https://wabisabi-nihon.com/archives/18229 【松尾芭蕉の「奥の細道」東北の旅は、西行法師の500回忌巡礼だった!】 より
『奥の細道』とはどんな作品なの?
『奥の細道』を、ちょっとおさらいしておきましょう。この作品、ジャンルは「紀行文」になりますよ。
「え? 俳句集じゃないの?」と思った方もいらっしゃるでしょう。でも、冒頭は「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり」、文章なのです。
つまり、この作品は散文の紀行記録の間に俳句がぽんぽんはさまっている構成になっているのです。芭蕉が作った俳句は、50数句載っていますよ。(他に弟子のものも少し入っています)そして、おそらく、旅の最中に作ったのではなく、旅の途中メモしておいたものを、旅行が終わった後に1つの作品として創作し直して完成させたものです。
当時、芭蕉は40代後半で気管支炎や消化器官の持病があり、健康に不安がありました。人生50年の時代なので、かなりの高齢ですね。
東北への旅は健康な人でも命がけの時代だったので、物見遊山の旅でなかったのは確かなのです。
彼が江戸の自宅の「芭蕉庵」を売り払って旅費を作っていることからも、一大決心だったとわかります。もう帰って来れないかもという覚悟がうかがえますね。
でも、1人で行くのはあまりにも危険なので、門人の河合曾良(そら)が同行しました。
「なぜ曾良だったのか?」というところで「河合曾良・公儀隠密説」が出てくるのですが、「知の巨人?」の渡部昇一さんは、「曾良が丈夫だったからじゃない?」と言っていましたよ。
「なんだそれー?」と思うのですが、実際そんなもんだったりして・・・。暇だったからとか、気が合ったからとか・・・。
そこらへんは、芭蕉に聞かなければわかりません。
とにかく、その門人の河合曾良を連れて芭蕉は3月に江戸を出発し、8月まで約半年間の長い旅路についたのでした。
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『奥の細道』は、西行没後500年記念巡礼の旅
江戸元禄期に活躍した松尾芭蕉は、西行法師に憧れていました。ですから、この旅をして、自分がちょうど500年前に亡くなった西行の後継者と示したかったと推察されています。
芭蕉は、「人生は旅そのもの」と考えていたので、西行(さいぎょう)のほかに能因(のういん)や中国の李白(りはく)や杜甫(とほ)など、旅の途中に客死した先人を尊敬しています。
能因(のういん)は、西行よりも前の人で、「元祖・旅の歌人」です。「能因の歌枕」という有名な歌枕集を残していますよ。
でも、芭蕉は、西行リスペクトなんですねー♪
もと武士だったところなど、自分とかぶるところがあったからでしょうか?
いや、やっぱり、かっこいいからかと……(生き様が)。
西行は、私も大・大・大好きな歌人なのでした!!!
とにかくかっこいい人なのです。和歌も大好きです。
「どうかっこいいの?」と思われたあなたは、こちらをご一緒にどうぞ♪
↓
「西行法師」の生き様が超絶クール!桜と月に魅せられた放浪の歌人
「桜」と「月」の大歌人・西行法師がよくわかる旅の逸話を2紹介
松尾芭蕉が西行を尊敬したと思われるわけ
もともと『奥の細道』の旅の目的は、古来からある「歌枕の地」を訪ねることと、自分の俳句を多くの地に広めることでした。
そして、もう1つが、この西行没後500年の記念すべき年に自分の足で西行の跡を歩いたということです。そのため、曾良は西行の歌枕に関することを、事前に調べていました。
また、芭蕉は西行に憧れていて、この紀行文にも西行のことが4カ所も書かれています。
(1)序の部分。「古人も多く李白、杜甫、能因、西行、宗祇など旅に死せるあり」
(2)朽もせぬ其名ばかりをとどめをきてかれのの薄かたみにぞみる(新古今集 山家集)
(3)汐越の松 終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 (実は蓮如上人の歌)
(4)汐そむるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいうにやあらん(山家集)
4カ所と書きましたが、(3)は西行の和歌ではありません。でも、芭蕉は西行の作品と書いているので、勘違いしていたと思われます。
500年前に西行が東北に行ったのは、奥州藤原氏の藤原秀衡(ひでひら)と親戚で仲良しだったからです。
西行は2度奥州を訪ねていて、2度目はちょうど、秀衡が源義経をかくまっていた時期でした。鎌倉幕府誕生前夜という時代だったのですよ。
そのときは西行も藤原秀衡も、すでにかなりの高齢でした。そして、西行が去った約半月後に藤原秀衡は病死します。その後、秀衡の息子・泰衡は「衣川の合戦」で源義経を自刃に追い込みましたが、結局その後、奥州藤原氏は源頼朝に滅ぼされました。
夏草や 兵どもが 夢の跡
芭蕉がその地を訪れたとき、西行の生きた500年前のその時代の戦いを、いろいろ思い浮かべたのは間違いないでしょう。
https://heiseibasho.com/purpose-of-basho-travel/ 【芭蕉さんの旅の目的】 より
この「芭蕉さんの旅講座」は、「平成芭蕉」を自称する私が、松尾芭蕉の行けなかった世界の名所・旧跡を訪ねた学びと感動の体験記録『奥の深い細道』です。
人生は「出会いの歴史」であり、旅はその最も感動的な「出会いの場」です。
人は新しい出会いによって刺激を受けて考え方が変わり、行動が変わり、人生も変化します。
人は環境の動物ですから、非日常の旅にでることによって環境の変化から学ぶのです。
「旅行+知恵=人生のときめき」で、旅行から人生が変わる体験を味わっていただければ幸いです。
芭蕉さんの「蕉風開眼」の句
私と芭蕉さんの出身地である伊賀上野の史跡「蓑虫庵」は、芭蕉さんの門人、服部土芳の草庵で、現在の建物は元禄当時に建てられた芭蕉五庵のうちで現存する唯一のものです。
この庵の古池塚には芭蕉さんの有名な「蕉風開眼」の句 古池や 蛙(かわず)飛びこむ水の音の古い句碑が建っています。
この句が詠まれた背景は次のようなものです。
芭蕉さんは深草の草庵にいて、どこからか聞こえてくる「蛙が飛び込む音」を聞いて心の中に「古池」が浮かんだのです。
つまり芭蕉さんは、蛙が飛び込むところも古池も見ていません。
この古池は現実の古い池ではなく、芭蕉さんの心の中にある「古池」です。
この句は蛙が水に飛び込む現実の音を聞いて古池という心の世界を開いたものです。
この現実のただ中に「心の世界」を切り開いたこと、これこそが「蕉風開眼」です。
『おくの細道』の旅の目的
「奥の深い細道」へ挑む平成芭蕉
芭蕉さんは『おくの細道』の冒頭の段に「松島の月まづ心にかかりて…」と宮城県の松島を訪ねるのが目的のひとつと書いていますが、実際はこの「蕉風開眼」をきっかけに真の俳諧を探求することが旅に出る本当の目的だったのです。
そして芭蕉さんが崇拝する西行法師の500回忌にあたる元禄2(1689)年、門人の曾良を伴って奥州、北陸道を巡った紀行文が『おくの細道』です。
水の研究家であった芭蕉さんは、『おくの細道』の旅では、陸路だけでなく、水路もしばしば使っていますが、これは同行の曽良もまた三重県桑名に所縁があって、その地を流れる木曽川と長良川から自身を「曽良」と命名したように、二人とも水に造詣があったからでしょう。
「古人も多く旅に死せるあり」と記した芭蕉さんは、住んでいた家も人に譲って覚悟の上でみちのくの旅に出ました。もともと古人が旅の途上で死んだのは覚悟の上ではありません。しかし芭蕉さんは死を覚悟の上で旅に出ました。
この強い意思と行動力が芭蕉さんの魅力であり「旅の達人」の秘訣です。後世の俳諧に絶大な影響を与えた芭蕉さんは、故郷での藤堂新七郎家への奉公から謎めいた前半生、29才での江戸へとの出発、そして旅に生きた晩年までの生涯を振り返る上で、『おくの細道』の旅は重要です。
芭蕉さんにとって「おくの細道」の旅の目的は、古い和歌に詠まれていた歌枕の地を踏みながら、俳諧修行を積むことだけでなく、「敬愛する西行の訪ねた地を自分の足で歩いてみたい。自分の目で確かめてみたい」という思いも強かったと思われます。
しかし、芭蕉さんの旅した江戸時代の「みちのく」は、徳川家が恐れた伊達藩のある蝦夷地であることから、隠された幕府の密命があったことも否定できません。そこで私は、今一度、この事情を探り、GoToトラベル事業に協力する意味でクラブツーリズムGoToトラベル事業支援企画「奥の細道を訪ねて」ハイライトと題したツアーに同行することにしました。
芭蕉さんに倣った「名月鑑賞の旅」
芭蕉さんは「月」への思いが格別で、その俳句には月を詠んだ句が多く、名月鑑賞の旅にもしばしば出かけていますが、芭蕉さんはなぜ「月」に関心を寄せるようになったのでしょうか。
私が思うに、「旅人と我名よばれん」と、一所不住の旅に生きた芭蕉さんも、やはり生まれ故郷の情景と母のことが忘れられなかったからだと思います。
なぜなら、私の生まれ故郷でもある伊賀上野の赤坂町から服部川にかけては、町の中心から少し離れていたため、真夜中に見る月はとても美しく輝き、印象に残るのです。
その赤坂町の芭蕉さん生家の前には
旧里(ふるさと)や 臍(へそ)の緒に泣く 年の暮
の句碑が立っていますが、これは郷里を去って15年、三度目に帰郷した時に詠まれたものです。
『野ざらし紀行』で2回目に帰郷した際には、亡き母の遺髪を見て泣いていますが、今回は「臍の緒」です。
私もかつて伊賀上野に帰郷した際、祖母から自分の「臍の緒」を見せられた時は感無量でした。
「臍の緒」は人間の生の根源に繋がるもので、懐かしい生まれ故郷で見れば、誰しも母や幼い頃の思い出が蘇えるのではないでしょうか。
その故郷の思いもあってか芭蕉さんは月を愛し、『奥の細道』の前に『鹿島詣』と『更科日記』という名月鑑賞の紀行文を2つ残しています。その『更科日記』の中には
三更月下入無我 さんこうげっかむがにいる(真夜中に月の光の下で無我無心の境地に入る)と芭蕉さんは記しています。
この境地は、忍者の里でもある伊賀市を流れる服部川に映った月を眺めていた際、私も体験しています。
そこで、芭蕉さんは月に対して特別な感情を抱いていた人ですが、この生まれ故郷の環境からは、川や池などの「水」についてもかなり意識していたはずです。
実際、芭蕉さんの名月を詠んだ代表的な句である 名月や 池をめぐりて 夜もすがら
は江戸で詠まれた句ですが、私は名月を直接鑑賞したのではなく、「池」という水に映った名月に感動して、無心に一晩中池の周りを散策していたのだと思います。
『更科日記』の旅の目的
『鹿島詣』は深川で禅の手ほどきを受けていた仏頂和尚に会うのが主目的でしたが、『更科日記』では「更科の里、姨捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて」とあり、姨捨山の名月鑑賞が目的でした。
姨捨山は冠着(かんむりき)山とも呼ばれ、その麓に長楽寺という古寺があり、この眼下には千曲川の流れや善光寺平の広がりが展望できてとてもすばらしい眺めです。
ことに中秋の名月が東の空に光を放ち始めると、芭蕉さんは伊賀上野の故郷における「月待」の行事も思い出し、感慨深い気持ちになったことでしょう。
俤(おもかげ)や 姨(おば)ひとり泣く 月の友
と詠んでいますが、芭蕉さんの心に、山に捨てられて一人泣いている老婆の面影が浮かび上がったのです。
平安時代の「姨捨伝説」によると、このあたりに住むひとりの男が老婆を山に捨てたのですが、清い月の光に心を改めて翌朝連れ戻してきたとされています。
いわゆる棄老伝説ですが、この句を詠んだ背景には、芭蕉さんが同郷の能楽大成者、世阿弥の謡曲「姨捨」に親しんでいた影響もあると思います。
すなわち、世阿弥と芭蕉さんにとっては、この姨捨山での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえます。
芭蕉さんは謡曲「姨捨」の物語と5年前に母親を亡くしていることに想いを馳せ、「姨捨山」・「月」・「更級の里」についてのイメージを大きく膨らませた可能性があります。
また、「月待」とは文字通り月の出を待つことであり、月が出る前を忌みの時間として過ごす習しで、月信仰を土台とした行事ですが、更科の里に来て、芭蕉さんは月待の間、亡き母のことを思い出していたのでしょう。
私には「姨ひとり泣く」が「姨ひとり亡(な)く」にもとれるのです。
なぜなら、芭蕉さんの若い頃の俳号は「桃青」ですが、この「桃」は母が名張(隠)の百(桃)地家の血を引くことから命名したもので、それだけ母親への思いが強かったのです。
姨捨山の名月鑑賞が「かるみ」の境地
芭蕉さんが姨捨山に着いたのは1688年8月15日、「三(み)よさの月」もしくは「三夜の月」とも言いますが、中秋の名月を初日にしてなんと三夜連続で月見を行っています。
私も芭蕉さんと同郷ですから、名月鑑賞は大好きですが、さすがに三日間も月見をする風流というか精神的ゆとりはありません。せいぜい「名月必ずしも満月ならず」と望(満月)、朔(新月)を問わず、月を意識するのが精いっぱいです。
そこで、芭蕉さんがこれほど月に夢中になれたもうひとつの理由は、私と違って深い「禅」の心得と、月を心の鏡とみなす仏教的な精神性を持ち合わせていたからだと考えます。
「禅」とは、精神を統一して真理を追究するという意味のサンスクリット語を音訳した「禅那」(ぜんな)の略で、坐禅修行をする禅宗をさす言葉です。そして「禅」の心得を一言で言えば、自分自身の存在の真実を探すために自らを律し、万物に感謝し、無駄を省き、生き方を見つめ直すことです。
芭蕉さんは仏頂和尚からこの仏道・禅の手ほどきを受けていますが、そこから学んだものは「一所不住」であり、「捨てる」ことであり、「執着しない」ことでした。
そしてこの思想が「蕉風開眼」に繋がったのですが、三日間も月見ができる無我の境地こそが「かるみ」の神髄のように感じます。
そして、芭蕉さんは放浪の子として母親に心配をかけたことから、「子が親を捨てなければ生きていけない」という伝説が迫真性を与え、名月を鑑賞する場所としては千曲市更科の姨捨山は最高の舞台と考えたのでしょう。
そこで、単身赴任中の私、平成芭蕉も「ゆきゆきて倒れ伏すとも」、千曲市更科を経由した故郷伊賀への忍者の旅など、「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマに、目的意識をもって日本全国、世界各地への「奥の深い細道」を旅しているのです。
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