石山の石

http://www.basho.jp/senjin/s1410-2/index.html 【石山の石より白し秋の風】 より

芭蕉 (おくのほそ道)

 小松(石川県)の那谷寺での句。句意は「那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く感じる秋の風が吹いているよ」。

 石山を滋賀の石山寺とする説もあるが、本文中で「奇石さまざまに、(中略)殊勝の土地なり」と那谷寺の石のことを書きながら、わざわざ句に他の寺の石のことを持ち出すとはちょっと考えにくいので、那谷寺の石とする。

 中国でも白秋や、素風(白い風)と言われているように、秋の風が白いは芭蕉の新しい発想ではなく、句としても格別なものとは言えない。句の出来以上に広く知れ渡っているのは、「石山の石より白し」と「石」をたたみかけていること、芭蕉は意識してないかもしれないが「いしやまのいしよりしろし」という「し」の多用が、独特のリズムと味わいをもたらしたせいだと私は思っている。

 『去来抄』で「句調(ととの)ハずんバ舌頭に千囀せよ」と芭蕉が言っているように、何度でも読んでリズムを整えるのも魅力ある句を詠むのには必要ということであろう。


http://suzutano.tea-nifty.com/blog/2013/11/post-cff6.html 【石山の石より白し秋の風】 より

那谷寺には芭蕉の句碑があります。

「石山の石より白し秋の風」

 この俳句は,那谷寺で詠まれたものであるのことはたしかなのですが,問題は,この「石山」「石」がどこの石なのかということです。わたしは単純に,そりゃあ「那谷寺の白い石のことだろう」と思うのですが,一般の定説としては,「滋賀県の石山寺の石」ということになっているそうです。が,那谷寺の石という解釈もあるようです。「石山の」ってのが,「石山寺の」ってことなんでしょうかね。芭蕉は,石山寺と関わりが深いので,そういう解釈が成り立っているようです。

 さて,那谷寺の石山の石ですが,岩肌が白くて,若葉も紅葉も,そして,古刹である黒っぽい堂宇をも,よく引き立ててくれて,何とも言えない,那谷寺独特の神秘的な空間を作り出してくれています。

この岩石は,凝灰岩でしょう。近づいて見て見るとそんな気がします(右の写真)。

 これだけで終わったのではブログタイトルの「好奇心」がすたるので,今,手元にあった『新編・石川県の歴史散歩』(山川出版社,1993)でさがすと,「凝灰岩」ってだけ書いてありました。あっていました。

 秋の風が白いなんて,粋ですねえ。

きのうも,その秋の風がわずかに吹いていました。私には,白くは感じませんでしたがね。

なお,石山寺の石については,2012年5月のブログで書いてあります。確かにこちらの石の方が,より白いです。

 http://suzutano.tea-nifty.com/blog/2012/05/post-3d85.html

 さらに,手元の『図説・おくの細道』(河出書房新社,1989)より,現代語訳(山本健吉訳)から,この句の紹介を転載します。

 この那谷寺の石山は,近江の石山の石よりも白く曝(さ)れている。だが,そこへ吹き渡る秋風は,いっそう白く,山全体の白さの感じがいっそう加重される (114p)

 これでいうと「石山」=「那谷寺」,「石」=「石山寺」ってことですかな。だから,文学はむずかしいんだよなあ。古典文学に落ちこぼれて,理科系にしたわたしです…


http://suzutano.tea-nifty.com/blog/2012/05/post-3d85.html 【珪灰石の上に立つ「石光山石山寺」】より

 東寺真言宗の大本山。滋賀県にある石山寺は一度は行ってみたいと思っていました。

 この寺が石山と呼ばれるのは,文字通り,石山の上に建っているからです。その石とは「珪灰石(けいかいせき)」と呼ばれるものです。説明看板によると次の通り。

 珪灰石は,石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し,その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが,この石山寺のように雄大な珪灰石となっているものは珍しいものです。

いわゆる変成岩の仲間と言うことでしょう。近づいて見てみると,ところどころに,プラスチックが一度どろどろに溶けた時のような跡が見られました。

 この奇岩の上に立っているのが写真の国宝の多宝塔です。珪灰石の白と新緑と古寺の茶色がなかなかかっこいいコントラストを見せてくれます。

また,石山寺は花の寺でもあります。それぞれの季節でいろんな表情を見せてくれるようです。今回は,霧島ツツジが満開でした。ボタンの花もきれいでした。サクラもたくさんあるし,紅葉の季節も又見応えがあるそうです。もう一度来てみたくなるお寺さんでした。


https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/isiyamadera/basho.html 【石山寺と松尾芭蕉】より

石山寺芭蕉庵

 各地を旅して多くの俳句や紀行文を残した江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉。

 1690年(元禄3年)、前年に「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、3月頃から近江国に来て義仲寺にあった宿舎無名庵に滞在。

 その後、門人の菅沼曲水の奨めで4月6日から7月23日まで幻住庵に滞在し、石山寺にも度々訪れていたのだという。

石山寺芭蕉句碑

芭蕉句碑「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」

 芭蕉は、最後の旅となった1694年(元禄7年)の10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で亡くなった。

 遺言により義仲寺の木曽義仲墓の隣に葬られた。


https://ameblo.jp/honjo207/entry-12621077755.html 【松尾芭蕉(奥の細道、那谷寺)にまつわる歴史紀行、石山の石より白し秋の風、この句の中の石とは】 より

那谷寺(なたでら、泰澄(たいちょう)開創、真言宗、那谷町、小松)の寺号は、西国三十三ヶ所、霊場1番の紀伊(和歌山)那智山の那と、最終33番の美濃(岐阜)谷汲(たにぐみ)山の谷を合わせて名づけられたと言われています。 松尾芭蕉は、1689年(元禄2年)46才の時、那谷寺を訪れ、奥の細道の中の有名な一句、石山の石より白し秋の風、を作っています。

松尾芭蕉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89.

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644年(寛永21年、正保元年)~1694年(元禄7年)、俳人、江戸)は、伊賀上野の無足人の家に生まれ、津藩(三重)の藤堂良忠(俳号蝉吟)に仕えて北村季吟門の俳諧を学びました。その後、蕉風(しょうふう、侘び(わび)、寂び(さび)など)を開眼(かいげん)、1689年(元禄2年)より河合曽良(かわいそら、1649年(慶安2年)~1710年(宝栄7年)、俳人、神道家)を伴って奥州、北陸を行脚し、歌枕(うたまくら)、史跡を訪ね、奥の細道を著し(1702年(元禄15年)刊行)、不易流行(ふえきりゅうこう)を達観(たっかん)、さらにかるみを唱えて上方に赴き、1694年(元禄7年)10月、51才で客死、近江の義仲寺に葬られています。

那谷寺(奇岩遊仙境、2009年(平成21年)9月、小松、石川)

 ところで、石山の石より白し秋の風の意味のことですが、石の対象を那谷寺(加賀)とするのか、石山寺(近江)とするのか、そのとらえ方で意味が大きく異なると思います。一般に、近江の石と解釈するのが定説となっていますが、異論も多く、芭蕉に聞いてみたいところです。

 近江の石山をとると、その意味は、「那谷寺の石は、近江の石山寺の石山よりも白いと言われているが、今吹いている秋風は、那谷寺の石山よりも白く感じられる(秋の風を白と言う、白秋、中国)」となり、一方、加賀の石山をとると、「那谷寺の石山の石は、とても白く、吹きわたる秋風は、それよりももっと白く感じられる」という意味になります。

 那谷寺の石は、白色の凝灰岩(ぎょうかいがん)ですが、石山寺の石は灰白色の珪灰石(けいかいせき)です。

 私は、定説に近い体験をしました。1967年(昭和42年)4月、その頃は京都(村井良治様方、北白川、下別当町、左京区)で下宿していましたが、桜のいい季節でしたので、石山寺を訪ねました。まさに、奇岩、奇石が目に焼き付き、今も懐かしく思い出されます。

石山寺(1967年(昭和42年)4月、滋賀)

 また、ご縁があって、1969年(昭和44年)4月に金沢に来て、11月より武家屋敷のある長町(岩岸様方)に下宿していました、その年の秋に、知人から紅葉の美しいところとして、那谷寺の紹介を受け、金沢からバスでそこを訪ねました。

 美しい紅葉の中、こじんまりとした奇岩に入り込む御堂に参拝し、その後、芭蕉がここを訪ねて、石山の石より白し秋の風の句を詠んだことを知った時、ふと、近江の石山寺の荒々しくでっかい奇岩を思い出しました。芭蕉は、かの有名な石山寺の石を、句の中に詠み込むことによって、那谷寺の奇岩の上の小堂にも敬意を表し、誉め讃えていると思いました。

 この時の奥の細道の紀行文は、山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行ほど、白根が嶽、跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(くわさん)の法皇、西国三十三所の巡礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付給ふと也。那智・谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 この少し前に、金沢を訪れ、この句以外にも、あかあかと日はつれなくも秋の風、塚も動け我が泣く声は秋の風など、秋の風を含む2句が、奥の細道に載っています。

 松尾芭蕉は、近江の月見亭の隣の芭蕉庵を、たびたび仮住まいとし、多くの句(石山の石にたばしるあられかな)を残しています。 近江は芭蕉が亡くなった地であり、石山寺の近く、芭蕉の墓地のある義仲寺の無名庵、また、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが現存しています。芭蕉、51才、辞世の句は、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」でした。

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会編: 新版石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) 松尾芭蕉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県観光素材集(那谷寺): http://www.natadera.com/; 芭蕉の年譜: http://www.intweb.co.jp/basyou/basyou_nenpu.htm ; 石山寺観光ガイド: http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/culture.htmll;奥の細道(北陸路の旅程): http://www.ishikawa-c.ed.jp/basyou/ryotei/ryotei.htm

(追加説明) 

○ 自然な区切りである、四分法(しぶんほう)に従えば、季節の移り変わりは、春、夏、秋、冬、と表しますが、人生の四つの節目は、中国では、青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)、また、古代インドでは、学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)、となり、それぞれの生き方を示唆(しさ)する興味深い思想です。(五木寛之、林住期、幻冬舎(2007)より)

○ 松尾芭蕉は、1644年(正保元年)伊賀上野の城下赤坂町で生まれました。父は与左衛門といい、手習師匠をしていました。子供のうちから藤堂家の若君の側に使えていましたが、1666年(寛文6年)に若君が逝去したので脱藩し、1673年(寛文12年)には江戸に出ています。

 芭蕉の生涯は旅から旅の連続でした。 生まれた伊賀上野は、忍者の里であり、後の芭蕉の俳諧の旅が隠密の旅との噂がありました。1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日51才で一生を閉じました。(樋口清之監修、生活歳時記、p.589、俳聖・芭蕉、より)

○ 芭蕉(ばしょう)という植物は、約2mほど大きく、みずみずしい青葉を広げる。しかし、この葉は、傷つきやすく、秋風の頃になると葉脈に沿って裂けはじめ、風雨に破れ裂けた芭蕉の葉は痛ましい。松尾芭蕉は、「その性 風雨に傷みやすきを愛す」といってこの植物を好んだ。(樋口清之監修、生活歳時記、p.520、芭蕉、より)

〇 南北朝時代の戦乱で那谷寺は荒廃し、その復興に尽力したのが加賀藩三代藩主の前田利常(1594~1658)でした。山門近くの書院から眺める庫裏庭園は国指定名勝で、利常の美的感覚が光る庭であると言われています。加賀藩の作庭奉行だった分部卜斎(わけべぼくさい)によって1642年(寛永19年)に完成しました。庭には、三角と四角の石を組み合わせた珍しい飛び石や、三つの立石で仏教の三尊仏を表現する「三尊石」と呼ばれる石組みなどが配置されています。

 飛び石などに使われている流紋岩には、碧玉(へきぎょく)やメノウ、オパールといった小さな鉱物が含まれていることが近年の学術調査で分かってきました。那谷寺は、石が織りなす風景を楽しむ文化の拠点となっています。 利常が庭で現した石文化は、訪れる人々を今も魅了し」続けています。(北陸中日新聞:3代藩主利常 復興に尽力、石の風景 人々を魅了、2017年(平成29年)4月22日(土)より)

〇 芭蕉堂

  芭蕉堂は、江戸時代に山中温泉を訪れた俳聖松尾芭蕉(1644~1694)をたたえ、全国の俳人の力で1910年(明治43年)に建てられた。建立に合わせて和歌の「三十六歌仙」にならい、当時の著名な俳人36人の俳句と肖像画を書いた額が納められたと伝わっている。

 最近、 明治時代に建てられた石川県加賀市山中温泉の芭蕉堂内に俳句を掲げた俳人36人を示す一覧表を、神奈川県の古書店から、金沢市材木町の俳文学愛好家小笠泰一さん〈58)が入手した。明治時代に活躍した羽州(1826~1914)や十湖(1849~1936)ら当時の俳人の名前を相撲の番付表のように左右に分けて記している。(北陸中日新聞: 芭蕉堂に掲額の俳人一覧を発見、金沢の愛好家、全36人投票で選ぶ、2017.11.7)

(Link)

〇 山中温泉芭蕉の館(ホームページ): http://www.basyoyamanaka.jp/

〇 「芭蕉の竹杖」、福井県敦賀市に寄贈、「奥の細道ゆかり」、2017.11.22、朝日新聞デジタル: http://www.asahi.com/articles/ASKCP4KG9KCPPGJB00L.html

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000