https://www.jiji.com/jc/d4?p=soe924-jlp04101838&d=d4_oldnews 【府中市の3億円強奪事件】 より
府中市の3億円強奪事件で、現場に残されたニセ白バイのそばに落ちていたハンチングを示す浜崎仁警視庁捜査1課長。レインコー…
府中市の3億円強奪事件で、現場に残されたニセ白バイのそばに落ちていたハンチングを示す浜崎仁警視庁捜査1課長。レインコートと同様、銀行の支店から現場近くの空き地まで向かう間、犯人が身に着けていたとみられる。犯人は空き地に放置したつもりだったが、ニセの白バイが現場まで引きずってきたボディカバーに巻き込まれて、現場まで運ばれたと推定されている。犯人は空き地でレインコートとハンチングを脱ぎ、警察官の身なりを整えから、ニセ白バイに乗りかえなければならなかった。現金輸送車を強奪予定地点で捕捉するにはギリギリの時間しかなく、計画的ではあっても、犯行が綱渡りの連続であったことが分かる(1968年12月12日) 【時事通信社】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%84%84%E5%86%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6 【三億円事件】 より
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、府中市で1968年に発生した事件について説明しています。千代田区有楽町で1986年に発生した事件については「有楽町三億円事件」を、練馬区で1990年に発生した事件については「練馬三億円事件」をご覧ください。
概要 現金輸送車が偽の白バイ警察官に奪われた窃盗事件。1975年(昭和50年)12月10日に公訴時効が成立し未解決事件となった。
武器 発煙筒
損害 現金2億9430万7500円
犯人 不明(容疑者が複数いる)
動機 金銭目的
テンプレートを表示
三億円事件(さんおくえんじけん)は、東京都府中市で1968年12月10日に発生した窃盗事件。通称「三億円強奪事件」。後に有楽町三億円事件・練馬三億円事件との区別のため、「府中三億円事件」とも呼ばれる。1975年(昭和50年)12月10日に刑事訴訟法250条に於ける公訴時効が成立し未解決事件となった。
日本犯罪史において最も有名な事件に数えられ、「劇場型犯罪」でありながら完全犯罪を成し遂げ、フィクションやノンフィクションを問わず多くの作品で取り上げられている。
目次
概要
当時の現金輸送車にはセダン型の自動車が使われていた(写真は現金輸送車と同型の日産・セドリック)。
現金輸送車に積まれた東京芝浦電気(現・東芝)府中工場従業員のボーナス約3億円(2億9430万7500円)が、白バイまで用意した偽の白バイ隊員に奪われた事件である。「三億円強奪事件」とも言われているが、事件のあった日本に於いては本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。
犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功していること、盗まれた3億円は日本の保険会社が支払った保険金により補填され事件の翌日には従業員にボーナスが支給されたこと、その保険会社もまた再保険をかけており日本以外の保険会社によるシンジケートに出再していたことから補填された[注釈 1]ために、直接的に国内で金銭的損失を被った者がいなかったという認識[1]、ならびに被害金額2億9430万7500円の語呂から、「憎しみのない強盗」とも言われる。一方で、マスコミの報道被害を受けて後年自殺した人物や、捜査の過労で殉職した警察官2名が存在する。
警視庁捜査において容疑者リストに載った人数は実に11万人、捜査した警察官延べ17万人、捜査費用は7年間で9億円以上が投じられる空前の大捜査となったが、1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年(昭和63年)12月10日、民事時効成立(時効期間20年)。日本犯罪史に名前を残す未解決事件となった。
この事件以来、日本では多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになった。企業従業員の給与・賞与等の支給を金融機関の口座振込としたり、専門の訓練を積んだ警備会社の警備員による現金輸送警備が増加したりした。
盗まれた紙幣のうち、記番号が判明した五百円紙幣2000枚分(XF227001A〜229000A)が警察から公表された。うち「XF227278A」のみ見つかっているが、数字の一つが傾いていたことから偽札であるとみなされている[要出典]。
貨幣価値
被害金額3億円は、現金強奪事件としては当時の最高金額であった[注釈 2]。これは、2014年(平成26年)の貨幣価値に直すと、消費者物価指数で見れば約3.5倍の約10億円の価値に当たる[2]。
事件当時、大卒の初任給が約3万600円と言われ、2016年の初任給20万3800円と比較すれば約20億円の価値に相当する。その他、50 - 100億円の価値に相当するという意見もある。いずれにせよ、その後に起こった現金強奪事件と比べても[注釈 3]、貨幣価値においてはいまだ国内最高である。
事件の経緯
1968年(昭和43年)12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に脅迫状が届いた。翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破するというものであった。当日、警察官約50名が周辺に張り込んだが、犯人は現れなかった。
府中刑務所
4日後、12月10日午前9時30分頃、日本信託銀行国分寺支店(現存せず)から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員のボーナス約3億円(2億9430万7500円)の現金が入ったジュラルミンのトランク3個を輸送中の現金輸送車(セドリック)が、府中刑務所裏の府中市栄町、学園通りと通称される通りに差し掛かった。
そこへ白バイ隊員に変装して擬装白バイ[注釈 4]に乗った犯人が、オートバイに被せていたと思われるシートを後方に引っ掛けた状態のまま現金輸送車を追いかけ、現金輸送車の前を塞ぐようにして停車した。
現金輸送車の運転手が窓を開け「どうしたのか」と聞くと、「巣鴨警察署からの緊急連絡で、貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って、輸送車の車体下周りを捜索し始めた。
4日前に、支店長宅を爆破する旨の脅迫状が送り付けられていた事もあり、その場の雰囲気に銀行員たちは呑まれていた。犯人は、輸送車の車体下に潜り込み爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発炎筒に点火。「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と銀行員を避難させた直後に輸送車を運転し、白バイをその場に残したまま逃走した。
この時、銀行員は「警察官」が爆弾から遠ざけるために輸送車を退避させたと考え、「勇敢な人だ」と思ったという。しかし、路上に残った発炎筒が自然鎮火した後、オートバイに詳しい輸送車運転手が残された白バイが偽物と気付いたことから、「警察官」は偽者であり現金強奪事件であることが早くも判明した。
9時50分に伊豆・小笠原諸島を除く東京都全域に緊急配備が敷かれた。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日であった。警視庁は要所で検問を実施したが、当初は自動車の乗換えを想定していなかった事もあり、当日中に犯人を逮捕することができなかった。
多摩農協脅迫事件
三億円事件が起こる前、1968年4月25日から1968年8月22日まで多摩農協へ現金要求や放火予告や爆弾予告をする脅迫が脅迫状、脅迫電話、壁新聞投げ込みで計9回発生した。
この事件は脅迫日が東芝の給料日だったこと、脅迫状の筆跡が12月6日に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡と同一とされたことから、多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件と三億円強奪事件の3事件が同一犯によるものとされた。
6月25日に多摩農協を脅迫する文章の中では「よこすかせんはひきょうもん」という文言が入った脅迫状を送っている。「よこすかせん」とは脅迫状を送る9日前の6月16日に国鉄横須賀線大船駅で発生した横須賀線電車爆破事件について触れたと言われている。なお、脅迫状作成当時は横須賀線電車爆破事件の犯人は不明だったが、三億円事件発生1ヶ月前の11月9日に純多摩良樹をペンネームとする犯人が逮捕され、三億円事件の公訴時効直前の1975年12月5日に死刑執行された。
遺留品
犯人が残した遺留品が120点もあったため、犯人検挙について当初は楽観ムードであった。ところが、遺留品は盗難品や一般に大量に出回っているものであったため犯人を特定する証拠とはならず、大量生産時代の壁に突き当たってしまった。犯人の主な遺留品は以下の通り。
第一現場
府中市栄町3-4の府中刑務所北の学園通り、府中刑務所裏。三億円強奪事件が起きた路上。遺留品には偽白バイが残った。
ヤマハスポーツ350R1
偽白バイ。盗難日は1968年11月19日から20日。当時の警視庁で使用されていた白バイの機種はホンダ製であり、ヤマハ製の白バイは存在しなかった。元の色は青。試運転で本番までに428キロの走行履歴があった。ハンドルやシートには誤って塗装した部分をベンジンで拭いたと思われる痕跡が残されていた。
ハンチング帽
大阪市東成区の中央帽子製。第1現場で偽白バイが事件現場まで引きずっていったボディカバーの中から発見されたことから、犯人のものと考えられている。汗を検出すれば、少なくとも実行犯の血液型を特定できたが、楽観ムードによるものからか、鑑定に出す前に刑事同士で交互に被ることで鑑定不能にするミスを犯していた。54個が出荷され、36個の所在が判明。残り18個は東京都立川市の帽子小売店が市内の安値市で販売していたが、誰に売ったかまでは特定できなかった。
メガホン
兵庫県宝塚市の東亜特殊電機製。白バイの広報用スピーカーに見せかけるために取付けられていた。製造番号から5台が出回っていることが分かり、4台まで所在を確かめた。残る1台は東村山市の工事現場で盗難に遭っており、これが犯行に使用された物と思われる。
クッキー缶
白バイの書類箱に見せかけていた。書類箱はカー用品店でも発売されているのに、かなり異なるクッキー缶を使用した上にガムテープで取り付けるという改造方法だったことから、お粗末な白バイ改造とされた。そのため、犯人は白バイに詳しい人物ではなく、素人でも改造できるレベルであることの根拠の一つとされた。クッキー缶のメーカーは明治商事だったが、3万個が流通していたために購入者を追及することを断念した。またクッキー缶を利用していたことから、犯人の甘党説が浮上した。
発炎筒
脅迫をする際にダイナマイトに見せかけた。横浜市保土ケ谷区の日本カーリット保土ヶ谷工場製が製造した「ハイフレイヤー5」で、ガソリンスタンド等を中心に4190本売られていた。発炎筒に巻かれていた紙はNHKの『電波科学』昭和43年7月号の付録であるテレビ回路図だった。
磁石
発炎筒を現金輸送車の下部にくっつけるための磁石2個。「マグネットキャッチ」と呼ばれる建具部品を分解したもの。発炎筒には銅線で巻きつけられていたが、鉄線と比較して透磁率が悪かったため、磁力が充分に働かず発炎筒は現金輸送車にくっつかずに地上に落下してしまった。大平製作所が製造し、4万3240個が流通していた。
新聞紙片
メガホンは、白ペンキで2度塗装されていた。捜査に行き詰まっていたある日、上の塗装がはがれた部分に4mmほどの新聞紙の紙片が付着しているのを発見。地道に新聞紙を調べたところ、1968年12月6日の『産経新聞』13版11面朝刊婦人欄の「食品情報」という見出しの「品」の字の右下部分の一部であることが判明した。紙片の分析の結果、紙は愛媛県伊予三島市の大王製紙の工場で作られた物と判明[1]。なお一部情報で「インクの具合、印刷状況から輪転機を特定し、その新聞が配達されたのが三多摩地区であることまで絞り込めた」という報道がなされたが、間違いである。
配部数は13,485部、販売所数は12か所。住民の転出入が激しかったことや、新聞を購読する家が頻繁に変わっていたことから捜査は難航。2年掛かりでやっと販売所を特定できたが、時既に遅く「順路帳」(配達先の住所録)は処分された後であり、この方面での捜査は徒労に終わった[1]。
第二現場
東京都国分寺市西元町3-26の国分寺史跡七重の塔近くの本多家墓地の入口、武蔵国分寺跡のクヌギ林。現金輸送車であるセドリックが乗り捨てられていた場所。遺留品にはセドリックが残った。事件直前に第二現場で濃紺のカローラが目撃されていたことから、犯人はここで、濃紺のカローラに乗り換えたと思われた。逃走車の乗換えを想定していなかったことが、初動捜査で犯人を捕まえられなかった遠因となった。
第三現場
府中市栄町、明星高校近くの空地。犯行前に偽白バイをカバーで覆って停めていた場所。犯行前から無人の偽白バイがエンジンをかけっぱなしのまま置かれていたのが目撃されている。
レインコート
濃紺。蛙脱ぎ(裏返しながら脱ぐことの通称)した状態のままで残されていた。
事件翌日に公開されたが、一般層からの反応がほとんどなかった。10年前に製造されたもので、製造した会社は1958年時点で倒産していた。
この遺留品は様々な情報が錯綜し、すぐに粗末に扱われた。重要な遺留品と認定されたのは事件から3年後のことで、レインコートにはソデ裏にアイロンがかけられた跡があり、また内エリに「クリーニング」のタグの跡を示す白い糸があった。しかし、捜査が遅れたためにこれ以上の発見はなかった。
第1カローラ
緑色のカローラ、ナンバープレートは「多摩5め3863」。府中市栄町2-12の空き地で発見。盗難日は11月30日から12月1日。半ドアでワイパーは動いたまま、窓は開けっ放しであった。
第四現場
東京都小金井市本町の団地駐車場。第二現場で乗り換えたカローラが、乗り捨てられていた場所。事件から4か月後に判明。遺留品にはカローラと空のジュラルミンケースが残されていた。現金をジュラルミンケースから取り出し移し変えた場所がこの現場である可能性が高いが、団地駐車場という人目につきやすい場所であるため移し変えた場所は別の現場であるという異説もある。しかし団地内の他車も捜査したところ別件の盗難車が複数台発見され、大量の現金を扱うにせよ車両放棄にせよ団地内では他人への関心が薄いことを突いたとする犯人像を補強した。
第2カローラ
現金を奪った犯人が、現金輸送車から乗り換えた濃紺のカローラ。ナンバープレート(多摩5ろ3519)から「多摩五郎」のコードネームがつけられた。事件直前に第二現場で目撃されており、事件直後にこの情報を知った警察はこの車の行方を追っていた。車は盗まれたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。事件から4ヵ月後、小金井市本町4-8の本町住宅B1号の西の空き地で発見された。残された車の中には、空のジュラルミンケースが入っていたことから、犯行に使われたことが特定された。なお、「第2カローラ」は自衛隊の航空写真より事件翌日から団地駐車場に存在したことが判明している。
ケースの泥
ジュラルミンケースに付着していた泥を精密検査した結果、警視庁科学検査所の鑑定では現場から4km離れた国分寺市恋ヶ窪の雑木林の土壌と、農林省林業試験場の鑑定では第二現場の土壌が近似していると分析した。この為恋ケ窪付近にアジトがあると見て、徹底的に捜索したが成果は出なかった。
ホンダドリーム
1968年11月9日に盗まれたオートバイ。白バイの車種であるため、犯人は当初このオートバイを偽白バイに改造しようとしたと思われる。盗難後の走行距離が60キロメートルと短い。持ち主によるとこの個体はノッキングしやすい不具合があったという。犯人は試運転でその不具合に気づいたため、別の個体を入手して白バイに改造したと推理された。
3台の盗難車
第2カローラ以外にも盗まれて小金井市の団地に放置された盗難車が3台(プリンススカイライン2000GT・ブルーバード・プリンススカイライン1500)存在した。車は盗まれたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。1971年(昭和46年)、工学者の額田巌は、警察の依頼で遺留品の鑑定を行い、2台のカバーシーツの紐結びを比較した。その結び方が異なるため、ブルーバードを盗んだのも三億円事件の犯人だとすれば、この事件は複数犯であると結論している[3]。
ギャンブル関連品
盗難車プリンススカイライン2000GTの中に競馬専門誌2部とスポーツ紙、府中の東京競馬場近くの喫茶店のマッチ、平和島競艇のチラシが残されていた。車の持ち主の身に覚えの無い物から、盗難犯の所持していたものとされた。そのため、犯人像としてギャンブル愛好家説が浮上した。
女性物のイヤリング
プリンススカイライン1500の中から発見された。車の持ち主に覚えが無いことから、盗難犯の所持していたものとされた。犯人グループに女性の存在が浮上した。
脅迫状
銀行に送りつけられていた脅迫状の切手に唾液の痕跡があり、B型の血液型が検出されている。また、脅迫状は雑誌の切り貼りで文字を作っていたが、その雑誌が発炎筒の巻紙に使われた雑誌と完全一致したことから、脅迫状を送った犯人と現金強奪犯が同じであることが明らかになった。
多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件の両事件で送られてきた脅迫状の文面の特徴として以下の特徴があった。
「ウンテンシャ」「イマ一度の機会」など特定の業種が使う言葉を使用
語句と語句の間を分ける「わかち書き」の使用
強調点に「●―●―●」という記号の使用
「オレタチ」「我々」などの複数犯を思わせる記述
「コン柱オキバ」など電話関係者の業界用語の使用
多摩農協職員の車のナンバーを特定している記述
2つの雑誌
脅迫状と発炎筒には『電波科学』と『近代映画』という2つの雑誌が使われていた。捜査機関は2つの雑誌の読者の性向を絞って犯人を捜査。しかし、2つの雑誌の読者の趣向は両極端であり、これらの雑誌を置いている書店に聞き込みをしても、2つの雑誌を併読している読者は皆無であった。
その後の捜査で、『電波科学』の読者にとって一番重要だった「配線図」のページが犯行に使用されていたことから、本来の読者であれば違うページを使用したと推理し、捜査撹乱のために全く無作為に2冊の雑誌を購入して犯行に使用したものと結論して、捜査を打ち切った。
実行犯に関する目撃証言
事件の少し前に偽白バイに関する目撃証言が集まっている。11月下旬朝8時頃に府中市の市道を運転された青いオートバイ、12月1日深夜に京王線高幡不動駅近くで一方通行を逆向きに停めてあった青いオートバイが目撃され、二つとも4桁のナンバーが盗難白バイと同じであった。また12月9日午後8時40分には府中市の交差点で不自然なスピードで走行する、本物よりシートが高い白バイとのすれ違いに関する目撃証言がある。
現金強奪前の第三現場ではシートを被せられた白バイの目撃証言が寄せられた。現金強奪10分前の9時20分には何かを狙うように待機する白バイの姿が自宅にいた主婦に目撃されている。また現金強奪30分前の9時頃に日本信託銀行国分寺支店から50メートル離れた空き地で銀行の出入りを窺う不審なレインコートの男を目撃した人物が4人いる。4人の目撃者によるといずれも身長165センチメートルから170センチメートルで、30代くらいの男である。
直接の現金強奪の犯行現場となった第一現場では4人の銀行員の他に府中刑務所の職員、近くにいた航空自衛隊員などの目撃証言者がいた。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧だったり勘違いだったりすることもあった。
また、第二現場付近では泥水を車に跳ねられた通行人の主婦がすぐに車のナンバーを控えたところ、盗難された現金輸送車のセドリックだったことが判明している。
国分寺市の造園業者の親子が運転中に乱暴な運転の濃紺カローラとすんでのところで接触事故になりかけ、カローラは猛スピードで国分寺街道方面に消えていった。造園業親子は、カローラの運転手が無帽の若い長髪の男で黒っぽい服を着ていて、助手席は無人だったのを目撃。ジュラルミンケースは見ておらず、車のナンバーを見ていないが、挙動不審な運転や濃紺という目撃証言から、犯人が乗ったカローラ「多摩五郎」であることが確実視されている。
東京都杉並区内の検問所で「銀色のトランクを積んだ灰色ライトバン」を捕捉したが突破された。これが最後に目撃された犯人の姿といわれる[4]。
捜査
モンタージュ写真による捜査
12月21日にモンタージュ写真が公表された。しかし、これは通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげて作成されたものではなく、事件直後に容疑者として浮上した人物(後述する立川グループの少年S)が犯人に似ているという銀行員4人の証言を根拠とした上で、少年Sに酷似した人物の顔写真をそのまま無断で用いたものであった[注釈 5]。なお、捜査本部は実行犯を間近で目撃した4人の銀行員たちを刑事のふりをさせてSの通夜をしていたS宅に招き、Sの顔を面通しをさせて、4人全員がSが実行犯に「似ている」または「よく似ている」と答えている。
後に4人の銀行員は事件3日後の12月13日に銀行内での内輪の報告では警察の聴取とは異なり、犯人の人相記憶に一貫した説明ができなかったり、漠然としていて顔や形の説明ができなかったり、1人は車の窓の柱が邪魔になって実は犯人の顔を見ていなかったと語っていたこと等が判明したことなどから、現金を強奪される際に「キーを差し込んだまま逃げた」「通報が遅れた」というミスを犯した責任感に加えて「犯人の顔も覚えていない」では許されないという重圧から証言に大きなバイアスがかかっていた可能性が浮上した。また、後の警察の補充捜査で、4人の銀行員の目撃証言について4人が同室で証言させられたことで他の銀行員の意見に引きずられやすい雰囲気の中で調書が作成されたこと等の問題点が浮上している。
本来「このような顔」として示す程度のモンタージュ写真を「犯人の実写」と思い込んだ人が多く、そのために犯人を取り逃がしたのではないかという説もある。また、モンタージュ写真を見せて取材をしていた記者が捜査本部に「家にモンタージュ写真を持って男が話を聞きに来たが、その男が写真に似ていた」と通報されるなど、モンタージュ写真の公開によって膨大な情報提供が寄せられたことが却って捜査を混乱させたという指摘がある[1]。
1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、問題のモンタージュ写真も1974年に正式に破棄されている。しかし、その後も本事件を扱った各種書籍などでこのモンタージュ写真が使用され続けており、犯人像に対する誤解を生む要因となっている。
なお、これらの経緯が初めて明らかになったのは、『文藝春秋』1980年8月号における小林久三・近藤昭二の共筆による記事によるものである。
ローラー作戦
事件現場となった三多摩地区には当時学生が多く住んでいたことから、一帯にアパートローラー(全室への無差別聞き込み)を掛けた。警察において被疑者とされた者の数は十数万人に及んだ。事件現場前にある都立府中高校に在籍した高田純次や布施明の名前もあった。もっとも、2人とも事件とは無関係であることが後に判明した。
なお事件自体が、当時盛り上がりを見せていた学生運動の摘発を目的とする強引な捜査の口実として捏造されたとする陰謀論も存在する。
その他の捜査
通常の事件と同様に遺留品などから検出された指紋の照合も行われていた。しかし、上記の通り遺留品はどれも大量生産されていたものだった影響から、照合する指紋の量が多すぎたことや、指紋の照合をした警視庁鑑識課の指紋係員がわずか3人と少数だったため大した効果は得られなかった[5]。
警察は事件当時に盗まれた3億円のうち、番号がわかっていた500円札2000枚分(100万円分)のナンバー(XF227001A~XF229000A)を公表した。
犯人像
事件当時から「単独犯説」と「複数犯説」が唱えられ、目撃者や脅迫状に書かれた文面、遺留品などから様々な犯人像が浮上した。ただし、「複数犯説」については以下の通り否定的な見解がなされ[1]、一般的には「単独犯説」が主流である。
シートを引きずったままの偽白バイで犯行に及ぶなど、複数犯であれば考えにくいミスをおかしている。
共謀者がいれば実施されていたであろう、逃走の成功を左右しかねない対向車を排除する措置が犯行現場の周辺で執られていない。
手に入れた大金の配分を巡る争いが行われた形跡がない。
立川グループ
事件当時、立川市内で車両窃盗を繰り返した非行少年たち。その中でも、以下のメンバー2人が捜査線上に挙げられている。
少年S
立川グループのリーダー格。事件当時は19歳。
状況証拠
「車の三角窓を割り、ドアの鍵を開けてエンジンとスターターを直結する」という車の窃盗手口が同じ。
地元出身で土地勘があり、車やバイクの運転技術が巧み[1]。
1968年3月に立川市のスーパーで「発炎筒をダイナマイトに見せかけた強盗事件」を起こした仲間と親しい[注釈 6]。
父親は白バイ隊員で、白バイに関する知識が豊富[1]。
親族以外のアリバイが不明確。
事件前に東芝や日立製作所の現金輸送車を襲う話をしていた。
反証
Sの自宅に徹底した家宅捜索が行われたものの、入手したはずの現金が一切見つかっていない[1]。
事件前日の夜、新宿で飲酒していたとされ(後述)、単独犯であった場合は複数の車両を使った犯行を朝にできるとは考えにくい[1]。
血液型はA型であり、脅迫状の切手のB型とは異なっていた[1]。
脅迫状の筆跡と一致しなかった[1]。
多摩農協脅迫事件の脅迫状が投函された8月25日、まだ少年鑑別所に収容されていた。
その後
事件から5日後の1968年12月15日、父親が購入していた青酸カリで自殺を図る。この死について、周りの人間は「Sは自殺するような人間ではない」と口を揃え、さらに青酸カリが包まれた新聞紙からは、父親の指紋しか残されていなかったため、疑問視する声が強い。
1968年の12月21日、Sに酷似したモンタージュ写真が公開されたものの、警察はSを「シロ」と断定した。
その劇場型犯罪に相応しいインパクトからドラマや小説でこの説が取り上げられることが多いため、「警官の息子犯人説」は世間に広く知られることとなった[1]。
少年Z
立川グループのメンバー。事件当時は18歳。
状況証拠
事件後に乗用車を購入したり、会社経営をするなど金回りがよくなっていた。
その他、少年Sの上記3つと同じ理由。
反証
血液型はAB型であり、脅迫状の切手のB型とは異なっていた。
脅迫状の筆跡と一致しなかった。
その後
公訴時効寸前の1975年11月、別件の恐喝罪で逮捕されるが後に釈放された。
ゲイボーイ
以下K。少年Sと交際があったゲイボーイ。事件当時は26歳。
親族を除き、事件当日のSに関する証言をした唯一の人物。Kの証言は、事件の2〜3日前から前日にかけて新宿の自宅マンションで夜を過ごし、明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。ただし、朝8時というのは時計を見ていたわけでなく冬における外の明るさで判断としており、雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がなかったなど、曖昧な点があった。
Kの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前なのに夏(少なくとも4か月程度前)に一緒に旅行に行った時に撮影された少年Sの写真を飾っていたことなど不可解な点があった。さらに事件1年後に、外国に移住して、ゲイバーを開店したり、再び日本に戻った時には日本では自宅マンションや2軒目のマンションを購入したり、事件7年後には実家に豪邸を建てたりなど、明らかに金回りがよくなっていた。
もしKがSと共犯であれば、Sが鑑別所にいる間の脅迫書を出すこと、事件関連の30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、第4現場の盗難車に残されていた女性物のイヤリングにもつながる。
警察は捜査を進めるも、Kを「シロ」と断定した。Kは急に金回りがよくなった点について「外国のパトロンがついた」と述べている。
府中市の運転手
詳細は「三億円別件逮捕事件」を参照
府中市に住む運転手であった容疑者は、事件当時は25歳。住まいや過去の運転手の仕事から各現場の地理に精通していること、血液型が脅迫状の切手と同じB型、タイプライターを使う能力を持っていること、友人に送った手紙が犯行声明文と文章心理が似ていること、モンタージュ写真の男と酷似していることなどから12,301人目の容疑者候補として浮上。しかし、脅迫状の筆跡が異なっており、金回りに変化がないことから、警察は慎重に捜査をすることとしていた。
発生から1年後の1969年12月12日、『毎日新聞』が本人の顔と本名をモンタージュ写真にFの顔を合成するなどして犯人視する報道を展開。このため警察が逃亡を防ぐとの名目で別件逮捕。新聞各社も「容疑者聴取へ」などと実名報道で書き立てる。ところが、本人が場所を記憶違いしていたながらも事件当日に就職面接を受けていたアリバイが報道を見た会社の面接担当者からの連絡で証明され、完全なシロとして釈放された。
しかし、警察に容疑者として逮捕されたうえに、新聞各社が犯人扱いで学歴、職歴、性格、家庭環境まで事細かく暴露。このため本人は職を失い一家は離散。さらに、その後も真犯人の見つからない中で、「三億円事件の容疑者として逮捕された」との世間の偏見と、事件に関するコメントを執拗に求めるマスコミ関係者に悩まされ職を転々とし、2008年9月に自殺した[6]。
日野市三兄弟
東京都日野市の電気工事会社を経営する三兄弟。事件当時は上から31歳・29歳・26歳。大きなガレージ風の物置がありオートバイの偽装のための塗装がしやすいこと、次男がオートバイマニアの不良グループに属していたこと、看板店の営業経験があり塗装技術があること、事件前に発炎筒がつけられた車を購入していたこと、兄弟の一人が事件前にハンチング帽を被っていたことが怪しいとされた。しかし、車の発炎筒やハンチング帽が事件のものと異なること、事件の4日後に借金していたことなどが判明。その後も警察は日野市三兄弟を捜査するも事件と結びつかなかった。
不動産会社社員
不動産会社社員。事件当時は32歳男性。事件前に金に困っていたが事件後に金回りが良くなったこと、東芝府中に勤務経験があること、姉が東芝府中に12年勤務していること、自動車の運転が巧みなこと、モンタージュ写真の男と酷似していることが怪しいとされた。しかし、事件当日に杉並区から神奈川県横浜市に車で行く途中で非常検問にひっかかったことからアリバイが出てきたこと、金回りの変化については不動産売買で1600万円を入手したことが明らかになったことから容疑者から外された。
会社役員
以下P。三億円事件から13年前の1955年に銀行員1人を仲間にしたり仲間の1人が刑事を装うなどして、東京都千代田区にある銀行の現金輸送車を襲う計画を仲間3人と実行。この事件ではすぐに逮捕されたものの計画性や発想が三億円事件と類似するものであった。Pは出所後に刑務所の中で知り合った友人に「今度は1年がかりで大きなことをやる」と豪語。三億円事件発生後に土地や住宅や外車を購入して金回りが良くなったため、容疑者として浮上。しかし、金回りに関しては、不動産会社から合法的な資金提供を受けたことが判明した。ハワイへ移住しマンション暮らしをしていたことがわかった。後にハワイで病死した。
自称三億円事件犯人
時効成立後、三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している。テレビ等で事件が取り上げられることが多いのが原因で時期は事件発生時と同じ12月に集中している。
なお、当時の担当刑事によると事件の際に発炎筒が通常通り点火しなかったが、犯人は通常とは異なる手法で発炎筒を点火させていることが遺留品から判明している。またジュラルミンケースには現金・ボーナス袋のほかに恋ヶ窪周辺のものと判明している土1.5gが入っていたという。発炎筒の特殊な点火手法やジュラルミンケースに留置された「土」は当時一般発表されておらず、捜査関係者と真犯人しか知らないはずであった。
事件を扱った主な作品
(以下略)
0コメント