霧の少年

https://kawausokc.blog.ss-blog.jp/2020-10-19-3 【霧の少年  田中亜美】 より

高校1年の担任は,英語の教師だった.

2年,3年の担任は,国語の教師だった.この先生は,評判がよくなかった……と思う.紛争のまっただ中で,生徒の信頼をすこしも得られなかった,と思う.ぼくの勝手な観察だけど.それより,国語,現代国語,漢文,古文,いったいなにを勉強していたのかな,と思い返す.

漢文の教師は,楊貴妃を演じた京マチ子の話だけ覚えている.おもしろい人だったんだろうな,と思ったが,もうずいぶん高齢だったはずだ.

教師の問題だったのか,あるいは国語という教科のあり方が問題だったのか,よくわからない.当時は,あまり興味もなかった。ただただ,つまらなかった.

だから,というのはまったくの言い訳なんだけれど,和歌とか俳句とか,学校の授業でなにを学んだか,さっぱり覚えていない.

文学好きの仲間は,自分たちでなにか勝手に読み,書いていたのだと思う.校内誌には,そんな自学自習の成果が掲載されいた……か.

金子兜太さんが,長崎支店に勤務していたと見て,ちょっと興味が湧いたのは,いつごろだったか.

で,最近,井上ひさしさんの「小林一茶」で,

一茶をめぐって金子兜太さんと井上ひさしさんの対談をながめていた.

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   白梅や老子無心の旅に住む

 二月二十日。金子兜太先生が亡くなった。翌日、ご自宅のある熊谷へ向かった。黄昏どきだった。灰暗い闇に白く淡い光が漂っていた。「梅の花がね、昨日から咲きはじめたんですよ」。タクシーの運転手さんが眩いた。旧制水戸高校時代、十八歳の兜太青年が、教授や学生との句座に誘われ、初めて作ったというこの句が思い出された。初めて先生に句会でお目にかかり、結社「海程」に入会したのも一九九八年の二月だった。

   雪中に飛光飛雪の今がある

 初めての句会で出会った先生の作品だ。この句に出会った瞬間、今の自分の気持ちをこんなにも代弁してくれているような俳句があるのだと慄然とした。当時の私は、詩と文学への思いが断ち切れず、大学卒業後に就職した北海道での新聞記者の仕事をやめて、安アパートの一室にこもって二年の猛勉強を経て、大学院の修士課程の合格通知を手にしたばかりだったからだ。俳句をはじめたのも、この浪人時代で、一日の勉強を終えたあと、誰にも言えない思いを吐き出すように、朝日俳壇に投稿していた。時折取り上げて下さったのが、兜太先生だった。

 「おう。いつも変てこな句を寄越してきた子だね。何をしているの?」

 「この春から大学院でドイツ文学、近現代の詩を勉強しようと思います」。

 「そりゃ、いいや」。先生は笑った。「俺もね、よく読んだよ。ハイネやリルケなんかが人気があったね。ゲーテはもちろんだ。トーマス・マンにも影響を受けたな。しっかりやれよ」。

   蛾のまなこ赤光なれば海を恋う

   リルケ忌や摩(さ)するに温き山羊の肌

   霧の夜のわが身に近く馬歩む

 青年時代の代表作というと、〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉など土の匂いのする作品が挙げられる場合が多いが、私は文学青年のロマンティシズムを感じさせる、詩的なこれらの作品が好みだ。中でも〈霧〉は、その後の兜太作品にも頻出するキーワードというべき存在で、豪放磊落な性格で知られるこの作家の抱えている、柔らかで傷(いた)みやすい抒情のありかをよく伝えているモチーフだと思う。

   霧の村石を投(ほ)うらば父母散らん

   霧に白鳥白鳥に霧というべきか

 ドイツ文学をしっかりやりなさいと声をかけられ、研究は研究で必死に取り組んでいたつもりだった。しかし、詩集や文学書を読み、哲学書の翻訳などを試みているうちに、金子兜太という俳人と俳句という詩型の魅力に、深く傾斜してゆく自分を、どうにも止めることが出来なくなっていた。研究ノートの余白は俳句で埋まり、俳句の書物が増えていった。

 長編小説『神聖喜劇』の作家で評論家としても知られる大西巨人氏は、金子兜太という作家について「このディヒター(詩人)」と名指した。実際、私にとっても、ドイツ語で詩を意味する「ゲディヒト」(「凝縮された」の意)や「リート」(言葉による「詩」と音楽的な旋律の「歌」の両方の意)について考えをめぐらせていた時間は、俳句という短詩型を考える上で有効な時間だったと思う。

   青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

   どれも口美(は)し晩夏のジヤズ一団

   湾曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン

 〈前衛俳句の兜太〉といわれた時代の作品。俳句の前衛性を定義することはなかなか容易ではないが、五音・七音・五音という俳句の基調となるリズムに乗せて読んでみると、これらの作品が、音と意味の分節/文節が一致せずに移行してゆく、西洋詩でいうところのアンジャンブマン(句跨り)を用いたものであることが分かる。斬新かつ清新な印象だ。

 「青年」の句は、S音とA音の交差する韻律に着目すると「青年/鹿を/愛せり/嵐の/斜面にて」と4音/3音/4音/4音/5音に〈分節〉される。それは意味上の〈文節〉にも重なり合う。青春の衝動性、性急な〈斜面〉の実体が、視覚映像と聴覚映像の両方で体現されている。

 一方、「どれも口美し」は、同じ句跨りでも、スウィング・ジャズのように思わず体を揺り動かしたくなるような躍動感に満ちている。兜太先生の父君の金子伊昔紅先生は俳人であるとともに、現在にも伝わる正調の秩父音頭の歌詞と踊りを確立させた人物だ。天賦の音楽的才能が、前衛俳句のときに陥りがちな晦渋な印象を和らげているのだろう。

 「湾曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン」は金子兜太その人の生涯を賭けた信条である反戦の俳句として広く知られている。中学や高校の国語教科書に採用されることも多く、今やほとんど〈古典〉として定着しているて句といってもよい。この句の成立は一九五八年。長崎に赴任した際に短歌総合誌の「短歌研究」から長崎の句を作ってほしいという依頼を受け、爆心地を毎日歩きながら作った連作中の一句だ。「爆心地をマラソンの列が若やいだリズム感で走っていたのですが、にわかにランナーたちは、体を歪め、火傷して、崩れてゆく。──私の頭にその映像が焼きついてしまい、いくどでも繰り返しあらわれてきます」(『わが戦後俳句史』)という本人の解説がある。

 さて、私はこの句について「先生、この句の創作背景を教えて下さい」と、質問をぶつけたことがあった。結社に入って間もなく、同じく若手の俳人たちと泊りがけで合宿をした夜、車座になって酒宴をしていた時のことである。先生は「それでは君はこの句について一体、どう思うんだい」と尋ねた。

 「私は〈湾曲し火傷し〉のshi音の脚韻と〈爆心地〉(bakushinchi)のshi音の響きあいが、何よりもこの句の眼目だと思うんです」と答えた。「お、いいそ」と掛け声がかかり、隣の先輩が、どぼどぼとコップに日本酒を注いでくれた。ぐっと飲み干して、思い切って言葉を継いだ。「私はこの作品を、長崎の地名や〈爆心地〉という言葉に重心を置き、反戦というメッセージに繋げるだけで終わりにしたくはないんです。この句は何よりも一つの詩として、ただ美しくて、切実に迫ってくるんです。切実に迫るからこそ、戦争を知らない世代の私のような者にも、ぐっと来るんです。だから、どう創るのか、教えて下さい」。大体こんなことを一気に訴えたのだと思う。

 先生は「これは君の言ってることと関わるか分からんけど」と慎重に前置きした上で「この句は俺にとっちゃ、実に苦心惨憺して、練りに練り上げた作品だったんだ。〈爆心地のマラソン〉。このイメージまでは、現地を歩き回ってある程度、固まったんだけどね」と語り始めた。

 「それは実に痛ましい、ケロイドを負った人たちなんだ。だけど、〈やけど〉という響きは、ヤワで生々しくて、それじゃ、この人たちに気の毒だろう。ここは、どうしても〈かしょう〉と乾いた音にして、抽象化させた響きにしたかった。〈かしょう〉。その方が、しんとして静かで、かえって悲しみも伝わりやすいんじゃないか。そう考えたわけだ」。

 「ところが、上の句のイメージがどうしても湧かなかったんだ。色んな言葉を書き付けたんだが、どれもこれも物足りない。それなら、見つけてやれと一か月間、横に広辞苑をでんと置いて、思い当たる見出し語を引きまくって、それでも思いつかなくって、一頁ずつ見ていったんだ。辞書は〈あ〉の音から始まるよな。その一番お仕舞いの〈わん〉まで来て〈彎曲〉のところで、これだあと思って……。めっけたなあと……。ちっとは思いが伝わるかなあ、どうだんべえと」。

 最後の秩父弁は、先生なりの照れ隠しのユーモアだったのだろう。だけど、誰も笑えなかった。感動して泣き出す人もいた。私もその一人だった。不意に「彎曲」(wankyoku)という言葉の「彎」(wan)というくぐもった抑揚は、限界まで引き絞られた非業の死者たちの声にならない声、鳴咽と共鳴しているのではないかと思った。その人たちの影までもが見えてくる気がした。

   白い人影はるばる田をゆく消えぬために

   小鳥来る全力疾走の小鳥も

   おおかみに螢が一つ付いていた

  狼生く無時間を生きて咆哮

 老年期から晩年にかけての兜太作品は、生きとし生きるものの命の大切さを語る、アニミズムへの傾斜を深めてゆく。一九一九年生まれの先生と一九七〇年生まれの私では、祖父と孫といってよい、半世紀の隔たりがある。謦咳に接することが出来たのは、二十年間だけだった。教わりたいことが、いっぱいあった。

 最近、私はドイツ語やドイツ文学の講師の仕事と並行して、俳句の選者や講師の仕事も任されるようになった。

 「生きる力」を引き出して、肯定してあげられるような、そんな俳句の力、文学の力を信じて歩んでゆきたい。

 九十八歳。柔らかく瞼を閉じた先生は、少年のように安らかに眠っていた。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている

(たなか あみ・俳人・ドイツ文学者)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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