大和魂もやはり進化すべきではないかと思う  大和魂の進化の一相として期待してしかるべき  大和魂の洗礼を受ける  大和魂まで輸入して居る  大和魂のある  もので大和魂を  日本女性の大和魂を  日本兵士の大和魂を  蝶には大和魂を  今に大和魂と  処の大和魂とも  単純なる大和魂では  それこそ大和魂  日本の大和魂を  日本の大和魂  教育で大和魂を  のは大和魂の  潜在せる大和魂という  我々の大和魂の  錆かかっている大和魂へ  今に大和魂といった  人間には大和魂なんて  ときからの大和魂  空襲によって大和魂を  元帥の大和魂を  不羈独立して大和魂を  ほんとの大和魂っていう  奴は大和魂を  愛国心も大和魂も  日本から大和魂まで  強大なるは大和魂の  日本人に大和魂の  

■11 大和魂と軍部

「戦争せんさうがあるとか無ないとか、又また景気けいきは好よくなるとか好よくならぬとか、新聞しんぶんや雑誌ざつし又または単行本たんかうぼんによつて人々ひとびとが迷まようて居をりますが」と聞きく人ひとがあるが、結論けつろんは既すでにきまつてゐる。瑞みづの神歌しんかによつて神示しんじされて居ゐる通とほりぢや。何なにも迷ふことは無ない、断乎だんことしていつたらよいのぢや。よくなる様やうでも、それは一時いちじの現象げんしやうか又または策謀さくぼうによるものであつて、次第しだいに悪わるく迫せまる道程だうていに過すぎない。八岐やまたの大蛇をろちの迫せまり来きたつて只ただ一ひとつ残のこされた国くに、奇稲田姫くしなだひめなる日本にほんを併呑へいどんせむとする事ことは免まぬがれ得えぬことになつて居ゐる。種々いろいろの宣伝せんでんや迷論めいろんに迷まようては取とり返かへしのつかぬことになる。一路いちろ神示しんじのままに邁進まいしんすることぢや。大和魂やまとだましひの精神せいしんは大本教団おほもとけうだんを除のぞけば只ただ軍部ぐんぶ其他そのたの国民こくみんの少数者せうすうしやにのみ残のこつて居ゐる有様ありさまである。それで満洲まんしう事変じへんに於おいても、軍部ぐんぶには来きたるべき皇国くわうこくの将来しやうらいが或ある程度ていど判わかつて居ゐるから断乎だんことして其その精神せいしんが発動はつどうしたのぢや。利害りがい得失とくしつに汲々きふきふたる一般いつぱんの国民こくみんには世界せかいの動うごきは判わからない。国民こくみんの眼めは利害りがい得失とくしつのみに小ちひさく働はたらいて居ゐるのである。其その点てんになると、軍部ぐんぶは生活的せいくわつてきの不安ふあんが無ないから目めのつけ所どころが違ちがふ。世界せかいの事ことも比較的ひかくてきに判り又また精神せいしんも曇くもつて居をらないので、大和魂やまとだましひが発動はつどうして来くるのぢや。   昭和十年三月  

 

■大和魂 3

 

「大和魂」というと、神風特攻隊の精神に結び付けられてしまいがちですが、 元々の大和魂は平安時代の「もののあわれ」を歌った四季を愛する女心で あったようです。

四季折々の大自然を受けとめ、明るく、清清しく自然と調和している生き方 を示し、寛容で大いなる和(調和)の精神が「大和魂」だったのです。

心穏やかな和の心で相手を上下関係で見ることなく、お互いに和するにはどう すればいいかを感じ合い、そして支え合って生きていくための学びあう精神で もあったようです。

そして、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本古来から伝わる 伝統、生活の中の活きた知恵、教養のすばらしさを強調したものでもありました。

平安以後、「大和魂」は死語となった言葉でしたが、本居宣長によって、自然で 清浄な精神性(生き様が美しいとされる心性)という思想から国粋主義に用いら れていったようです。

古来より日本人は桜を愛でており、満開になるやいなやさっと散る桜花は、 絶好の<潔さ>の象徴であり、日本人はこの<潔さ>を美徳としていました。

このいさぎよく散る桜を尊ぶ精神は、武士道にもあったのですが、その精神が 明治以降の皇国日本への愛国心、忠誠心を第一とすることに受け継がれ、その 心を「大和魂」として解釈されるようになっていったのではないかと思います。

吉田松陰の「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ 大和魂」の心意気は、「自分に危険が及ぶことは分かっていてもどうしてもそうせざるを得なかった」という義勇心からくるものですが、それだけの志と覚悟があったからこそ、松陰 の大和魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなったのでしょう。

このように命をかけて何かを成し遂げる気迫は、その誠意が天に通じるものです。

リスクマネージメントはもちろん重要ですが、危険を犯そうとも志を貫く気迫も 時には必要であって、周りから何と言われようが、やると決めたらやる!という ある意味、阿呆になってこそ、志が成就していくと思うのです。

私も生かされている間は「至誠、天に通ず」を信条にしていくつもりです。

ただし、明治以降の戦争で使われていた大和魂は、自分の志というよりは、 情報を与えられずに軍国主義を推奨する教育によって刷り込まれた価値観 であったと思います。なので、戦争に勝つためにはいのちを捨てるのも惜しまない精神を「大和魂」 とするのは、元々の意味とは全く違ったものになってしまったようです。

また、残念なことに明治以降、神社・寺院の分離令が出たのをきっかけに、 政府は寺院を破壊し、多くの仏像は捨てられ、神社もどんどん統廃合して 減らしています。 (三重県では、5547社あった神社が942社に減っています)それに加えて鎮守の森は戦争のため伐採し続けた結果、各地で土砂崩れや 洪水が起こり、当時、熊野川の中洲に鎮座していました有名な熊野本宮大社 は明治22年の大洪水で社殿が流されています。(現在は近くの高台に遷座) 神仏にこれだけご無礼をしまくっているのにも関わらず、神社では戦勝祈願 をして、「神国日本は負けるはずがない」と言っていたのです。

これでは神仏も日本国を助ける気にもならなかったでしょうし、助けるパワー も出せなかったことでしょう。 (負けて気づきなさい!という感じです)

その結果、神風特攻隊をふくめ、太平洋戦争で戦死された人たちの大半は、 飢餓による餓死と、戦地に行く前の船の移動中に撃沈されていたようで、 実際には、戦うこともできず、死んでいったそうです。

そんな戦没者を英霊(神さま)としてお祭りして、本当に喜んでおられるので しょうか・・・

潔く桜のように美しく散っていったというより、実は無念で仕方がなかった ような気がします。戦争を美化するより、家族、子孫が戦没者を労い、供養のために生れ故郷の 産土さまやお寺やお墓でしっかりお参りした方がいいと思うのですが・・・

このように大和魂は、時代の背景によって解釈が異なっています。どれが正しくて、どれが間違っているというものではなく、変わっていくことが 真実であるともいえるのです。

ところで、大和魂の「和魂」は“にぎみたま”と呼び、人間の内なる神性の 調和の働きを表しています。

ちなみに大和魂を桜に例えるのは、散ったはなびらが土に還り、新しい命の 源になるという大自然の調和と循環を表している説があります。

散り急ぐのを重視しているわけではなく、そのときそのときを精一杯輝いて 生きているから散るときも何の未練もなく、潔く散れるのです。

そして、散った花びらが次の新しいいのちを育むことになるのですね。万物は流転し、常に変化し続けることが天地自然の道理です。

 

■大和魂 4

 

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)

「大和魂」と「大和心」はほぼ同じ意味でつかわれている。この2首に対する捉え方が、「大和魂(大和心)」に対する誤解の元となっている。「大和魂(大和心)」は、日本の侵略思想、軍国主義の宣伝文句である。特に国民を鼓舞し侵略戦争に向かわせたキーワードが「大和魂(大和心)」であるという誤解である。

大東亜戦争(1941年~1945年)で日本が危機におちいったとき、神風特攻隊が編成された。爆弾を積んだ飛行機が、パイロットを乗せたまま、アメリカ軍艦に飛び込むのである。その時初めて結成された神風特攻隊の隊の名が、本居宣長の歌にちなんだ「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」であることは、よく知られた事実である。「大和魂」と言えば、この特攻隊の精神であることをほとんどの人は連想する。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」 は、江戸時代の武士道の精神を説いた「葉隠」(1716年頃成立)の言葉であるが、無駄な死が推奨されたわけではない。不正義の中で生きるより、正義にために死ぬことを潔しとしたのである。守るべきもののために死なねば時もある。女々しく生きるのではなく、雄々しく死ぬ方が潔いという美学である。神風特攻隊は、守るべき家族のために命をかけたということであり、けして犬死にではなかった。 「武士道」精神にあらわれであった、ことを確認したい。しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、「武士道」精神の一部であり、「大和魂(大和心)」の一部ではあるが、すべてではない。

「正しく生きる」「真っ直ぐに生きる」という「正直」の心も、武士道精神の一部であり、「大和魂(大和心)」の一部である。

武士道と通底する「強きを挫き、弱きを助ける」「弱き者を助け、悪しき者を挫く」という日本人としてのあり方も、古き良き時代の日本人、つまり大和魂の特徴である。

しかし、「大和魂(大和心)」とは、神代から続く日本人の精神、日本の心の全体像ををさす。

1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。

そもそも、「大和魂」という言葉が初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。大学では、唐の学問が教えられた。唐の学問(漢才)を身につけた上で、我が国の実情にあうように応用できる智恵才覚を「大和魂」という表現で表している。

「才(学問)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。」 (学問[=漢才]を基本としてこそ実務の才[=大和魂=和魂]が世間で重んじられるということも確実というものでございましょう)

明治時代に、欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、惻隠の情。以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。

源氏物語を書いた清少納言(966年~1025年) は、「和魂漢才」こそ大切であるという文脈の中で「大和魂」という言葉を使っているのである。唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。

「大和心」の初出は、文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。

大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心

・縄文時代(神代)由来の「自然と人一体の心」「神と人一体の心」

・古事記にある「清き明き心」「言挙げをしない言霊を大切にする心」

・「大和国」に象徴される和の精神

・聖徳太子の言う「和を以て貴しとなす心」

・他人を思いやる「惻隠の情」や「以心伝心」の心)

・「武士道」にいう「勇気」「正直」の心

・「強きを挫き、弱きを助ける」「弱き者を助け、悪しき者を挫く」心

・外国語に訳せない「もったいない」「おかげさま」「お互いさま」という心

大江匡衡「はかなくも思ひけるかな乳(ち=知性)もなくて 博士の家の乳母(めのと)せんとは」 (知識・知性もない女を、学問で身をたてる博士の家の乳母にするとは)

赤染衛門「さもあらばあれ やまと心し賢くば 細乳につけてあらずばかりぞ」 (大和心さえあれば、細乳[乳がでなくても=知性がなくても]であっても十分ではありませんか)

ここでいう大和心とは、日本人としてのあり方、人つきあいの方法とか常識、こころをさす。「和魂洋才」の和魂=大和魂(大和心)、日本の伝統文化に根ざした日本人の心を指すことは明らかである。

なかなか外国語に訳せない「もったいない」「おかげさまで」「お互いさま」という心も大切な「大和魂(大和心)である。

「国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き。善良にして友情に厚く、率直にして公平、正直にして誠実、・・・寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」 (ツンベルグ「江戸参府随行記」1775年来日) とある日本人の美徳そのものが、「大和魂(大和心)」であるといえる。

つまり、大和魂(大和心)>武士道精神>特攻精神(守るべきものために潔く死ぬ精神) ということになる。

「大和心(大和魂)を人に問われたならば」の答えは、世界標準と違う日本標準、つまり日本人としての美徳そのものであるというのが、結論である。それを、本居宣長は、「朝日に匂うように輝く山桜花」と表現したのである。山桜花は八重桜や牡丹のように絢爛豪華ではない。しかし、大自然の中で、山の木々と調和しながら、質素にたくましく咲く花である。「大和魂(大和心)」は、軍国主義(侵略国家)の思想であるということで封印された。同様に、教育勅語も、軍国主義(侵略国家)の思想であると言うことで、否定された。欧米の侵略に対抗するために「和魂洋才」をスローガンに成し遂げた明治維新の西洋化ににより、日本古来の「大和魂(大和心)」が失われることをご心配された明治天皇の命によって教育勅語が制定されたということが今日あきらかになっている。教育勅語の12徳目もまた、日本古来の美徳を守るための徳目であったことにもう目を覚ますときに来ているのではないか。

自分の先祖を肯定的に捉えられると言うことは、子孫にとって困難に遭遇したときに自信をもたらすことができます。先例を規範として行動することもできます。民族の歴史を継承することは、いざというときの指針となるということです。世界中に約190カ国があるが、建国の歴史を教えない国は日本しかない。そして、日本の歴史にはぐくまれた日本人としての美徳である「大和魂(大和心)」を教えない日本は滅びるしかないのではないか。神武天皇による建国の歴史や日本人の美徳そのものである「大和魂(大和心)」 を見直し、学び直す時にきているのではないか。

 

■大和魂と大和心 1

 

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

 

■大和魂と大和心 2

 

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

 

■大和心 1

 

しきしまの大和心を人問はば朝日に匂う山桜花 (本居宣長)

人も街も木も一斉に新しい活動を始める「春」がやってきました。春といえば何と言っても「桜の花」です。今年は、日米友好の架け橋として、伊丹産の台木に東京荒川堤の苗木を接木した桜が米国ワシントンに寄贈されて100周年を迎える記念すべき年でもあります。「山桜」といえば、私には、若い頃の原体験とも重なって忘れられない句があります。それが上の句です。

私は、新渡戸稲造氏の『武士道』(明治33年、英文初版出版)を通して、この句に出会ったのですが、新渡戸氏は、この著書の中で鎌倉時代から江戸時代までの日本人の「生き方」や「立ち居振る舞い」を世界に紹介しています。この書は、当時発刊されるや否や欧米でベストセラーとなり、日本人のすばらしさを世界に知らしめることになりました。『武士道』とは、鎌倉時代以降、日本人の行動基準、道徳基準として定着してきたものですが、私もこの書で紹介されているその時代を生きた日本人の「生き方」や「立ち居振る舞い」に深い感銘を受けました。

本居宣長は、「大和心」(日本人の精神)を「桜の花」と表現しています。古来から、桜は、「色彩や香りに気品があり、散りぎわが潔い」ことから、理想的な人としての生き方を桜に重ねているのです。

この他にも、『武士道』には、「大和心」として、「礼儀、誠実、忍耐、正義、惻隠(そくいん)の情」などが紹介されています。「惻隠の情」とは、弱者や敗者への思いやりの心のことです。この書を読んで、「なぜ、明治維新が成功したのか、幕末から明治にかけて西洋へ留学した日本人が尊敬されたのか、アジアの多くの国がヨーロッパ列強の植民地となった時代に日本が侵食されなかったのか」がよく分かりました。江戸時代には、寺子屋等での教育を通して、日本人の識字率が世界最高水準にあったことや、儒教や神道などを通して他のアジアの国々とは比較にならないほど成熟した『文化や品格』が当時の日本人に備わっていたのです。

日本人としての「誇り」を取り戻すために、新学習指導要領では教育内容の主な改善事項として「伝統や文化に関する教育の充実」等が位置づけられ「武道」が必修となりました。伊丹市では、伊丹市ゆかりの「なぎなた」を実施しますが、「なぎなた」を通して、「挨拶やけじめ」をつけるとともに、我が国が育んできた日本の美徳である『相手を敬い、礼節を守る』等の資質をしっかりと身につけてほしいと思っています。

 

■もののあわれと大和心 本居宣長

 

    本居宣長

本居宣長は、江戸時代中期の国学者で国学の大成者である。主著は『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝問』。医学の道を進められたが、医学とともに儒教や漢学を学ぶ。その中で、荻生徂徠や契沖に触れるとともに国文学に深い関心をもった。その中で賀茂真淵で出会い、『古事記』の実証的研究を通しての古道論を確立した。

本居宣長の思想は、日本の古道を「惟神の道」としてとらえたことと、文芸の本質を「もののあわれ」として人間性を肯定したところにある。こうした日本古来の精神を理解するために、儒教や仏教などの「漢意」を捨てて、古典の実証的研究を通して、日本古来の道(古道)である「惟神の道」を理解し、汚れのない「真心」の世界を見つめることが必要である。それは『古今和歌集』に見られる女性的な「たをやめぶり」であり、文芸の本質としての「もののあはれ」に通じるものであった。町人の豊かな経済力が幕藩体制の動揺を生み出しつつある時代の中で、本居宣長の思想は、民族的な意識と民衆の意識を映した新しい思想であり、時代の一つの推進力となった。

■本居宣長の生涯

本居宣長は、伊勢松坂(三重県)松坂の木綿商の家の次男として生まれた。少年時代から習字や漢学を学び、22歳で家督を継いだが、商人に不向きであるとの母の配慮で医学の道を選び、23歳のとき、京都に遊学した。京都滞在の6年間、医学とともに漢学や儒学を学ぶ中で荻生祖徠の古文辞学を知り、また契沖の著書にふれ、国文学に深い関心を持つに到った。28歳で帰郷して小児科医を開業しながら、和歌や『源氏物語』を研究した。

34歳のとき、伊勢に立ち寄った賀茂真淵とめぐり会い、『古事記』研究の重要さを説かれ、その門に入るとともに、以後、書簡のやりとりを通じて、本居宣長は賀茂真淵の志を受け継ぎ、『古事記』の実証的研究を通して古道論の確立に生涯を傾けた。市井の人として、72年の生涯を終えたが、国学における各分野(古典の研究、言語と文法の研究、故実と制度の研究、古道の研究、和歌と物語文学の研究など)を体系づけ、国学を学問として大成した。また、門下生も多く、その半数は町人や農民といわれる。

■本居宣長の略年

1730 伊勢国松坂に生まれる。

1751 兄の死去によリ家督相続。

1752 医学を学ぶため京都へ。

1757 松坂に帰リ、医師を開業。

1763 伊勢神宮参宮のために松坂に来ていた賀茂真淵に面会。

1764 賀茂真淵の門下生となる。『古事記伝』を起稿する。

1771 『直毘霊』完成。

1782 書斎「鈴屋」を設ける。

1796 『源氏物語玉の小櫛』を完成する

1798 『古事記伝』を完成する

1801 死去。

■文献研究

本居宣長は、古典の文献研究を通して、古道の探求を行うことを学問と自負した。学問によって人の生きる道を知るため、漢意(中国から伝わった儒教や仏教)のを排除して日本固有の「大和心」を理解する必要がある。大和心とは、神の御心のままの「惟神の道」としての「古道」とそこにある汚れのない「真心」であり、古代に見られる「たをやめぶリ」という女性らしさである。そして、それらは、『古事記』や『源氏物語』にみることがある「もののあはれ」に通じるものでもあった。

■たおやめぶり(手弱女振)

たおやめぶり(手弱女振)は、女性的で繊細な歌風と人間のあり方である。賀茂真淵が理想とした、男性的でおおらかな万葉調の歌風と人間のあり方である「ますらおぶり」に対する言葉である。『古今集』や『新古今集』の歌にみられる特徴で、本居宣長はこの心情を重視した。

■惟神(かんながら)の道

惟神の道とは、神代から伝わってきた、神の御心のままに人為を加えぬ日本固有の道である。国学において求めるべき古道として理想化された。本居宣長は、『古事記』における神がみの事跡の中に示されているものとみて、儒教の聖人の道や仏教の悟りの道と異なり、神の働きによってつくられた、おのずからなる道であると説いた。同時に、自然の感情のままに生きる人間の真心の道にも通じるとした。

「 主として奉ずべき筋はなにかといえば道の学問である。そもそもこの道は天照大御神(天照大神)の道にて、天皇の天下を治める道、四国万国にあまねく通ずるまことの道であるが、ただ日本にのみ伝わっているものである。それがどういう道かというに、この道こそ『古事記』『日本書紀』の二書に記されたところの、神代上代のいろいろな事跡においてつぶさにそなわっている。 」

■古道

古代日本において、そもそも道とは何かといったことは論じられることはなかったが、日本は安定していた統治が行われていた。本居宣長は、その理由を、神の道すなわち「惟神の道」に従い、自然のままに統治していたからと説く。そしてそれは、『古事記』『日本書紀』に記された神々の時代から伝わってきた、神の御心のままの、人為を加えない日本固有の道が「惟神の道」という古道であり、「真心」の世界であるとした。

■真心

真心とは、人間がもっている素直な心のこと。偽りのない真実の心であり、素直でおおらかな心情である。「まごころとは、よくもあしくも生まれたるままの心をいう」と説かれ、儒教・道徳の善悪の観念を離れた、美しいものを美しいと思い、欲しいものを欲しいと思う自然な心とされる。本居宣長は、「生まれながらの真心なるぞ、道にはありける」といい、人間の自然な感情を肯定するとともに、「もののあわれ(人が物事に触れた時におこる素直な心の動き)」を知る心ある人として真心に従って生きることが、人間本来のあり方であると説いた。

■真心:『玉勝間』の引用

「 そもそも道は学問をして知るものではない。生まれながらの真心こそ道なのである。真心とはよくもあしくも、生まれついたるままの心をいう。そうであるのにのちの世の人は、すべて儒教や仏教に影響された漢意にのみうつり、真心を失いはててしまったので、今は学問をしなければ道を知ることができなくなってしまったのである。 」

■もののあわれ

もののあわれとは、あはれ」とは感嘆詞の「ああ」と「はれ」が短縮された語で、人の心が外界の「ものごと」にふれたときにおこる、しみじみとした感情の動きのことである。美しいものを見て素直に美しいと感じる心の動きのように、人間性の自然のあらわれをいう。本居宣長は、『源氏物語』の研究を通して、「もののあわれ」を文芸の本質としてはじめてとらえた。『源氏物語』を人間の共感的な「あはれ」を中心に、人間の真の姿を描き出しているものとし、主人公である光源氏こそ、「もののあはれ」を知る「心ある人」とした。

このように「もののあわれ」は、平安時代の文学や貴族生活の根本にある心的態度で、日本文学を貫く美的理念である。本居宣長は、人間らしい生き方の根本にあるものととらえ、「もののあわれ」を知る人を心あるよき人として理想化した。

■もののあわれ 『源氏物語玉の小樽』

「 もののあわれを知るということは何かというと、まず「あわれ」とはもともと、見るもの聞くもの触れることに心が感動して出る感嘆の声で、今の世の言葉にも「ああ」と言い、「はれ」と言うのがこれである………すべて何事につけても「ああ」「はれ」と感じられるのを「あわれ」と言うのであり、「ああ」「はれ」と感じるべきことに出会えば感じるべき心をわきまえて知り、つねにそう感じることを「あわれ」を知るというのである。 」

■漢意

漢意とは、中国から伝わった仏教や儒教などに影響・感化され、その考え方や生き方に染まってしまった心である。本居宣長は、漢意を形式ばって理屈ばかり説く、堅苦しい精神的態度とし、このために日本人は生き生きとした感情が抑圧され、真心を失ってしまっていると説き、日本古来の「惟神の道」に返ることを主張した。

■大和心

大和心とは、漢意に対する言葉で、日本民族固有の精神をあらわす。大和魂ともいい、国学において強調された。本居宣長は、「敷島の大和心を人問わば、朝日ににおう山桜花」と詠み、「もののあわれ」を深く知る心情に大和心を求めた。

■漢意の排除 『玉勝間』

「 学問をして人の生きるべき道を知ろうとするならば、まず漢意をきれいさっぱりと取り去らなくてはならない。この漢意がきれいに除き去られないうちは、どんなに古典を読んでも、また考えても、古代の精神は理解しがたく、古代の精神を理解しなくては、人の生きるべき道というものは理解しがたいことなのである。いったい道というものは、本来学問をして理解する事柄ではない。人が生まれたままの真心に立つのが道というものなのである。真心というのは、善くても悪くても、生まれついたままの人間本来の心をいうのである。ところが後世の人は、全体に例の漢意にばかり感化されて、真心をすっかり失ってしまったので、現代では学間をしなければ道を理解できなくなっているのである。 」

■『直思霊』

『直思霊』とは、『古事記伝』の第一巻の総論の部分に含まれるもので、古道を学ぶ者への導入となるもの。直思は、日本神話に出てくる禍(わざわい)を直す神で、本居宣長はこれを漢心に影響され人びとの禍(わざわい)を直すことにたとえている。

■『古事記伝』

『古事記伝』は30余年をかけて完成させた『古事記』の注釈書で、本居宣長の代表作。『古事記伝』の著述を通して、日本に古来から伝わる道として「惟神の道」をあげた。

■『源氏物語玉の小櫛』

『源氏物語玉の小櫛』は、源氏物語の本質を説き、またその注釈を記している。『紫文要領』の源氏物語論を晩年に加筆したもので、「もののあわれ」を知る心の重要性を説く。

■『玉勝間』

『玉勝間』は随筆で古事や古語に関する考証や学問・思想上のことなどから広く題材を扱っており、それぞれに本居宣長独自の見解が述べられている。

 

■敷島の歌 1

 

「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」

諸君は本居宣長さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(やまざくらばな)」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先(ま)ず第一、山桜を諸君ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。宣長さんが「山桜花」と言ったって分からないわけです。

「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕たび行く人も行き触れば匂ひぬべくも咲ける萩かも」という歌が万葉集にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香(か)に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。

宣長さんは遺言状の中で、お墓の格好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝腎の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業(わざ)だと思いました。

 

■敷島の歌 2

 

「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。

賛の全文は、「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、筆のついでに、しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」です。歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。

宣長は答えます。 「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」

つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。独立した歌として、もとめられれば、半切にも書きました。また画像と一緒ならなおさら結構と、だから、たとえば吉川義信の描く画像などにはこの歌が書かれました。

この歌は宣長の心の歌だったのです。

■「敷島の歌」その後

この歌にはみんな関心を持った。その一人、伴信友は大平に質問をする。宣長の多く残す歌の中の一首に対しての疑問というより、師自らが自分の画像の上に選んだ特別 の歌としての質問である。

「朝日に匂ふ山桜花の御歌、凡そに感吟仕候て、本意なく候、御諭下され度候 うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」『藤垣内答問録の一』

「敷島の歌」を大体の意味で理解して味わっていますが、本当の意味を教えて下さい、と聴いたのに対して、大平の回答は実にそっけない。「端麗・華麗ということだと宣長は言われた」。これは一首の解釈と言うより、歌の持つ雰囲気を宣長は、また大平は伝えたのであろう。

この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。

また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。 田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。

【原文】

「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花。とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条

晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌、御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば、から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。

「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。

文章には特別曲解はないが、現場ではどのように教えられたかわからない。ただ言えるのは、朝日に桜、この言葉が喚起するイメージは次の井上淡星の詩をそう遠く隔たるものではなかった筈である。

   特別攻撃隊を讃える歌

   忘るな昭和十六年

   極月八日大君の

   醜の御盾と出で立って

   朝日桜の若ざくら

   散った特別攻撃隊

   岩佐中佐と八烈士

このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。  

「佐久良は殊にうるはしくいさぎよき花なれば、これを我が大和心に比していへり。かの宣長が「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」の歌は何ぴとも知るところにして、藤田東湖の正気歌に「発為万朶桜」とよみしも同じ意なり。(中略)この花の特色として見るべきは、散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。

「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花、という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。

宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。

■敷島の歌はなぜ『鈴屋集』に載らないか

桜が好きで好きでたまらない宣長が、見つけた究極の桜の美が「敷島の歌」に凝縮されている。種類は、葉が赤く細木がまばらに混じる山桜。天気と時間は、晴れた朝日の頃。桜花は朝日の頃に限るという美意識は、『新古今集美濃の家づと』の、有家朝臣「朝日かげにほへる山のさくら花つれなくきえぬ雪かとぞ見る」評にも、

「めでたし、上句詞めでたし、桜花の、朝日にあたれる色は、こよなくまさりて、まことに雪のごと見ゆる物なり」と見えている。

ところが、この歌は、宣長の自画像を初め、その肖像にはよく書かれているのに、不思議なことに、自選歌集『鈴屋集』には載っていない。

人から頼まれたら書くのだから、この歌は自信作であったはずだが、どうして歌集に載せなかったのか。

一つの見方として、私は、宣長は自分からこの歌を離したくなかった、歌集の中に埋もれさせたくなかったのではないか。だから自分といつも一緒、つまり画像か、もしくは独立した半切などの紙にのみ書いたのではないかと考える。いかがでしょうか。

■本居宣長六十一歳自画自賛像

これが宣長像の中でも一番有名で、またその後制作された宣長像のモデルとなった画像です。

【制作年】 寛政2年(1790)8月。

【伝来】 松坂本居家から記念館へ(弥生翁寄贈)。

【指定】 国指定重要文化財。

【賛】 「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかゝたなり/筆のついてに/しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」

【箱書】 元箱(蓋のみ残る)「宣長自写肖像」裏「寛政二年庚戌八月」(宣長自筆)、箱(春庭時代作成)「先人自画讃遺像 春庭謹蔵」(美濃代筆)。同裏、印「鈴屋之印」(紙に捺印・貼付)

【解説】 一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。

■「愛国百人一首」

「一九四〇年代の「愛国百人一首」となると、今日なおホロ苦い思い出を伴って、記憶の片隅にある人も多いであろう」。「宣長のうた」岩田隆(『本居宣長全集』月報3)

『愛国百人一首』とは、戦時下、日本文学報国会が、情報局と大政翼賛会後援、毎日新聞社協力により編んだもので、昭和17年11月20日、東京市内発行の各新聞紙上で発表された。選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の11氏。選定顧問に委嘱された15名には川面情報局第五部長など政府、翼賛会、軍関係者に交じり徳富蘇峰、辻善之助、平泉澄、久松潜一が名を連ねる。選考は、毎日新聞社が全国から募集した推薦歌と、日本文学報国会短歌部会の幹事、選定委員の数氏より提出された推薦歌の中から前後7回にわたって厳選したという。選ばれた歌は、「愛国」ということばを広義に解釈して、国土礼讃、人倫、季節などの歌も加え、万葉集より明治元年以前に物故した人に限った(以上、『定本愛国百人一首解説』凡例)。「佐佐木信綱先生略年譜」(『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』)には選者についてもう少し詳しい。東京日日新聞発案、情報局後援を背景に、愛国百人一首選定を日本文学報国会が行なう。 「選定委員は信綱七一歳をはじめ、尾上柴舟六七歳、太田水穂六五歳、窪田空穂六六歳、斎藤瀏六四歳、斎藤茂吉六一歳、川田順六一歳、吉植庄亮五九歳、釈迢空五六歳、土屋文明五三歳、松村英一五四歳。北原白秋五八歳はこの月に逝去し、土岐善麿五八歳は自由主義歌人として人選に漏れたのであろう。近代短歌の代表者たちが、熱心にこの挙に参加している。」 「毎日新聞社」という名前は昭和18年1月1日から使用された。

さて、『定本愛国百人一首解説』に戻る。同書の「諸論」には、選定条件などが詳しく記される。また、宣長の項は川田の執筆である。この本は日本文学報国会編で昭和18年3月20日毎日新聞社より刊行された。手元にあるのは同年7月1日再版70,000部の1冊。表紙は安田靫彦、題簽は小松鳳来。愛国百人一首には、宣長以外に、直接の門人としては栗田土満の「かけまくもあやに畏きすめらぎの神のみ民とあるが楽しさ」が選ばれ、また、平田篤胤の「青海原潮の八百重の八十国につぎてひろめよ此の正道を」も載る。手元にもう1冊『愛国百人一首評釈』という本がある。こちらは川田順の単独執筆である。本書そのものは、発表された翌21日から朝日新聞に載せたものを補正したもので、更に宣長の項は自著『幕末愛国歌』からそのまま載せたと断ってある。その転載したという解説を読んでみると、同一人の執筆でも『定本愛国百人一首解説』とは自ずとその観点は異なる。前著が作者略伝を中心とするのに対して、本書は歌の解説が中心となる。要点を述べると、宣長の桜の美が散る趣ではないと言い、桜と日本精神について高木武の説を紹介。その上で、しきしまの大和心とは日本精神であることを明言する。また井上文雄の「いさぎよき大和心を心にて他国には咲かぬ花ざくらかな」という歌が、散り際の潔さという「最も普遍的な桜花礼讃であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る桜花の歌は、悉く此の思想に属するものだ」と言う。また巻末には、川田の「愛国歌史」と、高瀬重雄の「作者略伝」が付く。本書は昭和18年5月10日、朝日新聞社から刊行された。カバーは斯光と署名のある兜の絵である。

次に朝日版の解説のもととなった『幕末愛国歌』だが、本書は昭和14年6月1日第一書房から刊行された。本書は「戦時体制版」と銘打ってあり、巻末広告には社長長谷川巳之吉の「戦時体制版の宣言」が載る。この本では、序篇「国学者と歌人」に宣長は載る。歌は「敷島の」他2首が選ばれる。さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春を知るらむ、百八十の国のおや国もとつ国すめら御国はたふときろかも、解説は類歌との比較などをして詳しい。

もう1冊類書を紹介する。『日本愛国歌評釈』である。藤田福夫著。昭和17年12月20日葛城書店から刊行された。構成は、皇室篇と民間篇に分かれ神武天皇より本書の編集されたときにまで及ぶ百十首。宣長の歌は、さし出づる此の日の本のひかりこまもろこしも春をしるらむ、思ほさぬ隠岐のいでましきく時は賎のをわれも髪さかだつを、の2首が選ばれ「敷島の」は洩れている。各歌には簡単な語釈、通釈、後記が付く。装丁は山本直治で、富士に桜である。何も断り書きはないが、本書と「愛国百人一首」は同時期ながら、一応別 個に選ばれたものである。もちろん重なる歌もある。

紹介するもう1冊は書道の手本である。『愛国百人一首』神郡晩秋書(大日本出版社峯文荘 昭和18年9月10日刊)、本書は巻末に釈文と略解が付き、巻頭には阿部信行、吉川英治の色紙が載る。

大変な意気込みで作られたこの百人一首について、『【昭和】文学年表』で当時の様子を窺ってみよう。

【昭和17年】

11月14日 「国民操志の培養へ-”愛国百人一首の意義“-」太田水穂・『朝日新聞』〈東京〉

11月21日 「新た世に贈る-”愛国百人一首“選定を終りて-」佐佐木信綱・「皇国民心の精華-反映した万葉歌人の心〈上代〉」斎藤茂吉・「戦につれて-ほとばしる至誠至忠の念〈平安朝より吉野朝へ〉」尾上柴舟・「志士の雄叫び〈幕末〉」斎藤瀏。『朝日新聞』〈東京〉

【昭和18年】

1月1日 「愛国百人一首の意義」井上司郎・『文学』

2月1日 「寄世祝-愛国百人一首のうち伴林光平の歌-」上司小剣・『文藝春秋』

4月1日 「日本精神を伝ふ-愛国百人一首のドイツ訳-」茅野蕭々・『朝日新聞』〈東京〉

6月1日 「愛国百人一首小論」佐藤春夫・『改造』

通覧して「愛国百人一首」と明らかに関わりのあるものを抜いてみた。遺漏もあるかと思う。いずれにしても、このような大新聞や雑誌ではどの程度国民の間に浸透したのかまではわからない。授業で強制的に覚えさせられたとか、カルタをしたとか、もう少し当時の人の証言を捜す必要がある。また以前、松本城前の古本屋で横文字の「愛国百人一首」を見かけた。てっきり英語だと思っていたが、あるいはドイツ語だったのだろうか。逃した魚はいつも大きい。

 

■山桜 大和心とはなにか

 

保守・右翼の方に大変好まれている本居宣長という江戸時代の国学者がいる。

彼は、それまでの儒学=中国思想中心の学会を批判し、「日本の思想に立ち返れ」と説く。この辺りに、右寄りの人等が本居宣長を好む理由がある。

また「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という彼の詠んだ歌がある。これは、戦前の日露戦争中には、税収アップをねらった政府が、この歌からとった「敷島・大和・朝日・山桜」という官製品の煙草を作ったり、大戦中の神風特別攻撃隊の四部隊の隊名である、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の由来にもなっていたりして、過去の戦争とはいろいろと結びついている。

このように、本居宣長は、保守勢力や右翼と非常に相性の良い思想家というイメージがあるのだが、実はここには、彼の思想に対する誤読の影響がある。「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張の一部ばかりが一人歩きしてしまっていて、彼が「本当に大切にしろ」といったものは何なのか、が大抵の場合抜け落ちているのである。

彼の数ある著作の中でも、特に有名なのは、完成までに36年を費やした『古事記伝』であるが、その一方で、彼が『源氏物語』を再評価した人であることもかなり重要だ。『源氏物語』の再評価とは、彼が生きた時代背景を考えると、実はなかなか大胆な意見でもあるのだ。

江戸幕府の当時の思想的支柱を担っていたのは儒学である。儒学の倫理観は、ひと言で言って「硬い・堅い」。そんな儒学からすると『源氏物語』は不倫に満ちた晦淫の書であり、それ故に排斥されてきたのだ。いまでこそ不朽の名作としての地位を与えられている『源氏物語』であるが、当時はそれほどの評価をされていなかったのである。

ところがそれを彼は「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を、感ぜしめむと作れる物」として評価する。「そんな儒学者のような考え方ってどうなのよ。人ってそういうものだし、そういう『もののあわれ』を感じるのが大和心じゃないの」と言ったのが本居宣長である。ちなみに、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とある。つまり「あわれ」とは感動詞「あ」と「はれ」との複合した語だ、ということである。そしてそれは、喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味し、平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになった言葉だ。

このように観てくると、「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張に対する印象はずいぶんと変わってくるのではないだろうか。また、日露戦争時の煙草、神風特攻隊に引用されたという、先に紹介した歌についてみてみよう。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花、この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれていて、歌は「自画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい」と言う質問があったことを想定している。その問いに対する宣長は答えが「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です」というものになる。つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心についての歌なのである。 

ところがこの歌の解釈は、その後変質していくことになる。 

「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花、という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」(『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館)

ここには、本居宣長がこの歌に込めた心はない。宣長は決して武士の死に様と自分の心を、ましてや日本人の心を重ね合わせてはいないのだ。

少し話はそれるが『本居宣長』という著作のある小林秀雄は「山桜」をことの他好んでいたようだ。彼の「文学の雑感」という講演の中で、「葉と花が一緒に出る山桜こそ桜なのだ。ソメイヨシノなんてものは最近になって、文部省と植木屋が結託して広めたもので、ろくなもんじゃない」というようなことを言っている。

そして小林秀雄は、本居宣長が山桜を愛していたことに触れ、生前の宣長は「自分の墓は質素でいいから、そばに立派な山桜を植えてほしい」と言い残していたのだが、その山桜は枯れてしまい、今では墓も立派なものになってしまった、宣長を尊敬しているという後世の者たちが立派な墓に立て替えたのだが、そういう人たちは決まって宣長を読んでいないし、理解もしていない、だからそんな墓を建ててしまうのだ、と嘆いている。

今、「日本古来の伝統的価値観に戻るべきだ」という人々の中で、本居宣長をきちんと読んだことのある人はどれだけいるだろうか。そして、宣長が主張した、戻るべき日本精神とは「もののあわれ」であって、儒教的なものではないというのに「伝統的価値観」を叫ぶひとたちの「価値観」とやらが、かなりマッチョで堅苦しい、儒教的なものであるのは、かなり矛盾を抱えている主張であると言わざるを得ない。

最後に、夏目漱石の『我が輩は猫である』に、大和魂に関する思いが見られる一節があるので紹介しておこう。

「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」

「起し得て突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。

「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」

「なるほどこりゃ天然居士(てんねんこじ)以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。

「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」

「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」

「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」

「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」

「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。

「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」

 

■「大和心」を子供たちに

 

■日教組に支配された教育現場 

私は22歳で大学(広島大学)を卒業すると人生のその大半を教職現場で全うしてきた。その間、35年にわたって高校野球監督として一心不乱に打ち込んできた。憧れの甲子園へも監督として10回出場させて頂いた。幸せな教職人生だったと思う。

最初に赴任したのは広島県東部の公立高校であった。昭和49年春である。その頃の広島県東部は組合(日教組)活動が盛んで、その加入率100%という異常な地域であった。日教組本部の指示により授業(勤務)放棄によるストライキを打つ。授業時間数0で組合活動に専従する教師が2人くらいはいた。選挙となれば「社会党」(当時)のビラ配りに教職員こぞって出かける有様である。

当時この地域は同和教育全盛であり、“人権”教育にすり替えられていた。当時の社会党は“部落解放同盟”と連帯しており、組合と解放同盟は連帯して教育現場を蝕んでいた。解放同盟によれば、「部落差別」の元凶は「天皇制」だという。“天皇という地位があるから最下層としての被差別部落がある”というのが彼らのテーゼである。

従って『神話』などはもっての他。日本の歴史上差別の頂点にいる天皇を美化する神話は許されないという。こうした考えが“正論”として教育現場に充満していた。

歴史学者、アノールド・トインビーは「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は必ず滅びる」との名言を残した。

この国で生きていくであろうこれからの子供たちにその国の成り立ちを語らずしてどうして誇りを持たすことができようか!!

神話にかぎらず先人の過去の歴史を美しいものとして語り継がせずしてどうして子供たちの心に安寧をもたらすことができようか!!

かつて天才科学者アインシュタインは日本人の勤勉さや正直さ、道義の高さに驚嘆し日本と日本人を愛した。彼は「この地球上でたった一つだけ残すべき民族があるとしたら、それは日本人である。」と語ったという。日本民族としてこれ以上の矜持があろうか!!

■日本人の温かい物語を子供達に

今の若者が非人間的な動機、すなわち「人を殺してみたかった。」「人を刺す感触を経験してみたかった」という誠に身勝手な殺人を犯すのも、過去の美しい民族の歴史を伝える努力を避け、自虐的な歴史を刷り込み残虐な国家であったと教育してきたらに他ならない。

南京大虐殺や従軍慰安婦などのありもしない捏造された歴史を平気で垂れ流してきた日教組や左派マスコミの煽動により悲しむべきことだが子供たちは誇りを奪われ、民族としてのアイデンティティーを喪失してきているのである。

日本人としての温かい物語を欲していた純真な心は引き裂かれ、最も肝要な「背骨」が溶け始めている。

昨今の残虐性を帯びた事件は起こるべくして起きているのである。幼き頃より先人の悪口や戦前の近代日本に於いて大量虐殺・強姦をしてきた非道で汚い国家・国民であったと繰り返し教え込まれれば心がすさび、何ものにも感謝はせず、その空虚さに耐え切れなくなり切れまくることは自明の理である。ここに歴史教育の怖さと重要性が存するのである。

■偉大な「大和心」を振起させるために

私には持論がある。それは小学校の段階で『神話』『教育勅語』『偉人伝』を学ばせるということである。

どんな色にも染まる純真無垢な幼な子の真っ白なキャンバスに壮大なロマンを含んだ「神話」を書き込んでやる。日本の神話ほどスケールが大きく宇宙の成り立ちや天地創造を空前絶後の物語りとして構成されたものを知らない。子供たちの心は狂喜乱舞するに違いない。「教育勅語」は人としての道を適格に導いてくれる最高の手本である。解り易く解説してやれば必ず立派な日本人として成長していくはずである。そして、「偉人伝」を通じて“歩みたい自分の人生”の道標として示してやる。

この3点セットを小学生の心に刷り込んでやればどれだけ素晴らしい日本人が生み出されることであろうか!!今からでも遅くはない。これからの人生を日本人として生き抜く子供たちに“日本の麗しき歴史”を語れ!

幼な子の耳元で、「良い国に生まれましたね。そのことに感謝して皆と仲良くして、もっともっと良い国にして次の人たちにバトンタッチして行きましょうね。」と囁け!!

この国に「誇り」と「愛国心」を堅持した子供達は必ずや世界から尊敬され、日本民族が長きにわたって培ってきた“徳”という品格が世界に発信され、見事な“美しい国家”として世界各国のお手本となることであろう。

その時こそ真の「八紘一宇」の実現と言えるのであろう。日本が世界の真のリーダーとなるには、経済的繁栄や単なる国力の充実にはあらず。我々の歴史の中に潜む偉大な「大和心」を振起することである。

その淵源は正しい歴史と美しい物語を次世代に語り継ぐこと以外に方法は残されていないのである。

 

■大和心 2

 

大和心と言う言葉と出会ったのが、今から37,8年前志木駅の広場で開催されていた古本市で見つけた「技法日本傳柔術 著者 望月稔」という本からでした。 買った動機は、当時友人に頼まれ合気道を指導していた事もあり、参考になるかなと思いでした。 読んでわかった事ですが、※望月氏も昭和初期、開祖植芝盛平に師事して合気道を学んでいます。※明治40年4月11日生

技法の解説と自身の理念を著した内容になっています。

その一節―武士道とは―に、「大和心」の説明があったのです。

「『武士道とは死ぬことと見つけたり・・・』とか、『君の御馬前に討ち死にする以外に、武士道あるまじき・・・』という。もとより全くのあやまりではない。だが武士道というものは、そればかりではない。明治の中期頃すでに新渡戸稲造博士が得意の英文で世界に紹介した武士道論のごときは『葉隠』のそれとはスケールに大きな違いがある。そこには西欧の騎士道やジェントルマン意識にも劣らない倫理性を述べている。その根源はどこにあるかと追及すれば、『大和心』と言う事になる。

これは『やまとこころ』と読むのが普通であるが、『いやあまたこころ』の転化である。それを今様にいうならば最大多数者の共通的善意識ということになる。いあやまた(非常に、多くの人人の)心(真心)である。この『大和心』―――いやあまた人の共感としての真心―――これこそが日本精神文化の華たる『武士道』なのである。したがって武人の特質でもなければ専有物でもない。古くは、万葉集の歌の中に散見される『今日よりは、かえりみなくて・・・』『海ゆかば水づくかばね・・・』のごとく、国を守り『防人』として民族の防衛力に徴兵されれば、一切の私情を捨てて全体に奉仕しようとする、そういう心の表明が万葉集に残っている。

ずっと代は下がるが町人どもとよばれ、第三階級とされていた商人でも47人の義士をかばって一家全員が極刑を受けても屈しなかった天野屋利兵衛がいる。女性ながらも維新の志士を庇護した疑いで投獄され、拷問を受けながら所信を貫き通した野村望東尼や三条大橋の上で颯爽たる征夷大参謀西郷隆盛の馬前に駆けよって『討つ人も、討たるる人も心せよ、同じ御国の民ならずや』の一首を差し出して、大西郷に最敬礼させた太田垣蓮月尼のような女性もいる。」引用文。※天野屋利平兵衛、忠臣蔵では武器など調達して四十七士を助ける話があります。※記述に誤りがあり、修正しました。

「赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援した義商として英雄化された。討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の『赤穂鐘秀記』においても「大坂の商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709年)に津山藩士小川忠右衛門によって書かれた『忠誠後鑑録或説』にも「大坂の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えずに討ち入りが成功した後にようやく自白した」などと書かれている。」ウキペディアより。

忠臣蔵では、拷問に耐え、口を割らなかった時の科白に「天野屋利兵衛は男でござる」と言い放ったぐらいで、商人でありながら男気のある人物だったようです。

野村望東尼(ぼうとうに)は戦前、初等科修身四の項で「自分で慎む」のお手本として紹介されており、

誰もが知る女性だったようです。

昔より「大和心」として、心性、徳性が練られた背景には、公に尽くす、利他の念、義を大切にする精神があまねく、その共通的善意識が大切なものと共感していた事が伺えます。

「あるいは、討幕の勝報に酔った官軍の長たちが、まさに徳川慶喜の死刑を判決しようとしたとき決然と立ち上がった御年16歳の明治天皇が『結果としては志とは違ってしまったが、慶喜は一貫して大政奉還を説いた。そして300余大名たちを押える努力も続けていたのではないか、死刑にする必要はない』と大喝一声、ついに慶喜の刑を免じて駿府(静岡)に隠居することを許された。これこそ帝王にある『武士道』である。それは農民にあり町人にあり婦女にあり、帝王にあり日本人の深奥にひとしく持っている『大和心』であり、日本精神文化の華である。」

30代前半の頃にこの記述にふれて改めて、大和魂なるものの本質を知りました。 当時までは、大和魂と言えば勇猛果敢な敢闘精神を指すものと思っていました。がしかし、著者の「共通的善意識」という説明からモラル、道徳としての位置付として大和心、大和魂と呼称していたのでしょう。

戦後は軍国主義なる造語を使い、短絡的にその精神を戦争に結び付け武士道、大和魂などを批判する人たちが居ましたが、とんでもない的外れなことです。

昭和40年代の経験ですが、大学紛争がおこり左翼暴力学生が暴れた時代がありますが、その時その連中、部活で武道をしている学生、私らを「右翼」と勘違いするくらいに短絡的でした。

某大手新聞社も同様でした。

この傾向は今では薄まっているようですね。

最近テレビの映像で、琉球古流空手の稽古風景が流れていましたが学ぶ外人たちの走りの掛け声が「ブシドウ、ブシドウ」だったのには驚きました。

また、日本ラグビーチームの応援のテレビの映像に「大和魂」と銘打った場面がありました。 大和撫子も昔の呼称ですが、サッカーチーム名に冠しているくらいです。 どの程度の認識は分かりませんが、だんだんと日本精神の理解が深まっているように感じます。

ただ今でも忘れられない言葉、何年前になりますか、小学校のクラス会で先生にお聞きした事、「先生、何故、戦後修身教育が無くなったのですかと」と聞くと、先生は「それはマッカーサーが大和魂を貶めるため」と言われたことを聞いて納得した経験があります。

日本人、短絡思考を止め、「日本の心」を見つめ直さないといけませんね。

 

■日本の心、それは大和

 

私たち日本人は戦後、自分たちの心を見失ってしまいました。それが今日のさまざまな、本当にさまざまな、個人から社会レベルに至るまでの問題を生んできました。

それでは一体、私たち日本人の心とは何だったのでしょうか。和洋折衷、和式、和風といわれるように、「和」は日本そのものを指していう言葉です。しかし、それと同時に「和」は日本の心を表していたのです。つまり和の精神です。平和の和、調和の和。「和を以て貴しとなす」の和。

しかし、多くの人はここで一つの誤解をしています。和とはまるで自分の個性を抑えて、控えめにすることで、全体を丸く収めて、互いに関わり合うことだと考えていることです。しかし、これは消極的な和であって、和の本義ではありません。

大きく和すること。つまり「大和」(やまと)。これこそが和の神髄なのです。

大きく和するとは、一人一人がまず自らの個性を最大限に発揮して、自立することです。つまり一人一人が大きな存在となること、その上でそうした者達が互いに和すること、それが大和です。決して自分の個性を抑えて、歯車のように自らの存在を小さく押し殺すものではありません。

しかし、自らを最大限に発揮するということは、同時に自己主張をして、我を張ることにも通じます。

そして世界の民族紛争、宗教戦争などは、この互いの我の張り合いによるものです。

それではどうすれば、大きく和することが出来るのかといえば、それが「愛」の力なのです。

しかし、それぞれに違った個性の者同士が和するためには、生半可な愛では到底叶いません。強い愛、つまり強い精神力に裏打ちされた愛が必要です。

つまり、大和とは、強い精神力に裏打ちされた愛によって、大きく和するという、極めて積極的で前向きな力強い精神のことなのです。それが日本人の本来の心、「大和魂」の真意です。

そして大和とは大自然そのもの、宇宙そのもののことです。なぜなら「あの栄光栄華を極めたソロモンでさえ、この野に咲く一輪の花ほどにも着飾っていなかった」という、イエス・キリストの言葉にもあるように、この自然界のすべての存在は、自らの個性を最大限にアピールしているにも関わらず、見事に調和しているからです。そしてこのことが成されるために、この宇宙は目に見えない、強く大きな愛の力で貫かれているのです。

だから、私たちの先祖たちはこの自然や宇宙から、大和の精神を学ぼうとしてきたのです。それが、神ながらの道、即ち、神道です。そして、これが日本の心そのものであり、大和魂なのです。

そして、数学のゼロを発見したのがインド人ではあっても、それがインド人のためだけの発見ではなかったように、またイエスの尊い教えがクリスチャンたちのためだけではなく、全人類にとっての尊い教えであるように、日本が生んだこの大和の精神は一つの民族や宗教のためだけのものではなく、これからの時代の指針として、世界に指し示すべき普遍性を持った思想なのです。

しかし、それを私たち日本人自身が失ったがために、その精神性は戦後五十年のうちに見る影もなく、転がり墜ちるように崩れていってしまったのです。

日本の心、それは大和。

もう一度そのことを思い出さなければいけない時期に、私たちは来ているのではないでしょうか。

 

■和魂 

 

和魂は、「わこん」とも「にぎみたま」とも言います。

「わこん」といえば、やまとだましいのことで、日本人固有の精神のこと。和魂漢才とか洋才とも言います。

「にぎみたま」は、神道の霊魂観からとらえた言い方で、柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂をいう。これに対して、荒く猛々しい神霊を荒魂(あらたま)と言います。

人は普段、柔和で「にぎみたま」の状態にありますが、非常緊急時、怒ったり、戦ったりする場合は、「あらみたま」の荒く猛る状態となるとみます。

そう考えると、武道場の鍛錬とは、和魂を荒魂の状態にして訓練するわけで、実戦に近ければ近いほど激しいものになります。ですから終わる段階は、荒魂を和魂へと鎮めなければ治まらないことになり、魂(たま)しずめの法(終末運動)を念入りに行うことが必要となってきます。

和魂漢才・洋才は、やまとの地に生まれ育った人のこころと、外国の漢(から=中国)の才(ざえ=学問)、洋(西洋)の才が対となっています。

漢才は、仏教や儒教が、先進国・中国から輸入された時代のこと。「やまとたましい」という言葉は、紫式部の『源氏物語』が初出といいます。光源氏の子供は、やまとたましいはあるものの、生まれ育ちがよいだけでは将来が不安、やはり学問を学ばせようという話の段に出てきます。

「やまとこころ」という言葉は、同じ時代の女流歌人、赤染衛門の和歌に見えます。子供ができて乳母を雇うとき、博士の主人が「学識のある家に来るには不足」と言うのに対して、「たとえち(智=学問)が低くとも、やまとこころさえあれば何とか補っていけばよい」と答える歌に出てきます。

いずれも生まれつきのもので、学問と並べられる大事なものですが、勇武というほどの意味でなく、溌剌な、とか、利発、気立てがよいというような意味合いと考えられます。

しかしこれが後世になるに従って猛々しいとか、戦闘的な言葉として使われるようになります。島国でおだやかな浦安の国の純粋なる心根が、外国の野蛮なる力にさらされて、たくましく勇敢なる大和魂へと鍛えられていったとみることができます。

近現代は和魂洋才の時代で、尊皇攘夷の精神気概が歴史を大きく動かしました。今は和魂を見失ってしまった時代と言われます。武道場は、この和魂を養い、鍛錬する場所と言うことができます

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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