http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
元明天皇
(げんめいてんのう) 661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月7日) 日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。漢風諡号の「元明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
■略歴
天武天皇4年(675年)に、十市皇女と共に伊勢神宮に参拝したという記録がある。
天武天皇8年(679年)頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚した。同9年(680年)に氷高皇女を、同12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ。同10年2月25日(681年3月19日)に草壁皇子が皇太子となるものの、持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に草壁皇子は即位することなく早世した。姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となった。
慶雲4年(707年)4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、直後の6月15日(707年7月18日)、息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。ただし、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする。
慶雲5年1月11日(708年2月7日)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
同5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。翌同6年(713年)には『風土記』の編纂を詔勅した。
715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。養老5年(721年)5月に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。
和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。また、養老6年(722年)11月13日に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。
■元明天皇に関する歌
『万葉集』に以下の歌が残されている。
勢の山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌
これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
越勢能山時阿閇皇女御作歌 / 此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山 [巻1-35]
和銅元年戊申 天皇の御製
大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも
大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 [巻1-76]
■陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。
崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。
陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
■私論・万葉集に詠われた「天の香具山」
「 大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ嶋大和の国は 」
これは万葉集第2首の歌ですが、きっとご存知の方も多いことでしょう。
書籍を読んだ時、万葉集の歌の解釈にいろいろと疑問が浮かびましたが、その中で最も不可解に思ったのがこの歌でした。通説では、『大和にはいろいろな山があるが、選んで『天の香具山』に登って国見をすれば、国原には煙があちこちから立ち昇り、海原には鴎が飛び交っている。何てすばらしい国なんだろう、あきづ嶋大和の国は』となっています。
時の大王が、奈良大和三山の香具山に登って自らの治める国を眺め、その美しさを愛でて詠ったというものです。
ところが、奈良盆地には、海原や鴎が見えるような場所は何処にもありません。もちろん、嶋など見えるはずもありません。それついては、すばらしい国とはこうあるべきだといった架空の概念を詠ったと言われています。つまり、この歌は、想像や空想の産物だというのです。
また、あきづ嶋とは、トンボのような嶋を言うのですが、それもこの列島を詠んでいるとされています。地図も人工衛星もない古代にあって、この列島の全体像は知り得ません。ですから、その大王は、おそらくこんな形状をしているのだろうと思い描いたという訳です。
私には、この歌がそんな絵空事のような歌には思えませんでした。見晴らしの良いその山の上には、心地良い風が吹き、あちこちで煙が立ち昇っているのが見えたことでしょう。そして、鴎のにぎやかな鳴き声や潮の香りすらしてきそうなほどに写実的な歌に思えました。
この詠み人は、そこに描かれているような情景を実際に眺めながら歌ったとしか私には思えませんでした。
あるいは、その当時、奈良には海があったのかもしれません。とにかく、現地に行って自分の目で確かめるしかありません。奈良の地へ出かけることにしましょう。
■大和
第2首が詠われたとされる奈良へ行きましたが、その歌は奈良の香具山で詠われたということはあり得ないという確信がますます深まりました。また、甘樫の丘では、日本書紀にあるような蘇我氏の記述がはたして史実なのかということも新たな疑問として出てきました。
いったい、第2首は、どこで詠われたのでしょう。その解釈では、『奈良大和』で詠まれたことになっています。では、もう少し第2首を検証してみましょう。まず、その第2首の原文を見ることにしましょう。
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろう 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ嶋 大和の国は)
これらは、万葉仮名と呼ばれていますが、この列島の言葉の意味や読み方に、より近い漢字が当てられているようです。『山常』で『やまと』を表現しています。『常』と いう文字が使われているということは、常に、つまり常しえに続く都といった意味合いをそこに込めたのかもしれません。
後の『やまと』を『八間跡』としているのは、その読み方をより正確に伝えるようにしたものか、あるいは『八』といった末広がりに発展していくといった意味合いが含まれているのでしょうか。
煙は龍のように立ち昇り、鴎はとても多く飛んでおり、また、その地は都だといったように、文字は『言霊』とも言われていましたが、1字1字十分に吟味した上で選ばれているように見えます。
『うまし国ぞ』と読まれていますが、その『怜』の次の文字Aは、パソコンには無い文字で、『怜』と同様『りっしん偏』に『可』と書きます。『りっしん偏』ですから、心に関わる文字です。『れいか』、つまり、華麗といった褒め称える意味合いの文字ではないかと考えられます。
さて、『山常』や『八間跡』が『やまと』であるということに間違いはないかと思われます。しかし、この原文を見る限りにおいては、その地名が、『奈良大和』を間違いなく意味するとは言えないようです。
そうなりますと、『大和』とは何かということにもなってきます。古代の都『やまと』、それが『大和』とされています。確かに、この第2首で『やまと』がこの列島の都だったということが言えます。しかし、この歌の原文の表記では『大和』となってはいません。『大和』は、『だいわ』としか読めません。
つまり、都を意味する『やまと』に同じく都を意味する『大和』の文字が当てられたということでしょうか。もし、そうだとすれば、他に都を意味する『大和』という文字を使った歌があるのかもしれません。では、『大和』という文字の入った歌を調べてみましょう。
■万葉集と「大和」
『やまと』と読み『大和』と表記される、この列島の都を意味する地名ですが、何と万葉集歌の原文には、その『大和』という文字で地名が表されている歌は1首もありませんでした。つまり、万葉集の歌が詠まれた時代には、『大和』という表記は存在していなかったことになります。では、どういった表記がされていたのでしょう。
私が調べた限りにおいては、
『倭』 19首(1) / 『山跡』 18首 / 『日本』 14首 / 『夜麻登』 5首 / 『八間跡』 1首(1) / 『也麻等』 1首 / 『夜萬等』 1首 / 『夜未等』 1首
の58首60箇所に『やまと』と読まれている地名の表記がありました。
驚いたことに万葉集の歌の原文には『大和』という地名の表記は1首たりともありませんでした。さらに、この調べた60箇所のすべてが『大和』と解釈されていました。どうして、これらの地名のすべてが、『奈良大和』を意味していることになるのでしょう。この時点で、私は、どう考えて良いのか分からなくなってしまいました。
ただ、第2首の歌に詠われている『やまと』が、『奈良大和』であるという認識は、万葉集には無いということは分かりました。では、第2首に詠われた『やまと』は何処にあったのでしょう。
それは、当時の都を意味していますから、この列島の都が現在の奈良ではなく、何処か別の場所にあったことになります。そうなりますと、第2首が詠われた場所を特定しようとしますと、その都を特定しなければなりません。そんなことが、一素人の手に負えるとは思えません。この時点で、第2首の詠われた場所探しは、暗礁に乗り上げてしまいました。
奈良以外に都があり、そこには海があり細長いトンボのような嶋がなければいけません。この列島に残されている資料の何処を見てもその答えはなく、ほとんどお手上げといった状態でした。
そんな、諦めかけていた時でした。ふと、この国の資料で分からなければ、中国の史書があるということに気がつきました。この列島を代表する都ですから、何らかの形で中国の史書に反映していても不思議ではありません。暗闇の中で、一筋の明かりを見た思いでした。私の古代史探索は、新たな展開をすることになりました。はたして、中国の史書にこの列島の都は描かれていたのでしょうか。
■中国の史書から出雲が見えた
中国の史書を調べていきますと、隋書に、隋の使者がこの列島の大倭王の居る都へやって来たとありました。その使者の道程が書かれていますから、それをたどりますとこの列島の都が何処にあったのかが判明することになります。
いよいよ、めざす都が特定できるかもしれません。私は、胸の高まりを抑えることができませんでした。その記述の中で、いくつかの国を経ると『海に達した』という表現をしているのです。そして、そこで歓迎の式典が催され、都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、200騎とあります。
これらの記述を見た時に、『これって、出雲?!』と、私の中に閃光が光ったような衝撃を覚えました。
私は、所は違いますが和歌山大学の卒業で、学生の頃にサークルの合宿で南紀方面へ行く機会がありました。その折に、その合宿の施設の近くの山を登ることになりました。 そうは言ってもそんなに高い山ではなく、海にせり出ているような尾根といった程度です。雑木を掻き分けながら、30分ほど登りましたでしょうか、すると尾根に出て、そこは魚見台といったとても見晴らしの良い場所でした。
登った瞬間、いきなり海が一望に開けて見えたのです。それは、すばらしい感動を体験できました。場所も時代も規模も異なるので、簡単に比較はできませんが、その『海に達した』という記述を見て、学生の時の感動体験を思い出しました。
わずかな文字しか無い史書でその使者の体験した中に描かれるほどです。その使者は、大陸から海を越えてやってきているのですから、決して海が珍しい訳ではありません。つまり、その使者は、内陸部のかなり険しい道のりを経て海の見える場所に出たのでしょう。
九州からその使者は東へ向かって移動しています。瀬戸内海を船で移動したとしますと、海に達したとは描きません。ましてや奈良大和であろうはずもありません。瀬戸内海沿岸を移動したとしても、瀬戸内海が見え隠れしていますから、同様に海に達したとは言わないでしょう。
そうなりますと、中国山脈を越えたのではないかと思ったのです。今も、出雲街道と言われる中国山脈越えのルートがいくつかあります。その道を経て日本海側へ出たのではないでしょうか。そうしますと、大変な山越えとなります。その労苦をねぎらって祝宴が設けられたのも理解できます。しばらくは、休息して都からお迎えの騎馬隊がやって来たということでしょう。200騎もの騎馬隊で迎えるということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えました。
この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したのです。 そうしますと、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都『邪馬臺国』と一緒だという記述もあるのです。
つまり、長年議論されている『邪馬台国』は、実は出雲だったということにもつながりました。私は、万葉集の謎を追い求めてはいましたが、決して『邪馬台国』探しを目的とはしていませんでした。しかし、この列島の都を特定しようと中国の史書を検証する中で、『邪馬台国』の発見にも至ることができたのです。
出雲が、この列島の都だという認識に到達しますと、今まで謎だったことが次々と解明できていきました。さらに、『景初3年』の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都でありかつ『邪馬台国』であったことは動かしがたい事実として確信を強めました。
これで、この列島の都が特定できたのです。本当に、そんなことができたなんて自分でも信じられませんでした。そうなりますと、第2首が詠われたのは出雲なのかもしれないと、いよいよ当初からの本来の謎の解明に王手がかかりました。
■出雲大社の地に大王が
思いもよらなかった出雲の出現で、私の謎は、解明に向けて1歩も2歩も近づいた思いがしました。しかし、出雲と言っても、どこでそんな歌が詠われたかとなりますと、そう簡単には分かりません。山ほど有る山の中から、これが『天の香具山』だなどと特定するには、それ相当の根拠が必要となります。ひとつひとつ登ってみるわけには行きませんし、ここでまた大きな難関が立ちはだかってきました。
とりあえず、出雲について調べてみることにしました。出雲風土記、出雲大社、熊野大社、八重垣神社、日御碕、宍道湖等々、あるいは荒神谷遺跡など謎の宝庫とも言えるほどに多くの歴史的遺産を残しています。
さすがこの列島の都だったことはあります。
また、その歴史を遡る中で、今は本州とつながっている島根半島が古代にあっては嶋だったことも分かりました。それも細長い嶋です。まさしくトンボのような形をしているではありませんか。嶋ですから、当然その周辺には海が広がっています。
そして、日御碕の近くに経島(ふみじま)、あるいは御厳島(みいつくしま)と呼ばれて、古来より禁足地とされている島があることも分かりました。その島は、ウミネコの繁殖地となっていて、12月頃におよそ5千羽が飛来し7月頃にはまた飛び去っていくとありました。今は、ウミネコと呼ばれていますが、鴎科の鳥です。にわかに、鴎とウミネコの違いは分かりかねます。古代にあっては、鴎と呼ばれていたと考えられます。
次第に、第2首の歌の条件が整ってきました。出雲は、たたら製鉄の国ですから、製鉄やその加工には多くの木材を燃やします。その煙が山や周辺のあちこちで立ち昇っていたことでしょう。となりますと、あとはどこに大王がいたのかということだけです。
実は、あの出雲大社から大きな柱が発掘され、そこに32丈、およそ100メートルはあったかという当時にあっては超高層の神殿が建っていたことも明らかになっていました。そこに時の大王が君臨していたと考えると、その巨大な神殿の意味も見えてきます。何と言っても、この列島を代表する国家的象徴ですから、出雲王朝の威信の表れといったところでしょうか。いよいよ大王の居所も特定できました。
あとは、『天の香具山』を探すのみです。これは、どうしても出雲に行かなければなりません。もし、出雲大社の地に大王がいたということになりますと、国見をするとすればその付近だと思われます。ということで、この列島の都で、『邪馬台国』でもあった出雲の地をめざして出発しました。
■『天の香具山』は、出雲大社周辺にあり
出雲大社付近の蕎麦屋さんで昼食を済ませ、稲佐の浜へと向かうことにしました。その蕎麦屋さんの方から、稲佐の浜の手前を右に入った辺りに、神在祭の時に全国の神々が集合する場所があるのでご覧になってはどうかと勧められていました。出雲大社から稲佐の浜までは、およそ1kmほどで、周囲を眺めながら徒歩で西へ向かいました。その途中には、歌舞伎で有名な『出雲の阿国』の墓もあり、そこから、さらにもう少し歩くと下り坂となり、その坂を下って右に入れば、神々の集合場所ということでした。
阿国の墓からその集合場所へ向かう途中、道の右手の山に鳥居が見えました。山の上の方に見える鳥居が、少々珍しく思えました。通常、鳥居は神社の入り口に設置されています。そして、その手前は参道となっているのですが、そこに見える鳥居の手前に参道があるようには見えません。鳥居だけが見えたので少々違和感を覚えました。
そして、神々の集う場所へ行きますと、そこは『仮宮』と言われていて神在祭の時に全国から集まって来られた神々がその場所に集合するといったことが表示されていました。そんなに大きな建物ではなく、和風建築の民家といった風情でした。その時、全国から神々が出雲の地に集合するのだから、出雲大社の本殿じゃどうしていけないのだろうと素朴な疑問を抱いたものでした。それは、その『仮宮』の場所に大きな意味があったということが後に理解できました。そして、そこからすぐ西に行くと稲佐の浜に出ます。稲佐の浜と言いますと、大国主命が『国譲り』を迫られた場所としても古事記に登場します。その浜には、予想通りウミネコが数え切れないほどに飛来していました。でも、ほとんど鴎としか見えません。こちらの映像は、古代史探索紀行映像(出雲)編をご参照ください。そのウミネコの集団を確認すると再び出雲大社に戻り、日御碕へ向かいました。そこにある灯台も見ましたが、ウミネコの繁殖地である御厳島も確認しました。島の上一面がウミネコに覆われていました。
これで、出雲大社の地を検証して帰路についたのですが、出雲大社周辺には確かに多くの山々があり、第2首で『群山(村山)あれど』と詠まれている状況とぴったりくることが確認できました。稲佐の浜から日本海が大きく見渡せますし、半島の南側も当時は海だったということになりますと、海原も間違いなくあったことも確認できました。
ほとんど、第2首の詠われた地域として間違いないと確信しました。
そして、周辺の山々を地図で検証したのですが、実際に自分の目で見た印象と合わせますと、出雲大社の北側から東側ですが標高100メートルから数百メートルの山々が連なり、そこは大王が気軽に登れる山とは言えないようです。ほとんど、本格的な登山に近い山ですし、また、海や鴎からも少々遠ざかるようにも思えます。
では、西側で大王でも気軽に登れる山となりますと、出雲大社のすぐ西側にある山とさらに西にある小高い山となります。出雲大社のすぐ西側の山は、さらにその西にある山で海が見えづらく見晴らしがいいとは言えないかもしれません。そうしますと、その西側にある山は70メートルほどですから、まさしく手ごろに登れそうです。地図には、『奉納山』と記載してありました。さらに、出雲大社などに残されていた古絵図の写真をいくつかみますと、ほとんどその奉納山が描かれています。その上、西の海岸線がほとんどその奉納山の下辺りにまで来ています。これらの検証により、この『奉納山』と呼ばれている山こそが、『天の香具山』であろうという確証を得ました。そして、後日、その奉納山をめざして出雲に向かいました。
■『天の香具山』は、奉納山だった
ふたたび、出雲大社付近の蕎麦屋さんで、昼食の折りに奉納山について話を聞いてみました。『何も無いところですよ』という返事でした。地元の方々には、特に何か話題になっているといったことはなさそうでした。
そして、頂上まで車で上がれるとのことでしたので、車で向かいました。奉納山の下に行きますと、そこにも神社がありました。やはり、重要な意味を持った山だということが伝えられているように感じました。その横を山に沿ってらせん状に上がって行ける様に道が整備されています。しかし、決して車が行きかうことが出来るほどの道幅はありません。対向車が来たらどうするのだろうと思っていますと、途中にも駐車スペースが作ってありました。そこに、止めて歩いたほうが良いかとも思いましたが、とりあえず今回は車で行ける所まで行ってみようとそのまま上がって行くことにしました。
その途中からも、日本海が広く見渡せる場所があり、一旦車を止めてその景色に魅入ってしまいました。古来からの展望台という山に相応しい眺めだと思いました。そうしますと、頂上からの見晴らしが、いっそう期待されます。その期待でわくわくしながら、また頂上へ向かいました。
車ですから、下から頂上までは、数分もあれば着きます。頂上は、車の方向を変えることは出来ますが、決して何台も止められるようなスペースはありませんでした。たまたま、その日は1台も車が無かったので良かったのですが、次に来ることがあれば途中の駐車場に止めることにしました。
そして、ようやく期待に満ち溢れていた頂上に到着しました。車から降りますと、その頂上にはそれなりの広さはありました。降りたすぐそばには、そんなに大きくはありませんが神社があり、鳥居が斜面のぎりぎりのところに設置してありました。その時に、『ああ、これが見えたのか』と、以前下の道から山の上に鳥居が見えてそれに違和感を覚えたことを思い出しました。あのときのちょっとした疑問がこれで解けました。
下に神社があることでそう感じましたが、この奉納山の頂上にも神社があるということで、この山、そしてこの頂上は重要な意味を持っているということを、今に伝えていると改めてそれを確信いたしました。
奉納山は、4つの神社に囲まれています。
では、どういった眺めがそこから見えるのだろうということなのですが、その頂上には、展望台が設置してありました。当たり前のことですが、今も昔も見晴らしの良さに変わりは無かったということです。早速、その上に上がることにしました。もう、これは、第2首に詠われた『天の香具山』に間違いはないという思いと、どんな眺めが見えるのだろうという期待感でもうドキドキワクワクです。展望台に上がりましたら、それはもう感動ものでした。東は遠く東出雲のあたりまで見渡せ、西は出雲以西の海岸線が一望に見渡せるのです。そして、中国山脈の山々や、広大な日本海が眼前に広がっています。
第2首が詠われた当時、その山々からは、たたら製鉄の煙があちこちから立ち昇っていたことでしょう。また、今は、南側、その頃の対岸との間は平地となり町並みが広がっていますが、当時は海でしたから入り江、あるいは内海といった、瀬戸内海のような美しい海岸線が見えたことでしょう。
そして、その山の周辺の沿岸には、御厳島から飛来する鴎(ウミネコ)が飛び交い、その声が鳴り響いていたことでしょう。とうとう、探し当てることが出来ました。
千数百年も昔に、時の大王が国見をした場所に自分が立ち、その当時と景色は大きく変わったとは言え、第2首の詠み人と同じ視点から同様の景色を眺めていると思うと身震いがしそうでした。ところが、残念ながらその歌は奈良の地で詠まれたことにされ、その大王は想像で歌ったことにされているのです。まったく、無念なことだろうと言わざるを得ません。
その大王の名誉のためにも、万葉集の本当の解釈という点においても、何としてもこのことを多くの皆さんに伝えて行かなければならないと、その時、固く決意いたしました。
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