http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno31.htm 【奥の細道(金沢 7月15日~23日)】より
卯の花山*・くりからが谷*をこえて、金沢は七月中の五日也*。爰に大坂よりかよふ商人何処*と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて*、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに*、
塚も動け我泣声は秋の風(つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)
ある草庵*にいざなはれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子(あきすずし てごとにむけや うりなすび)
途中唫
あかあかと日は難面もあきの風(あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)
・7月15日、高岡を出立。快晴。小矢部市埴生八幡に参拝し、倶梨伽羅峠を見て、金沢城下に入る。この夜は、京屋吉兵衛の宿に宿泊した。ここで、一笑ら加賀蕉門の者達に連絡をとる。牧童らがやってきて初めて一笑の死を知らされた。
・7月16日。快晴。門人竹雀が駕篭を差し向けて出迎え。加賀蕉門の門人ら多数と会う。小春の父の経営する旅篭に宿泊。
・7月17日。日中は快晴だったが、夜になって雷雨。深更になって雨上がる。芭蕉は源意庵で句会。曾良は体調悪く休息。
・7月18日。快晴。曾良の体調不調か。
・7月19日。快晴。門人ら来訪。
・7月20日。快晴。犀川のほとりにあった一泉の松幻庵で句会。「残暑しばし手毎にれうれ瓜茄子」を発句として十三吟半歌仙。野端山に遊ぶ。
・7月21日。快晴。医師の高徹から曾良のために薬を調合してもらう。芭蕉は、北枝や一水らを同道して外出。
・7月22日。快晴。一笑の兄、俗称ノ松主催の一笑追善句会を願念寺にて。相変わらず曾良の体調は悪く、句会には遅れて参加し、かつ早退する。
・7月23日。快晴。芭蕉は小野雲口の招きで金石町に外出。
・7月24日。快晴。金沢を出発。
塚も動けわが泣く声は秋の風
この作は7月22日。一笑追善会での作。芭蕉は金沢では一笑に会えるとばかり思って旅をしてきて、ここ金沢に来て愛する弟子の悲報に触れた。その激しい悲愁の句。芭蕉にこのような感情過多の作品は他に無い。
「塚も動け・・」の句碑。金沢市願念寺にて(牛久市森田武さん提供)
秋涼し手ごとにむけや瓜茄子
松玄庵に招かれて出された料理に感謝を込めた句。『西の雲』では、
松玄庵閑会即興
残暑しばし手毎 に料れ瓜茄子
とあるが、即興という詞書からも伺われるようにこれが初案だったのであろう。
ところで、ここで「瓜」は芭蕉の好物の真桑瓜のことだが、問題は茄子である。ナスは皮をむいて食べるのには適さない。アクが強くて食べられない。ここでいう「茄子」は「水ナス」のことで、古来泉州の特産、甘く水分の豊富なナスで生食野菜として古くから夏場好まれたようである。
「秋涼し・・」の句碑。金沢市長久寺にて(牛久市森田武さん提供)。
あかあかと日はつれなくも秋の風
「途中吟」とあるのを信ずれば、金沢・小松間ということになるが異説がある。一句は忍び寄る秋を「目にはさやかに見えねども」感じ取っている季節の変わり目を描く。背後に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)がある。「つれなくも」は、さりげなくとかそ知らぬさまの意。
卯の花山:富山県小矢部市にある歌枕。
金沢は七月中の五日也:陰暦7月15日 、盂蘭盆会の日であった。この年、この日は陽暦で8月29日であった。残暑はあるが北国はもう秋だったであろう。
くりからが谷:富山県と石川県の境にある倶利伽羅峠。木曽義仲が、牛の角に松明を点けて大軍と見せかけて平家を敗走させたと言われる古戦場。
爰に大坂よりかよふ商人何処:<ここにおお ざかよりかようあきんどかしょ>。何処は大坂の薬種商人。この時以来蕉門に入る。 Who'sWho参照。
一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて:一笑<いっしょう>は小杉味頼。茶屋新七と称し製茶販売業を営む。蕉門の金沢における第一人者。芭蕉も信頼していた弟子の一人だったが、芭蕉一行の到着を待たず元禄元年12月6日、36歳で早世した。 この事実を知ったのはこの日、7月15日だった。芭蕉は大いに落胆した。
その兄追善を催すに:一笑の兄は、7月22日、一笑の冥福を祈って一笑追善句会を開いた。この時の模様は句集『西の雲』として後に刊行された。
ある草庵:金沢の斎藤一泉の松玄庵 。
金沢市兼六園内にある「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑
(1998年10月29日筆者撮影)
金沢市野町一丁目浄土宗成学寺境内にある荒れ果てたままの「一笑塚」碑
(一笑と関係するのか否かは不明だが)
(1998年10月29日筆者撮影)
一笑追善句会を開いた願念寺の一笑塚(牛久市森田武さん提供)
金沢市小坂神社境内にある芭蕉訪問の記念碑
図中の立て札には、この境内で「この山の神にしあれば鹿と月」と、曾良が詠んだと説明されているが、・・・・・(1998年10月29日筆者撮影)
全文翻訳
卯の花山、倶利伽羅峠を越えて、金沢に着いたのは陰暦七月十五日。ここに大坂から商いに来ていた何処という薬売りがいたので、旅宿を共にした。
一笑は俳諧に優れた才能を持っているという評判がうすうす江戸まで聞こえていて、世間でも期待の人だったのだが、昨年の冬に早逝したという。その兄が追善供養をするというので、塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵に招かれて 秋涼し手毎にむけや瓜茄子
小松へ向かう途中での吟 あかあかと日は難面もあきの風
https://yeahscars.com/kuhi/akaakato/ 【あかあかと日は難面もあきの風】 より
あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ
あかあかと日は難面もあきの風松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の「金沢」の最後に「途中唫」として載る。「つれなし」には、「薄情」のほか「変わらない」という意味がある。
芭蕉が金沢に到着したのは、7月15日。7月22日に一笑の追善会があり、7月24日に金沢を発ち小松に入る。その7月24日の吟ならば、新暦の9月7日。この日まで11日連続の快晴であったが、夜には雨となる。湿気を含む、残暑を吹き払う風を詠んだか。
なお、「蕉翁句集」の詞書には「北海の磯づたひ、まさごはこがれて火のごとく、水は涌て湯よりもあつし。旅懐心をいたましむ。秋の空いくかに成ぬともおぼえず。」とあり、奈呉ノ浦あたりの景色ととらえ、金沢に入る前の「途中唫」とする見方もある。
その他、真蹟懐紙に「『めにはさやかに』といひけむ秋立けしき、薄・かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に替る空のながめ哀なりければ、」の前書き、真蹟画賛に「北国行脚の時、いづれの野にや侍りけむ、『あつさぞまさる』とよみ侍りしなでしこの花さへ盛過行比、萩・薄に風のわたりし力に、旅愁をなぐさめ侍るとて、」の前書きがあり、古今和歌集に載る藤原敏行の 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる や、古今和歌六帖に載る源宗于の 涼しやと草むらごとに立ちよれば あつさぞまさるとこなつの花の和歌が背景に見える。
句評「あかあかと日は難面もあきの風」
高浜虚子「俳句はかく解しかく味う」1918年
「日はつれなくも」という言葉など、これが他の人の言葉であるとあるいは厭味を感ずるかも知れないのであるが、元禄のしかも、始終そういう境遇に身を置いた芭蕉であるとすると、その言葉に権威があってしかも真実が籠っていて、その厭味は感ぜられないのである。こういう事をいうと、人によって句の価値を二、三にすると言って攻撃する人があるかも知れないが、俳句にはそういう傾は実際あるのである。一概にそうばかりとはいえないが、作者を離して俳句を考えることの出来ない場合は決して少くはないのである。
兼六園の句碑(石川県金沢市)
あかあかと日は難面もあきの風兼六園内の紅葉山の登り口に句碑が立つ。脇の立札には、「元禄二年(一六八九)芭蕉が金沢で作った句である。書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆による。」とある。
金沢の歌人であり俳人である後藤悠平句空庵雲袋が、弘化3年(1846年)に東山の観音院に建立したものを移した。揮毫は、天保の三大家に数え上げられる金沢の俳人桜井梅室。
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