白し秋の風

https://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/200911200000/ 【松尾芭蕉 石山の石より白し秋の風】 より

全山の石山より白い瀟殺しょうさつたる白秋の風。

石山:加賀の国(石川県)小松市那谷(なた)那谷寺境内にある、全山が石英粗面岩の霊場。

白し秋の風:古代中国道教思想などの文脈では、四季を順に、玄冬・青春・朱夏・白秋と呼んだ(冬至を「太陽のよみがえり」と見て、四季は冬に始まるものとされていた。正月が冬であるのは、そうしたことの影響があるものと見られる)。それぞれに対応する象徴的動物(四神)は、玄武(げんぶ、亀)・青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく、火の鳥)・白虎(びゃっこ)。

なお、これを人の一生にも当てはめ、数え年1歳~15歳を冬、16歳~30歳を春、31歳~45歳を夏、46歳~60歳を冬に見立て、60歳を以って再び生まれ変わるものと見なして「還暦」という。


https://www.y-history.net/appendix/wh0203-067_2.html  【陰陽五行説】 より

春秋戦国時代の諸子百家の中の、陰陽の交替を原理とみる陰陽説と木火土金水を自然の五元素とする五行説が結びついて漢代に成立した。自然現象から人事、王朝の交替までおも説明する道理として長く影響力をもった。

 陰陽は社会と自然のあらゆる動きを生み出す原理で、陰と陽が交替して現れると考えるのが陰陽説で、春秋戦国時代の諸子百家の一つである陰陽家によって説かれた。また、宇宙のあらゆる物を生成させる根本元素は、木・火・土・金・水である、という五行説は陰陽家の一人である鄒衍によって説かれた。この中国古来の2系統の思想が、漢代までにむすびついて陰陽五行説になった。特に五行説は、秦の始皇帝以来、王朝交替の原理として取り上げられ、長く信じられた。日本の陰陽道もこれを受け継いだ思想である。

讖緯説

 漢では儒学の官学化により儒家が官僚として国家の政治に関わるようになると、本来の仁や礼の理念だけでは不十分であると考えられるようになり、この陰陽五行説が儒学の中に採り入れられるようになった。それが、儒学の経書を経糸(たていと)とし、陰陽五行説の予言を緯糸(よこいと)として政治を解釈し、政策を決定していこうとする讖緯説である。新の王莽や、後漢の光武帝は讖緯説に基づいた政治を行おうとした。こうして陰陽五行説は儒学・儒教にも強い影響を与えた。

道教との結びつき

 さらに陰陽五行説は後に神仙思想や老荘思想と融合して道教に発展し、さらに宋代の周敦頤によって宋学(朱子学)の世界観として取り入れられる。自然現象を陰陽五行説で解釈することは北魏の『傷寒論』などから始まる中国の医学の理論とされ、各王朝の政治決定にも大きな影響を与えた。

陰陽五行説とギリシア自然哲学

 陰陽五行説は中国で始まった一種の自然哲学であり、古代ギリシアのイオニア自然哲学から生まれた四元素説などとも似通っている。すべての自然現象を説明するのに、最後は神の力を借りていたオリエントの思考とちがって、ギリシアでは自然現象を自然の枠内で説明しようとし、ミレトスのタレースは水を以て宇宙の根源物質とし、それに続く自然哲学者たちは一種の抽象的概念をそれにあてた。さらに一元的な解釈から進んで地水火風といった四元素説が生まれ、それと並んで物質の究極を微細な粒子とみる原子説(デモクリトス)が生まれた。

易と陰陽説

(引用)中国の思想もまた、本質的に合理主義によって貫かれ、自然現象の説明にあたってギリシアの自然哲学に似た思想が行われた。中国に起こった最初の自然哲学は、易によって代表される。そこでは陰と陽との二元が、自然現象の説明に役立てられた。しかしもちろんギリシアと中国の自然哲学には、根本的な相違があることも見逃すわけには行かない。陰と陽とは、それから宇宙が形成される根元的な物質を象徴するというよりも、むしろ自然の状態や性質を表現する。四季の変化を例にとって言えば、春ははじめて陽がきざし、夏には陽がその極点に達する。秋になると逆に陰がきざし、冬とともに陰はその極点に達する。しかもこうした四季の変化を引き起こすものは、それは天であって、陰陽ではない。しかもこの陰陽の原理は決して固定したものではなく、陽の極点である夏にはすでに陰が潜在し、やがて陰がきざす秋へと変化する。易には変易の意があるが、中国の自然哲学は絶えず変化する自然の姿を表現したものであり、同時にそれは人間の運命にも関係する原理ともなってきた。むしろ後者の役割が、易にとって重要であったと言えよう。<藪内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.27-28>

五行説

(引用)陰陽説と並んで重要な役割を果たしたのは五行説であった。この説の起源はかなり古いと思うが、これを唱えて成功を収めたのは鄒衍という学者であった。前4世紀末、斉の宣王のころ、斉の都臨淄の城門の一つである稷門のあたりに多くの学者が集められた。これが世にいう稷下の学士であるが、鄒衍はその一人であった。彼は五行説によって帝王の徳を分け、それによって王朝交替の理論を説いた。すでに周王室は衰微の極にあり、新しい王朝を建て天下統一を志していた諸侯ののあいだでこの説がもてはやされた。実際にこの説を採用したのは秦の始皇帝であった。周の王室は火徳であり、それに代って起こった秦は水徳を以て火徳に勝ったことを宣言したのである。

 陰陽説と同じように。五行説は水、火、木、金、土の五つの要素によって自然現象の状態や性質を象徴するものであり、しかもこの五つは連続的に循環し変化するものである。それはまた自然現象と同時に人事現象の説明にも役だった。五行説には相生説と相勝説とがある。相生説によれば木は火を生じ、火は土を生ずるというように、木火土金水の順序を以て生成変化する。相勝説では水は火に勝ち、火は金に勝つというように、土木金火水の順序で循環交替するのである。ヨーロッパの中世には皇帝の地位がローマ法王によって保証されたが、こうした保証のなかった中国の帝王たちは、徳の種類によって自らを前王朝から区別し、新王朝の成立とその正統性を明確にしようとしたのである。秦以後にも、新しい王朝が成立する度に五徳のいずれを採用するかが問題となったのである。<藪内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.28>

陰陽五行説

(引用)陰陽説と五行説とは別々に発生したが、内容的にはきわめて類似したものであり、漢代には両者は結びついて陰陽五行説となった。ギリシアにはじまった四元素説が、ヨーロッパ中世においても自然現象の説明に役立ったと同じように、中国でもほぼ相似た役割を陰陽説、五行説あるいは両者の結合したものが果たしてきた。しかしすでに述べたように、中国のばあいには宇宙の根源物質という思想はきわめて稀薄である。中国での根元物質といえば、それは気という言葉で表現されるものであろう。ギリシアでは四元素と並んで原子説が生まれたが、中国の五行説の思想は、やはり四元素説とは本質にちがっている。その相似は表面的なもの過ぎない。根元物質として気以外のものを考えなかった中国では、ついに原子論は生まれなかった。<藪内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.29>

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