http://kuuon.web.fc2.com/SEINOSIJIN/SEINOSIJIN.131.html 【〈生の詩人 金子兜太〉】より
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鮮らしき枸杞を酒中に知佳子の雪
鮮らしき枸杞を酒中に知佳子の雪 皆『む』S46~48
前書が無いので補足すると、この句は息子さんの結婚相手である知佳子さんのことを詠んだ句である。
内面世界を描いたような句が多い流れの中で、この句は現実味があり、そしてその現実が作者にとってはそのまま詩に感じられたという風情である。現実がそのまま詩であるというのは理想であるが、お嫁さんを迎えるにあたってそのような心の昂揚感があったのかもしれない。
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ながい留守番故里のからすの春に
ながい留守番故里のからすの春に 皆『む』S49~51
故里の春の日、長い留守番をしたことがあったなあという思い出の句のような気がする。「からすの春」が雰囲気を作っているし、読者の心に映像を結ばせる力を持っている。この言葉が単なる個人の思い出だけではなく、普遍的な或る〈童心の時間〉というものを演出している。
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叱られて花噛み華やぎ黒猫
叱られて花噛み華やぎ黒猫 皆『む』S49~51
飼い猫である黒猫との交流というか、この猫の愛らしさがとても感じられる。「花噛み華やぎ」という仕草と風情の表現がとても魅力的で的確である。
『むしかりの花』に次ぐ皆子さんの句集は『黒猫』という名であるが、多分この猫のことであろう。この猫は二十年以上も皆子さんとその生を共にしたと聞くが、やはりそういう眼差しがこの句からも伺える。
ちなみにこの猫の名はシンというらしいが、兜太の句に〈愛猫シン二十三年間生きて他界〉という前書で次のような二句がある。
きぶし蕾み老猫逝きぬ皆泣きぬ 『両神』
生命(いのち)なり白梅山茱萸に埋れる
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春の真昼という水の音見つめて
春の真昼という水の音見つめて 皆『む』S49~51
金子皆子さんの句の魅力の一つはその音楽性にあると思っている。視覚的人間、聴覚的人間というような傾向を考える時、金子皆子さんは聴覚的な人間ではないかという気がしている。聴覚的人間はその受容性において生きてゆく傾向があるし、視覚的人間はその積極性において生きてゆく傾向がある。ちなみに兜太は視覚的人間であるし、私は聴覚的人間であるし、私の妻は視覚的人間であると見ている。このような分類は一つの思考の遊びに過ぎないのであるが、人間の違いを考える上では参考になるかもしれない。
掲出句「水の音見つめて」という表現から、上のようなことを考えた。私も音が見える性質である。
この句は「春の真昼という水の音見つめて」と切らないで読むこともできるが、「春の真昼という 水の音見つめて」と切って読みたい気がする。
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現実と夢
難解な句が続く。皆子さんの難解な句達を見て次のようなことも考えた。
皆子さんの難解な句がそうなのだが夢の質を帯びている。逆に現実的で解りやすいが詩の質を持たない句というものも世の中には沢山ある。この両方の性質を同時に持っている句が良い句なのではないか。よく〈虚実皮膜の間〉という言い方があるが、そういうことなのではないか。
また人間のタイプとして大雑把に二つに分けると、現実的なものからアプローチをする人と夢からアプローチをする人があると言えるのではないか。もちろん実業家や社会運動家あるいは科学者は前者であり、芸術家や詩人や俳人は後者であるのであるが、細かく言うと俳人も現実からアプローチする傾向と夢からアプローチする傾向とに分けられるのではないかということである。そして皆子さんの場合、夢からアプローチする傾向が強かったのではないかということである。相対的に見れば、兜太はとても現実的で強い。だから私には、この二人が結婚したということがとても稔りの多い結果に繋がったのではないかと想像している。
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春の夢山脈を曳きずるは雉子
この辺りの句は夢の断片のような印象の句が多いのであるが、夢といっても夜見る夢と昼見る夢と、また現実そのものが夢であるという意味も含めての夢である。次の句などは夢とはっきり書いているから逆に解りやすい。
春の夢山脈を曳きずるは雉子 皆『む』S49~51
壮大であり、また曳きずっていて飛べないもどかしさもある。夢判断をするわけではないが、飛びたいという願望、しかも大事な大きなものを抱えているという事、そういうふうに表現できるものを皆子さんは持っていたのではないかと推察する。そしてこの事は案外一般的に人間が持っている葛藤なのではないだろうか。個人としての我と他者との関連において在る我の葛藤。小乗と大乗の葛藤と言ってもいい。あるいは金子先生の言葉を借りれば、心(ひとりごころ)と情(ふたりごころ)の葛藤と言ってもいい。皆子さんの句集を最後まで読むにあたって、この葛藤がいかに昇華されていくのかを見るのも楽しみの一つである。
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妻の絵
この頃自身を無くしている。金子皆子さんの句集を読むことは無謀だったのではないかとさえ思えている。結局、女性というのは理解し得ないのではないかとさえ思える。掴み所が無くふわーっとしているのでこの頃は沢山の句を飛ばしてしまうことが多いのである。ふわーっとしていると言えば、或る時期の私自身の妻の絵に関して或る人が「ふわーっとした絵」と言ったことがあるが、自分の妻の絵であるから、私としては解っているつもりでいたのであるが、実はその本質的な所は解ってはいなかったのかも知れないなどと思えてきた。その頃の好きな絵の一枚
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風の朝日の野の柔らかき体毛
掴めたようでなかなか掴み切れていないような感じが残る、簡単に言えば、ふわーっとした感じの句。それでいて通り過ぎてしまうには惜しいような美しい印象の句の中から比較的に私にも解る句をいくつか拾ってみた。
風の朝日の野の柔らかき体毛 皆『む』S49~51
西空のふところ木洩陽の尾ばかり 〃
花八ツ手透明になり月の掌に 〃
遥か彼の風樹は走る体なり 〃
水楢のかたわらのみち富士の空 〃
鳥よ遠くに旅立つための風見もあり 〃
書けぬ便り群蝶けむりかと思う 〃
春鳥きて鳴けり衰弱も花のよう 皆『む』S52~55
もういない鶫私もいない朧夜 〃
女性というのは男にとってはそのように常に解らないものを秘めている存在なのではなかろうか、という考えがある。
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水に座す六月よ青蘆の耳たち
このところなかなか掴みにくいふわーっとしたような金子皆子さんの句ということを書いて来たが、この私の「掴む」ということ自体が間違った態度であるかも知れないと思えて来た。つまり「掴む」ということは先ず鑑賞者の自分が有って、その自分の思想の範囲に有るものが「掴める」ということであるから、もしその俳句が自分の思想の範囲以外のところに在るものだとしたら「掴め」ない。だから鑑賞というのは自分が「掴む」のではなく、逆に作品に「掴まれる」のでなければならないような気がしてきた。
かつて何処かで金子先生が皆子さんのことを回想して「皆子からはアニミズムということを教わった」と書いておられたが、このアニミズムということを理解しないと金子皆子さんの句は理解できないのではないだろうか。そして言葉ではある程度解ってはいたが実際には私はアニミズムということを理解していなかったのではなかろうか、と反省している。そのように反省してみると、金子皆子さんの句が何だか解り出して来たような気がするのである。ほんの一つの例として次の句を揚げる
水に座す六月よ青蘆の耳たち 皆『む』S52~55
アニミズムとは大地の精あるいは自然の精そのものに自分が同化してしまったような状態なのではなかろうか。水に座しているのは六月でありまた自分であり、風を聞いているのは青蘆でありまた自分である。人間としての自我意識が生れる以前の、もっと自然との一体感のある意識、それがアニミズムということではなかろうか。
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ほうせん花みみずころころ笑ったよう
ほうせん花みみずころころ笑ったよう 皆『む』S52~55
私にはこのような句は文句なしに楽しめる。リズムというか韻律というか、そういうものが意味以前に体に響いてくるからである。俳句は五七五であると言われるが、それは大体の枠としてそう言ったもので、五七五で書いたからといって韻律やリズムが有るというわけではない。何と言ったら良いだろうか、この自然界に遍在する韻律が自分を支配して句が出来る時、その句には韻律が有る、ということになるのではなかろうか。だから、あまりにも厳格に五七五に捕らわれていると逆にこの自然界の韻律を逃すことがある。この句はたまたま五七五であるが、金子皆子さんの俳句の魅力の一つは、自然界の韻律に支配されたような自由なその句の姿にある。
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旅次照葉銀河は駆けている笛師
旅次照葉銀河は駆けている笛師 皆『む』S52~55
「旅次照葉」というのは『むしかりの花』の現在鑑賞をしている章の題でもある。昭和五十二年に出版の兜太の句集に『旅次抄録』というのがある。「旅次照葉」というのはこの句集名に呼応させた言葉ではないだろうか。魅力的な言葉である。「私の旅そして私の旅の宿りは照葉のように陽を受けて明るく光っていますよ」と言いたいのではないだろうか。またはそういう願望かもしれない。この言葉だけで充分魅了されるのであるが、さらに「銀河は駆けている笛師」という心の弾みが伝わって来るような言葉が続く。
「旅次照葉 銀河は駆けている笛師」、私の人生の旅次もそうありたいものである。
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いまから眠る午前三時の照葉樹林
いまから眠る午前三時の照葉樹林 皆『む』S52~55
「午前三時」だというのであるが妙に明るい。そして「いまから眠る」というのであるが妙に冴えている。この「午前三時の照葉樹林」というのは、あの仏陀の〈薄明の菩提樹〉に匹敵する存在感がある。しかも言葉そのものとしては〈薄明の菩提樹〉よりも「午前三時の照葉樹林」の方が言葉そのものの中に覚醒感があり光がある。
昨日の句の〈旅次照葉〉にしてもこの句の〈午前三時の照葉樹林〉にしても、その言葉だけで魅力的である。
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白い兎の朧夜やわらかき茎噛む
白い兎の朧夜やわらかき茎噛む 皆『む』S52~55
しろいうさぎのおぼろよやわらかきくきかむ。流れるような韻律が句の内容に寄り添ってやわらかい優しい抒情となっている。
俳句は五七五が基本の規則であることは私も同意するのであるが、規則は破るためにあるということを、金子皆子さんのこのように完成度の高い句を見ると思うのである。規則は大事。しかし規則は破るためにある。
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野あり野井戸あり合歓が咲き
野あり野井戸あり合歓が咲き 皆『む』S52~55
存在の懐かしさと言えるような懐かしさがある。今まで曾て行ったことがない場所を旅していて、ああこの場所にはいつか居たことがあると感じるような場所に出会うことがある。記憶されてはいない記憶の部分がそういう感覚を起す感じである。立ち去り難くしばし其処に佇ちつくしてしまうというような場所である。西行の次の歌を思いだした。
道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ
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山に老いゆく女らに牧の音がある
山に老いゆく女(ひと)らに牧の音がある 皆『む』S52~55
私は生きていく上での諸々の事を判断するのに、死を起点として考える傾向がある。現在山の中に住んでいるのもそういう事の現れの一つかもしれない。川の音や風の音を聞きながら死にたい、というような事である。死にたいとまでは言わなくても、そういうものの中で老いたいということである。自然の中で自然に穏やかに枯れるように老いてゆく。今私が住んでいる家の裏のお婆ちゃんなどもそんな風である。
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かまくら見えた白いかまくらの中に孫
今は句集『むしかりの花』の〈旅次照葉〉という章を読んでいるが、この章の最後から二番目にとてもいい句がある。そしてその句の前に並んでいるのが昨日の句も含めた次の三句である。
山に老いゆく女(ひと)らに牧の音がある 皆『む』S52~55
もぐらもちの円さよ山人の背の荷は 〃
かまくら見えた白いかまくらの中に孫 〃
民話風というかそういう語り口であるというか、難解さは影を潜めて平明である。私には次の一句が出てくる兆のような気がしてきた。
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まんさく咲きしか想いは簡単になる
まんさく咲きしか想いは簡単になる 皆『む』S52~55
何の技巧も感じさせなく、素のままの作者が素のままの言葉をさらっと書いたようであり、しかも啓示のようであり、「まんさく咲きしか」がよく響いて動かない。重くもなく軽くもなく、あえて言えば重みと軽みの中間くらい位置し、バランスがとれて中庸である。殊更句を作るというのではなく、生きてあるということがそのまま句になったという感じがとてもいい。「私は句を作るのに頭はいらない」という意味のことを何処かで皆子さんは言っていたが、このような句を見ると成る程と思う。皆子さんの真骨頂の句ではないか。このような句を私も作りたいものである。そしてまた簡単な想いで生きていきたいものである。
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黒猫雪雪朝をさらに眠りたり
黒猫雪雪朝(あした)をさらに眠りたり 皆『む』S56~60
ひたきや百舌鳥やとんできている紅茶 〃
雪山人まんさくの花つれてくる 〃
〈黒猫〉という章の冒頭の三句である。やはり民話風というかそういう語り口である。皆子さん独特の韻律というか、坦々とした昔語りのような懐かしさの滲んだ語り口の中に日常が顔を出している。
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階下の孫ら眠りに花か水鳥か混る
階下の孫ら眠りに花か水鳥か混る 皆『む』S56~60
荘子の蝶の夢の話にもあるように、夢と現実のどちらがリアルであるかは、どちらとも言えない。どちらもリアルであるかもしれないし、どちらも幻影であるかもしれない。夢のような現実ということもあれば、現実のような夢ということもある。現実に夢が混じることもあり、夢に現実が混じることもある。実際は完全な現実も完全な夢もなく、それらが混ざっているというのが事実なのではないか。そして多分大切なのは、現実でも夢でも何でもいい、それらを見る主体の“眼差し”なのではなかろうか。金子皆子さんはその“眼差し”に優しさというものがある気がする。“眼差し”はマチエール(肌合い)となって現れる。故にこの句もそのマチエールが優しい。
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黒猫に出水の朝不思議な朝顔
黒猫に出水の朝(あした)不思議な朝顔 皆『む』S56~60
「不思議な朝顔」と言っているが、私には「黒猫」「出水の朝」「朝顔」そして作者の遭遇自体が一つの不思議さであるという雰囲気を感じる。世の中の現象全てが実は不思議である。日常生活の中でそれを忘れて私達は生活しているが、実は不思議である。その不思議さを全く感じられずに日常に埋没してしまうのはのは残念である。日々新しくその不思議さを感じ取りながら生きられることは仕合せである。そしてその不思議さが表現できて他者に伝わることがあれば、それはもっと仕合せである。
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桜の花片が通るよ黒猫は百歳
桜の花片(はなびら)が通るよ黒猫は百歳 皆『む』S56~60
この『むしかりの花』だけでも「黒猫」という言葉の入った句が約五十句ある。そしてこの『むしかりの花』の次の句集名は『黒猫』である。最近出版された皆子さんの遺句集『下弦の月』のあとがきに兜太が「・・昭和四十二年・・転居して愛猫、ゴス、タスを亡くし、シンとゴンを得る・・シンは二十五年間生きて皆子を守る」と書いているがこのシンそしてあるいはゴンも黒猫だったのかもしれない。「黒猫」が登場する最初の句は「木洩陽にいる黒猫の目の国」で、これは昭和四十三年~四十五年の作であるから時期も一致する。そしてこれらの句を読んでいると、兜太の「・・皆子を守る」と言った言葉が大げさではなく思え、且つこの黒猫の存在感がじわじわと私の中にも入ってくるのである。
この掲出句なども、ふわふわと通り過ぎる桜の花びらに対して黒猫はでんと居座ってそれらを眺めている感じである。「頼もしいなあ」という気持ちなのではないか。
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静寂音あおいあおい揚羽や山や
静寂音あおいあおい揚羽や山や 皆『む』S56~60
「静寂音」がやはり良いのではないか。例えば「静かかなあおいあおい揚羽や山や」などでもある程度は良いが、自己に引き付けた感じが残り少し臭い。「静寂音」だと自己の影は殆ど無く、この風景とその静かさが只在るという感じになる。存在の不思議さという点で「静寂音」のほうがはるかに勝る。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」が「閑かかな岩にしみ入る蝉の声」だとしたら台無しであるということと同じかもしれない。この芭蕉句とこの皆子句を比較してみると、芭蕉句のほうは殆ど聴覚から存在に踏み入っている感じで殆ど色彩が無いが、皆子句のほうは視覚性が強く色彩感があり明るい静かさである。「静寂音」と言っているが、それを見ている感じさえある。
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てのひらに乗せて麦秋黒猫の顎
てのひらに乗せて麦秋黒猫の顎 皆『む』S56~60
よく女性は大地、男性は天などと譬えられる。あるいは母は大地、父は天などと。また、天に在すわれらが父よだとか、大地の女神などと神を表現することもある。この句などに於ても「麦秋」や「黒猫の顎」と「てのひら」に乗せているのは作者でもありまた大地であるという想念の広がりがある。ごく身近なものへの愛着と同時に自分は大地であるという感覚を持てるのが女性(特に母)ではないだろうか。そんなことを考えた。「麦秋やてのひらに乗せて猫の顎」ではそんなことは考えない。
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黒猫の句
黒猫の句が沢山あるので並べてみる。
夏星よ黒猫百歳の耳立て 皆『む』S56~60
黒猫遊ぶ真夜ありし星星 〃
衣装部屋黒猫なんとも柔らかな袋 〃
爪立てぬ黒猫よ冬至の柚子の金色 〃
荒き風鳴り新しきなり黒猫晩夏 〃
魚みている静かな黒猫と草の実 〃
在る日美しい黒猫猿梨もゆれる 〃
冬光る黒猫皿鉢の長い年月(としつき) 〃
うつぎ咲く黒猫うつぎの夢の中 〃
どの句もそれぞれみんないい。〈もし・・ったら〉などというのも野暮であるが、もしこの黒猫が金子家に飼われていなかったら、皆子さんの句集もかなり艶を失ったに違いない。それだけこれらの句も含めて「黒猫」の句には艶がある。「黒猫」という言葉自体に、例えば単に「猫」と言うよりも艶がある気がするが、その艶を見出して引き出しているのは作家である。〈艶〉というのは何か。事物と事物の間に〈気〉の流れと言えるようなものが在るときに〈艶〉が在ると言えるのではないか。平たく言えば、事物と事物の交感である。この句達の場合「黒猫」と他の事物達との交感である。そして作家自体にこの気の流れが起らなければ事物と事物の気の流れは掴めない。皆子さんとこの黒猫の間には気の流れが沢山在ったということであろう。平たく言えば皆子さんと黒猫との交感である。
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鳩が好き鳩小舎の陽当りの黙など
鳩が好き鳩小舎の陽当りの黙(もだ)など 皆『む』S56~60
この句を見て思い出してしまうのが其角の次の句である。
鳩部屋に夕日しづけし年の暮
どちらの句も〈観照〉という言葉が相応しいが、其角の句がいわば冷たい観照であるのに対して皆子句はあたたかい観照である。其角句が結局、「年の暮」と外して、あるいは対比させて、「年の暮」の季感を表現している、あるいは「年の暮」という一般的概念に頼っているのに対して、皆子句の方は対象そのものに直接踏み込んで観照している感じである。其角句の方が客観的であり情景的であるのに対して、皆子句の方は主観的であり瞑想的である。其角句においては意識が分散するのに対して皆子句は意識が分散しない。其角句において、この「年の暮」という季語があるから俳句である条件を満たしていると言う人もいるだろうし、この「年の暮」が何だか取って付けたように感じる人もいるだろう。
246
むかしむかし
がありぬ令法の花盛り
むかしむかしがありぬ令法(りようぶ)の花盛り 皆『む』S56~60
その〈語り口調〉から、あるいはその〈大地の意識〉から、あるいはその〈頭で作らない作り方〉から、といろいろ説明が出来そうであるが、なかなか鑑賞の焦点が絞られてこない。単純なものほど説明が難しいと言われるがそのとおりだと思う。とにかく事実が何の作意もなく語られている感じがして納得させられているのである。例えば蕪村の「遅き日のつもりて遠きむかしかな」などは、「こうだからこうでこうであるという」三段論法のように納得させられるのであるが、皆子さんのは「こうである」とただ述べているだけで納得させられるのが不思議である。真実とは何かという問題があって、「こうだからこうであり故にこれは真実である」という西洋的なアプローチに対して、「これは真実である、あのような語り口で言うのだから」という東洋的な直感がある。この句の場合は後者であるとしか言いようがない。
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蒿雀を追ってみよ友よ失いしもの
蒿雀(あおじ)を追ってみよ友よ失いしもの 皆『む』S56~60
アオジを大辞林で引くと〈スズメ目ホオジロ科の鳥。スズメ大で、背面は褐色に黒色縦斑があり、腹面は黄色。本州中部以北で繁殖し、冬期は暖かい地方に移るものが多い。[季]秋〉とある。
この若さがいい。蒿雀(ヨモギスズメ)という言葉のイメージやアオジ(青鵐)という青の色のイメージから、土ということや理想というもののニュアンスを感じる。読んでいるうちに広い草原を駆けている自分の姿などのイメージが重なって来る。
248
水際だちし春心経の小石
水際だちし春心経の小石 皆『む』S56~60
作者は水の傍にいるのだろうか、あざやかにきわだった春だと感じている。そして落ちている小石を心経の小石だと感じている。路傍の小石に全宇宙の相を見ることが出来れば、それは究極の意識に近いという。作者はある高揚した気分の中に居るのではないか。同じ小石でも
からすからす呑み込んだ小石火打石 皆『む』S37~42
と比べると、落ち着いてきた作者の日常がその背後にはある気がする。
249
土佐は不思議天上に豆の花溜める
土佐は不思議天上に豆の花溜める 皆『む』S56~60
夢の質を帯びている。夢の中での事を語っているようだ。そして作者自身も「不思議」と言っている。この「不思議」という言葉を外してしまうと訳が分らなくなる。つまりこの「不思議」という言葉に作者の主体の意識が現れているからで、その作者の主体に同調できるから安心して句の内容を鑑賞できるのである。客観写生であれ何であれ、この主体意識が無いと欠伸の出る句になってしまう。俳句とは限らず私達はこの生の場に於いて、この主体意識を保持していないと、何が何だか分らなくなる。そして最終的にはこの主体とは何かという事になるのではあるが・・・私は誰・・・。
250
鈴音に鈴重ね咲く花つばき
鈴音に鈴重ね咲く花つばき 皆『む』S56~60
観音あるいは観自在という菩薩名がある。音を観ることができる菩薩すなわち境地である。意識の澄んだ状態に於てはさまざまな感覚が渡り合うということの一つの例である。金子皆子さんの句の場合も視覚と聴覚の渡り合いということが時々見られるような気がする。この句の場合などもつばきの花が咲いているのを鈴の音が鳴っているようだと感覚している。実際に鈴の音のような音が聞えているのかもしれない。そしてこう言われてみると、私などにも椿の花が沢山咲いている状態が見えてくるし、鈴の音が聞えてくるような気がしてくる。
251
走って別れる茜夕空姉妹と思う
走って別れる茜夕空姉妹と思う 皆『む』S56~60
女性特有のマチエールのあたたかい淡い水彩画。下の妻の絵は「茜夕空」というわけではないが雰囲気は似ている。
「夕暮の河辺」 多羅一恵
252
養魚池真昼しずかに男たちの水輪
養魚池真昼しずかに男たちの水輪 皆『む』S56~60
金子皆子さんの句を読んでいて、時に女性のふわふわっとした掴みきれないものを掴もうとして悪戦苦闘しているのであるが、掴めたようで掴めていない、また掴めないのかと思っていると時に掴めたような感じになる。男性と女性、あるいは私という個性と別の個性の持つ宿命かもしれないなどと思うこともある。
この掲出句などは、女性の金子皆子さんが「男たち」のことを書いているのであるが、逆に、ああ男というのはこんなものだなあと気付かされている。また女性の目から見ると「男たち」というものはこんなふうに見えるのかもしれないと思う。肯定的に「男たち」を見ている図ではないか。
253
旅次のわが肩に夫眠る木綿花紅し
旅次のわが肩に夫眠る木綿花紅し 皆『む』S56~60
女性と男性の違いの一つは、男性に比べ女性は常に関係性の中で生きることを望むということではないか。男性はむしろ自分の仕事がうまく行っている時に満足であるが、女性は他者との関係がうまく行っている時に満足感を覚えるのではないか。そういう傾向があるのではないか。良く言えば愛の力が強いということであり、悪く言えば執着の力が強いということである。愛と執着、この裏腹なものをどのように整理して生きていけるかということが女性の問題なのではなかろうか。私の身近な女性達を見ていて最近思うことではある。
さて掲出句であるが、妻として女性としての満足感とはこういうものだというのを見せてもらった気がする。「木綿花赤し」が作者の気持ち。
254
雲海上晴れ不思議な椅子に一人ずつ
雲海上晴れ不思議な椅子に一人ずつ 皆『む』S56~60
雲海の上が晴れていて不思議な椅子に一人ずつ腰掛けているというのである。とても奇妙な空間であり時間である。これも中国旅吟の一つかもしれないから、そういう場面があったのかもしれない。天国へ行ってみたら実はこんな奇妙な場所だったというような連想も働く。また私達人間はそれぞれが奇妙で不思議な椅子に腰掛けていてああでもないこうでもないと議論している存在である、ということに目を付けた心理劇の一場面のような気もする。もちろんそんなことは作者の意図ではないが。
255
犬死にゆきひ
ぐらしの帽みなかぶる
犬チャーの死
犬死にゆきひぐらしの帽みなかぶる 皆『む』S56~60
犬ではなく猫の死であるが兜太の句に次の句がある。
きぶし蕾み老猫逝きぬ皆泣きぬ 『両神』
雰囲気が似ているので思い出したのである。自然の中で共生する動物の死。それを皆で悼んでいる。犬も猫もひぐらしもきぶしも本質的な命の次元においては何の区別もない。金子家にはそういう雰囲気があったに違いない。
256
葛菓子の少しずつ消ゆ十六夜過ぎ
葛菓子の少しずつ消ゆ十六夜過ぎ 皆『む』S56~60
人間の生活と自然あるいは天体の運行があたかも連動しているような、いや実際連動しているのであろう、それがはっきりと自覚された昔の日本人の生活感覚のようである。自然の中の人間の生活。自然を愛で自然からの恩恵を受け自然の運行のリズムと合せて生きてある。こういう自然感覚、生活感覚は失われてきているのではなかろうか。第一自然の方が大分変調をきたしている。
昨日久しぶりに蔵の二階に行ってみた。私は下手ながらも筆で字を書くのが好きな方なので、これから金子兜太の句を毎日一句か二句半紙に書いて行こうかと思っているのであるが、その台になるようなものを蔵の二階に探しに行ったのである。あちこち探していてふと天井を見ると、何かの黒い塊がぶら下がっているのが見えたので近寄ってみると、それがいきなり翔んだ。コウモリである。びっくりした。この長野の山の中に住んで三十年近くにもなるが、コウモリを見るのは初めてである。こういう現象なども地球温暖化などの自然環境の変調の現れではないかと疑っている。
句に戻れば、この句は自然の運行に密着した伝統的な日本人の生活意識ではないだろうか。生活美意識とさえ言いたい。
257
栃の実は夕日の落しゆく冷えか
栃の実は夕日の落しゆく冷えか 皆『む』S61~63
夕日 多羅一恵
258
熱い大根にゆっくりと呼吸して大年
熱い大根にゆっくりと呼吸して大年 皆『む』S61~63
リラックスして大ぶりでとてもいい。この頃毎日兜太の句を半紙に習字しているのであるが、この句を見たら、ゆったりと字を書いてみたくなった。
259
雪舞う日
緋鯉曾祖母
祖母に候
雪舞う日緋鯉曾祖母祖母に候 皆『む』S61~63
〈候〉は[そうろう]とルビ
兜太の言った「皆子からはアニミズムということを教わった」ということを考えている。実際この句は、「教わる」という態度がないと入口で退散してしまうかもしれない。しかしこういうことがアニミズムなんだなあと思いながら入ってゆくと実に親しいあたたかい美しい風景が広がってくる。雪の舞う日の緋鯉はその景色として美しいものがあるが、単に美しいというのではなくてその景色に対するあるいはその存在に対する限りない親しみがこの句にはある。「緋鯉曾祖母祖母に候」と言えるのは天性のものである。
260
斑雪山小がら一群楽器になって
斑雪山小がら一群楽器になって 皆『む』S61~63
早春の気分。早春、胸のあたりで期待の旋律が鳴りだすような季節。斑雪山や小がらの一群を見る時に早春のいのちの音楽が胸のあたりで響きだす。フォーレでも聴きたくなった。
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