https://jpn.nec.com/nua/sanpo/38/ 【芭蕉が愛した山中温泉】 より
松尾芭蕉が600里(2,400km)にわたる旅の記録を記した紀行文『おくのほそ道』は、俳諧という分野を確立した日本を代表する文学作品のひとつです。2013年5月の文学散歩で宮城県内のルートをご紹介しましたが、今回は石川県・山中温泉を歩きます。芭蕉は1689年夏、この山中温泉に8泊9日にわたって滞在しました。芭蕉はいくつもの温泉地をめぐっていますが、これほど長く滞在した温泉地は山中温泉だけです。また、『おくのほそ道』で長らく二人旅をしてきた弟子の曾良と別れた地としても重要なスポットです。
この松尾芭蕉ゆかりの地・山中温泉を一緒に歩いてくださったのは、株式会社ウイルコホールディングスの見山英雄さんです。
「山中温泉は、紅葉の時期に家族とよく来るなじみの場所ですが、訪れたことのないスポットもあり楽しみです」と見山さん。
弟子の曽良と別れた重要なスポット
最初に訪れたのは医王寺です。医王寺は、山中温泉を守護するお寺として薬師如来を奉っていることから町の人々からは「お薬師さん」と呼ばれ親しまれ、「忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師」と山中節に唄われるように、温泉街を見下ろす高台に建っています。宝物館には、松尾芭蕉が山中を訪れた際に忘れていったと伝えられている芭蕉の忘れ杖が収められています。ほかにも、国指定重要文化財の「陶製金剛童子立像」や、温泉の由来を伝える「山中温泉縁起絵巻絵図」があり、昔の山中温泉のにぎわう様子を住職の方が話してくれました。
写真左:温泉街を見下ろす高台に建つ医王寺 写真中央:医王寺の庭にある芭蕉の句碑 写真右:医王寺の宝物館にある芭蕉が忘れたと伝えられている杖
次に訪れたのは、山中温泉の観光拠点でもある「菊の湯」です。
芭蕉は山中の湯を、有馬・草津と並ぶ「扶桑の三名湯」とたたえ、「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」という句を詠んでいます。山中温泉の総湯「菊の湯」の名称は、芭蕉が『おくのほそ道』で詠んだこの句に由来しています。
また、この地で、これまでともに旅を続けてきた曾良が体調を崩し、芭蕉と別れます。その時の曾良の句が「行行て たふれ伏すとも 萩の原」。無念の気持ちが伝わってきます。そして芭蕉は「今日よりや 書付消さん 笠の露」と詠み、曾良との別れを惜しみました。菊の湯のわきにある足湯「笠の露」はこの句から名づけられています。
菊の湯(おんな湯)に併設されている山中温泉旅館協同組合が運営する「山中座」は、漆塗りの柱や格子戸風の壁面、蒔絵を施した格天井など、のべ1,500名からなる山中漆器職人によって造られた山中漆器の粋を集めた格調高い内装が特徴の施設です。毎週土・日と祝日には芸妓連の「山中節 四季の舞」が観賞でき、山中節の唄や芸妓の踊りなど山中伝統の芸能に親しめ、こちらも多くの観光客でにぎわっています。
写真左:山中座の館内 写真中央:足湯「笠の露」 写真右:「菊の湯(おとこ湯)」前では温泉たまごの手作り体験ができる
滞在していた宿の主人との意外な関係
東へ少し行くと「芭蕉の館」があります。芭蕉は菊の湯近くの泉屋という宿に滞在していましたが、「芭蕉の館」は、この泉屋に隣接していた「扇屋」の別荘を平成16年に再整備したもので、芭蕉ゆかりの品や山中漆器の秀品の数々が展示されています。泉屋の主人久米之助は、まだ14歳の若者でしたが、その才能と将来性を芭蕉に認められ「桃の木の 其葉ちらすな 秋の風」の一句とともに、芭蕉の俳号「桃青」の一字をもらって「桃妖」の号が贈られています。ここには、金沢から芭蕉・曾良の一行に加わった北枝が記した『山中問答』も展示されており、この問答は芭蕉の旅の様子がわかる貴重な資料となっています。
写真左:芭蕉が滞在した泉屋の主人とのエピソードが 写真中央:北枝の問いに応じて芭蕉が語った言葉を伝えているとされる『山中問答』 写真右:芭蕉の館の館長さんから説明を受ける見山さん
芭蕉の館を出たところには、曾良との別れを伝える句碑と石像がありました。
「曾良の句には芭蕉との別れを惜しむ悲しみやさみしさが伝わってきて、切ない気持ちになりました」と見山さん。
写真:芭蕉の館を出たところには、芭蕉と曾良の別れの場面を再現した石像と、そのときに詠んだ二人の句碑がある
次に、大聖寺川添いへ。草月流家元・勅使河原宏氏デザインのS字型のあやとりはしを渡り、北へ鶴仙溪の遊歩道を歩いていくと、黒谷橋のたもとに芭蕉堂があります。本日の文学散歩の終着地です。芭蕉堂は、北国行脚の折りに立ち寄り、『おくのほそ道』で山中温泉の名湯ぶりを讃えた俳聖松尾芭蕉を祀る御堂。この鶴仙溪の道から見える周辺の風景の美しさに芭蕉は「行脚の楽しみここにあり」と手をたたいて喜んだと伝えられている景勝地です。
文学散歩を終えた見山さんは「医王寺にある宝物館で、住職の方から当時の山中の様子を聴けたこと、芭蕉の忘れ杖を見られたことは貴重な体験でした。泉屋の若き主人と芭蕉との関係など、初めて知ったこともあり、今度家族と来た時には、今日知ったことを話しながら案内したいと思います」と感想を語ってくれました。
写真:渓谷美を誇る名所・鶴仙溪。こおろぎ橋から黒谷橋までのおよそ1.3kmの溪谷は遊歩道が整備されている。4月から10月まで「鶴仙渓川床」が営業しており、山中温泉出身の料理人・道場六三郎氏のレシピによるスイーツを味わうこともできる
http://park3.wakwak.com/~be-yan/basyou/yamanaka/shiryou.htm 【「奥の細道を探訪しよう」】より抜粋
芭蕉は、奥の細道の旅で、元禄2年7月27日(新暦9月10日)の午後4時半頃に、芭蕉と曽良と、金沢の俳人北枝(ほくし)の3人で、小松から山中温泉に到着し、泉屋(いずみや)に泊まりました。そして、8月5日(新暦9月18日)の昼頃に山中温泉を旅立ち、再び小松に向かいました。このときは、芭蕉と北枝の2人で、途中、那谷寺に立ち寄りました。
奥の細道では、那谷寺から山中温泉に来たようになっていますが、事実を伝える「曽良旅日記」では、山中温泉から小松に戻り、次に、大聖寺(加賀市)の全昌寺に行っています。曽良は、山中温泉で芭蕉を見送り、1人で大聖寺に向かいました。
山中温泉では8泊9日滞在していますが、その間の動向を簡単に述べます。
山中温泉で作られた俳句は、全部で5句です。
山中や 菊はたおらじ 湯のにほい
※ 『奥の細道』では、《たおらぬ》となっていますが、最初に作られた時は、 《たおらじ》で、後に検討を重ねた結果《たおらぬ》に改めたからです。
いさり火に かじかや波の 下むせび
湯の名残(なごり) 今宵は肌の 寒からむ
桃の木の その葉ちらすな 秋の風
※ この句の前書きに「桃妖に名を与えて」とあるところから、泉屋久米之助に与えたもので、久米之助は泉屋の主人であるが、当時はまだ14歳の少年であり、芭蕉から弟子の1人として認められ、桃妖の俳号をもらい、この句が生まれたのです。《桃の木》とは久米之助を指すものでしょう。
今日よりや 書付消さん 笠の露
以上の、5句が山中温泉で作られています。俳句の意味については、『芭蕉句集』に掲載されていますので省略します。
泉屋は、現在ありませんが、「芭蕉逗留泉屋の跡」と記した石柱が立っていますし、奥の細道300年記念に、町が建立した「芭蕉曽良別れの場面」(蕪村の画巻の1場面)の大きな記念碑があります。泉屋は「共同浴場」(菊の湯の名前がついています)の、ほんの前にあり、山中温泉は昭和の初期まで宿屋に内湯がなく、全てこの菊の湯に入っていました。
次に、山中温泉は奥の細道の旅の中でも、特筆すべきことは、芭蕉曽良の別離の場所であることです。江戸から数カ月も《同行二人》の2人旅をしてきたが、この地でそれが終わります。その寂しさが、有名な「今日よりや」の句として表されたのでしょう。
そして、この別れに際して作られたものがありますが、これはあまり知られていません。それは、「曽良餞翁直しの一巻」とか「燕歌仙」「山中温泉に遊ぶ三両吟」などと言われている《歌仙》です。
これは、曽良と別れることが決まって、その餞別に、芭蕉・曽良・北枝の3人で巻いたもので、山中温泉では20句できています。その後は、芭蕉・北枝の2人で最後まで巻いており、歌仙の形式である36句が残っています。
ご存じの通り、この時代は、俳句というより《俳諧》であり、発句(5・7・5)に続いて脇句(7・7)さらに第3句(5・7・5)と続き、36句、44句、50句、100句などで完成します。
その中から、発句だけが独立して《俳句》となり、世界一短い短詩型の文学にまで高められてきました。
山中温泉で詠まれた20句の内、3人の句を1つだけ紹介します。
馬かりて 燕追ひ行く 別れかな 北枝
花野に高き 岩のまがりめ 曽良
月はるる 角力に袴 踏みぬぎて 芭蕉
※ この上の句は添削前の句で、芭蕉は添削して、次のように直したほうが良いと行って添削している。(芭蕉も自分の句を添削している)
花野に高き 岩のまがりめ → 花野みだるる 山のまがりめ
月はるる 角力に袴 踏みぬぎて → 月よしと 相撲に袴 踏みぬぎて
https://blog.goo.ne.jp/jikkouhureaitai/e/50b881619d83998cb2faabe4bc931159 【河合曽良の「奥の細道随行日記」】 より
加賀市観光ボランティア大学で、講師の西島明正先生から教えていただいたことを、
先生の著書『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきながら、ご紹介しています。
1689(元禄2)年8月4日(新暦9月17日)、芭蕉が山中温泉を去る前日です。
前日の夜から降り続いた雨は、朝にはやみましたが、午前9時頃からふたたび雨模様になりました。
この頃、腹痛が激しくなった曽良は、芭蕉の足を引っ張るのを心配して、一足先に伊勢に旅立つ決意をしたようです。芭蕉はそのことを知り、立花北枝と三人で曽良への餞別として、歌仙を巻くことにしました。
この歌仙を収録した『やまなかしう』には、他にはあまり見られない芭蕉の評語や添削の跡が残されていて、芭蕉を研究する上で、大変貴重なものになっているそうです。芭蕉の山中での足跡ってとっても大切なのですね。
さて、河合曽良(1649~1710年、蕉門十哲の一人)という人は、深川芭蕉庵の近くに住んでいて、芭蕉のお気に入りの弟子だったようです。曽良は誠実で几帳面な性格だったようで、江戸にいる時から芭蕉の身の回りの世話をしていました。そして「奥の細道」の旅における芭蕉の秘書的役割をこなしています。
「奥の細道」は紀行文といわれるもので、物語をスムーズに進めるために日にちが前後しているところがあったり、現実にあったことをやや飛躍させるフィクションが書かれていたりします。
そこで、芭蕉を研究される方々は、曽良の綴った旅日記「奥の細道随行日記」と呼ばれる手控えを参考にし、史実を明らかにするのだそうです。この日記が発見されたのは、意外と新しく昭和18年のことです。
この日記により、奥州行脚における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉の動静がわかったり、『おくのほそ道』と比較することによって、芭蕉の制作意識を探求することができます。
じつは、「奥の細道」と曽良の日記とでは、江戸深川をスタートした日にちから違っているそうです。
「奥の細道」では3月20日となっていますが、曽良の日記では3月27日になっています。
さて、どちらが本当なのでしょうか?
0コメント