https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100030/ht030498 【石川県史 第三編第三章 學事宗教 第六節 俳諧 418 ~ 420 / 1056ページ 北枝】より
加賀の俳徒中、芭蕉の啓發によりて最も頭角を露せるものは北枝なり。北枝は立花氏又は土井氏、通稱を研屋源四郎又は三郎兵衞といふ。舊と能美郡小松の産にして、父を彦兵衞といひ、金澤に移りて磨刀を業とせり。その所居を壽夭軒又は趙翠臺といひ、鳥翠臺又は趙廓とも號す。芭蕉嘗てその才を稱して北枝は發句師なりと戲れ、本朝文選には北方之逸士也と評し、世に十哲の一人に算す。芭蕉北遊の翌元祿三年三月、金澤に大火ありて、北枝の家亦災に罹りしかば、彼は『やけにけりされども花はちりすまし』と吟じたりき。芭蕉が四月二十四日附の消息に、『去來・丈草も御作驚申計に御座候。名歌を命にかへたる古人も候へば、かゝる名句に御替被レ成候へば、さのみおしかるまじく存候。』とあるは是をいへるなり。この年暮、乙州の大津に上るに及び、芭蕉は北枝罹災の事情を詳かにせるが如く、四年正月三日附の消息に、『其元にて書申候者は御燒不レ被レ成候よし、米櫃はやけ可レ申候。』といへるによりて、北枝がその家を失ひしも尚師の手跡を携へ遁れたるを見るべし。北枝の性疎懶、常に橧笠を戴を太き杖を曳きて徜徉す。兒童その何くに往くやを問ふに、『發句拾ひに』と答へたりしといへり。實に北枝は作句を以て生涯の大事業とし、隨つて俳道の蘊奧を極めんと欲する意の熾なること、能く他人の及ぶ所にあらず。されば元祿二年、芭蕉の山中温泉に在りしとき、北枝は師に質したる事項を編して山中問答といひ、五年附方八方自他傳を記して芭蕉の校閲を得などしたりしが、芭蕉も亦之を教導すること親切にして、某年十月十三日附消息には、『山中問答にも三つ物の事御尋なく、我も心付不レ申候。此度委三ッ物傳別紙にて申入候。』といひ、六月二十七日附消息には『附合十七体別紙に記進候。初心には見せ申されまじく候。』と書き送りて、前に授けたる遺漏を補説せり。しかも北枝が尚己の聞き得たる所を足れりとせざりしことは、彼が芭蕉百日の忌に當りて、『とひ殘す歎の數や梅の花』と吟ぜるにても之を知るべきなり。次いで元祿九年芭蕉の墳に詣で、翌年喪の名殘を刊行せしことは前に言へるが如く、編中に去來・丈草・正秀・惟然・風國・木節等、蕉門の俊髮を網羅して一大選集を爲せり。寶永三年三月支考京師に於いて芭蕉の十三回忌を營まんとし、北枝を招請す。時に北枝は『回祿有レ斷』て參會せざりしこと東山萬句に見ゆ。葢しこの年二月五日北枝の家再び災に罹りたるを以てなり。その後幾くもなく支考北遊して小松に至る。小松の俳人等、北枝が將に新居を興さんとするを聞き、支考と共に句を作り、刊本として之を贈れり。家見舞と題したるもの即ち是にして、支考の句には『やけにけりされども櫻咲かぬ間に』といひ、北枝の自賀には『さい槌の祀儀にならす水雞かな』といへり。正徳二年北枝大坂に至りて舍羅を訪ふ。その會見の状は俳諧世説に記さる。北枝の著す所、前に擧げたる外北枝考・蕉門誹談隨聞記あり、句空との共著に卯辰集あり。俳文には仁不仁論・族野郎をあはれむ詞・居眠辯等あり。その句集には、天保三年加賀の北海によりて輯められたる北枝發句集あり。享保三年五月十二日歿す、趙廓北枝居士と諡し、心蓮社に葬る。この年追悼句集を刊行してけしの花といふ。書名は北枝が亂世の句『書いて見たり消したり果はけしの花』によるものにして、覇充之に序し、空水之が跋を作る。寛政十一年晩秋、眉山等その追悼會を春日社に營み、句集を北枝會と題す。天保四年翠臺・年風催主として、墓側に新碑を樹て、梅室之に銘し、明治十二年雪岱・超翠等更に墓を修し、二百年忌の追悼會を豫修し、その句を集めてかやつり草と題せり。
https://blog.goo.ne.jp/jikkouhureaitai/e/276d28ac6996f8fb1f9e152ff3b01a44 【山中問答』・芭蕉が語る不易流行(ふえきりゅうこう)】より
加賀市観光ボランティア大学第13回講座 「『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、講師の西島明正先生
から教えていただいたことをご紹介しています。
1689(元禄2)年8月3日(新暦9月16日)、久しぶりに夕方まで雨が降り続きました。
松尾芭蕉が山中温泉に逗留して7日目のことです。
この頃、芭蕉は金沢から同行している立花北枝の質問に答えて、俳諧のこころを語っています。
その芭蕉の言葉を北枝が書き記したのが『山中問答』です。この『山中問答』は、芭蕉が唱えた正風俳諧を研究する上でとっても貴重な史料なのだそうです。
『山中問答』
正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺(うろ)馬鹿(ばか)の言語になづむべからず。
天地を右にし、萬物、山川・草木・人倫の本情を忘れず、落花散葉の姿にあそぶべし。
其すがたにあそぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変にわたる。
然る時は、こころざし寛大にして物にさはらず、けふの変化を自在にし、
世上に和し、人情に達すべしと、翁申たまひき。
自然と人生に基礎をおく民衆的な文学を、「俳諧」という芸術に創り上げたのが芭蕉です。
そして芭蕉自身が諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを込めながら広めた俳諧を「正風俳諧」とよびます。
「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言です。
『山中問答』の中にある「不易の理を失はずして、流行の変にわたる」(=不易流行)という考えは、
芭蕉が『奥の細道』の5カ月の間に体得したものといわれています。
「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、流行(変化)を知らなければ新たな進展がない、
しかもこの不易と流行のもとは一つ、不易が流行を、流行が不易を動かす」
「不易」は変わらないこと、すなわちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、
変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。
逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは
変えていかなければならないもののことです。
「不易流行」はもともと俳諧に対して説かれた考え方ですが、何か人生すべてのことに通じているように
思えますね。
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