大和魂 ⑯

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

■明治維新とキリスト教

キリスト教のことである。前編で、同志社を設立した教育者で牧師の新島襄と、日本海軍を創始した立役者で政治家の勝海舟が一見全く違うジャンルで活動していたように見えるが、実はキリスト教を介して深い交友関係にあったことに触れた。

■新島襄と勝海舟

また、新島襄がキリスト教を標榜する同志社を、京都という旧来日本文化の中心地に開くことが出来たのは、森有礼、田中不二麿、木戸孝允たちの明治新政府の指導者たち、あるいは山本覚馬のような京都府における指導者と深い交友関係が築けたためであるが、彼らは新島襄のキリスト教思想に共感を示し、中には自ら洗礼を受けた者がいることも、以前のウェブログ「新島襄と同志社」で触れた。

■新島襄と同志社

つまり、キリスト教は、五か条のご誓文に続いて出された五榜(ごぼう)の掲示の、第三札「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ 若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事 慶應四年三月 太政官」を見てもわかるように、明治維新の時点では依然として禁制であったにもかかわらず、それに拘らなかった明治期の指導者がいたということである。

もちろん岩倉使節団の欧米訪問により、キリスト教を禁制したままでは不平等条約改正が不可能と悟って、いわば外圧によってその不利を理解した向きも多いのだが、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教精神に親近感をもった勝海舟や新島襄、さらには内村鑑三や新渡戸稲造のような人物が出たことは考えてみれば不思議でもある。

■所感

なぜ、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の日本的な素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や、藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝海舟や坂本竜馬、さらに新島襄たちが生まれたのだろう、ということの疑問から、司馬遼太郎の解釈に接し、その結果、カッテンディーケにまで来てしまった。

昔の日本を西欧人の目で見た書として、以前のウェブログ「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」でイギリス人のイザベラ・バードの見た日本に触れた。彼女の見た日本は明治維新後の1878(明治11)年の日本であったが、オランダ人のカッテンディーケの見た日本は、イザベラ・バードよりさらに20年余り前の、まだ江戸時代の日本である。しかもイザベラ・バードは日本の中でも文化の浸透が遅かった東北や蝦夷日本を見、カッテンディーケは日本の中では最も国際化されていた長崎を見たということになる。

■イザベラ・バードの日本奥地紀行

両方の書を読んで感じるのは、「事実をありのままに見る」という公平な観察態度である。イザベラ・バードの時もプライバシーを保てない生活の中でも、物事を観察する態度は冷静であり、その本質を見ようとする観察態度に強い感銘を受けたが、カッテンディーケも来日前には事前勉強をしっかりしていて、着任してからの日本を見る目は非常に客観的である。

イザベラ・バードは、どうも短足胴長の日本人男性より、背も高く彫りの深い顔立ちのアイヌ人男性の方に好みがいったようであり、日本男子の読者としてはやっかみも出る部分があったが、カッテンディーケは日本酒の美味しさをワインと比べて礼賛しているところもあり、かなり日本びいきになっていたことは間違いないように思われる。

肥前藩の防護施設を視察した後の食事で、「食事はヨーロッパ風の料理に葡萄酒などを揃えて出したが、その葡萄酒の味ときたらとても不味くて、何べんも何べんも繰り返される乾杯には、むしろ日本酒をもって答えたくらいであった。日本人は一度始めるときりがない。私はその折、日本酒も此処のように良いものならば、ずいぶん多量に飲んでも、決して害がないことを経験した。」

「いやしくも正直なヨーロッパ商人なるかぎり、どうしてあのような葡萄酒を、日本人に売りつけられようか。私には全くの謎である。しかもそればかりではない。彼らヨーロッパ商人は、日本人がサン・ジュリアンとかカンタメアルなどという葡萄酒よりも、日本酒のほうを好む理由が解せないとさえ、日本人に向かって言っているのだから、ただ驚くの外ない。」と、日本酒を擁護してくれている。

たしかに司馬遼太郎の観るように、江戸日本の気質と、オランダのプロテスタンティズムおよび国民や市民の概念が結びついて、幕末の一部の日本人に、幕府解体以降の日本の進むべき道を照らしたことは間違いないのであろう。日本の皇室はオランダ皇室と今も深い交友関係を結ばれているが、一般の日本人も日本が近代化するにあたってのオランダの貢献を忘れてはなるまい。 

 

■会津武士道 / 「ならぬことはならぬ」の教え

 

■白虎隊の里  

山川健次郎の故郷、会津若松はなんといっても白虎隊の里である。  

戊辰戦争のとき、健次郎とほぼ同年代の少年たちが、城下を見下ろす飯盛山で自刃した。墓前は焼香が絶えず、会津若松を訪れる人は、必ずといっていいほどここに参拝する。  

墓前に立つと、人間の死がいかに厳粛で尊厳に満ちているかをいつも感じる。  

山川健次郎は国家をもっとも大事にした人間だった。  

戊辰戦争に破れた会津の人は亡国の民だった。国を追われ、放浪の生活を余儀なくされた。そこからはいあがった健次郎は、国家のために命をささげた白虎隊の若者たちを、生涯忘れることはなかった。  

幕末、悲劇の会津戦争を体験した。  

会津藩は幕府の命令で京都守護の大役を仰せつかり、年間1千人もの兵を京都に送った。京都には革命の嵐が吹き荒れていて、すべての人が尻込みをした。あえて火中の栗を会津藩が拾った。  

薩摩、長州との確執が深まると、兵員は2千人近くにもなる。失費も大変で、会津の領内は疲弊した。  

朝廷と幕府との間に立って懸命に努力をしたが、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らとの政争に敗れ、朝敵の汚名を着せられ無念の帰国となった。  

いきつくところは戦争だった。  

会津藩は老若男女も参戦し、必死の戦いを繰り広げたが、3千人の死者を出して惨敗した。  

武士の社会では、戦争もありだった。だが、この戦争には武士の情けがなかった。女分捕り隊や物品略奪隊まで編成し、城下を荒らし回り、死者の埋葬も許さない冷酷無残な戦争であった。それが、人情を大事にする会津人の心をひどく傷つけた。 

■郡長正の自刃  

会津藩の教育制度は非常に厳格だった。  

サムライは上、中、下の3つの階級に分かれ、上士の者は下士の者を切り捨てる権利を持っていた。これはえらいことだった。自分の判断で相手を切り捨てることができた。しかしそのときの状況が一方的だったり、逆に上士に誤りがあったりした場合は、切腹だった。サムライには責任があった。たとえ子供であっても刀を差したら、悪ガキではすまなかったのである。  

会津戦争後のことだが、壮絶な切腹をした少年がいた。  

旧家老萱野権兵衛の次男郡長正、16歳である。  

権兵衛は戦争の責任を負って自刃、萱野姓は剥奪され、遺族は郡姓を名乗った。  

会津藩は消滅となり、青森県の地に斗南藩を創設し、会津藩の再興を期したが、極寒の地で困苦を強いられ、とても勉学どころではなかった。  

そこで豊前豊津藩に依頼し、明治3年、6人の少年を豊津藩校育徳館に内地留学させた。長正は「食べ物がまずい」と母親宛てに手紙を書いた。不覚にもその手紙を落とし、育徳館の生徒に読まれてしまった。「会津藩の恥辱」として留学生仲間からも糾弾された長正は、豊津藩と会津藩の剣道の試合で完勝したあと、「武士の名誉を汚した」と潔く自刃した。同じ会津の留学生が介錯した。  

武士の対面を汚した場合、たとえ少年であれ、腹を切る。そうした道徳、倫理観が徹底していた。  

育徳館は現在、福岡県立豊津高校となっており、校庭の一画に長正の碑がある。  

「まことに気の毒なことだった。しかし豊津高校生は、そのことを肝に命じ、今でも長正を慕っている」  

卒業生の一人はそう話し、この人は山川健次郎の胸像建設運動が起こったとき、九州地区の募金を担当した。 

■遊びの什  

会津藩の子供は六歳から勉強を始める。  

午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、一カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。一人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。  

仲間は10人1組を意味する「什」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。  

遊びの集会場は什の家が交替で務めた。  

1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。  

一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。  

一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。  

一、虚言をいうてはなりませぬ。  

一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。  

一、弱い者をいじめてはなりませぬ。  

一、戸外で物を食べてはなりませぬ。  

一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。  

そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。  

この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。  

遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。  

家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。  

年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。  

このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。 

■厳しい罰則  

その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。  

一、無念、軽い罰則は「無念」だった。  

「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びた。  

二、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。  

三、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供ではなく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だったのだ。  

罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、十石二人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。  

「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。  

会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。  

なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。 

■凛々しい母親  

幼児教育は母親が受け持った。どこの母親も子供を厳しく育てた。  

母親たちは素読の稽古から帰ると、子供を先祖を祭る神前か仏壇の前に座らせ、「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と切腹の稽古をさせた。武士はいつでも主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。会津人の芯の強さ、頑なさは、こうした武士道教育にあった。  

「婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」という一節は、昨今の女性からは「封建的」とすこぶる評判が悪いが、これもこの時代では当たり前の社会風潮だった。  

男女の規範は薩摩も長州も同じである。男子は塾や学校があったが、婦女子は家庭で教育を受けた。親は娘に「凛々しくあれ」と説いた。子供たちは、そのような母親から教育を受けた。  

そして娘が嫁ぐとき、父親は娘に懐剣を渡した。一つは身を守るためだが、もう一つは、何事かあれば、家名を汚すことなく、命を絶てという意味だった。  

主君松平容保が京都守護職に就任した文久2年(1862)以降、母親の力はさらに強くなった。男たちが京都に出かけ、母子家庭になったためである。  

当初は1年交替だったが、薩摩や長州との抗争が激化するとともに、1年が2年になり2年が3年になり、父親の長期不在の家庭が増えた。必然的にこれらの少年の監督は、母親が受け持った。  

実はここが重要なところだった。母親や祖父、祖母が教師がわりだったので、頑固さの中にも優しさがあった。  

会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりだった。  

煙草のポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、こういうことの戒めを盛り込んだ新「ならぬことはならぬ」を幼児教育に取り入れれば、日本の混乱を救うことができるのではなかろうか。そう思わざるを得ないのである。 

■柴司の切腹  

切腹は武士道精神の華といわれた。  

「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にあるように、切腹と武士道は密接不可分の関係になった。  

京都で会津藩士柴司が切腹していた。まだ20歳の青年だった。  

新撰組が池田屋を急襲し、薩長土佐などの浪士を斬った。元治元年(1864)六月五日のことである。風の強い日に京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて会津藩の本陣や新選組の屯所を襲い、御所に乱入して孝明天皇を拉致し、革命政権を起こさんとする陰謀を画策していた。これを未然に防ぎ、会津藩と新選組の名前は一気に高まった。  

その5日後の6月10日、祇園に近い茶屋明保野亭に長州勢が集まり密議をこらしていると急報があった。会津藩から柴司ら五人、新選組から15人ほどが茶屋に向かった。  

司は柴五郎の家の分家筋の家柄で、兄弟3人で京都に来ていた。  

明保野亭を取り囲むと、突然、2階から一人の男が刀をふりかざしてかけ降りて来た。男は垣根を飛び越えて逃げようとした。司がその男を追い詰めた。男が抜刀し、今にも切りかからん勢いである。司は槍の名手だった。司は咄嗟に男の胸を突いた。鈍い音がして男は倒れた。  

「拙者は土佐藩の麻田時太郎である。なにゆえの狼藉か」  

男が土佐藩と名乗ったことで、司は愕然とした。長州ではなかったのだ。  

「なぜ逃げられたのか」  

司の問いに麻田は黙ったままだった。  

麻田の懐中に鏡があり、司の槍はそれをかすめて脇腹を刺したので、決して重傷ではなかったが、即刻、土佐藩に知らせなければならない。  

会津藩から土佐藩邸に使者が飛び、状況を説明した。土佐藩は意図的に刺されたとして会津藩に厳重な抗議が申し込まれた。  

土佐藩の兵士のなかには会津藩本陣に攻め込め、と叫ぶものもいる、という。  

会津藩は再三、公用人を土佐藩邸に送り、偶発的な事件であり、土佐藩に対する悪意はまったくないと弁明し、麻田を見舞った。  

ところが土佐藩には戦いで手傷を負わされた者は、自ら切腹する習慣があった。武士にはいずこにも厳しい掟があったのである。  

このことが会津藩に伝えられ、事態は深刻になった。麻田が自刃すれば、司もこのままではすまない。事態を沈静化させるためには、司も自刃せざるを得ないことになる。  

司には何ら問題はなかった。  

しかし土佐藩の事情によって事態は意外な方向に発展し、結局、司も自刃に追い込まれた。武士とはそのようなものであった。兄たちは号泣した。  

藩当局はそのかわり次兄外三郎に10石3人扶持を与え、司に代わりて新規召し出しとした。  

長兄幾馬が母に宛てた次の手紙が残されている。  

母上さま、皆様にはいかばかりか、お嘆き遊ばされたと存ずるが、切腹の儀も残すところなく立派に終わることができました。君のために身命を投げ捨てたことが、諸家にも追々伝わり、皆、感嘆いたしております。このように天下へ英名を顕し、かつ外三郎が召し出しに成り、一家を起こすことができたのは異例のことです。これもひとえに司が士道に生きたために、かような御賞誉に預かったのです。誠に身の余りありがたき次第です。かようなことなので、司のことはあきらめてくださるよう願い奉ります。  

現代語に訳すと、このような手紙だった。母は耐えなければならなかった。このことも、あっという間に城下に伝わった。武士の妻にとって、切腹は他人事ではなかった。いつ自分の子供にふりかかるかわからない身近な問題だった。会津藩では妻たちも覚悟が必要だった。 

■安川財閥  

健次郎は生粋の教育者だった。  

人を育てることが、好きだった。現場で生徒や学生と触れ合うことに、喜びを感じた。  

明治39年(1906)9月のことである。  

東京の健次郎の自宅に財界の大物が来ていた。  

北九州の大実業家安川敬一郎である。  

安川は旧福岡藩士の家に生まれ、後、安川家の養子になり、福沢諭吉の慶応義塾に学び、石炭の採掘、販売で成功し、日支鉱業を起こし、日清戦争前後から海外に雄飛した。  

この日の用件は九州に、新しい実業専門学校をつくることだった。健次郎に総長就任を要請するため安川が上京したのである。  

安川がなぜ専門学校設立を考えたのか。  

1つは安川の知性である。安川は藩命によって京都、静岡に留学し、勝海舟に洋書の手ほどきを受け、福沢諭吉に学んだ経歴は、当時の社会では、希有のものだった。  

目にとまった森鴎外の論文にも啓発された。  

明治33年頃、鴎外は第12師団の軍医部長として九州小倉に来ていた。  

鴎外は福岡日々新聞に、「吾れもし九州の富人たらしめば」と題し、国の発展によってもたらされた財は、ため込んだり、無駄使いしたりするのではなく、国益のために使うべきだと訴えた。  

鴎外は日清、日露戦争の特需で利潤をあげた貝島、麻生、安川の「筑豊御三家」と呼ばれる炭田王に世の中のために金を使えと注文をつけた。  

安川はこの記事にも刺激を受けた。  

「これからの日本にとって、大事なことは人材の育成です」  

安川はおのれの信念を述べ、「その学校の総裁になっていただきたい」と単刀直入に、健次郎に協力を求めた。  

子孫のために美田を残すのではなく、国家のために貢献したいという安川の考えに健次郎は共感した。  

かねて私学の振興を考えていた健次郎は、全面的に協力すると安川に約束した。 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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