https://tsukinami.exblog.jp/28288624/ 【総合俳誌拾読「俳句」2018年5月号】
特集は「追悼 金子兜太」です。昨年12月のご本人へのインタビュー、14名の方による追悼エッセイ、安西篤さんらによる追悼座談会、さらに、句集『日常』以後の最晩年の100句が、主な構成です。特にエッセイには多様な考え方、感じ方があらわれており、面白く読ませていただきました。
また、完全保存版として『金子兜太読本』と題した、別冊が付けられています。第1部は、各句集から選ばれた100句ずつ。第2部には、兜太さんの俳論や往復書簡が(多くは抄録の形で)収められていて、さらに、兜太入門として役立ちそうな兜太論を、数人の俳人が執筆しておられます。本誌の特集と別冊付録と合わせて、今後の兜太俳句研究の基礎資料となりそうです。
俳論を読んでみて、いくつか発見がありました。兜太さんの唱えられた「創る自分」を介した『造型』の概念は、独自性のつよい、たいへん有名な俳論ですが、その『俳句の造型について』を発表されたのは昭和32年で、そのあと、同36年に『造型俳句六章』をまとめておられます。後者では、意外や、ほとんど『造型』という言葉を使っておられません。「構成」や「主体」という言葉で語っておられます。のちには『造型』の代わりに『表現』の語を柱にして、持論を展開されたようです。
それから、ごく個人的な感慨ですが、わたしは高校2年の夏、「俳句」誌上で兜太さんの『一茶覚え』を読んでいました。日銀を定年される前の年、昭和48年のことで、この頃、兜太さんは一茶研究を通じて、ご自分の俳句を確立させるべく模索しておられたようです。
最晩年の句から、拾い出します。
朝日迎えて僧とその妻むかご炊く 兜太
小学六年尿瓶とわれを見くらぶる
裸身の妻の局部まで画き戦死せり
水田地帯に漁船散乱の夏だ
被曝の人や牛や夏野をただ歩く
わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
秩父困民党ありき麦踏みの人ありき
日野原大老いま頃ロンドンで酔うや
https://weekly-haiku.blogspot.com/2016/11/2.html 【評論で探る新しい俳句のかたち(2)
いったん芭蕉と子規を忘れてしまう、ということ】 より
藤田哲史
俳句のルーツを探るなかに、新しい俳句表現のヒントを探していくウェブ連載記事「評論で探る新しい俳句のかたち」。
なかなかの大口っぷりではじまった連載だけれど、正直なところ、どういった切り口で語りはじめればよいか、まだ迷っているところもある。
たとえば、いま真面目に俳句のルーツ、つまり俳句の文学史を書いていこうとすると、近世俳諧では、芭蕉・蕪村・一茶、近代以降だと、正岡子規・虚子―――というようにそれぞれの時代の代表的な作家を挙げて、それぞれの作家の文学的功績を挙げていくことになるだろうか。
けれど、このようなやり方で俳句をいくら丁寧に語っても、現在の俳句とのつながりや、新しい表現へのヒントを探ることはむずかしい。なぜなら、ふつう、ほとんどの文学研究の目標というのが、表現の形式自体の理解でなく、表現した作家個々への理解だから。芭蕉が「奥の細道」で何を表現したかったか、子規のいう「写生」とは何だったか、という問いが各研究者の目標であって、それらの文学論を繋ぎ合わせたような文学年表を作成して、それがそのまま表現形式についての理解になるか、といえばとてもあやしい。
これまでの俳句評論が、新しい表現のかたちをほのめかすことができなかったのは、ひょっとしてこういった文学の本質的なところが関わっているんじゃなかろうか。
そこで、ここでは、俳句表現自体を語るため、芭蕉や子規をいったん忘れることにしようと思う。
俳句を語るため、俳句にとって欠かせない作家を忘れる、というのは、奇妙に聴こえるかもしれないが、作家の個性のような、本質論にとってノイズとなるような要素、いわば文脈をいったん脇に置いたほうが、表現の本質を語るうえではじつは都合がよいのではなかろうかというのがこの考えの要だ。
空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明
ここで、あらためて、先週現在の俳句として挙げたものを挙げてみる。先週、この俳句を「俳句というジャンルが従来培ってきた文脈=本意を意識させつつ、それとは異なる文脈が1句のなかに収まり、1句ではっきりと1つの世界を立ち上げないような構成」と評した。
もし、この田中裕明の代表作をいかにも文学らしく捉えるなら、高浜虚子の弟子・波多野爽波の弟子である田中裕明という系譜による鑑賞や、詩人高橋睦郎による「伝統派の貴公子」という評、また「稲の花」という季語の意味などを解説しながら、上五中七の「空へゆく階段へなし」という意外性のあるフレーズを称えることになるだろうか。
けれども、1つの作品についてその背景を含めて詳しく鑑賞すればするほど、俳句表現自体からは遠ざかっていく気がするのは私だけだろうか。
だからこそ、この連載では、作家性などの諸々の背景=文脈を取り除いたときにあらわれるもの=構造を基に俳句表現について語っていこうと思う。
作品にまつわる一切の文脈を脱がせたときに見えてくる表現の骨格たる構造。それは、決して見えないものではない。文脈の存在によって気づきづらかっただけで、ずっとそこにあり、私たちに見えていたはずのものだ。構成から俳句表現を語り直す―――次回以降、さしあたり、このあたりのことをテーマに書き進めていこうと思う。
眼に見えないものを見る
あれは撃鉄をひいたことのない
群小詩人の戯言(たわごと)だ
眼に見えないものは
存在しないのだ
(「ある種類の瞳孔」 田村隆一 より)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2016/12/4.html 【評論で探る新しい俳句のかたち(4)
それ、作り手の論理で俳句を語っていません?】
藤田哲史
「近代俳句と現代俳句の違いは構造により詩性を表す意図があるか否か」にある、と書いた前回記事。このあたり、もう少し書き足してみようと思う。
先週の記事で、「取り合わせ」という用語を使ったのだけれど、決して私は「取り合わせ」という技法で近代俳句と現代俳句を区分したいわけではない。この「取り合わせ」は、近代俳句以前、少なくとも芭蕉までさかのぼることもできる作り方だ。そんな古っぽい技法の有無で俳句の近代/現代を区分できるとは考えてはいない。
むしろ、この連載は、そういった方法論に極力触れずに、結果として存在する作品から表現を語る、という目標をもって書いている。俳句はつまるところ言葉でしかない。特定の人にしか伝わらない文脈はありうるし、俳句を作った方がわかりよくなる、というのはありうる。けれど、俳句を言葉以上の何かが律することなどあってはならない。
表現全体を的確に捉えるため、方法論でなく、語彙、文体、構造といった点から表現を捉えていこう―——というのが、この連載の要なのだ。
先週の「週刊俳句」の記事で、正岡子規・高浜虚子・山口誓子などの作品を並記して、全て同じ構造をしていると主張したところ、その「週刊俳句」後記で福田若之さんから、金子兜太の「造型俳句六章」をふまえると、映画におけるエイゼンシュテインの衝突法のモンタージュを俳句の構成に関連付けた誓子は「現代俳句」の側の作家ではないか、との指摘があった。
ただ、ここでの山口誓子の「構成」も結果としての作品の構造ではなく、方法論の一つだろう。繰り返しになるけれど、この連載は方法論で表現を語ることはしない。だからこそ、この文章では、ことさら作家別に区分けをすることもしない。同じ作家のものであっても、ある作品はAで、もう一つの作品はBらしい、といった判断もありうる。
ちなみに、この指摘のよりどころとなった「造形俳句六章」は、昭和36年発表の金子兜太による俳句評論なのだけれど、この評論の目的の1つに、正岡子規以降の俳句表現方法論の最新版として「造型」があることを示すことがあった。
私はこの評論が現在も有効と思わない。正岡子規が新聞「日本」掲載の「俳諧大要」で俳句の文学宣言をしたのが明治28年(1895年)。金子兜太が雑誌「俳句」に「造型俳句六章」を書いたのが昭和36年(1961年)で、この66年後だ。今は、2016年。その「造型俳句六章」から55年目にあたる。「造型俳句六章」執筆当時の金子兜太は、この55年間の俳句表現の歩みを全く知らない。
と、ここで掘り下げていきたいのは、この連載の肝となる俳句の構造と呼ぶものの正体だ。次回以降、さしあたって、「前衛俳句」の作家たちの作品と鑑賞文から俳句の構造について探っていってみたい。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/blog-post_13.html 【「前衛俳句」が難解である理由】 より 評論で探る新しい俳句のかたち(5) 藤田哲史
華麗な墓原女陰あらわに村眠り 金子兜太
ここに挙げたのは、昭和30年代、「前衛俳句」全盛の時代の作品だ。金子兜太の自解によると、「抽象的な論理の糸目と具体的な風景との交錯したおぼろげな構図」のある作品とのことだが、いったい、印象明瞭な近代俳句と異なる「前衛俳句」は、どんな言語観から生まれたものなのだろうか。難解という形容で語られる「前衛俳句」は、「イメージ」「暗喩」「象徴」「あいまい」などのような言葉で評されてきた。ここで、あらためて、いくつかの作品について分析を試みてみたい。
まずは、冒頭に挙げた「華麗な墓原~」の作品。一見字余りで名詞が詰め込まれて、とっつきにくい感じもするけれど、この作品の大まかな構成は、墓原と村の対照にある。ここでは、季語がないことも少し脇においておく。意味のうえでの構造は、言ってみれば対句だ。墓原が暗示するのは死、一方の村が暗示するのは生。もっと補完して説明すれば、墓原の後部において、なんらかの動詞(穏当なものを挙げれば「あり」など)が省略されていて、修飾部・名詞・動詞の3つの部分からなる連なりが2つ対置されている、と見ることもできるだろうか。
①華麗な + 墓原 + (省略された動詞)
②女陰あらわに + 村 + 眠り
ここで①と②を比較してみると、全体として対称的な構成なのにもかかわらず、修飾部分に大きな違いがある。①の修飾部「華麗な」が、抽象的な語彙であるのに対して、②の修飾部「女陰あらわに」と具象的な語彙が用いられている。この「女陰あらわに」が、作品全体構成の均整を崩すことによって、読者の注意を喚起する。しかも、このフレーズが「墓原」と「村」といった遠景をイメージさせる語句の間に挿入されていることで、ある眼前の景色を現したもの、という読み方が斥けられることにもなる。
この修飾部における具象的な語彙の挿入は、「前衛俳句」以前において見られた語彙の組み合わせ、たとえば、
夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子
七月の青嶺まぢかく熔鑛炉 山口誓子
における、「夏草」と「汽罐車の車輪」、「青嶺」と「熔鑛炉」の組み合わせとを比較すると、大分に様子が異なる。誓子の作品では、「汽罐車」「熔鑛炉」といった当時としては新奇な語彙が、季語と巧みに組みあわされ、ある視点からの観察を追体験させるような構成をとっている。これに対し、金子兜太の「華麗な墓原~」の作品で、「華麗な」と対置させられた「女陰」は、もはや「墓原」や「村」と同一の時間・視点から捉えられないものだ。この修飾句は、村の性のありようを具体化しつつ、一方で比喩としてのはたらきをも期待されることになる。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
赤尾兜子のこの作品はどうだろう。この作品も構成から把握してみれば、「広場における裂けた木」という前段と「塩のまわりに塩軋み」という後段に分かれて成り立っていることがわかる。この作品の前段における「木」、は雷か台風か、何かの原因で裂けてしまい、やがて枯死してしまう存在だ。後段における「塩」もまた、塩化ナトリウムという一物質だ。作品を通して感じられる印象は、無機的、非人間的といえる(「今日の俳句」で金子兜太はこの作品を「虚無」と言い表している)。
とはいえ、この作品を一語漏らさず説明するのはむずかしい。その原因の一つが、最後の一語「軋み」にある。「軋み」という語彙により、「塩」が塩湖や岩塩層のようなスケールの大きな塩でなく、より微細な、塩の粒子の集まりを強く連想させる。これにより、前段と後段が意味のうえで直接的につながっているのではなく(あるいは、つながっているばかりではなく)、前段の主題を全く別の言葉により言い換えられている、あるいは前段に対する比喩としてのはたらいている―――などの関係性が推察されることになる。
しかしながら、困ったことに、前段と後段との関係性を明らかにするヒントは作品からは得られない。つまり、読み手は、前段と後段の関係性について全ての可能性を意識しながら読み解くことを強いられる。
印象明瞭であることを斥けること。むしろ、それによって言葉の詩的はたらきを引き出すこと。「前衛俳句」を読み解く鍵は、おそらくこのあたりにある。
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