大和魂 ⑰

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

アメリカの財界人は教育に利益を還元するが、日本にはそういう気風がない。 

■明治専門学校開設  

健次郎は東京帝大の全面的な支援のもとに、総裁として学校の建設に着手、明治42年(1909)、明治専門学校(現在の九州工業大学)を開校させる。  

財界人としての安川と、教育者の健次郎が見事に合体した専門学校だった。  

旧制中学校の卒業生、2百人が受験した。英語の試験は健次郎が自ら担当した。  

英語読解の試験に突然、やせ型の老人が現れたと思うと、流暢な英語で、飛行機が飛んだという新聞記事を読みあげた。それが健次郎だった。はじめて聞く本物の英語に受験生はただポカンと口を開けて老人を見つめるだけだった。  

第1回の人学生は採鉱科20人、冶金科15人、機械科20人の55人だった。  

競争率は4倍、優秀な学生を確保することができた。  

官立の高等工業学校は3年制だが、ここは4年制である。1年多くしたのも高度な技術者を養成するためだった。しかも、ここは全寮制だった。  

4年間、全校生徒が日夜をともにして、人間性豊かな技術者を養成せんと、健次郎が決めたのである。学生は毎朝5時にラッパの音で起床、全員で浴槽に飛び込んで冷水摩擦を行ない、それから朝食、授業開始という規律ある日々だった。  

東京帝大総長を務めた教育界の大御所が、朝から寮につめて生徒の育成指導に当たるのだ。  

周囲の人々は、その熱意に打たれた。  

健次郎でなければ、とてもできないことだった。  

会津藩の出身者のなかで、自分は恵まれた立場にある。  

その恩を社会に還元しなければならない。その思いが、健次郎の情熱をかきたてた。  

日本の近代化は、薩長だけでなしえたものではない。  

会津も頑張っていることを、世に示したかった。  

健次郎は教育方針として、徳目8カ条を定めた。それは会津藩校日新館の教えがベースになっていた。  

一、忠孝を励むべし。  

一、言責を重んずべし。  

一、廉恥を修むべし。  

一、勇気を練るべし。  

一、礼儀を濫るべからず。  

一、服従を忘るべからず。  

一、節約を励むべし。  

一、摂生を怠るべからず。  

列強に伍して世界に飛躍するために、必要なことばかりだった。明治専門学校の仮開校式で健次郎は、生徒と父兄に徳目8カ条を詳しく説いた。 

■智育と徳育  

生徒諸君、入学おめでとう。  

本校は官立の高等工業学校に、決してひけはとらない学校である。  

諸君は設立者の安川氏の恩を決して忘れてはならない。  

わが校の方針は智育と徳育である。  

従来、学校は橋をかける人、鉄道を敷設する人、船に乗る人、法律に明るい人、鉱山を開く人など仕事のできる人の養成に当たってきた。しかし智育に重きを置き過ぎた結果、道義心がひどく悪くなった。そこで、わが明治専門学校は技術に通じたジェントルマンを養成することになった。諸君はこのことを、くれぐれも忘れないでもらいたい。  

本校の重点事項は、次の通りである。  

一、忠孝を励むべし。  

忠君と孝行は人間、片時も忘れてはならない。今日の若者は孝行を間違えている。父母に対して愛と敬をもたなければならない。世界の強国はイギリス、ロシア、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本である。このなかで国力は日本が一番下である。しかし愛国心は一番である。愛国心を失ったとき、日本民族は滅亡する。  

一、言責を重んずべし。  

いったん口に出したことは、必ず実行することである。日本国民は士族平民の区別なく、国防の任に当たっているから皆、武士である。武士に二言はない。これを忘れてはならない。外国から日本人は当てにならないといわれてはならない。  

一、廉恥を修むべし。  

卑怯なことをしてはならない。おのれの利益のために、他人の利益を顧みず、不正なことをしてはならない。何事も、自分の良心に従って行動することである。  

一、勇気を練るべし。  

勇気は決して粗暴の振る舞いではない。国家のために一命をなげうつ勇気である。勇気を練るには、狼狽しないこと、我慢すること、おのれに克つこと、考えることである。  

一、礼儀を濫(みだ)るべからず。  

礼儀を軽く見てはならない。江戸時代、礼儀は大変重いものだった。ところが明治維新の戦乱で、社会の秩序がくずれ、礼儀を重んずることが薄れた。  

一、服従を忘れるべからず。  

学校では師を敬わなければならない。わが明治専門学校の生徒は、先生に絶対服従である。それを忘れたときは、相当の処分を課す。  

一、節約を励むべし。  

奢侈は亡国のもとである。ローマは大昔、盛んであったが、人民が奢侈に流れたため、滅びた。日本は貧乏国で20幾億という借金がある。同胞の数が5千万とすると、ひとり40円の借金である。もし明治37年に20幾億の借金があったなら、ロシアに対して、どうすることもできなかったであろう。ロシアは日本に対して復讐を考えており、わが国は節約し、いざという場合の国難に備えなければならない。  

一、摂生を怠るべからず。  

第一に飲食に注意する。第二に清潔にする。第三に運動をする。これが大事である。追々、剣術、柔術、弓道場、テニスコート、水泳プールを整備する。  

一、兵式体操  

諸君はいったん緩急あれば、国防に従事しなければならない。兵式体操はもっとも大事な教科である。  

一、英語  

官立高等工業学校の英語は、申し訳程度のものである。わが校は英語を重視している。それは外国語を知らずして、新しい知識を得ることはできないからである。諸君は中学校で英語を学んでいるのだから、英語、フランス語などを自由に使えるようにしなければならない。諸君の入学試験の英語の答案はわが輩が調べたが、英語の力が弱かった。学校としては、1クラスの生徒数を30人から25人に減らし、英語の勉強に力を入れるので、生徒は十分に勉強してもらいたい。  

これらの方針に不同意の者は、入学を取り消してもらいたい。健次郎の訓示は、厳しいものだった。新入生は緊張して健次郎に見いった。学校の方針に従わない者は退学させる、と健次郎は厳しくいった。父兄も度肝を抜かれた訓示だった。こうして明治専門学校は開校した。寮生活を通じて先輩、後輩の結び付きも強く、この学校は独特の校風を形成していった。

 

■京都新撰組

 

所属/会津藩>幕府 隊長/近藤勇 勢力/13>130名

文久二年頃より、京の都は「天誅」と称した勤王浪士による暗殺事件が多発していた。京都所司代では対応不可能となり、幕府は京都守護職を新設し会津藩をその職に着ける一方で、将軍警護の名目で江戸の浪士を幕府で召し抱えれば良いという清川八郎の意見を採り入れて浪士組を作った。

清川八郎は、京都へ到着するやいなや、浪士組の目的は将軍警護ではなく、朝廷直轄の尊皇攘夷軍となる事だと公表し、浪士組を幕府から引き離そうとする。これに不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は、浪士組を離脱した。彼らは京都守護職会津藩を頼り、会津藩の預かりとして新撰組という組織を発足させる。これ以後、京都に跳梁跋扈する勤王の志士を相手に、治安維持の最前線で血みどろの戦いを繰り返していった。

剣に腕のたつ者によって結成された新撰組は、幕末最強の剣客部隊として活躍する。特に「武士道」に重きをおき、血の掟「局中法度」による隊内統制を行う事で、烏合の衆と化す事を阻止している。新撰組においては、全員が同志同格という意識の元、実力次第で出世するという方式だった為、食い詰め浪士多数が入隊し、一時期は大勢力となっていた。その一方で、思想統制は行われなかった為、佐幕派と尊皇派が入り交じっており、新撰組の力は隊内粛正という方向にも向けられてしまう。隊内では、近藤一派と芹沢一派との勢力争いがあり、その課程で土方歳三が血の掟「局中法度」を定めた。芹沢一派は、局中法度違反として近藤一派から排除された。

元治元年に起こった池田屋事件で天下にその名を轟かせ、尊皇派から憎悪される。

薩長同盟の成立と第二次長州征伐の失敗は、政治と軍事の両面において幕府の致命傷となり、とりわけ政治的に追い詰められてしまう。

一方、新撰組では尊皇派であった伊東甲子太郎らが佐幕派である新撰組からの離脱を計り、高台寺党を結成した。土方歳三は、高台寺党との対決姿勢を強め、策を弄して伊東一派を壊滅に追いやるが、この時期には、幕府側が大政奉還に踏み切るという政治的劣勢に追い込まれ、結局第十五代将軍徳川慶喜が京都を出て大阪城へ下がると、新撰組も京都から伏見へと下がらざるを得なかった。

慶応四年に起こった鳥羽伏見の戦いに参戦し、刀槍を武器に薩長軍と戦うが薩長軍の持つ洋銃には勝てず、壊滅的打撃を被って敗北し、新撰組は事実上壊滅した。この時、土方歳三は「刀はもうダメだ。」と呟いたという。

この後も、新撰組残党は会津新撰組として会津戦争に参加。続いて函館にも函館新撰組として参加しているが、組織の体質としては京都新撰組とはまったく異質な組織となっている。

 

■新渡戸稲造が伝えた「武士道」

 

新渡戸稲造と「武士道」 まずは著者である新渡戸稲造について簡単に。

「文久2年(1862年)、南部藩士、新渡戸十次郎の三男として誕生。幼少期は武士の家の子の教育を受けてきた。札幌農学校(北海道大学の前身)で学び、アメリカ・ドイツに渡って農政学等を研究。帰国後、東京帝大教授、東京女子大学長などを務めて、青年の教育に情熱を注いだ。」

そんな彼が、「武士道」を著すきっかけとなった事件が、その冒頭にこのように記されております。

『1889年頃、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私はその質問に愕然とし、即答できなかった。』

その後、彼は現代日本(現在から見れば「近代日本」だろうか)の道徳観念は封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを書物という形にして世に出すことになったそうです。

原著は1898年、アメリカ滞在中に英文で書かれたもの。1900年にフィラデルフィア(アメリカの最初の首都)の出版社から刊行され、1905年には増訂版が出されたそうです。日本でも、フィラデルフィア版と時を同じくして英文版が出版されました。この版はほとんど残っていない模様ですが、国会図書館に2,3冊所蔵されているそうです。

その後、日本語訳されたものがいくつか出版されましたが、一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」とのことです。新渡戸自身が日本語で著した版は存在しないようです。元々、諸外国に日本独自の道徳概念を紹介することが目的であったようなので、日本語では著さなかったのかもしれません。そういう目的であったため、本文中には外国の歴史上の人物・故事を例に出して説明したり、キリスト教と比較するなど、日本人にはわかりにくい例えが目立つのも事実です。なので、拙者自身よくわかっていないところもあります。

■1.武士道とは何か

「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」と言える。武士が守るべきものであり、道徳の作法である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。

武士道がいつ確立されたのか、時と場所を明確に指定することはできないが、武士道が自覚されたのは封建制の時代であった。つまり、封建制の始まりと武士道の始まりは一致すると考えられる。日本で封建制が確立されたのは、源頼朝が武家政権を開いた時期であるが、封建的な社会的要素はそれ以前から存在していた。よって、武士道の要素も同様に、それ以前から存在していたと考えられる。武士道の源流を生み出した階級「侍」は、戦闘によってその特権的な地位を得た。長い戦いの歴史の中で、弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。彼らが地位と名誉を獲得し、それに伴う義務を帯びるようになると、彼らに共通した行動規律が必要になってきた。その原点は、戦闘における「フェア・プレイ」である。子供じみた幼稚な考えであると、大人は笑うかもしれないが、これこそ壮大な倫理体系の「かなめの石」であろう。

戦闘は野蛮で残虐な行為を含んでいるが、「臆病者」「卑怯者」という言葉は、少年のように健全で単純な性質の人間にとっては、この上ない侮辱であった。少年達はこの観念をよりどころとして、人生を歩み始めるのである。武士道も同様であった。しかし、時代が変化するに従って彼らの行動は、より高次の権威と、より道理にかなった判断に基づいたものを求められるようになった。そのため、武士道の源流は戦闘のみならず、いくつかの拠り所を持っていたのである。

■2.武士道の源

武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。

もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。

道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものであった。

次いで、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、この言葉と思想は武士の心の中に永遠に住みつくようになった。

「論語読みの論語知らず」という言葉がある。孔子の言葉を振り回すだけの人を嘲っているものである。武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。つまり、知識とは、人生における知識適用行為と同一のものなのである。知識とは、本来は知恵を得るための手段なのである。どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないものであった。この思想は、中国の思想家・王陽明が何度も説いた「知行合一」の精神に詳しく解説されている。

このように、武士道の源泉となったものはいくつか存在するが、武士道が吸収したものはわりと少なく、単純なものであった。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである。

■3.義

「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(まき いずみのかみ:筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。

「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」

また、孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。封建制の末期、長く続いた泰平の世が武士に余暇をもたらし、悪辣な陰謀とまっかな嘘がまかり通っていた時代に、主君の仇を報じた47人の侍がいた。私たちが受けた大衆教育では、彼らは義士であり、その素直で正直で男らしい徳行は最も光輝く宝の珠であった。

しかし、「義」はしばしば歪曲されて大衆に受け入れられた。それは「義理」という。「義理」とは「正義の道理」なのであるが、それは人間社会が作り上げた産物といえるだろう。人間が作り上げた慣習の前に、自然な情愛が引っ込まなければならない社会で生まれるものが、義理だと思うのである。この人為性のために、「義理」は時代と共にあれこれと物事を説明し、ある行為を是認するために用いられた。人間の自然な感情に反する行為でも、それを社会が求めているのならば、その行為を正当化する道具として「義理」があらゆる場所で用いられたのである。もし「武士道」が、鋭敏で正当な勇気と、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば、「義理」は臆病の温床に成り下がっていただろう。

■4.勇

孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。つまり、「勇」は「義」によって発動されるものである。水戸光圀(黄門)は、こう述べている。

「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり。」

つまり、あらゆる危険を冒して死地に飛び込むだけでは「匹夫の勇」であり、武士に求められる「大義の勇」とは別物なのである。

勇とは、心の穏やかな平静さによって表現される。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人、詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さ(余裕という)が、その人の器の大きさなのである。優れた武将として名高い太田道灌(おおた どうかん:室町時代の関東の武将。主家である扇ヶ谷上杉家を支えて武威を奮った。)は、讒言によって暗殺された時も、槍を突き刺した刺客が投げかけた上の句を受けて、息も絶え絶えの状態で下の句を続けたという挿話がよく知られている。

同様の例は他にもある。戦国時代、武田信玄と上杉謙信という二人の戦国大名が激しく争っていた。ある時、他国が信玄の領地に塩が入らないように経済封鎖を行い、信玄が窮地に陥った。この信玄を救ったのが、宿敵であるはずの謙信であった。彼は「貴殿と争うのは弓矢であって、米塩ではない。今後は我が国から塩を取り給え。」と手紙を寄せ、自国で取れた塩を商人の手によって、信玄の領地にもたらしたのである。

「勇」がこの段階まで高まると、価値ある人物のみを平時に友とし、そのような人物を戦時の敵として求めるのである。「勇」には、相手と競い合うようスポーツのような要素を含んでいる。そのため、合戦とは単なる凄惨な殺し合いではなく、命を懸けた競争のような要素を含んでおり、戦の最中に歌合戦を始めたり、当意即妙な応対を讃えるなど、凡人には理解しがたい知的な勝負でもあった。

■5.仁

「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中でも至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。

「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。伊達政宗は「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。「武士の情け」とは、盲目的な衝動ではなく、ある心の状態を表現しているものでもない。生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んでいるものであった。一の谷の戦いで、熊谷直実が自分の子と同年代の若き武者平敦盛を泣く泣く斬る場面は、その代表例である。歴史家は、この話は作り話めいていると言うが、か弱いもの、敗れた者への仁は侍にふさわしいものとして奨励され、血なまぐさい武勇伝を彩る特質であった。

武士には詩歌音曲をたしなむことが奨励された。合戦におもむく武士が歌を詠んだり、討死した武者の鎧や衣服から辞世の歌を記した書付が見つかることは珍しいことではない。日本では、音楽や書に対する親しみが、「仁」の心、すなわち他人に対する思いやりの気持ちを育てた。

■6.礼

「礼」とは

長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない

ということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳であると言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。「礼」は細分化され、挨拶や座り方なども細かく決められており、特殊な場合は礼の専門家によって指導されることもあった。西洋人の一部は、これらの決められた行儀作法を、自由な発想を奪うもの、として批判している。確かにそのような面があることは私も認めざるを得ない。しかし、「礼」を厳しく遵守する背景には道徳的な訓練が存在しているのである。

代表的な例は茶道である。茶道は喫茶の行儀作法以上のものである。それは芸術であり、詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。そして、精神修養の実践方式なのである。礼とは動作に優雅さを添えるものであるが、礼に乗っ取った動作は礼儀のほんの一部分に過ぎない。かつて孔子は「音が音楽の一要素であるのと同様に、見せかけ上の作法は、本当の礼儀作法の一部に過ぎない。」と言った。動作も重要なものであるが、それだけでは「礼」ではない。「礼」に必要な条件とは、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。その感受性は、日常生活の些細な動作の中に顔を出すのである。

■7.誠

「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていた。「武士に二言はない」という有名な言葉があるが、ドイツでも同様の意味の言葉がある。「Ritterwort(リッターヴォルト):騎士の言葉」(Ritterとは騎士。wortは言葉)である。この言葉には、嘘偽りがない言葉、という意味も持っている。断言した武士の言葉は、真実であるということを十分に保障するものであった。「二言」のために、壮絶な最期を遂げた武士の話は、いくつも存在している。

そのため、武士同士の約束はたいてい証文などはとらなかった。言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからである。むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることである、と考えられた。「誓うことなかれ」というキリストの教えを、多くのキリスト教徒日常茶飯事に破り続ける一方で、真のサムライは「誠」に対して並々ならない敬意を払っていたのである。

しかし、武士が「誓いを立てる」という行為を一切行わなかったわけではない。八百万の神々に誓いを立てることもあれば、誓いを補強するために血判を押すこともあった。ただし、彼らの誓いは決してふざけた形式、大げさな祈りなどには堕落しなかった。

キリスト教世界と異なるところはもう一点ある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。

■8.名誉

「名誉」は、幼児の頃から教え込まれるであり、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。新井白石は

「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」

と言った。名誉は、誠と同様に、武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。

しかし、武士の名誉の名の下に、些細な事件や侮辱されたという妄想から、悲惨な刃傷事件が発生することも多かった。その多くは、武士という階級に重きを置くための創作であったが、武士の「名誉」に端を発する事件は数多く起きていた。そうなると、名誉はかえって武士を残忍にさせるものに成りかねなかったが、それは「寛容」と「忍耐」で補足されていった。些細なことで腹を立てたりすることは「短気」という言葉で嘲笑される素となったのである。寛容、忍耐の境地に達した人は稀であるが、その一人の西郷隆盛は

「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

と、教訓を残している。

■9.忠義

忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているのである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、と考えているのである。同様の考え方は、古代ギリシャの高名な哲学者・アリストテレスや現代の社会学者の一部にも見られるものである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして死なねばならないのである。同じく、古代ギリシャにおいて先駆の哲学者であったソクラテスは、国家あるいは法律に次のように言わしめた。

「汝は我(国家・法律)が下に生まれ、養われ、かつ教育されたのであるのに、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うか」

武士道が抱えていた思想は、西洋においてもそれほど突飛な思想とは言えない。ただ、武士道の場合、国家や法律に相当するものは主君という人間の人格であった。

グリフィスは「中国では、儒教の倫理は父母への従順を人間の第一の責務としたが、日本では忠義が優先された」と言ったが、正しい表現であろう。「忠」と「孝」の板ばさみに合った時、多くの侍は「忠」を選んだ。また、侍の妻女たちは、忠義のためには自分の息子を諦める覚悟ができていたのである。また、そのような逸話は数多く日本に存在しているのである。

真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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