大和魂 ⑥

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より

夜麻登と大倭と倭と日本と大和 

タイトルの漢字は全部「ヤマト」と読みます。だれでも読むことができるのは、「夜麻登」です。もっと も、漢字には意味がなくて音だけだと教えて貰いませんと読めませんが・・。

次は、「倭」です。これをヤマトと読むとこの出来る人は、すこし変わり者です。大倭を「ヤマト」となる と読むことはできません。古事記翻訳者の倉野憲司氏でも、「おおやまと」と振り仮名をつけておら れます。日本を「ヤマト」と読んだ方は、大勢おられるでしょうが、私が知っているのは、日本書紀の 翻訳書を書かれた宇治谷孟氏「オオヤマト」です。

たとえば、 神武天皇の和風諡号は、

日本書紀  神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)  宇治谷孟氏

古事記   神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコミコト)   倉野憲司氏

そんなことどうでも良いではないかと思われるでしょう。式内社の神社の祭神には、神日本磐余彦尊 が書かれています。全部調べたわけではありませんが、式内社でなければ、神倭伊波禮毘古命が 使われています。式内社は、延喜式に掲載されている神社ですから、確かに、由緒は正しく、古い のですが、すべて、神日本磐余彦尊の祭神名が記録に残っているのであれば、無理やり書き換え るように云われた可能性はあります。

日本書紀を作ったのは、藤原不比等です。私は、不比等の生命に不安が生じたので、日本書紀 の発刊を早めたのではないかと推察しています。なんの根拠もありませんが、日本書紀は720年発 刊されて、同じ年に藤原不比等は死亡しています。

古事記と日本書紀を比べて読んでいますと、一見、日本書紀の方が、辻褄があっているように思え ますが、強引なところがあります。日本書紀を作るだけに、強引であったのではなく、自分達の支配 している神社の祭神は、古事記と同じであっても、すべて漢字表記を変えさせた疑いがあります。

現在でこそ、神日本磐余彦尊は、(かむやまといわれびこのみこと)とだれでも読まされています が、読めるはずがありません。「倭」の漢字を「日本」に変えたのは、中国本国なのか、藤原不比等 なのでしょう。古事記が発見されるまでは、「日本」をどのように読んでいたのでしょうか?

えらい前置きが長くなりました。

愈々、タイトルのことを書いてみます。

古事記 の 「神倭伊波禮毘古命」の「神」は、ユダヤ人の血が入っていることを表わしています。こ のような事を書きますと、天皇家の人は、気分を悪くされるかもしれませんが、古事記が書かれた 710年頃は、なにも恥ずかしいことでも、なんでもなかったと思われます。そのような事実を知ってい たか知らなかったかは判りませんが、日本書紀の人も、神武天皇のはじめに「神」をつけました。次 の「倭」は、生まれたところの名前です。

大国村倭というところです。現在でも、鳥取県に残っています。

「大倭」は、No352で述べましたように、昔は久米郡大倭村と言われたところです。

「大和」は大和のどこを読みますと、ヤであり、マであり、トであるのか、だれにも説明できないと思い ます。しかし、ヤマトと読むことは、だれでも知っています。奈良を指しています。

最後は、「夜麻登」です。「夜麻登」と書かれているところをチェックします。

古事記の神武天皇のところに、

ここに大久米命、その伊須気余理比売をみて、歌をもちて天皇に白しけらく、

『倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れをし枕かむ』とまをしき。

上の文は、倉野憲司氏の訳本から抜粋しましたが、「倭」は、原文では、「夜麻登」と書かれていま す。このことから、「夜麻登」と呼ばれていた所があったことになります。それはどこかと言いますと、 鳥取県西伯町に大国という町があります。この町に「倭」という集落があります。

地図にたまたま、「倭」があるから、古事記に書かれている「夜麻登」であるというのは、気がおかし いのではないかと思われたでしょう。否定するのは簡単です。否定する根拠を聞かれたら、何一つ あげることはできないと思います。

ところが、旧大国村倭をはじめとして、会見郡や溝口町あたりは、古事記に出てくる地名が沢山あ り、神の名前が、このあたりにある神社の祭神になっています。

「会見郡」の名前は、イザナギがイザナミに会いに行ったので、付けられたのではないかと想像し ていました。イザナミの入院先(黄泉の国)である御墓原は、会見郡の真ん中にあります。しかし、神 武天皇が伊須気余理比売にであったのも、会見郡であったようです。

その場所は、倭の高佐士野と書いてあります。倭の近くを探しますと、越敷野(東経133度24分、北 緯35度21分)があります。稗田阿礼は、この辺りも行ったことでしょう。高佐士野(こさしの)のことを太 安万侶に話したと思われます。口述ですから、「コスシノ」といったかも知れませんが、私は高佐士 野と呼ばれていた所を、藤原氏は無理に越敷野と変えたのだと思っています。なぜなら、この伯耆 のことは、藤原氏は書きたくないどころか、消し去ろうとしました。それほど、消したいと言うことは、 伯耆の国に、オオクニヌシ命や神武天皇は、実際に居たという証明になると思うからです。地名を かえることぐらいなんでもない事でした。

なんのことかお判りにならないと思います。機会を改めて、伯耆の国のことを書きます。今は、吉備 の国のことに光を当てようとしていますので、これぐらいにします。

■夜麻登登母母曾毘売命

(やまととももそびめのみこと.)…《日本書紀》に登場する巫女的な女性。《古事記》では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。謀叛の予見、神憑りによる神意の伝達などで崇神天皇を助けたとある。…

 

■夜麻苔と夜麻登

 

夜摩苔と夜麻登の区別を考えます。

A 小学館日本書紀、小島憲之、直木孝二郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守

B 岩波書店古事記、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋

A、景行天皇。日向国・高屋神社から東を向いての思邦歌

(原文) 夜摩苔波、区珥能摩倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。

(訳文) 倭は、国のまほらま、畳づく、青垣、山籠れる、倭し麗し。

B、倭建命。伊勢国・能頬野(のぼの)での思国歌

(原文) 夜麻登波、久尓能麻本呂婆、多々那豆久、阿哀加岐、夜麻碁母礼流、夜麻登志宇流波斯。

(訳文) 倭は、国の真秀ロ場、畳な付く、青垣、山隠れる、倭し麗し。

なお、Aは、岩波書店・日本書紀と同じで、二番手ですが、同じ解釈になっています。

■注釈

まず、苔(タイ、ダイ)をトの音というのがおかしいと気がつきます。日本とは、神代紀の国生みの段にでています。国生み段で、淡路洲を大日本(おほヤマト)とし、注記して、日本と書いて耶麻騰(ヤマト)と定義しています。(騰:トゥ、ドゥ、上がる意味で、登でも可)

A、Bの歌は似ていますが、違う点をあげます。Aは、思邦歌、Bは、思国歌です。邦は、連邦の邦の義で、倭國と大倭國を区別。( 景行天皇のいう東は、魏志倭人伝の東[北を指す]です。西都市黒貫の高屋神社から見ての北は、南宇佐を指す。これを現在の東とすれば、紀伊半島の南、その彼方の海中になり、かげろうが登って来る。一語で、二つの義を表現)Bの國は、エリア(区域)としての大倭:奈良をさす。したがって、両者は全く違う事柄を歌っています。

さらにいえば、苔(タイ)は、邪馬臺(ヤバタイ)の臺[タイ]を暗示しています。高屋神社から真北は、南宇佐大尾神社、その北の高倉神社古墳です。高屋神社は、西都市の黒貫寺の東に近接しています。宇佐神宮の奥宮は、櫟の原生林の生えた大元山(馬城峰)です。北辰(天御中主神)と北斗七星(高皇産霊神)神むすび神が大元山に祀られています。

まず、難物の漢字音を記す。みなさんも考えて下さい。

凡例⇒前:漢音、後ろ:呉音。ひとつ表記は両者同音。数字:意味違いの音。

<Aの漢字音> 摩:バ、マ。 / 苔:タイ、ダイ。・・・・(臺:タイ、ダイで、問題点を後述) / 珥:ジ、ニ / 倍:ハイ、バイ / 邏:ラ / 儺:ナ、ダ / 烏:オ、ウ / 枳:1キ、2シ、3キ、ギ、4シ / 許:1キョ、コ、2コ、グ / 莽:モゥ、ボゥ / 那:ナ、ダ / 試:シ / 斯:シ(ソ)   ( Bの漢字音を省きます。)

これらの歌は、漢音、呉音のどちらなのか、問題です。

■訳文

漢音ですべて通します。

A、矢幡はクジの場、原葉たたなづく青かし、野馬こぼれる八幡し麗し

字句解説

1)ヤバタ:矢幡:八幡。矢:光の矢。

 (イ)中野幡能は、金富神社を原八幡とする。神主矢幡氏。金:絹。

 (ロ)可是古は旗を飛ばす占いで、女神と知った。(小郡市大崎町の姫杜の社)

 (ハ)布と書いて、「しき」と読む。(斎明紀、推古紀)、敷:色:磯城。

2)区珥の場

 クジは、久慈、狗爾、狗神・・・のどれか

 狗神(くじ)を採用。用例:犬神人(いぬじにん)の神(じ)。

 場:説文では神を祭る道(所)・・・神道の原義とみる。

 福永光司は、中国にも神道ありというが、解説なしです。

3)青かし:櫟(いちいかし)は、御許山(大元山)に原生する。実がなり、古代は食糧にした。単にカシともいう。

4)はらば:原葉の原が元をさし、大元山の元に同じ。常緑の原葉となる。常緑は、永遠願望でもある。はら:原:はる。

5)邪馬(やば)は、野馬(やば)で、かげろう(陽炎)の義。

6)こもれる:籠れる。(日の「かげろう」が籠れる)

7)夜摩苔之の之:し。「し」は強意の助詞(古事記解説)、または矢(し)? 

のち、宇佐神宮菱形池傍の(熊)ササの葉に広幡八幡丸の顕現。(大神比義)

広:光の義です。矢:光。

夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、夜摩許、莽例屢、夜摩苔之于屢破試。

矢幡は狗神(くじ)の場、原葉(はらば)畳づく青カシ、野馬こもれる八幡し、麗わし。(訳文)

光幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、かげろうが籠れて、八幡はうるわし。(意訳)

■補足

原:はる:葉が生え、実がなり落葉帰根の輪廻(大元山の造化三神)

狗(イヌ)は、次の陰識伝の瑞祥譚です。

後漢書陰識伝

臘日(旧暦の12月23または24日)、陰子力という人家に、竃神(カマド神)が突然現れた。彼は飼い犬の黄色い犬を生贄にして竃の神を祭ったら、どんどん財産が増えて行った。世間もこれに見習い臘日に竃神を祀るようになった。大陸の物語では、犬戎国(西戎のイヌ族)と女国は、ペアで居ました。景行天皇は、やはり、狗奴国と卑弥呼を褒めていました。これで意味が完全に通じました。

問題点

臺:タイ、ダイを、甲部ト音とする考えの人

苔:タイ、ダイを、乙部ト音とする人

(この問題は、読む人の先入観、ヤマトという固定観念からきているのではないか)

日本書紀のヤマトのト音は、騰[トゥ]でした。よって登[トゥ]は、Bの耶麻登(ヤマト)に適用可能です。AはBと全く異なった歌です。後漢書の邪馬臺の臺、隋書の邪靡堆、北史の邪馬堆の堆は、漢音のタイで、みな合致します。漢音と呉音の混合はあり得ないと思います。

あとがき

邪馬臺の臺をト音とする先学の書籍を沢山見てきました。しかし、臺、苔、堆、俀の漢字は、タィ音です。

結局、卑弥呼を弟の開化天皇が佐冶。具体には、狗奴の連中や大神氏、宇佐氏、中臣氏、尾張氏、物部氏らが、卑弥呼の邪馬壹(やばい)國を助けてきた。卑弥呼の敵対國は、拘奴国で、筑後の矢部川の田油津姫(たぶらつ姫):百女国女酋が絡んでいるとみられます。(翰苑の百女国)

古代歌謡の解釈は、難儀します。岩波日本書紀は、1967年発刊でした。二番手の小学館日本書紀(1994年)は、上記と同じ解釈でした。なお、八幡は、「やはた」ですが、はちまんともいう。やはたは、ヤバタでも一向に構わないと思います。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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