http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
■倭国と邪馬台国と大和
古代中国の文献で日本のことは「倭」という字が当てられている。発音的には「わ」なのだが、これは基本的に中国側から日本を呼称するものであって、日本人は自分たちもしくは自分たちの国を「わ」とは呼んでいなかったであろう。「倭」の由来は不明で、漢字の原義から従順なやつらという意味だとか、「矮」の用に小さい奴らだとか、古代の日本人が自分たちのことを「わ」(われ)と呼んでて、同じ音の「倭」をあてたとか、まあいくつも説はあるものの根拠がない。つまりは由来不明だが現在の日本のあたりを「倭」「倭国」と中国側は読んでいたらしい。倭の五王とか、邪馬台国の卑弥呼とかの時代、倭国の中が統一されてたわけではなくて、小国が連合したり戦争したりしてる状態で、その中の有力な豪族連合の長が中国の王朝に朝貢して倭国王の地位の承認を求めたりしてたわけだけど。例えば「邪馬台国」なんてのは、」卑弥呼が治める国の人間が「我が国の名はやまと国」といってるのを中国人が聞き取って「やまと」と聞こえる漢字を当てはめたわけだ。「邪馬台」という漢字の当時の発音だと「やまたい」ではなく「やまと」に近いらしい。
近年は邪馬台国畿内説が主流なので、まあ、この「やまと」がそのまま「大和王権」になったと仮定してみるとして、ここで面白いのが「大和」という漢字は中国語由来の音読みでもやまとことば由来の訓読みでも本来「やまと」なんて読めないことだ。「だいわ」とか「おおにぎ」とかではなく「やまと」と読むのは変だ。
地名としての「やまと」の語源は山の下であるとかこれもはっきりしないがいくつか説がある。何にしろ漢字を当てる前に「やまと」という地名があった。万葉仮名などでは「夜麻登」などと漢字を表音文字として当てている。この「やまと」を漢字表記する際に中国から呼ばれる国名である「倭」を使用した。つまり「倭」と書いて「やまと」と読むことにしたわけだ。要するに漢とか魏とかの人はうちらの国を「倭」って書くから、これはつまりうちらの国「やまと」のことで、「倭」と書いて「やまと」と読むようにすればあちらの人もこちらの人もうまくいくんじゃね?ってことだよな。さらに、「うちら結構すごくね?『大』つけちゃおうぜ」って「大倭」になり、「なんか『倭』ってあんまし良くない字じゃね?『和』に変えちゃおうぜ」ってことで「大和」になったと。
ところで7世紀頃、日本は漢字の国号を「倭」から「日本」に変更する。でもこの「日本」の読みは「やまと」のままだった。ヤマトタケルノミコトを古事記では「倭健命」、日本書紀では「日本武尊」と表記しているが、どちらも「やまとたけるのみこと」である。しかし地名の「大和」は「大日本」にはならなかった。謎だ。定着してたからか?すでに「倭」ではなく「和」になってたからか?
長い年月がすぎるうちに、日本と書いて「やまと」と読む用法は消えていった。「日本」は「にほん又はにっぽん」、時代劇では「ひのもと」と読み下しで発音してるけど、「やまと」とは読まないよなあ。「やまとだましい」などと言うときは「大和」の方を使う。
国号としては「日本」に置き換えられた「倭」だが、「和」となって日本の主に文化的なものを表す文字として生き残っている。和食とか和装とか。これももちろん「やまと」とは読まれず「わ」なのだが、このへんもなんか不思議な気がする。
■「倭国」「倭人」の語源
■1.従来説
日本食を「和食」、日本語で書かれた本を、「和書」と言います。
これはなんでかと言うと、「和」=「日本」だからですね。ではなんで、そもそも、そういう事になっているかというと、代々、中国の歴史書で、「日本」は「倭」と呼ばれていたからです。日本人は自ら、国名こそ「倭」から「日本」に変更しましたが、文化、民族名の漢字表記(「大和」:但し読みはヤマトですが)には、古代の「ワ」を現代まで残したのです。この「倭」の起源について論じてみたいと思います。
「倭」と言う呼び名が出てくる最古にして確実な文献は、「漢書」 地理史の有名な一節、
「・・・楽浪の海中に倭人有り。 分かれて百余国を為し、歳時を以って来たりて献見すという。」
です。中国人が、なぜ日本人を「倭」と呼んだのかについては、以下の諸説があります。
「倭」は「委」が原型であり、「委国」は遥か遠くの国の意味とするものです。しかし、「委曲」という言葉から分かるように、これは曲がりくねった遠い道を表わす語で、「はるか」という意味はないので、誤りです。
それに、そもそも、上の漢書の引用から分かるように、「倭国」でなく、「倭人」という用法が先であるワケです。「倭国」(遠い国)という用法が先にあって、後から「倭人」という表現が定着したというなら分かるけれど、「倭人」が先です。「倭人」=「はるかな人」では、意味をなしません。
別の一説によれば、「倭」は「性質が従順な人」の意味との事です。上に引用した漢書に箕子(殷の王族)が朝鮮の民を教化したので東夷は性質が従順だ、とある記述を根拠とするのですが、これは東夷一般を言っているのだし、そもそも「倭」は、人の性質を形容する語ではありません。
別の一説は、「倭」は「背が丸く曲がって低い人」の意味で、「倭人」は華北人や韓人に比べ背が低いので、身長の特徴から名づけられたものだろう、というもので、文献はこの説を採用しています。
これらの説は、漢字の意味の解釈と、日本人が中国人からどう見られていたかについての推測から導かれたものです。このような発想の起源を辿ると、多分、江戸時代の儒学者の説に行き着くものと思われます。「中華思想」を無批判に取り入れた発想です。
中国を取り巻く異民族の名称が、どのように決まっていたかを調べ、その知見を元に「倭」の語源を求めるというのが、合理的な手法のハズです。上の諸説は、江戸時代の儒学者の「拝華意識」を無批判に現代に継承した上での、単なる思い付き以上の何者でもなく、二重の誤りを犯していると思います。
中国を取り巻く異民族の名称、例えば、匈奴、鮮卑、突厥、夫余などの語源は、すべて、自称に基づくものです。例えば、匈奴については諸説ありますが、「人」を意味したとされてます。鮮卑は、 se(a)bi で、彼等の聖山もしくは、瑞兆を表わす獣から名づけられたとされます。夫余の puyo も同じく、聖山もしくは聖獣である「鹿」の意味で、突厥は、 trk つまり、トルコ(チュルク)民族の名称を表記したものです(「チュルク」の語源が何かについては諸説ありますが)。
また、民族名が、その民族の言語で「人」を表わす例が数多く存在します。台湾のツァウ族、ツングースの「オロコ」、「アイヌ」もそうです。(印欧語族、ウラル語族でも多くの例があります。)
中国の歴史書に現われる他民族の名称は、原則的に、彼ら自身の言語による自称に基づくものであって、その音を漢字で表記したものである。
これが、原則です。従って「倭」の漢字(中国語)の意味をあれこれ詮索しても、その名称の起源を探る上では、無意味だと考えます。もちろん、中国は「文の国」ですから、民族あるいは国家を表わす漢字に、「中国人の評価」が加味される事は十分考えられます。
例えば、匈奴との関係が友好的な時には、「恭奴」と表記が変わったり、古代モンゴル人の「柔然」が時には「蠕蠕」というおぞましい漢字で書かれたりしました。 (モチロン「柔然」も、古代モンゴル語で解釈されています。)
しかし、そのような場合でも、発音を変えるような変更は行われなかったワケですから、表記漢字の意味から民族名の語源を推測するという考え方が誤りであるのは明らかです。
■2.「倭」(wa)の語源
上に述べたような原則から、明らかに、 1.「倭」は wa の表音文字である 2.wa は、日本人の自称によるもの、つまり古代日本語であることになります。
「倭」の語源に関する、別の一説は、「倭」=「ワ」(我れ)の表記であるとするものです。「我れ」は、「ワ」と接辞「レ」から成り、「ワ」が、語幹です。
一見、もっともらしい説なのですが、国文学で、一人称を表わす語には、「ワ」と「ア」があったが、「ア」が古形であるという説があり、弥生時代には一人称としては、「ア」のみがあったと推定されるとして、文献では、この説は否定されています。
この文献の別の箇所で、古代日本の人称代名詞のシステムがどうなっていたかを検討しました。これは、ノストラティック仮説といって、1万年前に遡ると、印欧語族、ウラル、アルタイ語族などが一つの超語族を形成するという壮大な仮説を説明するための一環として行ったものなのですが、 ここでは、そんな大風呂敷を広げずに、通説(というか、支持者が最も多いと思われる説)の通り、
「日本語はアルタイ系の言語を骨格とし、南島語(オーストロネシア語族)から大量の語彙と一部の文法要素を取り入れた混合言語」
であるとしておきます。この説(村山説)によれば、日本語の一人称代名詞には、アルタイ系と南島語系の2種類があるのです。
上の国文学側からの主張をどうヒックリ返すかとか、二人称の「汝(なんじ)」が、元は一人称だったとか、けっこう面白い話しです。
結論だけ言うと、1.wa は、アルタイ語(ツングース語)の一人称複数 *bua (我々)に遡る。2.a は、南島(オーストロネシア)祖語一人称単数 *aku (私)に遡る。で、 wa がaと同じく古い起源を持つ語であると推定しても良い事になるのです。 オーストロネシア語の基層の上にアルタイ語が積層して日本語が形成されたと考えるので、確かに、a の方が古いのですが、弥生時代には、wa も日本語にあったのです。
上代における「ア」と「ワ」の用法を比較すると、「ア」は、「身」、「胸」、「面」のような身体部分の名称や、「恋」、「片恋」のような言葉と結合するのに対し、「ワ」は「大君」「家」「里」「家」のような言葉と結びつきます。
「我(わ)が大君」とは言っても、「吾(あ)が大君」とは言わないのです。これは、「ワ」が一人称複数、「ア」が一人称単数を示す言葉であった事の痕跡ではないかと考えられます。
「倭 (wa)」とは、「我ら」を意味する、我々日本人の言葉でした。中国人がつけた、「従順な」でも「背の低い」でもない、「我ら」という古代日本語です。
「倭国」は「われわれの国」という意味です。従って、「和風」とは「わたしたちの気風・風習・あり方」であり、「和食」は「わたしたちの食べもの」という意味です。
私は、国粋主義者ではありませんが、一部の歴史学者のいわゆる「被虐的歴史観」には嫌悪を抱いています。なぜ「倭」の語源を、「日本人が中国人から、どう見られていたか」という観点から解釈しなければならないのか、理解できません。 このような解釈は、中国人が異民族の呼称をどう決めていたかという一般原則に反するものです。
この問題は、歪んだ歴史観の修正に、比較言語学という学問がささやかでも、貢献できる例の一つと思うのです。
■「倭」という表記について
森学説は、日本書紀の一部(α群と呼びます)が中国人によって書かれたものであるという驚くべきものですが、決してトンデモなんかではありません。厳密な考証によって導き出された言語学上の金字塔です。最近、大野晋氏の自伝「日本語と私」を読んだのですが、森学説に接した時の衝撃と悔しさが行間から伝わってきます。
それはともかく。森氏の著書によると、中国人が書いたα群と、日本人が書いた部分(β群と呼びます)における「ワ」の表記は以下のようになっています。
(中略)
「ワ」の表記において、β群を書いた日本人が、圧倒的に「和」を好んで用いたのに対し、α群の著者(中国人)は、「倭」を選択しました。「和」は、語頭に子音 (敢えて言うと「ハ」の濁音)を含んでいたために、日本語の「ワ」の表記には不適当と判断されたというのが森氏の見解です。β群における「倭」の用法を見ると、単に日本語の「ワ」という音節の表記に使われているだけです。β群を執筆した中国人が、「我が」(ワガ)という日本語を表記するのに「倭我」という漢字を使ったからと言って、そこに「蔑視意識」を見出すとすれば、それは「被害妄想」というものでしょう。おそらく、古代日本人の「ワ」という発音を表記した中国人もまた、そのように判断して「倭」を純粋な音表記として用いたのだと思います。「倭」の意味を漢字の字義から解釈するのは、繰り返しになりますが、倒錯した議論だと考えます。
■α群における「ワ=和」表記例について
上の表に示したように、3例だけですが、α群の筆者(表記者)は、「ワ」の表記に「和」の字を使用しています。どういう場合に「和」の字を使ったのか、フト気になったので調べてみました。
○1.17巻歌謡番号77の例
雄略天皇6年2月 天皇が泊瀬(奈良県桜井市初瀬?)の小野に行幸した時の歌
「隠国の泊瀬の山は いでたちの よろしき山 走(ワシ)り出の よろしき山の 隠国の泊瀬の山は あやにうら麗(ぐは)し。 あやにうら麗し。」 「走(ワシ)り」が「和斯里」と表記。
○2.16巻歌謡番号95
仁賢天皇11年8月 平群(ヘグリ)シビのオミが影姫を手に入れた事を知った皇太子の小泊瀬ワカサギ尊(後の武烈天皇)は、シビを討伐。シビが殺される様を見た影姫の作った歌
「あをによし 及楽(ナラ)の谷(ハサマ)に 鹿(シシ)じもの 水漬く辺隠り 水そそく 鮪(シビ)の若子を 漁り出な 猪の子。」 「若子」の部分が、「和倶吾」と表記。
○3.17巻歌謡番号99
継体天皇24年10月
「加羅国を 如何に言ことそ。 目頬(メツラ)子来る。むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る。」 の「渡り」が「和駄利(クチ偏)」と表記。
上の3例からだけでは、なぜ「和」が使われたのか、何も言えないと思います。 以下に思いつきを述べておきます。
2番目の歌で、「奈良」が「及楽」と表記されていますが、「ナ」の字の表記に「及」の字が使われているのは日本書紀ではここだけです。書紀の編纂の時点で既に文字化された歌が存在したために、α群の筆者は、原文を尊重して上記の歌を採録したのではないだろうか、と推測するのが妥当と思われます。「和」と「倭」の使い分けは、発音によるものだという以前の結論に変更を加える必要はないと考えます。
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