自分の心に沿うて暮らす(~しなきゃ。と思うと「追い詰められる」)

https://tamurayoko.jp/archives/1479 【自分の心に沿うて暮らす(~しなきゃ。と思うと「追い詰められる」)】 より

「追い詰められてる」気がする瞬間が、ときどき。わたしを押しつぶしそうに感じます。追い詰められている気がするとき。わたしは何かに追われてあせっているのです。

焦るのは「時間がない」ように感じているとき。自分のこころやからだの感じる時間配分をのりこえて、周りの時間に合わせなければいけないと感じているとき。

例えば朝。起きてすぐのあたり、わたしはのんびり。追い詰められた気配は全くない。

夜明け前の時刻から、じわじわと体を目覚めさせて行く。

 遠くの鳥の声を聞いたり、ストレッチをしたり。

 部屋のなかが朝のひかりで薄ぼんやりと明るくなるのを眺めたり。

時間を思うままに使い、身体とこころを目覚めさせる。じぶんの内を確認していく。

……そこまでは、まだ「追い詰められて」はいない。

でも、朝ごはんをつくりはじめる時刻になるあたりから、 追い詰められてくる。

テレビから聞こえてくる時刻のお知らせ、時計の針のならび。

かちかち、ちきちき。少しずつ、わたしを追い詰めてくる。 時計の攻撃力が、どんどん上がっていく。

キッチンでばたばたと。朝ごはんや弁当を用意しはじめる。

「今日は間に合うか?」

仕事に出発するまでに終われるか。弁当は完成できるか。

間に合わなかったことは、ほとんどない(はず)なのに、やたらときゅうきゅう。追い詰められてくる。

けれども、休日の朝ごはんをつくりはじめる時刻。時計の攻撃力は極めて低い。時計はわたしを追い詰めない。

いつもの朝ごはん時間と休日の朝ごはん時間の違い。

それは、出発の時刻がかっちりと決められているかどうかだ。

いつもの朝ごはんは、終わりが限られている。それまでに、すべてを終えなければならない。そのプレッシャーが、わたしを追い詰める。

—–

「追い詰められる」とき、「~しなければならない」に心のかなりの部分を支配されている。自由になっているじぶんの心は小さくなり、その中でいつものように心うごかそうとする。

けれど、それは見たものを石に変えるというメデューサににらまれたままで、暮らしを続けるくらい無理がある。体の一部が固まっているのに、ほんの一部うごいている部分を使っていつものように暮らすのは無理がある。

そうだとしたら、メデューサににらまれなければいい。にらまれなければ、身体はいつものように動き、いつものように暮らせる。

「~しなければならない」 につかまらなければいい。そうすれば、心はいつものまま。自由に動けるから。追い詰められた気にもならず、ただたのしんで暮らすことができる。

—–

「~しなければならない」と、じぶんの首を絞めるようなルールづけは、もうやめよう。

「こころ」はとっても素直なもの。じぶんの心に沿うように。もっと、のびのび。やっていいんだ。

そうはいっても、どうしても外しづらい「~しなければならない」もある。 TPO(時と場所と場合)やら周りとの関係性やらで 「~しなければならない」ときもある。

そのときでも、許してもらえる限り。じぶんの心がふんわりやわらかにいられるように。

「~しなければならない」を小さく砕いて、最低限の支配にとどめるようにする。そして、最低限の支配を今はうけていると覚えておく。この時(場所、場合など)が終わったら、じぶんの心に沿うと決めておく。

そうしておけば、少しずつ。

追い詰められるときが減ってくる。

—–

1日のうち、わたしが「追い詰められる」のは朝。朝ごはんを作って家を出るまでの時間。

昼間から夜は、まずまずで。夜ごはんのあとは、比較的、じぶんの心に沿うて暮らしている(たまに「早く寝なきゃ」と慌てることもあるけれど)。

あなたが「追い詰められている」ときは、どんな時ですか?

もし。その時。じぶんの心に沿うように行動を選べるとしたら。

あなたは、どのように行動したいですか?

わたしも自分に問いかけています。

「~しなきゃ」を少しずつ減らして。

より、のほんと。はなうたに暮らしたいのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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