https://4travel.jp/travelogue/10650512 【奥の細道を訪ねて第14回13旧北陸道の難所中の難所・親不知海岸 in 市振】 より
旅行記グループ 奥の細道を訪ねて第14回「荒海や」の名吟を生んだ親不知・市振を巡り、難所・倶利伽羅峠を越える
崖下に降りる道の入り口に「立ち入り禁止」の看板。
親不知の崖下の旧道を通れるかもしれない・・と云う一抹の願いはあっさり砕けた。
親しらず子は子の浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく 平頼盛夫人
親不知子不知の名の由来ともいわれるこの悲しい歌を芭蕉も承知であったろう。
芭蕉は奥の細道の市振の宿での章に、難所・親不知の記載が有る。
「けふは、親しらず子しらず、犬戻り、駒返しなどと云ふ、北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、・・・」
しかし親不知子不知に係わる記載は奥の細道にも曾良の日誌にもこれだけしかないようだ。
よほど天候に恵まれ、予想したよりは楽にこの難所を通過した為と思われる。
明治16年、断崖の壁を穿ち、国道(現親不知コミュニティーロード)が造成されるまでは、崖下の波打ち際を、天候や波の様子を見計らって通るしか、東の外波と西の市振を繋ぐ道はなかった。
外波には天候の回復を待つ人の為の宿が有った。
そこには”波見ばあさん”と呼ばれるような人がいて、親不知が今日は通れるかどうかを判断して呉れたらしい。
しかし親不知コミュニティーロードが造成されたお陰で、崖下の旧街道は見放され、浸食が進んでいると云う。
我々の旅の当日も波が荒く、通行不可であった。
親不知コミュニティーロードには、道脇の岩盤に、”如砥如矢(砥石の様に滑らかで、矢のように速く通れるの意)”と刻んだ碑が見える。
崖から突き出したように見える展望台の脇のブロンズ像は、日本近代登山の父と云われる、ウォルター・ウエストン。
その辺りから見通せる、今バスで通って来た、日本初の海上インターチェンジの景観が目を惹く。
海上インターチェンジの張り付く岸壁に沿って、岸壁の真下に目を移すと、親不知の旧道が真っ白の波に洗われていた。
我々は「ここまで親不知コミュニティーロード」と書かれた柱のある位置でUターンし、親不知を越えようとする母子像の建つロード入り口へ戻った。
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=44 【第35回 親不知【おやしらず】28北陸道一の難所】 より
境さかい川を渡り越中国から越後国に入った近世の北陸道は市振いちぶり、外波となみ、歌うた、青海おうみの宿駅を経て糸魚川いといがわに至る。市振から青海までは、古来北陸道一の難所として知られる親不知・子不知である。飛騨山脈の北端が断崖となって日本海になだれ落ち、親不知の三町四〇間と駒返りという地名を残す子不知五町は大波の時には通行不能であった。
古代北陸道は越中国佐味さみ駅から神済かんのわたり(現境川)を越えて越後国最初の駅であった滄海(青海)に至った。神済以東へは親不知などの断崖を避け、舟行、あるいは汀伝いをたどり、波風の荒いときには内陸の上路あげろを通る山往来が利用されたと推定され、佐味駅と滄海駅には、難所であったため他駅より三疋多い八疋の駅馬がおかれた。
近世北陸道の宿駅制は江戸時代初期に確立したが、市振―青海間には外波・歌に間宿あいのしゅくが設けられ、青海から市振への荷は歌で、市振から青海への荷は外波で継ぎ送った。加賀金沢藩前田家の参勤交代路でもあり、加賀街道とも称された。
神済とは越中国と越後国の境をなす境川の古名で、『越後名寄』堺川の項に「国堺ニテ、川ヲ越レハ越中ノ国也。船ニテ渡ル。流レ早ク、矢ヲ突斗也。(中略)常サヘ洪水ノ時ニハ甚危シ、容易ニスヘカラズ。河近クニ玉ノ木杓有。程近ク御関所有、市振ノ駅也」とある。その市振関所は市振集落の西はずれ、南には山が切立ち、北には日本海が迫る関所には恰好の地に設置された。慶長三年(一五九八)堀秀治が春日山城(現上越市)城主となった時に設け、加賀藩境番所に対したという(『西頸城郡史』)。天和三年(一六八三)の市振村検地帳によると、御番所屋敷として二五間に二四間、二反歩、遠見御番所として二三間半に九間、七畝一歩の二つが併記されている。
越中側の境番所について『越中志徴』によれば、関所を設けたのは上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いのころ、武田方へ塩が渡らぬように守ったのが起こりという。慶長一九年(一六一四)に関所が設置されたといわれ、境川を隔て東へ一千五〇〇メートルで市振関所である。現在、市振小学校にあるエノキの大木が市振関所の名残である。
市振から西に、浄土崩じょうどくずれ、親不知、子不知と北陸街道きっての難所が続く。多くの地名や伝承が残り、雄大な景観によって県指定名勝とされている。
浄土崩は親不知難所の西口にあたり戦略上の要衝である。『承久記』に「市降浄土」とあり、越中にいた朝廷軍宮崎左衛門尉定範の先手が市振浄土に屯したことがみえる。また寛正六年(一四六五)善光寺に詣でた尭恵の『善光寺紀行』に「ゆきゆきて越後国の海づら。山陰の道嶮難をしのぎ。浄土といふ所に至りぬ。(中略)爰を去てゆけば。すなはち親しらずになりぬ」とある。その親不知は波除観音・大フトコロ・波除不動・走り込み・大崩れ・避難岩などの名があり、海賊部落の伝説が残る。源平合戦のとき、京都から落ちのびてきた池大納言平頼盛の妻が子供を大波にさらわれ「親しらず子はこの浦の波まくら越路のいそのあわと消えゆく」と詠んだのが地名の由来という。
長享三年(一四八九)親不知を越えた京都相国寺の僧万里集九は『梅花無尽蔵』に「有父不知子不知之嶮難、余平生所耳而已、待波瀾之回急走過、波吼崖崩頑石欹、伝聞父子不曾知、扶桑第一嶮難地、今日初嘗摩脚皮」と記し、波を除けて海岸を通り抜けるのに足をすりむいた様子が伺える。親不知を越えると外波集落があり、承元元年(一二〇七)越後国府へ流罪となった親鸞は道中親不知の難所を越え、外波浦から船に乗ったとする説もある。集落の南東に大雲だいうん寺があり、親鸞宿泊に因む逸話が残る。市振を起点とした北陸道一の難所は、日本海に面して細長く延びる越後国の西端にふさわしい逸話と景観をもつ。
元禄二年(一六八九)七月一二日『奥の細道』の途次にある芭蕉は「越中の国一ぶりの関に到」り桔梗屋という宿に泊まった。「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」身を横たえ、新潟の遊女二人のあわれな語らいをもれ聞く。翌日同行を懇願されたが断り、「哀さしばらくやまざりけらし」として「一家に遊女もねたり萩と月」と詠んだ。
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