芭蕉ゆかりの地 市振

https://www.itoigawa-kanko.net/trad/basyoyukarinochi_ichiburi/ 【芭蕉ゆかりの地 市振】より

ばしょうゆかりのち いちぶり

市振ジオサイト

松尾芭蕉ゆかりの地「市振(いちぶり)」は、越後と越中の国境にあり、その名のとおり越後の第一番の「振りだし」です。

加賀前田候の参勤交代の要路であり、越中から越後親不知の西の入り口の宿駅として賑わっていました。

随所に歴史を残す、芭蕉ゆかりの地「市振」へ是非おこしください。

「芭蕉句碑」

俳人 松尾芭蕉「奥の細道」の中で唯一のロマンチックな句が刻まれています。

「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」

芭蕉句碑は、大正14年4月に糸魚川市出身の文豪 相馬御風が市振を訪れた際に建碑計画を聞き、筆をとったものです。

「芭蕉の宿 桔梗屋跡」

俳人 松尾芭蕉は、元禄2(1689)年7月12日に市振に宿をとり、上記の句を詠みました。

芭蕉が宿泊したと伝えられる桔梗屋は、大正3(1914)年3月17日の市振大火で焼失し、昔を伝える記録等は残されていません。

海道の松(糸魚川市文化財)

北陸街道の宿駅であった「市振の宿」の東入口にそびえる老松で、国道が開設(明治16年)される以前は、東方から来訪する旅人にとっては、「天下の険 親不知」の難所越えの終点地を目指す目標として旅人に親しまれてきました。

弘法様の井戸

市振の東端の道路脇に、弘法様の井戸があり、次の伝説が残されています。

あるとき、坊さんがきて水を一杯所望しました。茶屋の婆さんは、十数町離れた赤崎のチベタ(冷水)を汲んでさしあげました。これを哀れんだ坊さんが杖で三度土を突くと、こんこんと水が湧いてきたといいます。これが弘法様の井戸です。


https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/10211151 【松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で泊まった市振の関】 より

親不知(おやしらず)の難所を越えると市振(いちぶり)に着く。市振には1624年頃から北陸海道の越後国の西の玄関口として海路、陸路の両方を検閲する関所が設けられていた。

 松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で親不知・子不知の難所を渡り集落の入り口にどっしりと構えている「海道の松」を目にして、ようやく難所を通過できたことを実感している。さぞほっとしたことだろう。芭蕉が泊まった「桔梗屋」の跡を示す標識があり、家の瓦に桔梗の家紋が見えた。芭蕉は宿の隣り部屋に伊勢参りの遊女の二人ずれが泊まり、道中の同行を乞われたが断り

「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」

の句を残した。

この時代の旅人はいろいろな人と宿で出会い、同行することも多かっただろう。

市振の集落は芭蕉が訪れたころとあまり変わっていないのではないかと思うような古い町並みが残っており、弘法大師が近くに清水が湧き出さないことを知って足元の土を杖で三度突き掘り出したといういい伝えがある「弘法の井戸」もある。

市振は江戸時代の旅人の様子を想像することができる街だ。


https://www.itoigawa-kanko.net/trad/nunakawahime/ 【奴奈川姫の伝説】より

ぬなかわひめの伝説

「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」は『古事記(こじき)』や『出雲風土記(いずもふどき)』などの古代文献に登場する高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われています。

『古事記』では出雲国(今の島根県)の大国主命(おおくにぬしのみこと)が沼河比売(= ぬなかわひめ?)に求婚に来た、とあり、また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して御穂須々美(みほすすみ)命を生み、この神が美保に鎮座していると記されています。

あくまでも伝説ですが、それでも奴奈川姫を祭る神社が糸魚川・西頚城地方に多く、また、考古学的資料にも恵まれていること、さらには『万葉集(まんようしゅう)』の記述にある「沼名河の底なる玉…」との関係をみても、奴奈川姫は神秘的であり、姫にまつわる伝説がこの地方に多いのも興味深いものです。

奴奈川姫伝説その1(『西頚城郡の伝説』より)

1.奴奈川姫の遺跡

青海町黒姫山の東麓に「福来口(ふくがくち)」という大鍾乳洞がある。ここに大昔、奴奈川姫が住んでおり、機(はた)を織っては、洞穴から流れ出る川でその布をさらした。それでこの川を「布川(ぬのかわ)」という。

この福来口から二里ばかりの所に「船庭の池」がある。これは姫の船遊をされた所だという。又今井村字今村との境に「東姥(うば)が懐(ふところ)」「西姥が懐」という地がある。ここは姫を育てた乳母の住んだ所だという。

黒姫山頂には姫を祀(まつ)った石祠(いしぼこら)があり、毎年四月二十四日の祭には多勢が登山する。その際不浄な物を身につければ上られぬという。青海町字田海(とうみ)には、この石祠の拝殿、山添(やまぞえ)社がある。渇水や霖雨(りんう)の時は祈願をする。

2.奴奈川姫の産所

能生谷村大字島道(しまみち)字滝の下に、岩井口(いわいぐち)という所がある。水がこんこんと流れ出ている。人々は奴奈川姫の産所であるといっている。

3.経ヶ峰

西海村字平牛(ひらうし)の経ヶ峰には、太古には奴奈川姫の一族が住み村の形をしていた。その峰の頂には神に捧(ささ)げた金幣(きんぺい)が埋められてあり、毎夜光を放っていたので沖の漁師の標(しるし)となったという。

また、平牛の某(なにがし)が西国三十三番を巡り帰国の後、経札を三十三の塚に埋めた。これを「平牛の三十三塚」といい、この経ヶ峰は初一番だという。

4.飯塚

西海村字平牛の田圃(たんぼ)中に大きな土饅頭(まんじゅう)のように盛り上がった飯塚(いづか)の森がある。今は諏訪明神が祀られており、盆踊唄にも平牛の飯塚の森にあ 鳥とまらぬこりゃ不思議とうたわれている。この塚には次のような二つの伝説がある。

大昔この地に住まれた奴奈川姫が御使用になった食器を埋められた所であるという。

もう一説は、義経に従って此の地を通った弁慶が、畚(もっこ)に土を小山のように盛って投げつけたので出来たのである。その時もう一つ投げたが、それはどこだかわからないという。

5.宮地

能生谷村大字柵口(ませぐち)の権現(ごんげん)岳は、奴奈川姫の旧跡で、今の宮地は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の住まれた所だという伝説がある。

6.奴奈川姫の石

浦本村字鬼伏(おにぶし)の海岸と山とに、三個の質も形も同じ石がある。これを奴奈川姫の「おもちゃ石」といっている。

7.羽生の不動滝

西海村字羽生(はにゅう)の北西海小学校の裏に、不動滝がある。昔平牛の山に、奴奈川姫がおいでになり、火の玉となってこの滝に来、目を洗って眼病をなおしたという。後に或る武士が姫を祀る為に、一振の刀を埋め、不動明王を安置したという。

8.奴奈川姫の鏡

青海町の福来口(ふくがくち)に住んで居られた奴奈川姫は、出雲(いずも)族に攻められ、夜しめ川(今の姫川)を渡り大野村に、秘蔵の鏡を埋めてかくされた。

9.駒ヶ嶽(こまがたけ)

根知村字梶山(かじやま)の駒ヶ嶽は、ひし(絶壁)の所に駒に似た白い瘤(こぶ)があるから、付いた名だ。そこの鰐口(わにぐち)といふ洞穴に、昔明誓上人(みょうしょうしょうにん)が修行していたが、一跳に字根小屋(ねごや。現在は糸魚川市大字根小屋)へとび、尻をかけた所が、今井村字しりかかりという所だ。

一説。奴奈川姫が駒ヶ嶽の麓(ふもと)に居られた時、大国主命が尋ねて来た。門口に男と女の声がした。男は土地の神であった。二人は賭(かけ)をし、大国主は牛、土地の神は白い駒に乗りとんだ。土地の神は早かったが、駒は動かず石に化してしまった。それで大国主の牛が先に洞穴へついた。

又根知村字蒲池(がまいけ)の中上方(なかじょほう)に、駒の蹄(ひづめ)の跡のついている岩がある。青海町の黒姫山から、駒ヶ嶽へ大黒様が駒に乗って跳ばれたが、その岩に一寸駒の脚がかかったのだという。

10.市野々(いちのの)の地名

西海村字市野々の地名については、次のような話がある。

奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。

豪族の駒は、尚奥へ逃げ込み、遂に石になってしまった。今根知村(現在糸魚川市根知地区)字梶山の向いの黒い絶壁に、白い馬の形となっている。その山も「駒ヶ嶽」といわれるようになった。

市野々という村名も、元は「一奴奈」であったのが、「一布」となり、更に市野々と変わったのだという。

11.権現岳の地名

能生谷村字柵口の背の権現岳には、奴奈川姫に関する地名が多い。中腹に「胎内(たいない)」という岩屋がある。奴奈川姫の住んだ所で、麓の「横清水(よこしょうず)」は飲料水であった。これは奴奈川姫が杖で突いて出した清水である。その中間に「わらじのぎ」という所もある。大国主命に追われて来たのだという。

12.西山の白山様

根知村字西山(にしやま)の白山様の柱は、全部一本の欅(けやき)を引き分けて建てたものだ。

この宮の御神体は「奴奈川姫の焼飯(やきめし)」という石で、盗んで行っても、屋根を越して字蒲池へ向くと、重くなって担げないという。

この神様は山犬を嫌いだから、西山には山犬の巣くう所が無かったという。

奴奈川姫伝説その2(『天津神社並奴奈川神社』より)

西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現(ごんげん)とも云う、此(こ)の神こゝにて布を織り其(その)川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に

ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。

黒姫山の半腹に福来口(ふくがくち)と称する洞穴あり、洞口高百五十尺、横七十尺、遠く之(これ)を望めば門扉を開くに似たり、水洞中より出で流れて川となる即ち布川の水源なり、古昔奴奈川姫命の布を織りし所なり。福来口は蓋(けだ)し夫来ヶ口ならんと。

西頚城郡に姫川と云ふ川あり、糸魚川と云ふ町にあり、糸魚川はもと厭川と書きしと云ふ。之れ奴奈川姫命が今日の姫川を渡りなやませたまひてかく呼びたまひしによると。

糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。

奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。

根知谷上野村に御所と呼ぶ所あり、小高く土を盛り、四方を切石にて囲む、之れ奴奈川姫命宮居の跡なりと。

根知谷に上澤、大神堂(だいじんどう)の二ヶ所あり。上澤はもと神澤、大神堂はもと大神道と書きしが明治六年地権の際現在の如く改めしなり。いづれも大国主命と奴奈川姫命とに関係ある史跡ならんと土人云ひ伝ふ。

根知谷山口山にジンゾウ屋敷と呼ぶ所あり、之れ往昔奴奈川姫命の従者の住居せし跡にして、同谷山寺日吉神社裏山に奴奈川姫命の神剣埋めありと。

根知谷別所(べっしょ)山に牛の爪の痕(あと)の三つ刻まれある岩と、馬の足跡の一つ刻まれたる岩とあり。昔奴奈川姫命に懸想したる土地の神が大国主命の来りたまひて姫を娶(めと)らんとしたまひしを憤り、大国主命の宮居へあばれ込み、論争の結果、山の高所より跳びくらべをなし勝ちしもの姫を得ることにせんと約す。即ち土地の神は黒き青毛の駒に跨(またが)り、大国主命は牛に乗り給ひて、駒ヶ岳の絶頂に立つ。茲(ここ)に於(おい)て先づ土地の神馬に鞭をあててその絶頂より飛びしにかの馬の爪痕の残れる別所の一角に達す。次に大国主命牛をはげまして飛びたまひしに、不思議にも馬の達せしところより二三町先なる地点に達したまふ。之れ今日なほ牛の爪痕の残れる岩のあるところなり。然るに土地の神この結果を見て更に大に憤り、今一度勝敗を争はん事を求む。大国主命快く諾ひたまふ。仍て土地の神先づ憤激にまかせて、馬を飛ばせしが、天なる神の咎(とが)めやありけむ、僅(わず)かに駒ヶ岳の中腹に達せしのみにて、しかも馬毫(わずか)も動かず、そのまま石に化し了(おわ)る。今なほ駒ヶ岳の中腹に馬の形をしたる岩石ありありと見ゆ、即ち之れなり。而して此の馬、石と化してもなほ時候の変り目などには折々寝返りをなすとは今日尚ほ土俗の信ずるところなり。

姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。

長野県北安曇郡此小谷村に中又と呼ぶところあり、ここにて奴奈川姫命建御名方神奴奈川姫二柱なり。

姫川の上流姫ヶ淵の付近にコウカイ原と云ふところあり、ここにて奴奈川姫命その御子建御名方神と別れたまひしところなりと。

糸魚川の地方にては毎朝鶏鳴(けいめい)を待ちて一同起き出で屋内、門前等の掃除をなす、此は奴奈川姫の古事によりて今に替らず、これ当国中に曽(かつ)て見得ざる所なりとは越後風俗志の誌(しる)すところより。

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