https://kaganet.com/%E7%AC%AC38%E5%9B%9E%E3%80%80%E5%B8%AB%E5%BC%9F%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%86/ 【第38回 師弟に思う】 より
産経新聞 話の肖像画 作家五木寛之「親鸞と現代」インタビュー記事の中で、長編小説「親鸞 激動編」で生涯の師となる浄土宗開祖法然の教えを吸収しながらも、それを乗り越えようともがく親鸞。そして現代に繋がる「下山の思想」へと内容は深いものがあります。
能・狂言、歌舞伎、落語、書道、華道、茶道、陶芸などすべての伝統工芸や芸術には師弟関係が存在する。そして師匠を超えていかなければその世界では名を残すことはできない。
松尾芭蕉の蕉門十哲の中の一人に立花北史が入っている。そして支考は加賀の千代女の師匠である。立花北史は加賀小松に生まれ、のち金沢に住み兄の牧童と共に刀剣の研師であった。奥の細道で金沢を訪れた芭蕉に入門。越前松岡まで同行した。
芭蕉の教えを記録した「山中問答」がある。加賀の千代女と越前三国湊の長谷川歌川女と交流があった。(立花北史、加賀千代女、長谷川歌川女については別の機会に書く予定です。)芭蕉を師として、蕪村、一茶の存在感が更に大きくなっている。
俳句結社誌「古志」主宰の長谷川 櫂さんは、俳句を始めるにあたって一番大事なことは師を選ぶことであると述べている。長谷川櫂さんは飴山 實を師として習うこととした。
飴山實=昭和元年、石川県小松市生まれ。京都大学で発酵醸造学を専攻。小松の家業が醤油醸造家。山口大学教授「酢」の世界的権威として知られている。微生物学と俳句の世界の繋がりである。
寺田寅彦、中谷宇吉郎共に科学者でありそして随筆家であったことを考えれば、飴山實が俳人であることは何ら不思議なことではない。
「よもすがら 田村をさらふ 桜守」 飴山 實
「天地を わが宿として 桜かな」 長谷川 櫂
https://textview.jp/post/hobby/13846 【弟子から師匠への本当の恩返しとは】 より
淡路仁茂九段(左)と久保利明九段(右)。撮影:河井邦彦
久保利明(くぼ・としあき)九段は4歳のときに淡路仁茂(あわじ・ひとしげ)九段に19枚落ちで指導対局を受けた。弟子入りしてからも「君は本当に将棋の才能がなかった」とよく言われたという。しかし、努力と師匠の教えで久保九段はプロになり、タイトルも獲得した。その感謝をどう表すべきなのか。師匠への本当の恩返しとはどのようなものであるべきなのか。久保九段は考える。
* * *
プロになった私は1局だけ師匠と公式戦で指したことがある。いわゆる師弟戦なのだが、一般的には弟子が師匠に勝つとその対局を見た師匠が「弟子も強くなったなぁ」と感慨深げになり、それを師匠への恩返しと言うもので、実際私も俗に言う恩返しは果たせた。しかし私はこれはもう昔のことなのかなと思う。やはり師匠だって勝負師、勝負に負けるというのはうれしいものではないと思う。実際私も弟子が2人いるが、プロになってこの2人と対戦が決まっても当然全力で勝ちに行くし、負けたら「強くなったな」という思いもあるだろうが、やはり悔しいという思いのほうが先にくるように思う。では師匠への恩返しという意味としては何になるのかと言うと、私は2つの意味があると考える。と言うと聞こえはいいのだが、これは青野照市九段の『勝負の視点』という著書に書かれていた。その中で「弟子が師匠に勝つことで師匠に対して恩返しを果たしたというのは少し違うのではないか」ということが書かれていた。
では本来の恩返しとは何かと言うと、「ただ1つ恩返しという言葉が使えるとしたら、師匠が到達し得なかった地位に自分が到達し、その晴れの席で、自分がここまで来れたのは全て師匠のおかげですと言うことだけだと思う」ということが書かれてあった。
私はなるほど、確かにそうだと思った。将棋界の師弟関係は、私も将棋は数多く教えてもらったが、無償で育ててもらったし、当然私も弟子との関係は無償である(ただ、師匠に教わったほど弟子に将棋を教えてあげられてはいないが…)。
で、私には幸運にもそのチャンスが回ってきた。タイトルを獲得し、大阪での就位式の席でスピーチをするときに先に書いたような話と師匠へのお礼を壇上からすることが出来たのだ。おっちょこちょいでさんざんご迷惑ばかりかけてきたので、少しばかりは恩返しが出来たのかなと思う。この文章を書きながら、またそういうスピーチをするために精進しなければという思いがますます強くなった。
2つ目の意味はと言うと、これは師匠から直接聞いた言葉で、「師匠への恩返しは、その弟子が弟子を取ってプロを誕生させることが本当の恩返しなんだ」とよく言われた。これは私にとって、阪田三吉名人・王将から始まる一門の系譜を自分で止めてはならないということだと思う。先の名著『勝負の視点』にも、「先輩から無償で受け継いだものは後輩に無償で返せ」が芹沢博文九段の口癖であったと書かれてあった。
確かこの話をよく師匠から聞くようになったのは30歳を越えたあたりからだったろうか。「そろそろいい年なんだからそういったことも考えなさい」ということだったのかなと思う。そちらでの師匠への恩返しはまだ当分先になりそうだが、2つ目の恩返しも実現出来たらなと願っている。
https://www.courage-sapuri.jp/backnumber/1323/ 【「健全な師弟関係」について思うこと】 より
今、『身体知 身体が教えてくれること』(著:内田樹、三砂ちづる)という本を読んでいます。
この本のメインのメッセージは、「目に見えないし、説明ができないけれども、”お産”を通じて、全く違う世界観を得ることができる」といった、ある種、ちょっと神秘的な話が語られています。(今日お伝えすることとは何ら関係がないのですが(汗))
その中で、「武道の師弟関係」について語られており、考えさせられてしまいました。
ということで今日は、師弟関係”というテーマで、思うことについて皆様にご共有させていただきたいと思います。
テーマは、「“健全な師弟関係”について思うこと」。
それでは、どうぞ。
■「師弟関係」とは、不思議なものです。
師匠は、始めは何も出来ない弟子を教えます。
師匠は弟子に、その技、心構え、考え方、持ちうる全ての時間とエネルギーを、何も出来ない弟子に対して、贈り続ける。
それはある意味「無償の贈り物」であり、物質的な見返りはありません。
(会社の上司・部下でなく、先輩・後輩という関係も、 もしかしたらそうかもしれませんね。)
先輩は、出来ない後輩を育てるために、そこに評価など無くとも、相手に、多大な時間とエネルギーを使ったりする、そんなイメージでしょうか。
■では、なぜそのようなことを、師匠は腰を据えてできるのだろうか?
それを考えたとき、想像できるのは、
・可能性ある若者が成長する喜びを間近で見ること
・教え育てる喜びを感じること
という、”教える方にも相応のメリットがある”こと、では、ある程度想像ができることでしょう。
すなわち、物質的なものではなくとも、弟子の成長を喜び、師としての成長実感など、何かしらの「Win」を得られるのではないか、そのように感じます。
■とすると、「師弟関係」というのは、ある種、”Win-Winの関係”で成り立っているのであり、そう考えた場合、お互いのWinにできるだけ貢献し続けることが、双方の幸せにとって、重要なことになるのでしょう。
だからこそ、師匠はできるだけ、「弟子によりよい成長を促すための工夫」のように、”弟子のWin”に貢献することが、より師匠にとってプラスになるでしょうし、弟子は弟子で、「自らが、師匠の想いにもっと応えるための著しい成長」を目指すことが、”師匠のWin”に対して、恩を報いる活動になるのでしょう。
■こんな風に、”お互いのWin”のために、などと言ってしまうと、何となく「無機質なもの」に感じるかもしれません。
でも、目に見えない関係でも、無償の奉仕精神に根ざした行為でも、やはり、それぞれが、
”それらの活動によって得られるもの、得たいもの”というものが、あるように思います。
本当に世の中が聖人君子ばかりであれば、純粋な奉仕精神だけで保たれるかもしれません。
しかしながら、師弟関係であれ、先輩後輩の関係、上司部下の関係であれ、残念ながら、それは血縁関係のように、永遠のものではない。
そこには何かしらの、それぞれの求めること”があるのでしょう。
だからこそ、冷たい意味ではなく、そこに価値をもたらそう、という意味で、【双方のWinが何か、を考え続ける】という姿勢が大切なのだろう、そのようなことを感じた次第です。
「師弟関係」という、ある意味、無償と思われる関係に思いを馳せ、そんなことを考えた次第です。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
今日も皆様にとって素晴らしい1日になりますように。
【本日の名言】 人生は人間が共同で利用するブドウ畑です。一緒に栽培して、共に収穫するのです。ロマン・ロラン
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