東松浦郡史  ㉑

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

進藤源介は相知村酒造家傳兵衛の三男にして諱を誠之といひ確齋と號す父傳兵衛は吉武法命の門人である。相知村大庄屋向平蔵・梶山村庄屋峰忠八も同門の士であって、確齋は忠八の門人なり。其の教育主義は法命の意を受け、性に遵ひ己を修め、身を敬みて人民を安んじ、太平の徳化を蒙りたる恩義を忘れず、恭敬を専らとして天帝に背かず、孝悌忠信を主本とし、人の為に謀りて為す時は忠を盡し、朋友と交る時は信を盡し、教を受けて之を行ふには、名聞功利に陥らずて誠を盡すにあり。

 塾詰めの子弟が他に止宿する時は、其の實行せし孝悌の道を録せしめて、出塾の時に是を提出せしむ、年幼にして自書出来ざるものは舎長に嘱して塾師に出さしひる法であれば、幼弱の輩と雄も信を忘れず、其の素懐を述べざるはなし。居常出入禮と敬を重んぜしむ。其の教を乞ふもの、郡中の庄屋長氏郷足軽の子弟或は降藩の子弟前後二百余人を数ふ。夜は屡々學談を試みて古今の嘉言善行を論じ、討論會を開きては實際問題を議して虚談を許さず、義理困難にして決し難きは塾師の裁決に待つ、如期して教化目に擧りて、世の稗益大なるものあるは言ふ迄もない。

 藩君水野氏より、塾の教育費扶助として歳々米拾俵を下賜せられ、小笠原侯に至りても同様にして、確齋の終身に及ぼさしむ。

 居常質素倹約を主んず、故に塾生を導くも亦乙の心を以てす。衣服は出入常に薄藍染の短禍を用ゐしめ塾中の食事三度共に焼鹽を用ゐ、数日に一回粗汁を吸はしむ、唯菜根葉菜などを混ずるに過ぎぬ。然るに確齋に一人の老親あり、塾中の食事にては粗悪なれば、分居せる二弟たる善次傳次をして、河魚泥亀の類を漁獲せしめて老父に賄ることを怠らず。老父傳兵衛は、洒落無我の資性を有す、九十九歳の壽を保ちしは、確齋兄弟の孝養厚きの功も少からざるべし。

 確齋始め畑島村庄屋に任ぜられ、其の傍に家塾を設けて諸生を教授しけるに、次第に門生増加したれば、兼職のまゝにては公職に疎遠を生ずる恐れあれば、之を辭去して、山崎村に希賢堂(集義亭ともいふ)といへる塾を開き、諸生の教育に努めしかば、郡代山中荘蔵藩域巡視の際、大に塾生に奨励を加ふ。

 偶々横竹村百姓三右衛門といへるもの同村百姓與惣兵衛の死後入夫して、先夫の子與之助と實子勇助との田地分配のことより争論を惹起し、村役にての裁断成らず、藩廳に訴へ出でしに、藩廳は三右衛門及び與之助を召喚して、之が裁決を下さんとせしも、何れが罪科に處断せんも愚策なればとて、希賢堂塾の進藤確齋に托して、教化によりて諭すに如かずとして之を確齋に図る。確齋命を奉じて二人の者を入塾せしめて、人間の大道を解き篤く訓諭を加へしに、二人のもの終に先非を悔悟するに至った、確齋この事を上聞せしに、藩侯大に喜びて二人のもの罪を問ふことなく帰村せしむ。

 確齋の家風倹素にして悋まず、清約にして能く人の貧を憫むの意探し。又常に客を愛すること切なるも凡俗の輩は近づき難し。道を論じて理に逆ふの説を為すものあれば、大に風雲叱咤を加ふるも一點の私心なく、事終れば風光霽月の様あり。

 其の友として隣津多久長門の臣深江簡齋(博学徳行の君子なり)草場佩川(古賀精里の高足)あり。其他逸事功勲の善行少からず。

 大艸銃兵衛は諱を政徳といひ、天山また晩翠と號す。幕末小笠原氏の頃唐津十人町に時習堂なる塾を開きて、郡民の學に志すものは藩士と云はず町村人の別なく之が教育に従事し、其の教を請ふもの門に集まり、男生四百七十七人、女性八人(三浦徳女(東裏町人))佐々木悦女(材木町人)脇坂福女(材木町人)吉井登濃女(水主町人)田中満知女(水主町人)吉村壽賀女(十人町人)浦田幾久女(新堀町人)内山梅女(材木町人))、の多きに達し、吉武法命以来閭塾家塾多しと雖も、政徳の時習堂を凌ぐものなく、家塾の小なるものは数人の諸生を有するものもなきにあらず。

 政徳また實用館を設けて、求玄流の炮火軍術の師範として門生を教養し、門人に鈴木弾蔵・押兼銀右衛門・伊藤忠左衛門等あり。

 秀島寛三郎、姓は藤原、諱は義剛、字は子泉、幼名を達治、通称を寛三郎と称し晩年亀一(アヤカス)と更む、鼓渓また信齋と號し、天明五年六月肥前松浦郡浦川内村に生る、家世々其の里正たり。弱冠にして父の職を継承す、其の上に仕るや恭、其の下に臨むや恵、藩君屡々金品を以て之を賞す、明治四年五月八十七歳を以て歿す。資性温厚人の善を揚ることを好み、常に云へり、人の不善を罰するは人の善を揚ぐるに如かず、上たる者人の善を揚ぐれば人競ふて善に向ふ、人善を行ふに至らば之を罰するの要なしと。乃ち郡内古今善行ある人の記傳をなして、積慶録五巻を編纂す(藩政時代の教育史料の精細唯一のもの。)。幼時確齋進藤源介の明倫塾に入り學を修め、最も易経に精通し、易経本義解四巻易説一巻を著す、且つ師説を尊信し専ら實践躬行を力め少時より老齢に至るまで始終一日の如し、又父母に事へて孝惇、母親齢九十余行歩に難む、鼓渓年六十有余、嘗で孝養を怠たることなく、自ら扶持して敢て人を煩すことなし。又平常村民に農事を奨励し、裁植培養の道を講し、農桑道利なる書拾四巻を著述す。また古記の散逸を憂ひ百方捜索して松浦記集成五巻附録四巻を編集す。平戸松浦伯爵家始祖の墳墓所在地を明にして、同家より賞賜せらる。鶴田議官其の書の發明多きを以て、編輯局に献納を慫慂す、依って其の騰寫を納付す。其の他報国志(嘉永年間米艦来航以来維新頃迄幕府と諸侯の政令変遷を録す)三十五巻、政教時談三巻稽古録四巻、家道二巻、邇言録廿七巻、弘道録一巻、五品釋義一巻、鼓渓箚記(文化元年より明治二年迄諸大家詩文、逸話、和文、和歌、俳句、自詠の詩文和歌、俳句、狂歌、随筆等)七十六巻、其の他数種の著あり。

 文政年間其の居村幕府の直轄となりしが、西国郡代鹽谷氏の命に依り家塾を居宅の邊に設け、明倫塾と称して育英の業に従事し、後嘉永安政の頃には厳木村に會輔塾を開き、萬延文久以降は五惇堂を中島村に置きて、前後其の教を受けしもの数百人に達す。歿後墓碣を建て草場船山の撰文を録す。明治二十二年に至り及門の子弟追慕の余り、紀念碑を建設し録するに岡千仭の文を以です。

 翁の如きは實に稀有の、篤學の士にして、其の文献の功績、後人をして感謝措く能はざらしむるものにて、殊に其の著松浦記集成・積慶録の如きは郡史資料の重寶であって、また第一である。吾人後學の輩の裨益開發蓋し尠からざるものありて、余が本書を録するにも其の負ふところ多大なるものがある。

 鼓渓毎歳正月十五日門人等と釋奠の儀を執行す、今安政三年正月會輔塾にて行へる式奠の様を録せん。

○神前

清酌 鏡餅 清酌

薯蕷 蘿蔔

鯛魚 香案 

〇一同盥手

洒掃拂拭  波多保教

聖像奉掲  大賀就利

進香案   白水重恒

焼香    祭主

降神    同

退香案   白水庸重

○供物進献

鏡餅     祭主

清酌     岡田大某

同      田久保友某

薯蕷     中江伊某

蘿蔔     役豊丸

鯛魚     原壽某

進香案    藤松重興

○衆一同就位

焼香     祭主

讀祝及讀姓名 保利信近

○拜

○仰

○衆一同退下

闔門      竹下源某

○少間主一

啓門      吉原勝某

焼香      祭主

告徹下     同

退香案     加茂老某

〇徹下如前序

闔門       波多松某

〇一同盥手

啓門       平岡市某

進香案      小島達某

○衆就位

焼香       祭主

辭神       同

○拜

○仰

○衆一同退下

退香案      波多保教

聖像巻納     藤松重興

○互祝賀

節令       波多保常

書記     藤松重與

司貨     保利信近

烹調     大賀就利

 ○告文

惟安政三歳、次柔兆執除、月正朔、己未、望癸酉、後生秀島義剛、敢昭告于先聖先師孔夫子、鳴呼猗與、夫子刪述六経、以垂教于萬世者、盖人之道也、若夫此道也、非得夫子、則後世亦何所據哉、伏惟夫子道冠古今、徳配天地、舟車所至、人力所通、天之所覆、地之所載、日月所照、霜露所墜、凡有血気者、莫不尊親、敢謹與諸生、以薄奠、拜於至聖、尚饗。

 其二 古代美術工藝

○鵜殿ノ窟(イハヤ)

 鵜殿ノ窟は相知村和田山にありて高大約百尺計りの砂岩より成れる一小丘の中腹にある天然の洞窟にして幅員の延長大約五六百間に達し。窟の奥行き深きものにて三間計りもあらん。窟壁に彫刻せる佛像は大小数十に達し、大なるものは丈余に達するものあり、中には神韻瓢渺たる佛體も存すれどまた後人の手に成れる如き粗造のもの存するやうである。地下和田山炭坑採炭のため、巌壁に亀裂を生じて、或は傾き、或は潰裂墜落するものありて、其の舊跡を泯滅せんとするの状なるは惜むべきことである。(墜落の釈迦座像高八尺計りなものを相知村曹洞宗妙背寺に移せるもの一躯存す。

 縁起に、延暦二十三年釋空海遣唐使藤原賀能に従って入唐し、大法器となり、平城天皇大同元年八月帰朝し、松浦郡の里に着岸し、鵜殿の霊窟に佛體三尊を刻するや、一日にして成る。時に異容の人現はれ、更に佛天の形像を加刻すること許多、誠に神変不可測なりと云ふべし。天長年中僧堂暁入宋帰朝し、殿堂を窟中に建て、鵜殿山平等寺と號し、後其の法嗣空海眞作の薬師日月光二菩薩を奉安す。鬼子岳城主松浦黨の崇敬深かりき、偶々西国○○の乱に遇ひ盡く灰燼となり、唯石の伏天を残すのみ。元亀年中松浦黨久我因幡守堂宇を再建し、佛工を選みて、薬師月光二菩薩十二神将を安置し、以て先師の志を継ぐ、今の尊像即ち是なり云々。

 著者考古學に暗し、鵜殿窟石佛が何時の頃の作なるかを知らずと雖も、縁起中の誤傳を指摘すれば、延暦二十三年空海は遣唐使藤原葛野麿に従ひて入唐せるは事實なるも、藤原賀能と云ふは

なし、或は葛野麿(カドヌマロ)の誤りか。また天長中僧堂暁入宋云々といへるも、其の時代には天延・天元・天喜・天仁・天永・天治・天承・天養・天福などの年號を見るも、天長なる年號はない。天長年代は淳和天皇の頃にして、宋の建国よりも約八十年前である、延暦二十三年(空海入唐)より天長元年迄は僅かに廿年を去るのみである、しかして空海は天長十年明くれば承和と改元し、其歳二年三月入寂して居る、然るに堂暁……後其の法嗣空海眞作の薬師……と云へるは、甚だ意を得ぬ次第である。要するに平安朝末運には、松浦黨の首領波多氏鬼子岳城に居りて、和田山と地を接する佐里は其の城下なれば、波多氏の帰依ありしは明かなる事なるが、同時に又其頃の作にはあらざるか、唯盲者の疑を存するのみ。兎もあれ、郡内唯一の石佛にして重寶なる舊跡である。

 ○国寶

 鏡村大字鏡に、曹源山惠日寺あり。同寺には形質珍稀なる銅鐘一筒を蔵せり。大正二年国寶に指定せられたるが、鐘銘に、太平六年丙寅九月阿清部(一字不明)北寺鍮鐘壹躯入重有百二十一斤棟梁僧談白とあり。其の紋様龍頭等其の類を見ず。

 太平なる年銃は我国にはない、支那にて、呉(太平元年は皇紀九一六年)、北燕(太平元年は皇紀一〇六九年)、南梁(太平元年は皇紀一一二六年)隋末楚(太平元年は皇紀一二六七年)、遼(太平元年は皇紀一六八一年)に此の年號を見る。或は朝鮮に最も接近せる遼国より、轉々して我国に傳はりしものにあらざるか。

 有浦村字有浦下なる瑞泉山東光寺に安置せる、本尊薬師如来は三尺余りの坐像にして、藤原家に属したるものならんかと云ふ、大約九百年前の作に係る古佛であって、大正二年八月二十日国寶に指定せられた。また寺境の観音堂に安置する六手観世音菩薩は、平重盛が父清盛の死後の冥福を修せんために彫ましめて、海中に投ぜしものなりと傳ふ。後、假屋湾内佛崎に於て漁夫松右衛門の網にかゝりたるを、同寺に寄進せしものなりと云ふ。

 玉島神社は玉島村にありて、秘蔵太刀壹口を有す、備前長船家助の作に成り、古社寺保存會委員子爵松平頼平の鑑定に係るものにて、大正九年国寶に指定せらる。長二尺四寸二分、幅一寸、反り一寸五厘で、刃文は乱れにして、表に棒樋下に眞の剣巻龍、裏面の棒樋下に梵字蓮座の彫物がある。銘は備作長船家助、裏面に應永二十一年二月日と刻す。

 田島神社は呼子村大字加部島にありて、縣内唯一の国幣中社なるが、大正四年五月十日宮中顧問官正二位勲一等侯爵鍋島直大奉納の太刀一口は、備中国住人吉次の銘あり、目釘穴三個、刃長二尺三寸九分、半反り七分、*(金祖 ハバキ)下より刀身中央に至る表裏鎬角(シノギ)に細き樋あり、刃文丁子乱、単*(金祖)銀無垢の逸物にて、大正九年四月十五日文部省告示第二百六十號を以て国寶と指定せられた。

 其三 産 業

○山村周平(後敬吾と改む)

 周年は山村家九代の孫にて、寛政十二年(水野侯の頃)相賀村庄屋見習となり、文政二年(小笠原侯の頃)亡父敬吾の後を継で同村の庄屋となり、職に在ること二十三年、其の間村治の効績を擧げたること少しとせず。

 元来相賀村は人口に比しては田園乏しく漁区亦狭く、殊に地形上旱害水難の患多く、藩中第一の寒村である。時に水野氏藩鎮にありしが、天災地変多く、農民苛斂に泣き為に暴民動揺したるが、相賀村民亦納租に堪へず、藩廳の刑罰を受くるものあり(手錠を嵌め倉庫に投じ、親族隣保などより租税を完納するにあらざれば其戒を解かず)庄屋山村敬吾も亦村治擧らざるの故を以て蟄居を命ぜらる(青竹責めと称へ青竹を以て門扉を鎖し藩領二百五十ケ村の戒となす)彼譴に居るの際百方村治の改善民風の興起を策立して、老躯を挺し身を以て實践して勤倹力行の風を振作せんとて、毎朝鶏鳴に起き、風雨寒暑の厭なく、村内百数十戸を巡りて早起を促すこと三ヶ年に及ぶ、村民其の精根に勘まされて勤勉の俗勃然として起り、昔日の寒村は程なく一面目を改め、其の美風は習性となりて大正の今日に及ぶ。今彼が遂行せし事柄を擧ぐれば、

 勤倹力行の方法

 一、朝早く起き各自の稼業に取り掛るべき事。

 一、朝起きたる上は衣服を着すると同様の思びを以て直ちに草鞋を穿く事。

 一、従来一日四度の食事を三皮に減食する事。

 一、風雨の時は婦女子の別なく漁具用の綱縄を綯ひ他村より買ひ入れざる事。

 一、総て仕事は出来得る限り組合を設け一同集合して互に競ひ合ひをなす事。

 一、夜分の仕事は最寄りの所に炬火を焚き一所に集合し人に負けざる様心掛くる事。

 一、衣食住とも総て質素を旨として人に目立たざる様心掛くべき事。

 一、牛馬にて物を運ぶ時は其の幾分は必ず人の肩にて供に運ぶべき事。

 一、婦女子は野山の草花並に海藻類を採取し草花は唐津城下に販ぎ海藻は山内地方に賣りて米穀と交換する事。

 一、田畑の畦畔竝に道路の側等不用の地を利用して水仙花か植ゑ附け大に繁殖に勉むる事。

    但し同花を唐津に販ぐ時は代価を一定し必ず乱賣せず賣残りは持ち帰り田畑の肥料にする事。

  右の水仙花は大正の今日益々盛に賣り出し遠く福博地方より遠きは東京地方にまで販路を拡張し村内唯一の副産となり利潤少からざるものである。

 溜地改修等

 旱害水難の患多き土地なれば、溜池の改修を行ひて藩内第一の大貯水池を築きて旱害を除き、灌漑水利の便を許る。山林原野の開墾を奨励しては耕地を増大し。又漁区狭少なれば、新に漁場の認可を得て漁区の拡張を計る。

 村民其の徳を景仰して、文政二年敬吾のために記念塔を建設し。藩廳其の治績を褒して苗字帯刀を許す。

 第八章 明治新政以後

 一、版籍奉還廃藩置縣

 徳川幕府二百六十余年の治政も、欧米諸国の開国強請のことより其終焉を迅め、慶應三年十月十五代将軍慶喜大政を奉還し、十二月王政復古の大詔が降下した。されど諸藩は依然として舊態を改むることなかりしが、明治元年姫路藩主酒井忠邦率先して版籍奉還を決行せんとせしも、要路の遮るところなりしが、二年正月薩長土肥の四藩主之が建議をなせしより、諸藩皆これに傚ひ、天皇優詔して同年六月奉還の允許あり、諸侯公卿を華族に列し、諸藩を政府の直属となし、従来の藩域に舊諸侯を以て直ちに藩知事となし、食禄を給して舊土を治めしめられた。即ち小笠原長国に子爵を授け華族に列し、唐津藩知事となし、對馬侯宗重正は厳原藩知事として舊領濱崎地方を統治せしが、郡代所に於て両郡大庄屋一統に示達を發せられたが、其の申渡に曰く。

  ○申渡

 今般御一新に付

殿様版籍奉還被遊度被仰上候處、被聞召届、去月十九日改而唐津藩知事被為蒙仰、恐悦至極之御事に候、就而者追々御沙汰之品も可有之。別而一分相慎農業専致出精候様、小前末々迄不洩様可申致候、此段申達候以上。

    明治二年已七月廿一日        郡 代

 次でまた御代官所白洲に於て、両郷大庄屋に示達せられし次第は、

 今般御一新之際莫大之御軍費は、勿論上下疲弊を極め生産富殖之道に差障より、格別御仁恤之御主意を以て、上下融通のため金札御布行に相成、則六萬石の分壹萬五千両御下げ渡相成候、依之郡中にて壹萬千両市中にて四千両正金引換被仰付候、尤去る六月行政官より御渡之御書付相渡候間、大小庄屋相見の上御趣意の趣深く相辨へ、小前末々に至迄篤と申諭、速に引替相納可申候、且近来正金拂底の趣粗々相聞候間、幾應も手数を相盡候上にも、自然不都合之次第も有之候はゞ、米高は国札を以て相納候はゞ、紙方役所に於て引換遣不申、跡半高之處は如何様にも致心配、正金取纏来る八月十五日限當役所へ無遅延相訥不申候、呉々も朝命遵奉聊麁略に心得不申様、急度此段申達候。

  明治二年己七月廿七日     代官

 かくて新藩廳の組織成立するや、政事廳には大参事に中沢泉福田時仲、權大参事に千葉新介・富田克巳、少参事に川上金右衛門、權少参事に高原惣左衛門・米渓湊等を任じ、司民局・司計局・地

壤廨(カイ)・改正權宗廨・司民代廨・紙道署・物産廨・運漕廨等の下司を督して新政を行ひ、先づ左の諸布達を發して新政に著手した。

 〇申渡

               大小庄屋共へ

 今般藩制就御改革、別紙之通役名更に改称被仰出候、此段申渡候也。

   明治三年十二月朔日        司民大属

其の申渡しの役名改称に就ては

               司民大属へ

               里正 但従前大庄屋

               與長 但従前庄屋

  今般藩制就御改革改名更に令改称候也。

     明治三年午十一月  大参事

 また里正與長一統へ對しての諭告には

 ○申渡

               里正與長共へ

 民政之儀、知事様深被遊 御憂慮、去月廿八日御内家へ御呼出御趣意被仰渡之上、御直書御渡相成候に付一同へ拜見申付候、猶自分共は乍不及職掌を盡す心得に候條、其方共茂一際致勉励御意貫徹候様、小前末々迄無洩可申諭候、此段申渡候也。

   明治三年午十二月      司民属

 新藩知事は治政の綱領を詳録して、司民大属以下の諸員に訓達して以て、良政を布き民利民福を増進せんと力めさせらる。

 ○藩知事の御直書

 司民の儀は萬民の苦楽壽夭総て相係り、最重き職掌にて残なく其道によりて其處を得させんことは、古訓に型り人情に達する人にして能し得べきか。我等不肖にして朝意を遍く此藩内に及さん事萬無覚束深恐入候、唯々いつれも心を盡して其職を探擧候半ことを頼存候外更に無他事候乍去我等日夜思念する所も亦黙止すべきにあらず、固より要領を得ず候得共、意中を、認被致候はゞ、或は補ひあらんかと條々書記見世置候也。

    明治三年午十一月     知事

              司民大属以下郷町役人共へ

   覚

一、神を敬ひ朝憲を尊ばしむる事。

一、庶民を子とするの誠ありや否を省る事

一、教養其道を得るや否を省る事。

一、法を簡にし費を省く事。

一、鰥寡廃疾の源を塞く事。

一、五倫の道によらしむる事。

一、隣伍を親ましむる事。

一、窮乏を相救はしむる事。

一、無産の者を業に就かしむる事。

一、弱年にして奉公に出るものは其家業を撰ばしむる事。

一、市井漁村に百工を起さしむる事。

一、嫁娶の時を失はしめざる事

一、療病怠らしめざる事。

一、醫師の業をはげます事。

一、徳性を磨き人才を育する事。

一、讀書習書を唱ふ事。

一、遊惰を禁じ華美を抑る事。

一、不和の事は速に解き跡に残さしめざる事。

一、禮譲の風を起さしむる事。

一、分を安じ業を楽ましむる事。

   以 上

 かやうに詳細なる訓達を發せられしと共に、大参事が司民大属に戒飭を加へたるものに、左の示達があった。

  司民大属へ

 今般御渡相成候、御直書之趣奉戴仕銘々官職中は親類知己之跡遠を不憚職掌に盡力、時々郷中附属之官員は不及申、里正・陌正・與長・陌長之輩呼立、下情休戚被及訊問、御趣意貫徹候様可被心得候也。

    明治三年午十一月          大参事

 同時にまた司民少属・同權少属・同吏生にも同意味の諭達を夫れ夫れく發したるが、叉馬渡島牧場に関する指令には。

    司民大属へ

 馬渡島牧場之儀は、石垣築造竝に駒捕等之節、多分之人夫相費郡中之不為に付、番人共始廃止申付候條、往々田畑開發島方繁榮候様可被致事、但牧馬之儀、難民共之多足相成候者共へ、差遣候様取計可被申候事。

    明治三年午十一月         大参事

 翌十二月司民大属より里正與長共へ右同様の示達を發せり。また民政改草に就き各階級に與へたる文に。

           司民正權大属へ

 今般民政改革之存意に委細は以書面申聞候、深可致盡力候也。

    明治三年午十一月        大参事

 〇申渡

                里正

                典長

                惣百姓共へ

 先般申達置候通民事之儀は、知事様深被遊御痛慮、今般郡中諸納物其外廉々別紙之通御寛免被遊候旨、御直書を以て被仰出候間、拜見申付候、各承知之通御維新以来度々之御上京御多端之折柄莫大之御入費に相成、會計始め御逼迫之處、斯迄御仁恤之程自分共始め下々迄重疊難有事に候、就ては別て職業相勤前之儀は勿論之事に候得共、兎角人情恩義に馴候得者、往々身之安きを貪るものに候間、其心の生ぜざる様、上を敬ひ友に信あるの道を盡したる事を知る古き訓へを守り、吉凶共相互に助け合、御趣意不取失様小前末々迄懇切に可申諭、尚委細之儀は少属より可申聞候、此段申渡候也。

  明治三年午十二月十四日      司民大属

 ○申渡

              一同へ

 只今大属衆被申達候而、知事様民事之儀深被思召、會計局御逼迫之御中被仰出候御仁恤之程、自分共始め末々迄誠に以て重疊難有仕合奉存候、諸納物之儀は往古よりの定にて納物代米之儀は年々置米致暮に至り*(シンニョウ官)不足取調勘定帳差出候儀も、下方にて殊の外手数相掛候を被遊御厭、又は諸品の内にて時相場不相當之品も有之、深歎かはしく被恩召、来春より御廃止被仰出、諸局廨御入用の分は時相場を以て御買上被成候と申は、實以奉恐縮難有御儀に有之、将又営繕廨御買上竹も相場にて御買入、尚御厩納飼葉も往古より無代米納の分共御廃止時相場にて御買入、其外諸中間尻抱錢差出に不及是又相當の給錢にて御雇被成、御林山番遠見番も御廃止、村割出米御差留、又竹木肴共品に寄り直に旅出御免被仰出候段、言語難盡冥加至極難有仕合、御恩澤之程幾久敷忘却不仕、諸局廨より御入用の品々注文申触次第其所有より御間缺に不相成様實體に御世話可致候、此旨小前末々迄愚味之者に至迄耳に入安き様候、深實に致勘辨、里正與長村役人より申諭、農業専丹精為致、総て身の程を知り奢ケ間敷儀不仕、假初にも賭事諸勝負事は決で不仕、何事も里正與長之沙汰を急度相守り、夢々心得違致間敷候、

此段申渡候也。

  明治三年午十二月十四日     司民少属

 ○御直書

 百姓共へ教訓竝取扱之儀は先日書付にて申達置候通、支配地之百姓共饑に凍ゆるの悩なく、銘々其住居に安堵いたさしめんと願ふ處なり。元百姓は年中暑さ寒さの厭ひなく骨折して、上へ貢物を納め公役をつとめ、老たる者幼なき者を養ひ、生業の営み暇なきは、全く上へ納め物多きと公役の繁きとに本づくと、我等深く心を痛め悩まし居る折から、朝廷より是迄辛きならはし悪き仕来りを御改めなさる御沙汰なるにつき、如何にも右の苦しみを解き遣し度候得共、思ふだけはくつろぐるを得ず、先づ左の通向後ゆるめ遣す。

一、諸役所役高柄物を品々ゆるす。

一、厩納飼葉草藁共免す。

一、諸中間村出錢を免す。

一、林山番をゆるす。

一、村速見番をゆるす。

一、竹買入は相應の価にて買遣す。

一、竹木旅出品に依てゆるす。

一、漁人共魚旅出を免す。

 右の條々此度ゆるし遣すに付、銘々田畑の作り物に心を懸け、怠りなく老たるを養ひ、幼なきを慈しみ、悩み煩ふものは憐み扶け、尚暮し向にあまりあるは親類組合を相互に救ひ、義理強くなさけ深く、人の人たる道を盡すやう教へ諭し可申候也。

    明治三年午十二月       知事

 かゝる仁恤深さ政令を發して民を愛撫せられしが、猶又大参事よりも左の如き訓達を發して奨励甚だ努めた。

 今般御改正に付、知事様、朝廷御仁恤之御趣意御奉戴被為、在里正始郷中農民共へ、別紙之通従前定額之内八ケ條、爾後被差免候、依之耕作等諸務は勿説銘々一分之行跡一際相修め、此上倹素且和順に齋家致し候様、精々教諭加可被申候也。

    明治三年十二月      大参事

  ○覚

 営繕廨納。

一、山茅  一、小麦柄   一、草藁  一、中縄  一、歯朶

一、下品苫

   運漕廨納

一、山茅  一、大中縄  一、麻苧  一、鍛冶炭  一、勝藁

一、澁柿  一、中下苫  一、薪

   御茶碗竃納

一、長尺薪   一、薪  一、上中品苫

   司計局納  軍司局納  主殿廨納  御休息納

   御搗屋訥  御茶方納

一、薪

   御厩方納

一、薪   一、竹箒  一、毛振茅

   掌隷方納

一、竹箒

 右之品々例年諸代置米申付、為納来候得共、諸代置米相廃止、品々相當之代錢を以て御買上被成候。

  御厩方納

一、飼葉草藁共

 右之品々従来無代にて為納来候處、無代米共以来相當代錢を以て御買上被成候。就ては前條の品御入用次第某局廨より注文申触候、此間其品有之所より御間缺不相成候様、實體に御世話可致侯。

一、諸中間村出錢竝藩中郷夫共、右従来尻抱錢と唱へ村方より差出来候處、今般御差免被成候、向後御内家始都て相當之給金を以て、御雇入被成候間、諸中間藩中共出入申達次第、御間缺不相成候様御世話可致候。

一、御林山番

 御林山番御廃止被成、山林番出米錢共御差免被成候、就ては御林枯枝下草等は其村方へ差遣候間、往々御林繁茂候様、里正與長共にて屹度御取締可申候、萬一不正之義有之節は當人は勿論里正與長共迄、咎方申付候間、兼で相心得可申候。但御林下草枯枝等他村より請場仕来之分は、是迄之通請場申付候間、御林繁茂之義も其受場より取締可申候。

               納所村  星賀村  相賀村

          小友村 黒鹽村 杉ノ浦村

 右之村遠見番御廃止被成候に付、遠見給米割出米差免申候、尤異船其外無據届等多分之郷夫召使候村には、其入費郡中割に申付候。

   営繕廨納

一、大中小竹

 右は従前定之直段を以て買入為納来候處・不相當に付注文次第其品有之所より、御間缺不相成候様御世話可致候。

一、竹木旅出

一、漁人共魚旅出

 右従来差留置候處、今般其場所柄其品に寄旅賣便利之儀は、其村與長へ申届け許し有之上直に旅出御差免被成候、尤旅出仕法之儀は里正與長にて仕法申談其旨可申出侯。

 右之廉々来る未年より御差免被成候間、一同不洩様可申聞候也。

   明治三年午十二月      司民大属

かやうに改革著々其の緒を開き庶民の福利尠しとせざるも、全国各藩依然として舊藩主を戴ける治世は、上下の関係情誼等幕府時代と異なることなく、従って施政困難にして一新の気分漂はず、新政の趣旨にも適せざれば、左の如き太政官達は公布せられた。

 今般藩を廃し縣を被置候に付ては、追て沙汰候迄大参事以下是迄之通事務取扱可致候事。

    明治四年辛末七月       太政官

 依りて藩知事小笠原長国は残務を伊萬里縣に引き継ぎ、東京に僊居し、永く皇室の藩屏として邦家に貢献することとなった。是に於て舊唐津藩六萬石、對馬領八千石、天領一萬石の地は松浦郡中に編し、四年九月四日佐賀・蓮地・小城・鹿島と共に伊萬里縣の管轄に属するに至った。

 嗣君長生(ナリ)、幼時恰も一庶民と異ることなき規律の下に成長し、天稟の英資と相待って學徳日に進み名望年と共に高く、筆を執れば忽ち金玉の文字を聯ねて文才の誉天下に擧り、剣を握れば好箇の武人として令名世に廣く海軍中将に昇叙す。其の徳行の崇高なるは世既に定評ありて華胄社會の第一人者である、彼の武士の典型として仰がるゝ故乃木将軍の知遇を得て、華胄教育の淵叢たる學習院幹事として、乃木院長を輔佐して同院の革正校風の振作に関預したるを以ても知るべし。遮莫

 今上陛下の御親任益々厚きを加へて、皇太子御教育係幹事宮内省出仕の要職を拜するに至り、昨春御教育所廃止と共に其の職を免ぜられ、同時に現在の宮中顧問官を拜命せられた。

  二、行政区割の変遷

明治四年七月十四日藩知事小笠原長国及び厳原藩知事宗重正(濱崎地方の對州領生)職を去り、舊藩地は九月四日伊萬里縣の一地区として管轄せられ、縣令古賀一平林友幸相次で縣治の任に就く。因て唐津町に伊萬里縣出張所を設け、五年二月所長持長傳彌赴任して、大手廣場高畑一郎宅を以て出張所充つ。

 五年五月二十九日佐賀縣に改められしが、六年十月出張所を廃止した。縣權令多久茂族・岩村通俊・岩村高俊・北島秀朝の更迭聾任となり。九年四月十一日佐賀縣を三潴縣に合併して筑後地方と治を一にせしが、五月二十四日松浦郡杵島郡を割きて長崎縣に属せしめしが、六月二十一日には藤津郡をも分割して長崎縣に併せ、八月二十一日三潴縣廃せられ、佐賀以下六郡も亦長崎縣に合するに至った。十三年五月五日松浦郡を分ちて東西南北の四郡とした。十六年五月九日佐賀縣を再興し、肥前国の内十郡を管轄し、二十九年基肄養父三根三郡を併合して三養基郡と称せしも、本縣の行政地域の廣狭には十六年以来何等の変化なく以て今日に及んだ。

 四年二月各村庄屋の称號を止めて、大里正(大庄屋)里正(庄屋)を置き。五年二月更に触元里正及び里正と改称した。六年一月郡を区に改め、更に十大区に分ち、各大区を小区とし、区に長を置き、大区に戸長小区内各村に副戸長を配し、十月副戸長の称を改めて村長とした。當時に於ける区内の行政区割の状況を表記して一覧に便しやう。

廿七大区 第一小区-村長四人。

 鳥巣、星領、廣川。天川、天野、鳥越。浦河内、廣瀬、中島、巻瀬、町切、楠、千束、田頭、湯屋、横枕。伊岐佐、黒岩。

廿七大区 第二小区-村長四人。

 相知、梶山、鷹取、長部田、本山。山崎、大野、双水、中山。大杉、石志、山本、橋本。牟田部、佐里。

廿八大区 第一小区-村長四人。

 砂子、濱崎、横田(上下)、梶原、矢作、半田。西原、原、中原、久里。夕日、柏崎、有喜(宇木)。鏡、鹽屋、満島、高島。

廿八大区 第二小区-村長七人。

 五反田、南山。仁部、瀧川、木浦。池原、馬(マ)ノ川、荒川。藤川、白木。淵ノ上、谷口、岡口。平原、柳瀬。山田、野田。

廿九大区 第一小区-村長五人。

 徳末、行合野、竹有、田中、山彦。稗田、岸山。下平野、上平野、小平野、重河内。津留、主屋、中山、板木、田代、木場。畠島、千々賀、山田、養母田(ヤブタ)。

廿九大区 第二小区-村長五人。

 和多田、大石。唐津、大島、妙見、見借。神田、竹木場、奥、唐川(タウカハ)、元廓内外、内町外。

三十大区 第一小区-村長五人。

 今村、外津、普恩寺、平尾、濱ノ浦。石室、小加倉、値賀河内、石田、假屋、大薗。名古屋、波戸、串。加唐島、小川島、加部島、松島。馬渡島、向島。

三十大区 第二小区-村長八人。

 佐志、唐房.鳩川、相賀、浦村。馬部、山道、枝去木、野中、平菖津、石原、名場越。岩野、菖蒲、加倉、八床、高野。湊、神集島。赤木、中里、鹽鶴、丸田、大友、屋形石、横野。呼子、小友、打上、構竹。

卅一大区 第一小区-村長二人。

 切木、湯野尾、曲川、赤坂、仁田野尾、坐河内(ソヽロガハチ)、小十官者、後河内、梨河内。中浦、上ケ倉、杉ノ浦、大浦、湯ノ浦、満越、爪ケ坂、井野屋、筒井。

卅一大区 第二小区-村長五人。

 大良、永田、田代、藤平、牟形、中尾、大串、八尋峯。有浦(上下)、長倉、諸浦、轟木、新田。高串、晴木(ハルキ)、梅崎、田野、新木場、寺浦。犬頭、鶴牧、納所、駄竹。入野、星賀、京泊、菖津。

八年三月区の改正を行ひて、本郡を第五大区と称し、大区に区長一名、小区に戸長一名副戸長若干名を置く。當時の区長に就任せしものは坂本経懿であった。九年五月また第三十六大区と改称した。十一年十一月廿九日郡区制改正の結果、村戸長の制を設け各村に戸長一名附属員若干名を置いた。

 唐津町は舊藩の頃には、内外町の称呼なく十五町に分れ、この十五町に大年寄四名と、各町に年寄二名組頭二名ありて萬般の町務を處理す。大年寄は郷村の大庄屋と等しく苗字帯刀を許さる。明治四年二月大年寄を改めて陌正四名とし、外に各町に陌長一名を置く。五年二月戸長二名をして町務を行はしめ、各町に総代を置いた。六年十月また改めて廓内外村長、内外町村長の二名を以て町政を處理し。八年三月前制を改めて戸長一名とし。十一年十一月内町・外町・廓内・廓外の四戸長を設けた。

 廿一年四月十七日法律第一號を以て、市町村制を布き、廿二年四月一日より之を實施せられて、郡内を一町二十村とし以て今日に及んだのである。

 本郡長官の氏名を表示すれば。

    拜命年月         官名    姓名

    明治六年         区長    坂本経懿

    同 八年         郡長    古川龍張

    同 十一年        郡長    久布白繁雄

    同  廿二年       同     松尾芳道

    同  廿五年       同     福地隆春

    同  廿六年       同     加藤海蔵

    同  廿八年       同     袖山正志

    同  卅一年       同     大野右伸

    同  卅二年       同     高畠光太郎

    同  卅三年       同     大島 信

    同  卅三年       同     廣瀬昌柔

    同  卅四年       同     巌谷忠順

    同  卅八年       同     原田守造

    同  四十一年      同     柳田 泉

    大正二年五月廿四日  同     佐藤七太郎

    同 三年十一月四日   同     酒井茂馬

    同 八年五月十二日   同     中島五十男



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