悼・金子兜太―私たちは何を手渡されたのか

http://www.kogumaza.jp/1805haikujihyuu.html 【悼・金子兜太―私たちは何を手渡されたのか】  より

                     ――「原点が存在する」番外編

                              武 良 竜 彦

今年(2018年)2月10日の石牟礼道子氏に続いて、同月二十日に金子兜太氏が逝去された。心よりご冥福をお祈りする。この二人の巨人の逝去は、私たちにとってどんな意味があるのだろうか。それは、私たちはこれから、この日本という環境汚染加害列島の中を、石牟礼道子なしで生きて行かなければならないということを意味するのだ。そして大きな物語を失い、表現すべきものが何もないかのように見える多様性カオス的言語表現世相の中を、金子兜太なしで生きて行かねばならなくなったということだ。

    水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

代表句の一つであるこの句の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。一年三か月間の捕虜生活を終えて、日本へ帰る船上で詠まれたものだという。

    銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく

    朝はじまる海へ突込む鴎の死

    彎曲し火傷し爆心地のマラソン

初期の俳句には社会性の滲む力強い作風ながら、死者への眼差しが焼き付いている。

 その視座を生涯失わなかった。

その巨人が去った。現代俳句に携わる私たちは、彼から何を手渡され、何を継承し、何を棄ててゆけばいいのか、脚を止めて、各々、じっくり沈思黙考すべき時だろう。そのために、金子兜太氏の文学的俳句論の原点ともなり、一般向けに書かれた『今日の俳句』の中の言葉を振り返っておこう。

 「まえがき」には次のようなことが述べられていた。

戦争とその敗戦を体験しながらも、現実と向き合おうともしない旧守的で権威主義的な伝統俳句派を、「既成の権威によって自己主張しようとする者のひよわな利口さえ見えて、醜い」と痛烈に批判し、「この詩形が、つねに、その時その時において、人びととともに生き栄え、磨かれてきたこと、そこに、その詩形の意義があり、これを用いて自分の心を表す人たちのささやかな満足と喜びがある」とするこの言葉は、新時代の俳句表現に立ち向かう人への力強いエールであり、俳句新時代を切り拓こうとする宣言文のようであった。

 本書では、子規以来唱えられてきた俳句の「写生」論を、身体性を伴うイメージの創出へと表現手法を転換することの必要性が語られていた。

 伝統俳句でいう「写生」論が、俳句内俳句論的な内向きに閉じた手法論に留まっていて、非文学的だったのに比べて、兜太氏のこの「イメージ」論は、やがて彼の俳句表現論の核を為すに至る「造形」の詩法として結実する。俳句界でこのように俳句を文学的に語り始めたのは金子兜太氏だったのである。

表現の「手法」を語るとき、金子兜太氏はその前提として「何か他人に向かって訴えたい気持ち」を表現に向かう出発点と捉えている。つまりなぜ俳句を詠むのかという根本的なことを疎かにしない。その「訴えたい気持ち」という欲求を、俳句という表現で実行して得る充足、そして更なる渇望、「そのくり返しのなかに―いや、それをしばしば推進機として、私たちは生きてゆくのだ」という言葉で、俳句は伝統俳句のように趣味や芸事ではなく、生きることと同義であるという視座が示されたのだった。そしてそのとき俳句で行う表現は、散文の論理世界のように明快なものではなく、「わけのわからぬ〈もやもや衝動〉〈言うに言われぬ欲求〉そのものである」と述べている。そこが生きているということと、俳句表現に向かう情熱が同義であるという根拠である。汎文学論的に換言すれば、それが、作者が表現したい文学的主題に他ならない。

また〈詩の技法とは比喩を作り出す技術のことである〉と断言している。これもそれまでの伝統俳句にはなかった視座である。俳句の中に自然由来のものやものごとが詠まれるとき、伝統俳句的にはそれらに自分の境涯的な心情を仮託する手法が取られるが、兜太氏はそれを素材、題材と見做し、それらを駆使した比喩で文学的主題を表現するという手法を取る。ここがそれまでの俳句表現論と決定的に違う点だ。俳句も短歌も詩も小説もそこで言語表現すること自身が比喩表現であるという、汎文学的視座がここにある。このようなことは、それまでの俳句界では論じられることはなかったのである。

  以下、金子兜太氏の創作思想が伺える文を抜粋する。

「日常生活というのは、文字どおり日常の生活のことだが、思想生活という言葉があるなら、それも入れて、日常生活を広く受け取っておきたい」

「書いても書いても書ききれないが、それでいて、あるいは、一つの言葉で捉え、爆発させうるような感情の核―その核反応が〈詩〉なのだ」

「〈詩〉とは、私なりの言い方で、〈詩反応〉とでもいうべき、私たちの心的機能(感情を中心とした感覚、意識などの働き)の反応として、まず考えておかなければならないものである」

「〈詩の本質は抒情である〉」(抒情は)「二とおりの意味に使われている。一つは〈感情の純粋衝動を書く〉という本質的な意味。いま一つは〈情感本位に書く〉という現象的な意味。/私は、はじめの感情の純粋衝動を書くという本質的な意味のほうを、真の〈抒情〉と考え、これが〈詩〉の本質だと確信している」

「〈詩〉とは、理知の根にあって、やがては理知を燃え立たせる力ともなる〈感情〉に根拠を置く」

「私は、感情という言葉を〈存在感〉という言葉に置きかえたいのである。〈存在〉という概念が強く求められるのは、まさに〈詩〉においてであると私は思うからだ」

これらの言葉は晩年、「存在者」と述べていた兜太式俳句表現論の根源的なモチーフとなったものだ。さて、これらの兜太氏の原点となる俳句論の言葉を読んで、読者も初心に返って、兜太氏から手渡されたものを鮮明に心に刻むだろう。そして、明日のために、今ここに棄ててゆくべきものの姿もくっきりと視えてくるはずだ。

 兜太氏の「造形」の詩法については、本欄で断続的に執筆を開始した「原点が存在する」

 という拙稿で触れる予定だったが、この機会に、前倒しで触れておこう。

兜太氏が提唱した「造形」の詩法論の出現は、それ以前の俳句表現論に欠落していた、「表現主体」に対する視座を初めて提唱したという意味で、俳句が文学表現論として語られ始めた俳句界における革命的出来事だった。

私がこの「俳句時評」で使用している「表現主体」という言葉を、兜太氏は「創る自分」と呼ぶ。この視座の確立で、俳句表現論が西洋でも論じられているような汎文学的文脈の中で論述できる場に立ったことになったのである。

正岡子規の「写生」、高浜虚子の「花鳥諷詠」、中村草田男の「抽象」などの、表現論とはとても呼び難い言い回しに現れるのは、「作者」対「対象」と漠然と呼んでいる次元の低い二元論に過ぎなかった。そんな二元論に嵌ってしまうのは、文学を含む芸術作品を創っているのは誰かということへの厳密な認識がない故だ。彼等には「作者」と「表現主体」が別ものであるという認識が先ず欠落している。彼等のいう「作者」は、生身の「私」に極めて近く、故にそこから真の文学的表現の場に出て行けない。

 何故か。それはそんな「私」をも客観化して、文学的主題として表現し得る視座がないか

らだ。

 文学的主題が誰によって、どう表現されるかということを、真に文学論的に考えるのなら彼等が漠然と呼んでいる「作者」という非主体的な「私」と決別する必要がある。

兜太以前の俳人が呼んでいた「作者」などというものには、文学的主題を表現することに対する自覚を持つ「主体性」が欠落しているのだ。抽象的な議論では解りにくいと思うので実作例を揚げて説明しよう。

    流れゆく大根の葉の早さかな            虚子

    人体冷えて東北白い花盛り             兜太

この虚子の俳句には、大根の葉を眺めている「私」らしい者の存在を微かに感じることはできる。その「私」とこの俳句を創作している作者が、べったりと貼り付き合っていて、「表現主体」たる自覚は欠落している。だから俳句世界が閉塞的で息苦しいものになってしまうのだ。

 一方兜太氏の俳句はダイナミックに外に向かって開かれている。この句の場合、「人体」で表現されたものの中に生身の「私」も含まれる。この句からは、この句世界全体に投網を掛けるように詠んでいる、意志的な作者の存在を感じる。それが「表現主体」というものだ。この句からは、「私」をも客体として取り込んで詠み、その題材を超えて、文学的主題の表現へと向う別次元の意志が感じられる。

    林間を人ごうごうと過ぎゆけり            兜太

この「人」も「私」を含む人類あるいは人間という存在そのものである。「林間」が自然界を象徴し、そこを「ごうごうと過ぎ」ゆく動的様態を造形している。そのことで、ここに文字として書かれている以上の、別次元の文学的主題を獲得するのだ。この句を詠んでいるのは「私」ではない。「私」を相対化し題材化する「表現主体」である。

虚子の「私」は「表現主体」によって相対化されることなく、詠まれている内容の世界に貼り付いたままだ。文学的主題の表現に向かう契機が予め失われている自己完結的な世界である。そんな「私」は「大根の葉」に貼り付いて、いっしょに流れ去ってしまうようなものに過ぎない。

    鶏頭の十四五本もありぬべし            子規

    さらさらと竹に音あり夜の雪              〃

西洋美術用語から借用した正岡子規の「写生」論には、対象を観察し写し録ろうとする「私」の「意志」の方に、やや比重がかかっているように読むこともできた。

    遠山に日の当たりたる枯野かな           虚子

だがこの虚子のように「写生」と組み合わせた「花鳥諷詠」に至って、「私」の「意志」は、 茫漠たる枯野の広がりの中に稀薄化してしまい、もう一つ外の広い世界の文学的主題への「意志」を持つ可能性を放棄してしまった。

虚子以降の伝統俳句派の文学的欠陥はここにある。

中村草田男の「抽象」は、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、その思想性を日本

的な情感で表現している。

    冬の水一枝の影も欺かず              草田男

    玫瑰や今も沖には未来あり               〃 

    葡萄食ふ一語一語の如くにて             〃 

 私小説的自己表現に拘る「意志」を感じさせる「私」が前面に出てくる表現だが、その私

 (わたくし)性への拘泥故に、汎文学的な主題の獲得に向かう回路は閉ざされる。

    華麗な墓原女陰あらわに村眠り           兜太

 兜太氏のこの句のように「私性」を振り切らなければ、哲学的思弁世界は造形できない。ここにあるのは日本的伝統的情感を突き抜けた、性(生と死)の土俗的な力強さそのものである。

    海流ついに見えねど海流と暮らす          兜太

この句のように「私」と「表現主体」が重なる表現の句もあるが、私的詠嘆の方に文学的主題があるのではない。ここにあるのは、存在の根底に常に流れている何か大きなものを感じつつ生を営んでいるという思弁の造形である。

「私性」に拘る閉鎖的な自己表現を、兜太氏は「心(ひとりごころ)」と呼び、それに陥ることを避けるための詩法を、「情(ふたりごころ)」と呼んだ。自己の相対化、主客合一、平たく言えば自分の中に他者へ通じる視座を置く、独りよがりを回避する詩法であるとも言えるだろう。

兜太氏のこのような自己超越の観念は、「古き良きものに現代を生かす」として、故郷の秩父の風土から得た日本詩歌の伝統性をも包摂する「天人合一」という詩境に続き、「生きもの感覚」「存在者」、晩年の「定住漂泊者」「アニミズム」にまで続く。だがその観念の拡張の過程は語られることなく、表現論的空白を置いたままになっている。それが伝統俳句派の俳人が唱えそうな概念に近似であることが危ぶまれ、その矛盾を批判された(齋藤愼爾氏「兜太への垂鉛」)。敢えて好意的に解釈するなら、伝統俳句派の概念は自然への私性の投影に過ぎないが、兜太氏の概念は、自己超越の結果として辿り着いた地平だと言えるだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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