https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.13.html 【金子兜太作品鑑賞 十三】 より
露舐める蜂よじつくりと生きんか 『日常』
蜂に語りかけている、そして自分に、そして世界に、「じっくりと生きんか」と。存在のしずくであるこの露を舐め味わうごとくに「じっくりと生きんか」と。そうすれば、物事が見えて来る。そうすれば、ものの味がよく解ってくる。そうすれば、存在の美が見えてくる。そうすれば、生きて在るということが滋味を帯びてくる。そうすれば、この痙攣的に突っ走っている世界も少しは落ち着いたものになるだろう。そうすれば、世界は平和になるかもしれない。そうすれば、人間は幸せになるかもしれない。私も含めて人間というものは、闇雲と知らずに闇雲に突っ走っている感がある。肝要なことはやはり、じっくりと生きるということかもしれない。
春の海ジユゴン恋しやほうやれほう 『日常』
〈ある日ふと 七句〉と前書のある二句目。『山椒太夫』に「安寿恋しやほうやれほう、厨子王恋しやほうやれほう」と、盲目の母が生き別れになった我が子へ呼びかけるシーンがある。この句はそのセリフを借用している。子に対する母親の気持ちと同じように絶滅危惧種であるジュゴンに対する気持ちであり、失われてゆく自然への、また〈いのち〉そのものへの愛おしみの気持ちでもあろう。「春の海」が作者の愛おしみの深さに響き合う。
誕生も死も区切りではないジユゴン泳ぐ 『日常』
同六句目。この句では〈いのち〉というものに対してのより大きな想念が書かれている。延々と続くこの連鎖。物質のレベルにおいても精神のレベルにおいても、失われ断ち切られてしまうものはない。表面的にはそう見えるかもしれないが、生も死も絶対存在の海における一つのエピソードに過ぎない。生きとし生けるありとある全てのものはこの絶対の海から生れそしてその海に死ぬ。この存在の海から外れることもなく逃れることもない。大安心の海。大丈夫の海。悠々と悠々とジュゴンは泳ぐ。このジュゴンは既に兜太でもある。
今日までのジュゴン明日は虎ふぐのわれか 『日常』
同七句目。そしてこういう落ちの付け方、あるいは戯け方が兜太は上手い。まさに俳諧の味である。ニンマリと笑いたくなる。おそらく作者もしてやったりと笑っている。
動物の句をざっと見てきたが、今度は同じ動物でも狼の句を見てみたい。狼の句は句集『東国抄』に集中して出てくるが、他の動物とは兜太との関係の意味合いが違うように思うので、狼の句だけを別にした。他の動物に対しては親しみあるいは殆ど友情とでもいいたいような気持ちであるが、狼に対しては、それに加えてさらに崇敬の気持ちがあるように私には感じられるのである。野性あるいは自由ということへの憧憬の念でもあろうし、誇り高く絶滅してしまった種への尊敬の念でもある気がする。とにかく、兜太の意識の中に啓示のように突如現れ、そして去ってゆく狼達。その句群は圧倒的である。以下『東国抄』より狼の連作二十句。
暁闇を猪(しし)やおおかみが通る 一
暁闇、すなわち夜が明けきらない薄暗いぼんやりした意識の中をおおかみが通る。今まで慣れ親しんで来た猪と混じってすっと通る。作者の意識の中への狼の出現である。
おおかみが蚕飼の村を歩いていた 二
次に、薄暗い意識の中ではなく、生の営みの象徴とでもいえる「蚕飼の村」を狼は歩いていた。「歩いていた」とすでにおおかみの存在が既成事実になっている。
おおかみに目合(まぐわい)の家の人声(ひとごえ) 三
さらに人間社会に近づいてきた。しかも作者とおおかみの目線の同化が起っているように思える。自己との同化。
おおかみに螢が一つ付いていた 四
そのおおかみには螢が一つ付いていた。光。じっと立ち止まって、この句を眺めていると。この螢の光がぐんぐんと強く広がっていくのを感じないだろうか。やがて全てが光で覆われるのを感じないだろうか。作者自信が光で覆われたのを感じたのではないだろうか。おおかみとの出会いの一つのクライマックスである。
おおかみを龍神(りゆうかみ)と呼ぶ山の民 五
龍神の両神山に白露かな 六
龍神の走れば露の玉走る 七
木枯に両神山(りようかみ)の背の青さ増す 八
龍神の障(さえ)の神訪う初景色 九
龍神に福寿草咲く山襞(やまひだ)あり 十
五句目から十句目までは、自己と狼との関係ではなく、曾て狼は山の民にとってどのような存在であったのかということの叙述である。狼は山の民に龍神とよばれていた。狼だけでなく自然そのものが崇敬の念で見られていた。山の民は自然とともにあり、生きて在るということそのものが祈りの中にあったのではないだろうか。これはアイヌやアメリカインディアンやその他諸々の先住民の在り方に共通のもののような気がする。これら六句に現れた事物はみな、いわば霊性の光を帯びている。曾て、そういう時代があったのである。
狼に転がり墜ちた岩の音 十一
この句から「おおかみ」「龍神」という書き方が「狼」という書き方になっている。霊魂も肉体も具えた狼が曾て存在し、そして歴史から消えていってしまう過程が、この句以降の句に描かれている。この句、その不吉な予感がする。
狼生く無時間を生きて咆哮 十二
・・岩頸だつて岩鐘だつてみんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ・・(宮澤賢治『春と修羅』より)
時間という観念を持っているのは人間だけである。人間以外の岩や動植物は全て無時間という永遠を生きている。この句は、無時間という永遠への憧れの表明であり、がらくた然とした人間の愚かさへの咆哮である。
山鳴りに唸りを合わせ狼生く 十三
山鳴りときに狼そのものであった 十四
自然に生きる、あるいは無時間に生きるということは、自己と周りの事物との調和の中に生きるということである。もっと言えば、計らいの無い調和に生きるということである。狼達はそのように生きていた。
月光に赤裸裸な狼と出会う 十五
赤裸裸な存在と月光の中で出会う。鳥肌が立つくらいにスリリングな光景である。おそらく、こちら側も赤裸裸に近い状態でなければ、このような遭遇は起らないだろう。赤裸裸を求める者にしか赤裸裸なるものは顕現しないからである。
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