萩の写生句

http://dairo.main.jp/?p=13363 【低く垂れその上に垂れ萩の花  高野素十】 より

絵画の世界であるがままを写し取ることを写生という。これを表現で試みようというのが俳句や短歌の世界。素十の句もまさに萩のあるがままを捉えて写生にかなっているといえよう。誰にでも表現できそうであるが、「その上に垂れ」は簡単に思いつく表現ではない。写生といっても一筋縄にはいかない。(m)


https://plaza.rakuten.co.jp/operanotameiki/3018/ 【昭和10年前後の俳壇】 より

時が経ってみればどちらも真実であった、ということはあるかもしれない。水原秋櫻子、高野素十、中田みづほの論争もそうであったかも知れないし、しかし必然でもあったのだと思う。

昭和4年9月号からスタートしたみづほ主宰の俳誌「まはぎ」には「句修業漫談ー秋櫻子と素十」と題して中田みづほと浜口今夜の対談が載り、素十俳句の写生を称揚したものであった。この対談が「ホトトギス」誌上にそのまま転載されたことから、虚子が是認したことになり、秋櫻子の「ホトトギス」脱退の引き金となったと言われる。

 昭和8年の「まはぎ」にみづほの当時の気持が書かれていた。一部を抜粋する。

 「まはぎ」で僕と今夜君と句修業漫談をはじめた後間もなく、例の自然の真文芸上の真といふ論争が秋櫻子君と僕との間にとりかはされ、それが唯一の原因になったわけではないが、秋櫻子君が虚子先生、素十僕等に反感をもって先生と師弟の関係を断ち、馬酔木によって先生の悪口まで書かせるにいたったいきさつは、知って居る人も知らぬ人もあろうが、僕は、秋櫻子君も素十君もどちらも頼る俳句の友と考えて来て居り、どちらかといふと性分としてだんだん素十の考へに共鳴し、素十の肩を持つ方が多かったかと思ふが、両立しないとは決して思はなかった。今でも不思議で仕方がない。素十の句があり、秋櫻子の句があり、誓子の道があり、茅舎の道があり、いづれも虚子の大道に属するものだと信じて居る。しかし、あんな争ひが、たうたう全国的にわれわれが互いに憎みあってでも居るやうに俳句の仲間にひろがったのは遺憾でもあるし、またもののはづみといふことの馬鹿に出来ないものであることをつくづく思ひ知らせるのである。僕は終始決して偏狭なことは云はなかったやうに思ふ。常に秋櫻子君から悪意にのみ解釈されて居たやうである。芸術の信念なんてあんなにまで極端になれるものか今もって不思議なのだが、実際はしまひには僕も秋櫻子君の人格をさへ疑ふ心持にされたのは偽り難い事実であった。正直な人程、ぬきさしならぬやうな運にもって行かれる。

 我々は皆真っ正直であったためにこんなことになったのではないかと思ふ。(昭和8年「まはぎ」より)

 昭和10年前後の俳壇は、「ホトトギス」の四Sの俳人の一人として活躍していた水原秋櫻子が、昭和6年、その「ホトトギス」を離脱するという事件によって始まった。秋櫻子の主宰する俳誌「馬酔木」には若い俳人達が集まり、離脱の経緯から、反ホトトギス、反伝統を旗印とした新興俳句運動へとつながっていった。

明治35年、俳句革新をした正岡子規が亡くなった当時の「ホトトギス」は虚子が運営していたが、夏目漱石などの参加で俳句誌というより文芸誌のようであった。しかし、子規のもう一人の弟子である河東碧梧桐の唱える「新傾向」は、破調・自由律・無季・ルビ俳句という風に、子規の目指そうとした俳句からも、伝統からもかけ離れてしまっていた。

 その様子を見た虚子は、大正2年に「ホトトギス」の雑詠欄を再開し、「碧梧桐の新傾向に反対すること」という高札をかかげて俳句に復活した。碧梧桐にはついてゆけないと考えていた多くの俳人たちが「ホトトギス」に集まり、虚子が自ら「守旧派」と呼ぶ伝統俳句は再び活性化していった。

 「ホトトギス」に連載の「進むべき俳句の道」で、虚子に取り上げられた渡辺水巴、飯田蛇笏、村上鬼城、原石鼎、前田普羅等がそれぞれの個性を発揮した大正初期の第一期黄金時代、虚子も実践しつつ「客観写生」を進めたなかで開花した西山泊雲、鈴木花蓑の時代を経て、山口青邨が提唱した四S(水原秋櫻子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝)の第二期黄金時代を築いた俳人達の活躍で、昭和初期の「ホトトギス」は全盛時代を迎えていた。

 虚子は、彼らの実作からの成功を見ながら「客観写生」の大切さを説き、「花鳥諷詠論」を打ち立てた。最初は、主観句の短所を指摘しながらも是としていた虚子は、安易な主観句が横行するのに気付くと、昭和3年に再び強く「客観写生」を説きはじめた。

 「ホトトギス」の上位で競いあっていた秋櫻子と素十の俳句に対する虚子の評が微妙に変わってきた、そのような状況下に、秋櫻子の離脱事件が起きたのであった。 

▼1.秋櫻子の「ほととぎす」離脱と「馬酔木」

 「ホトトギス雑詠句評会」が大正14年から昭和18年までつづけられた。「ホトトギス」雑詠欄の上位句の中から、虚子が選んだ句を有力な同人たちが合評するというもので、この句評は毎回「ホトトギス」に掲載された。昭和4年6月号掲載の素十の<朝顔の双葉のどこか濡れゐたる>の句評は秋櫻子であった。その中に「・素十君欠点を求めれば詩の不足に陥るおそれがあることだと私は思う。素十君にして見れば詩の過剰程いやらしいものはないというのだろう。・・」の言葉があった。さらに、それ以前から自分と素十とは少しずつお互いの句に賛同しきれないものを見るようになっていた、と語っている。

 昭和3年、虚子は「秋櫻子と素十」の文を書きその中で、「秋櫻子の句は調べと構成による写生であり、素十の句を厳密な意味における写生と云ふ言葉に当てはまると思ふ」と書いた。昭和6年、新潟の俳誌「まはぎ」の中田みづほと今夜の対談「秋櫻子と素十」が「ホトトギス」へ転載された。素十の写生の態度に賛意を示した文であった。転載は虚子の意図であろうと考えた秋櫻子は、次第に反撥を感じ始めるようになる。

 秋櫻子は、「馬酔木」誌上に「自然の真と文芸上の真」と題した論文を発表して反論した。「自然の真はよき俳句の鉱(あらがね)で、それを観たままに述べるということは厳密に言えば自然模倣主義」「・・略・・文芸上の真に於いては、作者の個性が光り輝いて居ねばならず、そのためには創造力を養い、想像力を豊富にせねばならぬ。而して主観を文字の上に移すべき技巧を錬磨することを必要とする。」

 この論文がきっかけで、「馬酔木」に加わった、反ホトトギスを旗印とした俳人による俳句革新運動は、圧倒的に若い学生や知識層の俳人たちに支持された。「馬酔木」は、創刊時の誌名は「破魔弓」といい東大俳句会の投句の場であり、「ホトトギス」の傘下誌であったのが、昭和3年より秋櫻子の選となる。

 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  秋櫻子

    百済観音

  春惜むおんすがたこそとこしなへ  〃高嶺星蚕飼の村は寝しづまり    〃

 このような若々しい表現と抒情的な句は当時新鮮であった。

 大正時代、碧梧桐一派の「新傾向」は内容を盛り込もうとして、破調、自由律、ルビ俳句というふうに、主に型を変えていったのに対し、この時、新興俳句運動の俳人たちの変えたかったのは表現方法であり、生活上の心の内面をもっと直接的に詠いたかった

 (リアリズム論)のであった。

 俳句革新運動の拠点となった「馬酔木」「京大俳句」「天の川」「旗鑑」に集まったのは、日野草城、山口誓子、人間探求派と言われるようになる加藤楸邨、石田波郷、無季・超季俳句へと進んだ篠田悌二郎、高屋窓秋、西東三鬼たち青年俳人であった。

▼2.新興俳句運動

 一期:秋櫻子が「ホトトギス」を離脱した昭和6年から9年頃まで「ホトトギス」でも試みていた連作俳句を秋櫻子と誓子が中心となって競い合った時期である。誓子は「ホトトギス」においても連作俳句を発表し、何度も巻頭作家となり活躍をしていた。虚子は連作俳句に関して、一句一句が独立した俳句で互いの句がもたれ合っていなければよい、とした。誓子は昭和10年に正式に「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」へ同人として参加した。

 誓子が昭和8年「ホトトギス」巻頭となった連作俳句より。

  祭あはれ覗きの眼鏡曇るさへ    からくりの鞭ひしひしと夏祭り

  祭あはれ侏儒のわざを人に見せ   玉乗の足に鞭(しもと)や夏祭

  祭あはれ奇術をとめを恋ひ焦れ

 二期:連作から派生した無季容認、超季への時代

 心(主観)を述べようとすると、一句ではなかなか表現しきれない。そこで同じ題材で、三句、五句並べて発表する連作という型式が出てきたのだが、連作という性質上、季語の重複となりやすく、季語のない句も並べて発表するようになった。その、無季の句も俳句と認めようとする動きが出てきたのである。その場合、一句には季語と同じ位、季語など不必要という位の強い言葉が必要で、それを超季と言った。超季というのは、死、母、海、愛、戦争などの言葉で、季語と同じ位に詩的インパクトの強い言葉を、キーワードとして認めるとする動きである。

 新興俳句の主な作家たちと俳句を掲げる。

 水枕ガバリと寒い海がある    西東三鬼   中年や遠くみのれる夜の桃 〃

 しんしんと肺碧きまで海の旅   篠原鳳作  戦争が廊下の奥に立っていた 渡辺白泉

 蝶墜ちて大音響の結氷期  富澤赤黄男  ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

 葉桜の中の無数の空さわぐ    篠原 梵

 だが、反ホトトギス・反伝統の旗をかかげて共に俳句革新運動を進めてきた秋櫻子も誓子も、無季・超季へ向かうことはなく、やがてホトトギスとは異なる第二の伝統俳句の流れを作る事になっていった。

 三期:昭和12年の日支事変以後は、戦争俳句が盛んになる

 戦争は、無季俳句にぴったりの題材であるとして競って詠われた。日野草城たちの戦場に行かずに作った作品は戦火想望俳句とも呼ばれた。それに対して虚子は、新興俳句の最前線である「京大俳句」にも一時属していた「ホトトギス」の作家、長谷川素逝の句集『砲車』こそ真実の力強さがある戦争俳句であると序文を寄せている。

  傷つきしものを酷熱の地(つち)におく  素逝

  脚切つたんだとあふむいて毛布へこめり  〃

  馬ゆかず雪はおもてをたたくなり     〃

 戦争の苛酷な現実を詠んだり風刺的に詠んだりしたことで、治安維持法違反容疑で昭和15年に「京大俳句」が弾圧されたのを皮切りに、昭和16年に「広場」「土上」「「俳句生活」「日本俳句」の四誌が一斉に弾圧され、新興俳句運動は急激に終息に向かった。

 だが、新興俳句運動の俳人たちの、季語の力に頼らずして一句を作り上げようとするエネルギーには目を瞠るべきものがあった。

 山口誓子の二物衝撃論の二者の思いがけない配合の方法による句など、飽くなき詩的追求をして近代詩の領域まで高めた功績は大きい。

 この新興俳句運動を進めた若い俳人たちは、戦後の前衛俳句を初めとした大きな社会性俳句隆盛の一翼を担うことになる。

 三期:人間探求派の俳人たち

 昭和18年8月号の「俳句研究」座談会で司会者の山本健吉が、「馬酔木」の加藤楸邨、石田波郷、「ホトトギス」の中村草田男、「石楠」の篠原梵の四人の共通の傾向を「俳句における人間の探求」であると結び、人間探求派と呼ぶようになった。彼らは、季を重んじ、五・七・五の型式は崩さず、一句が独立して、精神性の高い俳句を目指し、山本健吉によれば「伝統、新興の両派を止揚する新しい立場」であるという。

 草田男の「ホトトギス」には本当の俳句の技はあるが、芸以前の真剣な生活が足りない」という不満に対して、虚子の「人間の生きようは千差万別で、人生派ならざるものはなく、俳句はもっと寛容なものである。」という言葉は、印象的である。

 楸邨は昭和15年「寒雷」を創刊主宰、戦時下の学生作家の拠点となった。沢木欣一、森澄雄、金子兜太などが参加し、やがて戦後の俳壇の社会性俳句をリードすることになる。

  鰯雲人に告ぐべきことならず    加藤楸邨

  隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな   〃

  木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ 〃

 波郷は昭和12年に「鶴」を創刊主宰。肺病で手術、入退院を繰り返し、その間の病苦を詠んだ『惜命』の絶唱がある。

  百日紅ごくごく水を呑むばかり    石田波郷

  雁(かりがね)やのこるものみな美しき  〃

  霜柱俳句は切字響きけり         〃

 草田男は昭和19年まで「ホトトギス」で活躍。昭和21年「万緑」を創刊主宰する。

  金魚手向けん肉屋の鈎に彼奴を吊り  中村草田男

  秋の航一大紺円盤の中          〃

  万緑の中や吾子の歯生え初むる      〃

 新しい流れは常に、若い反発するエネルギーの中から生まれてくるものである。

 「碧梧桐の新傾向に反対する」という高札を掲げ、「ホトトギス」の大河の流れを作ったのは虚子であった。豊かな大きな河の流れが勢い余って、淵を削り、やがて小さな支流ができるように、若い俳人たちは、突破口を求めたのである。折しも、軍国主義が、戦争が、ひたひたと足音をたてて迫ってくる時代となってきた。

 一方に軍国主義があれば、一方にプロレタリアの思想、虚無的な思想が芽生える。このような時代背景から、若者たちは自分の心と戦わねばならず、激しく内面を詠うには激しい言葉も使ってみたくたる。文学界においても、「新感覚派」や「意識の流れ」が主流となり、それらの小説や詩、海外からの翻訳物などから、特に表現上の影響を受けたと思われる。

 昭和3年、俳論は実作の後からついてくるものという考えの虚子は、確信するにいたった「客観写生」を説き、俳句は「花鳥諷詠」の詩であると提唱した。この虚子の自然を写生し詠うだけのように見える論は、単純そうだが、じつは最も深く難しい道なのではないかと考えている。だが、性急な若い俳人は、そこに窮屈さを感じた。新しい俳句の流れが出来てゆくのは必然であった。

昭和9年に俳句総合誌「俳句研究」が改造社より創刊された。それまでは俳壇といえば、「ホトトギス」一色の感があったが、新興俳句運動の俳人たちの批評や俳論が活発に展開される場となったこの「俳句研究」が、もう一つの新たな俳壇になるという役割を果たしていったことも、新しい俳句の流れが育つ大きな要因となったと、考えられる。

 中村草田男、松本たかし、川端茅舎たち「ホトトギス」の俳人も俳句や論文、座談会などで「俳句研究」を通して大いに交流し、意見を戦わせることもあったのである。

 昭和8年、碧梧桐は、俳句へ挑戦の道を歩みつづけて行き止まるかのように六十歳で俳壇を引退し、昭和12年に亡くなった。虚子の追悼句は<たとふれば独楽のはぢける如くなり>であった。喧嘩独楽は、緊張した二つの独楽が互いに同じ位の強さで触れ合う

 とき、逆の方向へ弾けるように飛んでゆく。碧梧桐がいたからこそ虚子は「ホトトギス」を伝統俳句の大河の流れとすることが出来たのである。「ホトトギス」があったからこそ、新興俳句運動も生まれたのであった。

 金子兜太が、ある誌上で「俳句には大いなる伝統と大いなる前衛があればよい」というような事を言ったと思うが、確かに進歩や革新にはこの二つは欠かせない。

 昭和十年前後という時期は、魅力的な俳人が多彩に輩出した時期であったのだと思う。

                  

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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