http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
神武天皇と大和国
■大和
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
■大和国
大和国(やまとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。
■神武天皇
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 (旧暦) - 神武天皇76年3月11日 (旧暦))は、日本神話に登場する人物であり、古事記や日本書紀では日本の初代天皇であり皇統の祖としている。日本書紀によれば、天皇在位期間は、辛酉年(紀元前660年・神武天皇元年)1月1日 (旧暦) - 神武天皇76年3月11日(旧暦)。古事記では137歳まで生存、日本書紀では127歳まで生存したとあるが、現在の歴史学では、考古学上の確証がないこと、またその神話的な筋書きから、神武天皇が実在した人物と認めていない。神武天皇の即位月日とされる1月1日 (旧暦)は、明治に入り新暦に換算され2月11日となり、日本国の建国の日として1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められた。紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたが、1967年(昭和42年)に2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日となった。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進した際に付されたとされる。異称は、古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)。
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おおよそ、これが一般的な大和及び大和国、神武天皇の概念であり、認識なのではないか。日本の歴史は天皇家の歴史と重なる。いわゆる大和朝廷によって日本と言う国は始まったとする。その最初の天皇が神武天皇である。ところが大和国へ出掛けてみると判ることだが、初代天皇である神武天皇を始め、ほとんどの天皇が大和国には祀られていないのである。大和国に大和朝廷が誕生したからこそ、大和国の名があるのではないか。誰もがそう思う。神武天皇の故郷は、日向国である。その日向国は、「魏志倭人伝」に拠れば、三世紀、邪馬台国・狗奴国・投馬国の三国に分かれて存在したとある。当然、大和国は邪馬台国の名を継承したものだろう。そう考えると、当然、神武天皇の故郷は邪馬台国しか考えられない。しかし、史実は違っていて、神武天皇の故郷は狗奴国なのである。つまり、神武天皇は邪馬台国の住人ですらないのである。その神武天皇が大和国名を命名するはずがなかろう。こういう捻れが日本の古代史には存在する。しかし、誰もそういうことについて言及しない。
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第一、大和国一宮が大神神社で、その御祭神が大物主大神であること自体が尋常では無い。大物主大神は出雲神である。どう考えても、大和国一宮が出雲神であるはずがなかろう。
古代は宗教の時代である。それなのに、その宗教を無視して、歴史が語れるはずもない。現在の日本の古代史は、そういうことすらご存じ無い。おかしな話である。
それに、日向国をまるでご存じ無い方が、さも知ったかぶりをして日向神話を説く。神話の舞台が何処であるかも知らないで、平然と神話を語る。それはもう笑うしか無い話である。
もっと非道い史家は、神話は作り話であるから、考慮するに足りないとおっしゃる。日向神話を紐解けば、古代人は何とも現実的であって、壮大な物語がどうのように作られたかを知ることが出来ると言うのに。そういう作業を放棄して、古代史が語れるはずも無かろう。
結論から言うと、神武天皇は『遅れてきた青年』だったと言うしかない。神武天皇が大和国へやって来た時、すでに大和国は成立していた。それは出雲神を信奉する人々の国であった。その大和国を南から次第に侵略して行ったのが神武天皇とその一族なのである。
邪馬台国三山や大和三山を信奉する人々が、本来の大和国の国民だと言うしかない。かれらこそ邪馬台国の国民であり、大和国の国民であったと言うしかない。彼らが斎き祀るのは出雲神である。
ある意味、大和国は神代の昔から現在に至るまで出雲神の国だと言うしかない。それは日向国の邪馬台国から移動して来たものである。だから間違いなく出雲神を祀る。その出雲神の故郷は邪馬台国なのである。
平塚らいてうではないけれども、日本に於いて『元始、女性は太陽であった』ことだけは間違いない。日本は、古代に於いては妻問婚であった。そういう時代に、男の歴史など不要であった。つまり、妻問婚である大和国に、男の歴史が存在するはずも無いのである。
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