ASUKA/蘇我氏の邸宅

https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga07_4.html 【蝦夷の家 】

「嶋大臣」とよばれた馬子に対して、その子蝦夷は「蘇我豊浦蝦夷臣」・「豊浦大臣」とよばれていた。これは、蝦夷が「豊浦」の地に居を構えていたためと考えられている。この豊浦を、蝦夷の母方の里である河内豊浦とする説もあり、他方、『紀氏家牒』は「馬子宿禰男蝦夷宿禰家葛城県豊浦里。故名日豊浦大臣」と伝えている。けれども『書紀』(舒明即位前紀)によれば、山背大兄皇子が叔父の蝦夷の病気を見舞うために、飛鳥に赴いた析りに豊浦寺に入っており、蝦夷の住まいが豊浦寺からさはど離れていない場所にあったことを知ることができる。蝦夷の家は、明日香村豊浦の周辺にあったものと考えてよかろう。なお、前述のように小墾田の範囲が雷丘の東方へ展開する可能性が出てきたことをうけて、小墾田宮跡の一部と推定されていた古宮土壇ちかくの苑池遺構を、蝦夷の豊浦邸のものとする意見も出されている。

 さて、朝鮮半島の情勢がにわかに緊迫の度を高めた皇極1年〈642)4月10日、蝦夷は畝傍の家に百済の王族翹剋岐(ぎょうき)等を招く。翹岐は、百済義慈王の子で、この年の正月、義慈王の母親が死に、その後の貴族の抗争から日本に亡命していた。さらに10月には、朝廷における饗応につづいて、陸奥の蝦夷を自らの家に招いている。これらのことからは、大臣蝦夷の家が迎賓館としての役割を担っていたこともうかがわれよう。


https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga07_5.html 【入鹿の家】 より

蝦夷の子入鹿は、「林太郎」・「林臣」とよばれていた。これは入鹿が林臣のもとで育ったためではないかとされている。橿原市小綱(しょうご)にある入鹿神社は、この頃の入鹿の邸宅のあとと伝えられているところである。林臣は、石川朝臣と同祖伝承をもつ、蘇我氏の同族のひとつ。天武朝には朝臣の姓をあたえられる。平城京右京八条一坊から出土した「林」の墨書土器は彼らの子孫の残したものであろうか。

皇極3年(644〉11月、蝦夷と入鹿は、甘檮岡の上に家を雙(なら)べ構えた。この家が、蘇我本宗家の終焉の地となる。蝦夷の邸宅は「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の屋敷は「谷の宮門(はざまのみかど)」とよばれた。家の外には城柵をめぐらせ、門の傍らには武器庫が設けられた。門毎に水を蓄えた水槽がひとつと、木釣数十本が置かれ、火災の備えとされていた。そして、常に東国出身の兵士が武器を携えて邸宅の警護にあたっていたという。

さらに、畝傍山の東にも家を構えた。池を掘って城とし、庫を建てて矢を蓄えた。そして、常時五十人の兵士を率い護衛をさせて家を出入りした。これらの人を、健人(ちからひと)として東方(あづま)の償従者(しとべ)といった。諸氏の人々がその門に侍り、これらを名づけて祖子需者(おやこのわらわ)とよんだ。漢直(あやのあたい)らは専らふたつの家の門を警護したとされる。

飛鳥の展望台として有名な甘橿丘には、現在も「エベス谷」の地名が残る。入り組んだ西麓の地形は、まさに「谷の宮門」にふさわしいものとされてきた。これまでの居宅に比べて、甘橿丘そして畝傍山東の家をめぐる記述には、ことさら軍事的な側面が強調されている。これら二つの家と同時に、蝦夷は東漢(やまとのあや)氏の長直(ながのあたい)に命じて大升穂山(おおにほやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)をつくらせている。大丹穂山は、明日香村入谷(にゅうだに)。栢森(かやのもり)からさらに東へ入っていったところである。緊張を増す東アジア世界の中で、蘇我氏はこれらの土地に、飛鳥防衛のための砦をつぎつぎとつくっていったのだろうか。1994年、甘橿丘の東麓で小規模な発掘調査がおこなわれた。この結果明らかになった、甘橿丘の邸宅の手がかりについては、次節で詳しく述べることとしよう。

これまでみてきたように、蘇我氏の邸宅は、日常生活の場としてばかりでなく、宗教・政治、軍事・外交といったさまざまな活動の拠点であった。邸宅の営まれた範囲は、曽我川と飛鳥川にはさまれた南北約8キロメートルにおよぶが、交通の要である東西道路の横大路、阿部山田道と南北道路の下ッ道の交差点をその中に取り込んでいる。7世紀前半の大王家の宮はあたかも蘇我氏の懐の内を転々としていたかのようにさえ見える。

にもかかわらず、発掘調査によってその所在の手がかりが得られたのは、わずかに2カ所、島庄遺跡と甘橿丘東麓にすぎない。蘇我氏の居宅の解明は緒についたばかりである。


https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga07_6.html 【「乙巳の変」と甘橿丘の家】より

裸足(はだし)のまま軽皇子は戸外へ走り出た。しかし甘檮岡の空をまっ黒にくすぶらせ、夕映えを薄ずますぱかり拡がっていたのは、昨日いちにち、蘇我邸を焼き立てた猛煙の、なごりだったのである。

杉木苑子『風鐸』より

蘇我本宗家を襲ったこの突然の事件の経過をあらためて辿ってみよう。

皇極4年6月12日、皇極天皇は大極殿に出御され、お側には古人大兄皇子がひかえていた。中臣鎌子連は、蘇我入鹿の性格が疑い深く、昼夜剣を帯ぴていることを知っていたので、俳優(わざびと)に教え、入鹿をだまして剣を取り上げた。入鹿は笑って剣を腰からはずし、大極殿の中に入って座についた。蘇我倉山田石川麻呂臣は、御座の前に進み出て、三韓(みつもからひと)の上表文を読み上げた。中大兄皇子は衛門府(ゆけいのつかさ)に命じて、一斉に十二の宮門をさし固めこれを通らせないようにする。そして、中大兄は、自ら長槍をとって大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子連等は弓矢をもって皇子を守った。海犬養連勝麻呂(あまいぬかいのむらじかつまろ)に命じ、箱の中から2振りの剣を、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(かづらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に授けさせ、「ぬからずに、すばやく斬れ」といった。子麻呂らは水をかけて飯を流し込んだが、恐ろしさに喉をとおらず、もどしてしまう。

倉山田麻呂は、上表文を読み終わろうとするが、子麻呂らが出てこないため恐ろしくなり、全身に汗が流れ出してきて、声も乱れ、手も震えた。入鹿が怪しんで、「なぜ震えているのか」ととがめると、山田麻呂は、「あまりに天皇のお側近いのが畏れ多くて、不覚にも汗が流れて」とこたえた。中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢を恐れ出ていくのをためらっているのを見て、「やあ」というかけ声もろとも、子麻呂らとともに躍りだし、不意をついて剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。鷲いた入鹿は座を立とうとしたが、子麻呂が剣をふりかぶって片方の足に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落し、「嗣位(ひつぎのくらい)においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、ご推察のほどを。」と請い願った。

天皇は、大いに驚いて中大兄に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。大兄は、地に平伏して奏上し、「鞍作は王子たちをことごとく滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」といった。

天皇は立ち上がり、殿舎のなかに入られた。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田が、入鹿を斬った。この日は雨が降って、宮廷の庭はにわかにほとばしる水で溢れた。人鹿の屍は席障子(むしろしとみ)で覆われた。

中大兄は、すぐさま法興寺(飛鳥寺)に入り、砦として備えられた。諸々の皇子、諸王、諸卿大夫・臣・連・伴造・国造など皆がこれに従った。人を遣わし入鹿の屍を蝦夷に賜った。

漢直らは族党を総べて集め、甲をつけ武器を持って、蝦夷を助け軍陣を設けようとした。中大兄は、将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)を遣わし、天地開闢以来、はじめから君臣の区別があることを説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は、漢直に語って、「われらは、君太郎(入鹿)のために殺されるだろう。蝦夷大臣も今日明日のうちに殺されることは間違いない。ならば誰のためにむなしく戦って皆が刑をうけるのか」と言い終わって、剣をはずし弓を投げ捨てその場を去った。他の賊徒もまた、これにならって散りぢりに逃げてしまう。

翌13日、蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取っ出して中大兄に献上した。『藤氏家伝』によれぱ、蝦夷はその第にあって自らの命を絶つ。この日、蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることと、死を悼み悲しみ泣くことが許されている。

以上が、蘇我本宗家の滅亡をもたらした、いわゆる「乙巳(いっし)の変」の事件の経遇である。大化改新のプロローグとなったこの出来事に対して、私たちの抱いているイメージは、『多武峯縁起』絵巻に描かれた宙をさまよう入鹿の首と天をつく炎、そして飛鳥寺の傍らに立つ五輪の首塚であろうか。けれども、その実際は不明な事柄も多い。1994年の初夏、記録的な猛暑のなかでおこなわれた甘橿丘東麓の発掘調査は、「乙巳の変」の出来事と「甘橿丘の家」についてひとつの手がかりを与えてくれた。


https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga07_7.html 【甘橿丘東麓の発掘調査】より

甘橿丘に、本格的な発掘調査のメスがはいるのは、これで二度目のことである。前回は、1977年に西北麓の平吉(ひきち)遺跡で調査がおこなわれた。6世紀〜9世紀にかけての遺構が検出されているが、このときには蝦夷・入鹿邸につながる手がかりはつきとめられていない。

この年の調査地は、飛鳥橋から野口ヘ南北にぬける県道豊浦・小山田線に面した小さな谷の出口のところ。甘橿丘の東南の裾にあたる。調査が計画されたのは、飛鳥国営公園整備事業の一環として、この場所に一般登山者向けの駐車場を建設することになったためである。字名は極楽寺。道路を挟んだ正面は川原寺の裏の丘陵、谷からの視界は東北方向に開け、約500メートル先に飛鳥寺の伽藍を望むことができる。

風化が進み黄褐色となった花崗岩の岩肌の上に、鮮やかな紅色の焼け土の層が顔をのぞかせたのは、調査がはじまって15日目のことである。そのきっかけは、調査区北隅のほんのわずかな範囲であったが、焼け土の存在は、「甘橿丘の家」とのかかわりを期待させるのに十分であった。

今ではこの谷は、平担な地形を利用して、夏みかんなどの柑橘果樹を栽培しているが、7世紀の後半以降、尾根を切り崩して幾度かの埋め立てがおこなわれ、本来の地形が大きく改変されていることが、調査の結果明らかになった。焼け土の層は、谷の傾斜に沿ってこの埋め立て上の下に深くもぐっていく。その性格を突きとめるために、層の広がりを追いかけていくことになった。

埋め立て土を取り除くと、現在の地表から谷底までは約4メートル、とても立ってはいられないような急斜面が姿を現した。焼け上は、谷の北壁の斜面の全面をおおいつくし、さらに調査区の外へ尾根をつつむようにのびている。焼け上の中には、焼け焦げた建築部材・炭・草木灰・土器片・焼けた壁土などが多量に混じり込んでいた。

この焼け土の層は、谷の北側の尾根上に存在した何らかの建物が焼失し、その灰燼が投棄されたか、もしくは谷に流れ込んだためにできたものと考えられた。斜面上には真っ黒に焦げた建築部材が散在していたが、谷底には、そうした木材は少なく、むしろワラやカヤのものと思われる灰がぴっしりとつまっていた。あるいは炎に包まれた建物は、屋根からまっさかさまに谷底へ崩れ落ちて行ったのだろうか。

建物が火を受けたことは、壁土の様子からも明らかであった。本来壁土は生のまま塗られるため、土中に埋もれると溶けてしまうことが多い。建物が火を受けてはじめて、土器と同じように固くなり、壁土は地中においても姿をとどめることになる。壁土にはスサとして、切り藁が混ぜ込まれていた。スサは土壁のひぴ割れを防ぐために混ぜ入れる植物繊維のこと。法隆寺金堂や五重塔の土壁にも用いられ、現在につながる手法である。

多量に出土した土師器の中には、もともと橙色をしているものが、灰色や白色になってしまったものが多い。火を受けたために、赤みが飛んでしまったのである。

このような状況は、私たちの多くが抱く蘇我本宗家の終焉のありさまと、まさにだぶって見えるものであった。問題は、この焼け土層の年代である。甘橿丘自体が、文献に姿を現すのは、允恭4年におこなわれた盟神探湯(くがたち)の場と蘇我氏邸宅の二度にとどまるといってもよい。しかしながら、平吉遺跡の調査においても明らかになったように、この丘は長年に亘り、人々に利用されてきた。火災のあったことがわかっても、それがいつの出来事か、その年代をできるかぎり絞り込んでおくことが求められた。

飛鳥時代の土器は、大きさやつくりが、時間に応じて細かく移り変わることがわかっている。幸いこの焼け土の層からは、多量の土器が得られている。そこで、「乙巳の変」のおこった645年といちばん近い、年代のはっきりとした土器をモノサシにして比べてみることにしよう。1989年におこなわれた山田寺南門の発掘調査で、寺地の造成工事をしたときの埋め立て土と、埋められた溝の中から出土した土器がある。山田寺の造成は、『上宮聖徳法王帝説裏書』に「辛丑年に始めて地を平し」とあり、641年におこなわれたものとされている。この土器は、641年頃をさかいに、それよりはやや古いものと考えられる。はたして、甘橿丘の焼土層から出土した土器は、山田寺の下層のものにたいへん近く、それよりはやや新しい特徴をもつものであった。

直接のつながりを示す文宇を記したものや、建物の柱穴などは発見されていないが、遺跡の状況と土器から見た年代からは、この焼け土の層を蝦夷邸と何らかのかかわりのもとで結びつけてもよいように思われた。「甘橿丘の家」の手がかりがおぼろげながら見えてきたのである。

それでは、尾根の上に立っていた建物はどのようなものだったのだろうか。もう一度、『書紀』の記述をひもといてみよう。「上の宮門」「谷の宮門」とよばれた蝦夷・入鹿の家の外には、城柵を巡らせ、門の傍らには武器庫が設けられていた。常に東国出身の兵士が武器を携えでその警護にあたっていたという。丘の東南の枝尾根の上という位置から考えて、この建物は、邸宅そのものというよりも、むしろこのような城柵の一部ではなかったろうか。本宅は、やはり「エビス谷」の地名の残る甘橿丘の最高所のあたりに営まれていたのであろう。出土した多量の土器も、宮跡などで出土するものとはつくりを異にし、やや見劣りのするものが多い。城柵の警護にあたった兵士たちの残したものかもしれない。

その一方で、この建物は板張りの壁ではなく、壁土を塗った土壁を備えていた。土壁を備えた建物は、この当時まだ寺院や宮殿に限られていたのである。このようなことも、蘇我邸との関わりを示す手がかりになりはしないだろうか。

「乙巳の変」は、板蓋宮大極殿、法興寺(飛鳥寺〉そして甘橿丘の蝦夷邸という三つの場所が舞台となっている。板蓋宮や飛鳥寺で、事件そのもののあり様を埋もれた土の中から浮かび上がらせることは、出来事の性格からいっても困難であろう。甘橿丘は、その具体像に近づく唯一の場所といえる。

注意深く『書紀』の記述に目を通していくと、甘橿丘の邸宅が実際のところ、どうなってしまったのかについては、何も述べられてはいない。私たちのイメージのなかにある炎に包まれた蝦夷邸も、実は『書紀』に記されたことではないのである。むしろ、発掘調査によって建物の焼失が確認されたことで、文献に記されていない出来事がはっきりと浮かび上がってきたと言えはしないだろうか。

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