Facebook・相田 公弘 さん投稿記事 今日の歴史の一幕
1814年小林一茶が24歳年下の菊と結婚。
文化9年(1812年)、50歳で江戸から故郷の信州柏原に帰り、その2年後の1814年、28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっている。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。
残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語症を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。
文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。
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http://ufononatu.blog10.fc2.com/blog-entry-881.html 【今日の辞世の句】 より
盥から 盥へうつる ちんぷんかんぷん
小林一茶の辞世の句。小林一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名を小林弥太郎。別号は、圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など。宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受ける。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳の時、江戸へ奉公に出る。25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶ。寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた「父の終焉日記」は、私小説の先駆けと言われる。一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と一茶自身が記している。
小林一茶は松尾芭蕉、与謝蕪村に並ぶ江戸俳諧の有名人です。正岡子規は『俳人一茶』の「一茶の俳句を評す」の中で「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。」と述べていますが、一茶の持ち味は、実生活に即した視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作にあります。一茶は幼少期の義母との間の精神的軋轢から、自虐的な句を俗語や方言まじりで詠み続け、二万句もの作品を残しました。これは芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句と比べても、非常に多い句数です。生前の一茶の著書には、「旅拾遺」「さらば笠」「三韓人」などがありますが自身の俳書はありません。 著名な「一茶発句集」「おらが春」は没後に刊行されたもので、「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」もいずれも遺稿です。
http://saigonokotaba.blog.fc2.com/blog-entry-84.html?sp 【小林 一茶 辞世の句 (俳諧師)】 より
辞世の句 (二首)
盥たらいから盥に移るちんぷんかん
ああままよ生きても亀の百分の一
小林 一茶(こばやし いっさ)
宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))
江戸時代を代表する俳諧師。
宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受ける。
3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。
継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳の時、江戸へ奉公に出る。
25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶ。
寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。
父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた「父の終焉日記」は、私小説の先駆けと言われる。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。
きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。
62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。
64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。
1873年に46歳で没)。
残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。
文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。
そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。
代表的な句
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
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