http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
五、松平氏 (延寶六年二三三八 元禄四年二三五一)
第一代 乗久
延寶六年大久保忠朝総州佐倉城に転じ、佐倉城主松平乗久唐津城主に補せらるゝや、幕府は細井金五郎、新庄與惣右衛門を遣りて命を傳ふ。七月十日午前十時和泉守乗久着到ありて當城の授受を終へ、両使も無事唐津を発足した。この時和泉守の家中一統は大手門より堂々と入城し、加賀守忠朝の家臣は西ノ門より名残惜げに三十年来の古棲を後にしつゝ、粛然として打ち立ち出でた。
乗久の先は徳川氏に出づ、将軍家康五代の祖源蔵人親忠の長子加賀守乗元、始めて参州萩生(また給生とす)の地に住しければ、世の人萩生の松平といった。乗元の曾孫和泉守と称す。親乗の曾孫に乗壽なるものあり、大阪冬・夏両陣に従ひ奮戦して首五十三級を獲て献る、寛永十五年濱松城に移封して三萬五千石を食む、天正十九年従四位下に叙し、正保二年上野国館林の城に移り六萬石を領した、承應三年正月病みて歿す。
嫡子宮内少輔乗久家を継ぎて和泉守と称し、五千石は弟乗政に分ち、自ら五萬五千石を領せしが、寛文元年閏八月三日下総佐倉城に移り六萬石を治し、延寶六年唐津に移るや、怡士郡壹萬石は此の時幕府の公料に帰し、堂元村足軽二十人も佐倉の大久保氏に赴く、されば當代は七萬三千石に減ずるに至り、その内三千石は次男源蔵好乗に分知せしめ、幕府への奉公民治のことにも怠りなかりしが、入国より九年目の貞享三年七月十七日卒去し、法名を源正院前泉洲刺史太誉英徳大居士といふ
第二代 乗春
同年九月嫡子主水乗春江戸にあらしが、家封を襲ぎて和泉守と改称す。同四年和泉守乗春入国せしが、五月二十四日濱崎村にて暫時休息して、古格に習ひて領分の大小庄屋を引見し、同夜は鏡村に一泊して翌二十五日威儀を正して入城を終へた。越えて六月十九日大小庄屋を城中に引接して、民治上の奨諭をなす。この時また古例に従ひて各村より鳥目壹貫文づゝの献上をなし、平山村鑓の柄師、推ノ峰焼物師も右同様の献品をなせり。治藩の任に就きしより僅に四年にして、元禄三年九月(また五月とす)長逝す、法名を愛光院殿前泉州快誉廓白撒心大居士と云ふ。
第三代 乗邑
嫡子源次郎乗邑封を襲ぎたるも、終に當城には入部のことなくして、同四年二月志摩国鳥羽城に移封の命に接し、寶暦七年伊勢国亀山に、享保二年山城国淀に、同八年下総佐倉に再び転封し、同十五年老中職として功あり、一萬石の加賜を受けしが、延享二年即ち九代将軍家重の時、収賄のことありたりとの讒言に遭ひ、職を免ぜられ一萬石を削らる。後出羽山形に移り六萬石を食む。公は人となり器局宏量よく衆を容る、故に将軍家の寵任厚かつた。嘗て年十五歳の時柳営に浅野長矩吉良義央の刃傷のことありし時、乗邑も亦営中にありしが、事起るに及て諸侯紛擾して席を去りしが、乗邑一人座を離れず衆を制して曰く、諸君何をか為す、譜代諸侯の出仕は斯る非常の時に備ふるのである、速に席に就て其の筋の命を待つべしと泰然自若たるものがあった。以て其の器度を知るに足らん。乗邑また和歌を善くす。明和元年其の子乗祐参河西尾に移り、子孫相継ぎて明治に及び子爵を授けらる。
六 土井氏(元禄四年二三五一 寶暦十二年二四二二)
第一代 利益
松平氏志州鳥羽に行き、鳥羽城主土井氏之に更りて當藩治に臨む。土井周防守源利益は遠江守利隆の二男にして、大炊頭利重が弟である。寛文二年冬徒五位下周防守に任じた。然るに宗家帯刀利久(利重の子)早世して嗣なく、家運断絶しけるを、祖父利勝が奉公恪勤の勲功顕著なるを以て、幕府特に利益に多くの地を加賜して延寶二年彼をして宗家を継襲せしめ、下総国古河の城主七萬石を知行せしめしが、天和元年二月二十五日志州鳥羽に移り、同三年春御奏者に任ぜられ、元禄四年二月九日唐津城に転じた。其の入国は同年仲秋の候にして、八月八日は先例によりで鏡村に一泊し、翌九日無事入城を終へ、寶永五年十二月十八日従四位下に叙せられ、闔藩無事泰平の徳澤に浴せしが、入国後二十三年にして正徳三年閏五月二十五日、壽六十四を以て卒す、法名を諦然院殿従四位下前防州廓誉高岸徳雄居士と云ふ。
第二代 利実
大炊頭利実は利益の長子なり、元禄十三年十一月十五日初めて五代将軍綱吉に謁す、寛永九年叙爵して出雲守に任じ、後大炊頭と改む。父君亡後の年七月十二日遺領を賜はりたれば、翌正徳四年江戸を発して、四月二十七日入部、鏡村に一泊し、翌日入城の儀行はれ、序で領内の大小庄屋引見の儀また先格に準據した。公の治世中、享保十七年西国四国九州一圓に亘りて水田害蟲の災害甚しく、殊に當藩は其の惨害他の比に非ずして、飢饉追りて蒼生餓死するもの甚だ多かりしは遺憾のことである。元文元年(紀元二三九六)には鏡神社の一千年祭典を挙げて敬神の誠意を表せり。嫡男従五位下出雲守利武、享保十八年二十歳を以て早世したれば、一族備前守利清が嫡子辨之助利延を養ひて嗣ぎとなす。利実は元久元年十一月二十六日江戸の邸に卒す、法名を寶眞院殿前大倉令穏蓮社明誉勇仁崇和居士といふ。
第三代 利延
大炊頭利延は、元文元年養父利実病歿しければ、同十二月十七日本多中務大輔の邸にて家督継襲の命を受く。翌二年正月初て将軍吉宗に謁して襲封の礼辞を述ぶ。十二月十六日従五位下に叙し大炊頭と称した。三年四月十八日行装を盛にし威儀を整へ藩国に入る、寛保三年四月二十一日利延参府して吉宗将軍に謁す。翌延享元年正月江戸表より急使ありたれば、家老土井蔵之丞は二十一日唐津を発し江府に赴く。君公の用務も果てたれば、之に随伴して帰国の途に上り、大阪よりは海路に就いたが、蔵之丞播州高砂浦にて急病に仆れ、四月八日同地の正定寺に葬る。その月十八日利延公は無事帰城ありたるも、間もなく公も亦二豎の侵すところとなり、不幸にも二十五歳を一期として七月十八日(?)易簀せり。
墓所は唐津村大字神田なる丁田河畔の御山と云へる小丘上にある。墓碑は塔身高八尺五寸、面幅三尺七寸側幅三尺五寸、最上の臺石は厚二尺一寸、幅は七尺四寸に六尺九寸、下者は厚二尺一寸、幅二間一尺に二間四寸なり三石を以て畳む。碑材は鬼塚村大字和多田小字崎石より採りしものにして、延享元年即ち易簀の年より同四年六月十五日迄に成就せるものである。
碑面に故唐津城主土井源公之墓と、刻し、左側に、諦了院殿前大倉令眞譽寂照湛然居士の法號と、延享元甲子年七月十六日とす(藩翰譜には前文の如く延享元年七月十八日とせり)碑の他側より背面に亘りて左の銘がある。
公諱利延、源姓、土井氏、故古河城主従四位下行侍従兼大炊頭土井利勝之玄孫也、父備前守土井利勝、母土井氏、享保癸卯十一月十七日、生于武蔵江戸、元文丙辰十一月、為肥前唐津城主大炊頭従五位下士井利実之後尋、叙従五位下、任大炊頭、延享甲子七月十六日以病卒、享年二十有二(前文二十五歳とするは藩翰譜に拠りしものなるが享保癸卯の生ならあば二十二歳を以て正となす)、葬于唐津城西南神田之岡、公従幼特異温恭仁怒、言不苟、行必勤、好学信道、孜孜自強、常以安臣民為志、而未遂早世、天如仮之年、其徳業不可量焉、鳴吁命哉。於是、嗣君、欲建碑表墓銘其徳以顕於後命之臣、正義臣文字之陋、不足述其状、而以、侍講之久眷恩之厚、且今日君命之重、不能敬辞、揮涙竊謹録其徳美之一二、且系之以銘、其銘日、鳴吁惟公、天姿温温、廉静寡欲、荘敬常存、好学信道、納諫求言、在家孝友、親黨無恕、待臣仁恕、撫民厚敦、天如仮年、庶興斯文、何耶降病、禍此国君、黎民哀慕、遺徳更薫、今銘茲石、自致慇懃、過者稽首、仰此令聞。
延享元年甲子八月 日 唐津家臣稲葉正義謹撰
大炊頭従五位下 土井利里 建
第四代 利里
一 藩治の状況
利延の卒するや、弟左門利里立ちて世嗣となる、寛保三年春はじめて将軍吉宗に謁す、利延卒去の年九月二十三日遺領を賜ひ、叙爵して大炊頭に任ず、翌二年四月朔日入部ありしが、こゝに領民にて歓迎のことに就きてゆゝしき紛議が起った。當時領内の庄屋惣百姓代豊前国小倉まで出で迎をなせしが、其の折町人にも同様の沙汰があった、然るに町人には乗物大小等の許容ありたるに、惣百姓代大庄屋は脇差のみにして、殊に又徒歩にて出迎すべき旨達せられたれば、百姓末々のものに至るまで挙りて痛く其の処置に不満を抱き、先格を崩潰して従来の慣習を無視するの甚しきを憤慨し、闔藩恰も鼎の沸くが如く喧々*(器の中に目?)々たり。當時町人よりの出迎人は兵庫屋・網屋の両名である。
さて百姓代庄屋よりは、従前の格例の如くなるべきやう強制したるも、君公の入部までは願ひの趣き聴き届け難しとて、遂に其の要求は容れられなかつた。かくて愈々入城の儀も済みたるも、其の後何等の沙汰とてなければ、領内の百姓悉く不平勃々殺気横溢し、町人より先づ謁見の儀などあらんか、以後は町方とは一切諸品売買を断ち一大非買同盟を行はん、且つ又先格の如く百姓を重んずるにあらざれば、惣百姓挙りて他国に移住すべき旨評議を定め、ここに闔藩全く暗雲に鎖され風雲愈々急を告ぐ。隣藩佐賀領主鍋島氏は形勢甚だ不穏の状を見て日々藩境に警備の士を派して変に備へ、次で一隊の士を當藩内廣瀬(今の厳木村内)長巌寺へ屯せしめて、事落着せざる間は帰藩せざる旨宣明した。巌木村大庄屋よりは逐一當城に報告に及びしゆゑ、藩主も斯くの如く内難を醸して、他藩の干渉を見るに至りしを恥ぢて、百姓等の請ひに任せて、其の待遇謁見の次第全く前例に準據すべき旨沙汰しければ、百姓一般も大に安堵し、佐賀藩士の一隊も帰国するに至つた。四月二十六日惣百姓代大小庄屋引見の仰せ出でありしも、偶々君公微恙に罹りたれば、五月六日に延期入謁の儀を行ひ鳥目一貫文づゝを村々各組より献上のこと先例の如く、惣百姓の披露も滞りなく相終へ、同四月二十八日には小杉長兵衛を新に家老に任じ、紛議漸く鎮定するに至った。
翌三年四月二十二日領内大洪水の災害起り、大川野御茶屋も浸水し、同宿駅は水底に浸して流失家屋十六棟に及び、久里村大堤防上に三尺除の水準を増すなど、実に稀有の天災にして災害を蒙るもの夥しく、惨状の程言語に絶する計りであった。
同三年四月十日幕府の巡見使徳永兵衛・夏目藤右衛門・小笠原内匠等従者百七人を相具して濱崎村に到着し、二泊の上諸般の視察を遂げ。十二日呼子浦へ至りて二泊して藩治を検察し。十四日壹岐島へ渡りて風俗治績を視んとす、警衛歓迎の諸船として、唐津・佐賀・平戸・壹岐・筑前五ヶ国の船舶千八百六十八雙に及びしは、似て當時如何に幕府の威厳が諸藩に行はれたるかを察することが出来る。後十五年寶暦十一年幕府の巡見使神保帯刀・青山七右衛門・花房兵右衛門等上下百人の一行、四月三日濱崎村に入り、翌四日呼子浦に至り二泊のうへ、六日壹岐へ渡海せしが、其の間藩治の状況を監察せり。
翌十二年九月晦日、祖先の舊領下総国古河城に転還の命を受けしが、土井氏四代はこの土にあること七十一年の久しきに亘った。水野和泉守忠任は参州岡崎より當城に、松平周防守康福は古河より岡崎に移り。翌二月十八日利里寺社奉行を兼ね、在職七年にして明和六年八月十八日所司代に任じ、従四位下侍従に進む。安永六年八月壽五十六歳を以て卒去す。
二 土井氏の家臣
家 老 職
三千石 土井内蔵允 五百石 朝倉藤左衛門
五百石 小杉平馬 五百石 奥與太夫
五百石 胡符田孫太夫 五百石 堀九兵衛
番頭
千百右 小杉長兵衛 五百石 小谷源兵衛
用人
三百五十石 堀勘解由 三百石 青山清左衛門
三百石 岡野郷左衛門 三百石 中村茂右衛門
三百石 井上新左衛門 三百石 小宮久左衛門
三百石 関八兵衛 五百石(用人例) 長尾新五郎
二百七十石(留主居)高松三右衛門 二百七十右(奏者)平尾市十郎
二百五十石(旗奉行)吉武門麻 二百石(旗奉行)近藤紋左衛門
二百五十石(先手物頭)鷲見十郎左衛門 二百石(同)三浦次郎右衛門
二百石(先手物頭)浅賀建左衛門 二百石(同)秋田孫左衛門
三百石(同) 坂本茂作 三百石(同)大久保義左衛門
三百石(同) 堀吉左衛門 三百石(同)千賀又左衛門
二百石(同) 齊藤五郎衛門 二百石(同)長尾十左衛門
二百五十石(同)三池五兵衛 二百石(同)吉武十太夫
二百石(同) 長谷川清太夫 二百石(同)高橋杢左衛門
二百石(郡奉行)粕谷彌三兵衛 二百石(郡奉行)井伊彌五兵衛
二百石(寺社奉行)関戸政右衛門 二百石(寺社奉行)井伊清太夫
二百石(町奉行) 加藤五郎兵衛 二百石(町奉行)信田次兵衛
二百石(船奉行) 河副新兵衛 二百石(船奉行)河島治左衛門
二百石(吟味) 石黒太郎太夫 二百石(吟味)堀十郎太夫
二百石(吟味) 河副勘兵衛 二百石(使番)早川欣吾
百八十石(使番)鷹見八太夫 三百石(使番)藤懸登
二百石(使番) 宮野猶右衛門 二百石(使番) 山中儀太夫
二百石(長崎留守居)岩崎彌門 百五十石(供小姓頭)布施清兵衛
百五十石(供小姓頭)曾我孫兵衛 百石(目付) 森川萬右衛門
百石(目付) 鈴木六郎兵衛 百二十石(目付) 只見政兵衛
百二十石(目付)芹澤助左衛門 百二十石(目付) 小杉角兵衛
百二十石(目付)小杉彌右衛門 百石(作事方)岡本與治右衛門
百石(作事方) 岡本彦右衛門 百石(地力吟味役)成島住助
百石(地力吟味役)稲垣儀兵衛 百石(大納戸役) 船橋七右衛門
百九十石(大納戸役)和田藤蔵 百石(大納戸役) 服部有右衛門
百石(大納戸役)渡邊七左衛門 百石(膳番) 曲淵庄兵衛
百石(膳番) 落合猶兵衛 百石(小納戸御側衆)菊地勘左衛門
百石(小納戸御側衆)今村六兵衛 百石(小納戸御側衆)金子新内
百石(小納戸御側衆)森田久右衛門 二百石(近習御側衆)井上主膳
百石(近習御側衆)越路甚五左衛門 三百石(近習御側衆)中村又八
百石(近習御側衆)井上兎毛
三人扶持金十五両部屋住(近習御側衆)青山只八
十五人扶持(近習御側衆)米山甚左衛門
三人扶持金十五両部屋住(近習御側衆)石黒志津麻
百石(近習御側衆)小野田平四郎 百五十石(近習御側衆)堀左仲
五人扶持十五石(代官)山田藤八 五人扶持十五石(代官)宇井治太夫
五人扶持十五石(代官)齊藤庄助 五人扶持十五石(代官)武井庄太夫
五人扶持十五石(祐筆)中森唯兵衛 五人扶持十三石(祐筆)奥村忠左衛門
五人扶持十三石(祐筆) 岡野兵治
給人馬廻
三百石 中村彌次左衛門 二百石 永尾十郎兵衛
二百石 浅野庄兵衛 百五十石 石川又右衛門
百五十石 吉武団右衛門 百五十石 生郷十蔵
百五十石 河村理兵衛 百五十石(儒者)郷田忠蔵
百五十石 岡野小右衛門
以下百石宛
菅根源太左衛門 日暮七郎左衛門 市川彌右衛門 川岸惣左衛門 臼井宇平次
瀧六郎太夫 蘆澤八右衛門 出手惣左衛門 渡邊逸八 堀江九平次
早乙女又助 時田清九郎 高木善兵衛 金子甚右衛門 神谷四郎左衛門
山口金太夫 松井儀右衛門 笹川吉左衛門 大森那蔵 奥村官治
長尾新助 堀與一右衛門 丹羽治郎左衛門 柴田權兵衛 一柳造酒右衛門
廿人扶持 鈴木權兵衛 八十石 近藤久兵衛
五人扶持十五石 馬役 河野三四郎
五人扶持十五石 馬役中村小六左衛門
五人扶持十五石 鷹匠頭 桑原又兵衛
供小姓は諸士次男を用ゆ 二人扶持 金十五両
醫 師
丗人扶持銀丗枚 上田玄孝 丗人扶持銀丗枚 得能卜水
二百石十人扶持 儒者 佐井玄策 二百石十人扶持 儒醫 原尚庵
十五人扶持 小児科 戸田玄庵 廿人扶持 島本見益
廿人扶持 小島玄碩 十五人扶持 眼科 榎並養伯
十人扶持 外科 水澤順庵 十人扶持 外科 川口了春
五人扶持 針科 杉原伯山
小役御目見格
蔵方役 四人 臺所役 四人 下吟味役 三人
浦山奉行 二人 普請小奉行 二人 徒士目付 八人
水奉行 二人 米封附 二人 大船頭 二人
茶頭 二人 吹物書 二人 具足師 一人
弓師 一人 矢師 一人 刀鍛冶 一人
馬醫 一人 馬役 四人 外に下馬役 六人 徒士 十二人
名護屋番代 呼子番代 岸嶽番代 岩屋番代
七、水野氏
寶暦十三年(二四二三) 文化十四年(二四七七)
土井氏去りて水野氏之に代りて當城を鎮す。幕府は、安倍平吉・松平藤十郎・豊後国日田の代官楫斐十太夫を派遣し、岡崎城よりは拝郷源左衛門・松本仲・水野伊左衛門・高宮伊兵衛・水野藤五郎・剱持嘉兵衛・小瀧六郎(後の関口氏)其の外諸侍来會して、寶暦十三年五月十五日城廓の授受を済す。同日當町高徳寺に於て、藩中の大小庄屋、惣町年寄等残りなく召集の上、日田代官より申渡しによりて、當藩領内にて福井村・鹿家村(以上は福岡県)・淵ノ上村・谷口村・五反田村・南山村(以上は玉島村内)横田組中にて黒須田分栗木(濱崎村内)等の約壹萬石を削りて、新に幕府の公料に編入することゝなつた。是に於て當藩領は六萬石を数ふる小藩として幕末に及びしが、最初寺澤時代の二分の一足らざる藩鎮となり終つた。
第一代 忠任
一 政治振はず
水野氏は源姓にして、忠任は忠辰の嗣子である。寶暦二年三月忠辰致仕して家を其の子忠任に譲り、八月十八日三十一歳を以て世を終る。長十郎忠任は一族平十郎守満が次男である。寶暦元年十二月二十八日初て第九代家重将軍に拝謁し、従五位下織部正に任じた。同十二年九月晦日三河国岡崎より當藩に移封を命ぜられしが、公の入国以来天災多く、加之諸制度の変革行はるゝこと度々にして百姓其の堵に安んぜず、明和七年五月十三日(紀元二四三〇)には藩の鎮守神たる鏡神社回禄の災に罹り、金銀珠玉を鏤め善美を盡くしたる大社、一千年に及べる名社忽ち烏有に帰し、曩に朝鮮国王より奉納したる紺紙金沢の法華経竝に横八尺樅一丈四尺の幅物に書画ける楊柳観音、或は天国の太刀二口、正宗の太刀一口其の他二百余種の寶物を失ひたるは、藩民挙りて一は以て神意を恐れ、一は以て之を惜まざるものはなかった。
翌八年正月廿八日地方役人小川茂手木・代官松野嘉藤治は、家老職拜郷源左衛門(千五百石)・水野三郎右衛門(千五百石)へ献議しけるには、従来百姓耕種の田地の内、永川砂押水洗といひて古来無租税地数多あれば、新に之を調査して輸租地となさば一萬俵余の内帑の利を得るに至らん、また百姓共に附與せる用捨地を収めば五千俵の増益も生ずるであらうと。然るに老職之を否みて、寺澤志州の治藩以来二百年間歴代の城主何れも其の沙汰なきに、當代に至りて俄に民力を誅求せば百姓必ず変を生ぜんと、されど終に其の議行はるゝに至った。また草野地方(玉島村地方)の百姓に命じて楮三萬株を植付けしめなば後世を益せんと、其の後小川茂手木領内を巡りて、免租地・永川・砂押・水洗・平押等の地を測量し殊に永川多き村々には数日の滞在をなし、其の間百姓の耕地に出づるを許さず、また草野地方にては楮植ゑ付けのために家業に服することが出来ず、百姓怨嗟の声到る所に発せらるゝに至った。されど楮は後年玉島村地方の製紙原料となりて、大に同地方の副産を起すに至つた。
二 江川町人の溺死
同八年鏡神社は、藩公の造営によりて美々しく再建せられ、其遷宮式の余興に大阪より姉川新太郎と云へる俳優来りて歌舞伎芝居を行ひしが、郷方百姓は永川・砂押などの不平のため一人も観覧するものなく、僅かに城下のものども赴き観るに過ぎざりしが、同月十六日江川町の男女十人許り彼の芝居を観て、いと興に入りて帰りけるが、月光雲翳に匿れたる夜陰に、松浦川の曲尺手(カネノテ)と云へる浅州を徒渉りせしに、折しも満潮に會して残らず溺没しけるが、幸にも其の内女一人のみは、偶々材木町のものにて長右衛門と云へる船夫が通りかゝりしに救助されて、僅に事の顛末を明にし、江川町に急報して、翌日まで死体捜索に打ち騒ぎたるは哀れなることであった。
三 百姓虹ノ松原に集合し闔藩不穏
かやうに不吉続出せるに、同月十八日城山鳴動し、又明神社境の神木折れ終夜震動止まず、十九日には名護屋城址に怪火飛びたるなど、不思議のこと多しとて、藩君忠任は儒者藤野藤太郎をして占筮せしむるなど、安き心もなく風声鶴唳にも驚かされたのである。然るに廿日午前七時、鏡村郷足軽脇山茂左衛門より、代官所宛に一札の飛報が到達した。
以書附申上口上之覚
何者共不奉存候得共、百姓と相見え蓑・笠・袋鍋之類を荷ひ、腰には面々鎌を帯し、鏡ノ原を押通り虹ノ松原へ屯仕候、其勢七八百人と打見え候故、直に彼地へ走附何者成るかと咎候得共一向答不申、余り不審に奉存候依之御注進申上候
卯七月 脇山茂左衛門
依て當番の代官松野嘉藤治より、直に郡奉行古市四郎右衛門に右の趣申達しければ、四郎右衛門即刻登城して未だ退出もなきに、足軽一人飛ぶが如くに馳せ来りて左の一札を上った。
先刻申上候通松原へ集會の百姓共、只今押計り候処大数六七千人と見え、其外久里村の長堤或は玉島川の方より押出す其勢何程とも難斗、依之御注進申上候。
同 日
當番代官関口六郎急ぎ登城して事の次第を上申しけるに、また一人の使者馳せ参じて口上を以て申しけるは、先報の如く彼の地へ群集したる総勢最早壹萬人と察せらる、猶追々注進仕るべしとて取って返しければ、都築両右衛門・渡邊三太夫・千葉大蔵・松野嘉藤治・開口六郎・岡野笹右衛門の六代官は、同日午後二時打ち連れ登城して家老職へ事の容易ならざる旨を上達した。其の他郡中の郷浦島に以上三百余人の大小の庄屋どもより、廿日の昼過ぎより廿一日の朝迄に重波をうつて注進しけるは、
私村方の百姓共何の訳とも相知不申、夜前一夜の内に村方を引退き行方不知相成候故とくと吟味任候処、御料境虹ノ松原へ集會仕候由、依之御注進申上候
(各村の文面大同小異)
かゝりければ城中の騒擾狼狽一方ならず、水野三郎右衛門・二本松右仲・中村紋左衛門・水野小源太の四家老、両郡奉行、小河茂手木、井上仲左衛門の両地方役人、六代官其の外惣物頭一統城中に参集して評議区々議論百出す、この時家老拜郷氏は参府中である。時に郡奉行古市四郎右衛門云ひけるは、我等如きの老輩殊に愚昧のものは一として君公に奉ずることも出来ずして碌々然たりと、當時威權竝び行はるる若衆こそ其の出精の程羨望に値すれ、されどかゝる事変を惹起するも亦御奉行なるにやと、年小輩の専權を痛撃したれば一座皆色を失った。
かくて追々具申のために城下に参集せる郡中の大小庄屋等へ、各自速に松原に赴き屯集の百姓を村々に諭し帰らしむべしと代官より申渡しければ、惣庄屋ども取るものも取り敢ず、新堀より川船数十艘に打ち乗り、程なく松原へ馳せ付けゝれども、感情高潮に達せし百姓の気勢容易に鎮壓すべくも見えない。こゝに幕府の新御料地壹萬石の拾五ケ村の庄屋等も、松原の境界に詰所を設けて警備をなし、夜に入りて御料庄屋の詰所に高張二個を樹て、其上百姓共集會の場所にも思ひ思ひに、村々の印ある、提燈を立て列ね、濱崎より満島まで一里半余の松原は燈火天を焼かんとするの有様である。されば庄屋等も詮方なく空しく城下に還りて、この様を代官所に報告した。同廿日夜一時頃重ねて老臣よりの命により、穀取役人十五人、庄屋一統と共に再び松原に出で向きけるに、夜は次第に明け渡りて廿一日の朝暾東嶺に懸かった。この時穀取役人より庄屋一統に申渡しけるは、我等こゝに来れるは先づ御料庄屋へ挨拶をなし、其の上百姓一般へ篤と利害得失の説諭を為さんがためである。其の旨を百姓どもへ申聞くべしと。大庄屋一統は命を傳へんとて一揆の屯所に近づけば一揆の勢は残らず幕府の御料区域は転じたれば、幕領の庄屋一統は當藩に對して同情に堪へず、一揆の徒を藩域に退かしめんとし、穀取一同も料域に入りて、総百姓各村々に還るかまた藩域に退くかを諭すと雖も、一揆のもの共何のいらへもなさず、剰へ彼等は遅参の組々村々を詮議し、未だ到達せざる村々へは飛脚を発し督促を加へ、若し應諾せざれば大勢を催ふして焼き払ふべしと威喝しければ、遅参の輩も次第に参加し形勢益々険悪となる。この趣を穀取大庄屋より間断なく代官所に報告に及びたれば、廿一日午後二時過ぎて六代官連れ立ちて松原に至り、大庄屋両人づつを八方に分ちて、代官より惣百姓に諭告あるべしと傳達せしめ、先づ幕領の庄屋中へ一應の挨拶を終へ、それより百姓の各屯所に到りて左の諭達を高声に朗讀した。
其方共何故に罷出候哉、願之趣有之事に候はゞ願書可差出候、其上にて何分申立致、勘辨可遣候間村々へ早速可引取候。
然るに百姓より願書めきたるものを當藩領内なる杭木に貼附したれば、此の時代官より申し渡けるは、若し貼箋外に願出での筋もあらば早速に差し出すべし、また直ぐにもとあらば例の杭木にか其の他の方法によりて願出でよとて、代官は幕領より少しく隔退しければ、百姓等は例の如く無言のまゝにて、願書をかきたる一札を竹竿に挟みて杭木の邊に立て置きければ、大庄屋より彼の一札を代官に披露せしが、其の次第は
乍恐以書附奉願口上書之御事。
一、御郡中村々御高之内永川之儀、寺澤志摩守様御代より御城主様御代々極々御吟味之上永川に被仰付置候処、此度起帰り被仰付難儀至極に奉存候間、御先代之通御引方奉願候。
一、年々砂押水洗之儀是又永川同様に御引方奉願候、尤手入等仕田畑起帰り候はば、御年貢上納可仕候。
一、年々御用捨高被下置百姓相続仕難有奉存候処、當年御取上被仰付難儀至極奉存候、御慈悲之上去年之通御手當奉願上候。
一、御年貢米御蔵納之節桝廻り四方霜降之儀、御先代々之通被仰付可被下候、竝に御米俵毎に指抜米御免可被下候、先御代々之通俵毎に差戻成可被下候、近来欠米余計に相立難儀至極に奉存候。
一、百姓持高之内相立置候楮御買上被仰付撰楮にて納候儀難儀至極に奉存候間、持主勝手売に仕候様奉顧上候。
一、諸運上之儀御先代々差出来候品差上可申候、新規運上之儀は御免可被下候、且又何品に不寄御運上差上元〆仕候儀、其者共一人之勝手筋にて諸人至て難儀任候間、相止候様奉願候。
右之外何品に不寄先代大炊頭様御仕置之通奉願上候、若願御叶不被成候ては百姓共相立不申候に付奉願上候。
明和八年卯七月 御郡中惣百姓
郡方御役所様
かくて代官の一人松野嘉藤治進み出て、天地も震動せんばかりの大音声にて、其方共御上を恐れず御法度に背き大勢徒黨致候事不屈の至なり、之に依て急度仰せ付けこれあるべき筈のところ、御慈悲を以て此度は御免これ有るべきにつき、早々村々へ引き収るべしと呼はりければ、誰とも分らず大勢の中より一人笑出しければ、惣勢手を拍って一度にどっと嘲笑しけり。それより重ねて渡邊三太夫進み出で言ひけるは、其方どもかやうに集居ては我々役儀も立たざれば、皆々申し合ひ直に村方に引き還すべし、願出の筋は幾重にも申立て、よきに計らひ申べし、といと懇に申渡しければ畏りたる態に見えたりける。代官の一行は二三村も退きて彼等の様子を窺ひけれども、敢て帰還する気色さへない。夜は次第に深く屯集の惣人数は松が根を叩き、成は砂烟を蹴立て鬨を上ぐるなと凄絶の様は、夜陰と相交りて鬼神をも招来せんずる有様である。この時汀の方にあたりたる六人の代官は心細くや思ひけん、先づ松野嘉藤治は長居は無用なりとて立ち帰りたれば、他の五人の代官も続きて帰城した。
赤熱化したる百姓等は、夜更くるに随って警戒を厳にし、様々の合図の印を附する堤燈数千張を照り輝かし、警戒区内に幅三尺の道路二條を設けた、これ一は藩の探偵潜入の際捕縛に便せんため一は各村毎に組頭一人を選びて其の交渉往来に便ぜんため、一は群衆の雑用に供せんがためである。群衆の往来には印符を所持せしめて其の所属を明にせしめ、混乱を防ぎ密探を警め、また群衆の統一には規定を設け其の意を板書して示し、昼夜二回警備区内を巡覧せしめて、益々結束を固くした。
其の制に曰く、
一、無益の事に對し、上へ雑言堅く致す間敷事。
一、役人衆より引取候様被仰付候節、決て物言間敷事。
一、如何様成る儀にても同士喧嘩堅く致す間敷事。
一、屯之内へ疑敷者入込候はゞ、直に召捕懸拷問候事。
一、惣人数之内病気差起り候者有之ば、代人を立て其後村方へ可引取候事。
一、諸願不叶内は何様之難儀に成行とも、決て一人も退間敷事。
一、惣百姓之内一人にても被召捕候はゞ兼て申合候通可致事。
右箇條之趣此度相集候惣人数銘々堅相守べき者也。
かやうに周到をる手配をなせしゆゑ、進退懸引一糸乱れず、整然として訓練ある軍隊のやうである。然れども東西二里に近く南北十数町の虹林に少しも水の手なければ、さしもの群衆飲料水に窮して船にて玉島川の水を運ぶと雖も普く配分すること能はざれば、夜陰に乗じて二人のもの鏡村赤水の邊に水を汲まんとせしに、折柄鏡村郷足軽二人田水を引かんとて赤水の邊に至りしに、途中にて両者相會したれば、郷士等の思ひけるは是れ砂子村のものども、同じく田水を竊に引かんとするならんと、無手と飛びかゝりて二人を捕り押へければ、彼等は用意の竹筒を吹き鳴せば、其の声松原に達し、すは合図の音と言ふ程こそあれ、二三千人の面々獲物おつ取り鯨波を作つて押し懸けければ、二人の郷足軽は気も転倒せん計りに周章狼狽して、一人は草田に隠れ、一人は鏡山へ逃れ入りければ、群衆は長駆するは無用なりとて松原に引き揚げた。件の郷足軽は終夜山中に忍び、漸く翌廿二日午後八時頃我家に馳せ帰り、喪心の体にてあらぬことのみ口外して泣き叫ぶと云ふも、可笑しき事共であった。
さて又かく百姓の大群集を見るに至りし顛末を述べんに、去りぬる十二三日の頃誰とも分かざるもの一通の飛檄を持ちて郡中を馳せ巡り、且つ口上にて言ひけるは、事を共にせざるものは赤牛を引き懸け(放火のこと)押し寄せ踏潰すべしと、触れ歩いた、飛檄に曰く。
一、永川之事、
一、御蔵米桝之上之事、
一、指米御取被成候事、
一、御用捨御取上之事、
一、楮御買上之事、
一、諸運上之事、
其外何品に不寄御先代御仕置之通り願立候間、當月廿日明六ツ時より虹ノ濱御料境へ御出張可被成候、但村役人には堅く御沙汰御無用に候以上。
七月十二日
人々御中
右は七月十五六日までに移牒せしことなるが、和多田組・唐津組・神田組・佐志組には特に廿日の夕刻通告催促をなす、以上は城下附近のことなれば密謀漏洩の恐多ければなり。
廿二日まで形勢を観望してゐた北方組も出勢に決し、入野組・切木組・有浦組は番場ケ原に勢揃をなし、名護屋組・赤木組・今村組・打上組・馬部組は佐志村濱田松原に集合せしに、早くも代官所に密告するものありて、穀取目付等の諸役は前者を白阪の邊に後者を中山峠に扼して、松原勢に合するを阻止せんとしたれども其の甲斐なく、両勢は一旦唐津熊ノ原に會合し、城外より新堀へ出でしが其の勢千二百余人である。當時町田口・名護屋口の両門を閉鎖し三日間通交を遮断した。其の勢程なく松原に到達したれば、惣勢こゝに二萬三千余人と聞えたり。この事早くも隣藩に聞え・佐賀・福岡・平戸を始め豊前豊後の諸国よりも、形勢探訪の役人鏡村濱崎村の邊に櫛の歯を引くが如く集り百姓群が藩の境界石に貼箋せるものなどを寫し取り、又佐賀小城両藩などは新に藩境に新関を設けて堅固なる警戒をなすなど、煩累他藩にまで及びて闔藩の面目を失ふに至りしは、強ち遮民の罪のみとは云へない。さて前日百姓一統より出願の條内議一決するや、古市四郎右衛門登城し君側に伺候して、愚臣かく頭に霜を頂くに至るの間君恩を叩にし、曾て寸功もなく、剰さへかゝる騒擾を惹起せしめ、御郡中を預り奉ること一に臣が罪なり、只恐懼の外之れなしとて涙を流して言上なしければ、君公にも亦雙眼に泪を浮べ、良ありて仰せけるは、これ全く汝等の罪にあらず余が不徳の致すところである、よろしく汝等彼の地に至り穏便なる処置を行ふべしと。四郎右衛門直ちに退城して午後二時同役剱持嘉兵衛同道にて馬を虹林に急がせた。代官六人も亦之に赴き、穀取・横目・大小庄屋等も廿日以来詰め切りにて、群衆屯所とは僅に数町を隔つるのみ。この間唐津村大庄屋櫻井理平は城下との聯路のため、往来一昼夜に十五度にも及び、屯集五日間恪勤甚だ務めた。両郡奉行出向の報達するや、代官等は廿九人の大庄屋をして群集の非体あるべからざるを諭さしめければ、前日と異なり一同静粛に差し控へた。両郡奉行は三町ばかりの地にて下馬し、代官等を率いて群衆の面前に臨みて、昨日代官をして諭告せしめしに對し願書を差し出し、今猶退散せずして上意を待つものゝ如くなれば、茲に書面を以て一同に示達せん、然る上は速に各自居村に解散すべしと、次で幕領の庄屋横田太左衛門を招きて、此度不慮の騒動に種々配慮を煩す旨挨拶を終へ、直に馬首を還した、其の諭達の文に曰く。
其の方ども大勢罷出候に付願等も有之候はゞ願書可差出候、何分申立致勘辨可遣旨昨日代官より申渡候処、願書差出此度永川・起帰り用捨之儀相願候、右永川之儀は如何之訳にて引遣候、致吟味。侯へば其場所は不文明之由。起帰り之儀相願聞届たる事に候、然る所難儀至極に付引方之儀相願候、依之格別之勘辨を以本途めの高下に不拘一統五厘宛に相定、此以後増めは不致候、尤當年より三ヶ年之間は年貢令用捨可遣候、御損益に拘り候儀にては無之、右之訳にて一旦願之上相極候事に候へば、箇條多き事に付追て相尋之上にて致勘辨可遣候間、早速可引取候。
右の諭達は大庄屋より群衆に高らかに讀み聞せし後、其書連を百姓に下附して、速に解散帰村すべき旨懇々説諭すと雖も、例の無言の方策を演出して詮方もなければ、暫らく彼等の挙止を監視せしも、廿二日の日も漸く黄昏に及びたれば代官等は其の場を引き揚げた。
同夜呼子・名護屋・満島、新堀・水主町其の他浦々島々のものども残らず参集したれば、其の勢益々振ひて恰も大軍の陣営を見るの心地がする。来會者は各々簑笠に兵糧を包み、鎌・鳶口或は棍棒・熊手・竹鑓等の獲物、或は蓑中に一刀を縄に巻きて隠すもあり、形勢愈々非にして今や将に鮮血腥き修羅の巷と化せんとするの観がある。さしもの大群集なれども進退一糸乱れず、鶴翼の陣を張りて厳乎として終夜眠らず時々鬨を揚げて気勢を張り、浦々島々のものは當夜激浪躍るの中を濱崎浦に着船せしものも多かった。同夕八時頃横目二人穀取二人は大庄屋の屯所に来りて、境界石に貼附する願書の複寫は既に上聞に達したれば、今は其の貼箋を剥ぎ取り差出すべしとて、大庄屋櫻井新左衛門・兼武安左衛門・櫻井又右衛門の三人を伴ひ、同所に至りしに、又新なる貼箋あり其の文に曰く。
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