東松浦郡史 ⑪

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

  三、黒船焼討

 正保元年六月八日早天に、唐津湾頭高島と福岡藩領志摩郡姫島との間に、長五十間計りなる黒船一艘来航したる旨、所々の遠見番所より追々の報告ありければ、城主兵庫頭大に驚き天守臺に馳登り、望遠鏡を以て見察しけるに、小山の如き異国船一艘乗員凡そ四五百名と覚しく、旗幟武具を立て列ね、数十門の大砲を備へ威風海を壓するの観がある。又次で襲来せん船やあらんとて挙藩の騒擾一方でない。兵庫頭二ノ丸へ至り早速對戦の軍令を発し、船奉行池田新介・川崎伊左衛門へ浦々氷主の用意を致すべき旨相達し、猶又軍船の用意等の下知中に、大船頭・小船頭竝に船目付衆も打ち集ひ、先陣、の大将には岡田七郎右衛門、與力には並河九兵衛、配下の士には古河傳右衛門・稲田幸衛門・林又十郎等を附し、何れも大筒・弓・槍・長刀を備へて乗り出し。足軽大将には並河太左衛門、其の組士には関善左衛門・小笠原齊・古橋庄介・中島與左衛門・大竹嘉兵衛・呼子平右衛門・上月八助にして、何れも大筒・小筒を備へて船を出し後陣の堅めを為す。高鳥の警固には與力並河団右衛門部下を督して大小の筒弓などの武具を備ふ。大島には浅井小十郎竝に部下の士河崎東馬・岡原彦兵衛等にて警戒怠りなく、神集島には岡島治郎兵衛及び部下の士善崎八左衛門・笹山小東太これに備へ。濱崎浦には小林甚十郎及び配下渡邊半左街門・小野兵九郎あり。鷺ノ首・鹿家には齊藤杢左衛門等警戒をなし。深江濱には松下半之丞・澤田玄蕃及び組士之に備へ。馬渡島には酒井藤左衛門及び組士中村源八部・古川直馬等あり。加唐島には加藤清右衛門及び配下に磯貝重太夫あり。波戸ノ崎には三宅藤十郎・本郷三十郎等あり。仮尾崎には馬廻三騎足軽十五人、入野浦には馬廻三騎足軽十五人を置き。其の他黒川浦・湊浦にも之が警備に力を盡した。

 さて兵庫守には、三宅某・澤木七郎兵衛・目付国枝清左衛門・御側組足軽四組・御旗本四組都合五百八十人を率ゐて満島濱邊に出陣し。本丸御留守居には岡島治郎左衛門百十人にて警固に當り。二ノ門には並河作右衛門百六十余人にて固め。水ノ門には陰山源八郎百人。北ノ門には細井金十郎。大手門には熊澤三郎兵衛百五十余人。西ノ門には関右源二百人。名古屋口、札ノ辻には町奉行二組。埋門には柳本徳太郎五十人。西ノ濱には小笠原登之介百人。佐志濱には加藤主殿四十人。腰の曲輪には渡邊東馬百人にて各々其の守備区を厳戒した。兵庫頭の乗船は美々敷飾り立て、船奉行池田・川崎を始め大小船頭小宮官右衛門・吉田儀右衛門・船目附磯貝藤右衛門以下水主六十人にて、鳥島と洲口の中間に船かゝりをなし、配備の将卒総て五千五百人を数ふ。

 一方には飛脚を以て福岡藩に警を傳へたれば、黒田甲斐守は直に先づ黒田外記・都主馬・山内源八郎・川田齊等をして、都合五百八十人を以て九日暮方秋月を発して芥屋崎に向ひ。黒田市正は吉田六郎太夫・明石権太郎・牧甚之介等を始めとして都合六十人、九日夕方直方を発しで今津浦へ出陣し。福岡の先陣には郡正太夫・松澤源之丞・由良道可等都合七百五十人、後陣は杉山文之丞・浦野半平・原吉之丞等七百五十人の備をなし。姫島には黒田源左衛門・片田重左衛門等五百八十人。姪ノ濱には小林小十郎・金子内膳等四百五十人。箱崎には黒田監督物・山本紋右衛門等三百人。黒崎には井上三郎太夫等百人。相の島には明石友右衛門等三百廿人。地ノ島には戸田孫九郎等二百人。志賀ノ島には井上美濃守等百五十人。其の他鐘ケ崎に二百人。野北には百八十五人。蘆屋浦に百人。多々羅浦に百人。残島に百八十人何れの陣営も大筒・小筒・槍・長刀の兵具を取って、戒厳に怠りがない。福岡城留守居には黒田美作を以て當て、本丸には黒田外記、二ノ丸には三枝勘兵衛、三ノ丸には小川傳八各々守備をなし。寄手には焼草船をも設け、先陣の指揮を待つた。唐津方の先陣後陣の軍船数百艘は、九日暮陰より黒船を遠巻きして備へ。翌十日正十二時頃より黒田家の先陣二十五艘の軍船、姫島より南方へ四里計りの間に碇を下した。これ両国領域地方の出来事であれば、両藩よりの警固を見るに至ったのである。十一日には筑前方の後陣の勢数百艘の兵船を浮べて黒船の北方を扼した。さて又平戸城主松浦壹岐は千二百人にて国境を固め、防長の毛利氏は伊崎に陣を張り、豊前小笠原勢は黒崎へ軍船を浮べ、九州北海岸は勿論中国の一角まで物々しき警戒をなした。

 寺澤、黒田両家の軍船追々集り十重二十重と取り巻き、立て列ねし旗船印は天に翻り、弓・鐵砲・鎗・長刀の光は海波に映じて輝き、柴船草船数百艘は黒船の南北を擁して火攻の計をなし、総勢より時々叫ぶ鬨声は海若も慄をなさすばかりである。黒船より此の様を見て大に驚き唐津勢の方を麾き何やらん呼び叫ぶと雖も、一切聞き分け難く只管其の叫声を聞くばかりである。又団扇を以て麾きけれども、我国にては見知りをき石火矢二三十門の筒口を揃へたりければ、近づく船とては一艘たりともない。黒船(汽船ならず)も今は詮なく遁れ出でんとするも、流石に廣き海湾も船を組みて警固しければ隙間もなくして、それもなり難かりければ銅羅チャンメラ(喇叭)を打ち鳴せしが、年紀二十歳ばかりの若武者は金色の帽子に赤字の飾りある衣服を纒ひて、朱色の日傘に金銀の短冊めきたるもの数十を其の縁邊に吊し、美しく飾り立てたるものをさし翳し、随員五六十人を引き連れ船矢倉に登りて、兵庫頭が三ツ幕の紋打ちたる旗、石無地紋付きたる吹流を立てたる衆船に向ひ、何とやらん言葉をかけ頭を下げ拜しける所を、無惨にも唐津方先陣の将岡田七郎右衛門の乗船より、並河九兵衛組士佐々木兵介三十匁筒にて彼の異装の若武者を射たれば、船矢倉より眞逆様に血煙を立て落下した。彼方に控へたりし者ども驚き騒ぎければ、又も筑前勢より二三十匁筒にて撃ちかけければ、誤たず三人を射落せしが、残余の輩急ぎ船内に馳せ入りしが、両家の軍勢より大筒小筒を息をもつかで連射せしに、黒船にては銅羅チャンメラを切りに打ち叩き吹き鳴すや否や、二十四門の石火矢より地軸も砕けんばかりの轟を以て寄手を砲撃し、白煙朦々として呎尺を辨ぜず、然るに敵船は小山の如き大船なれば、砲弾は我船の帆檣旗吹流には中ると雖も、兵員船体には何等の損害とてもない。比の時寺澤黒田の両軍より柴草船数百艘に火を点し、異固船の風上より流しかけけるに、炎々たる焔は天を焦して黒船を包み、乗り組み外人は龍吐水、鯨吹波などの消火器にて之を防ぐと雖も其の甲斐なし、之に乗じて我軍よりは益々砲撃殷々として加りたりしが、彼の大船は四五百人の船員と共に渦を巻きて、高島沖の海底深く葬り去られた。時に十一日正午頃であつた。

 次で両家よりは海士を海中に入れて沈没せし外船使用の石火矢を引き上げければ、寺澤家に八門黒田家に六門を得た、猶残余の砲門を黒田家にて毛髪製の綱にて引き上げんとしたるも綱断れて用を為さず、寺繹氏亦其の砲を得んとせしも効なければ、海神死霊の怨恨にてかくやとて、或は近松寺にて死霊の法養を為し、或は佐志八幡神主に命じて祈祷などなさしめ、其の目的を遂行せんと企てしもその甲斐なかった。次で又外人亡者の供養のため、高島沖にて三日三夜近松寺住僧をして施餓鬼會を行った。當時唐津城にては十門の火砲ありて、余の二門は征韓役に加藤清正分捕せしものを傳へしといひて、形態前者よりも小なりしと。今は僅にその一門唐津公園城頭に残ってゐる。

 比の焼討の事に就きては幕府よりは何等の恩賞もなかつた。さて何国の船なるか不明なれども、島原乱後は和蘭以外の西洋船舶は渡航厳禁の時代にして、且つ其の船の動静が悠然として我が警備諸般の囲繞するも晏如として擾がざるを見れば、或は和蘭船なるべきか。又或は當時東洋にて和蘭と殖民貿易を競へる英国船の寄泊にてもあらんか、如何にや。

 さて又黒船焼討の記述は、慶安二年正月十日(紀元二三〇九)大久保加賀守家臣佐藤源八が、寺澤氏の家臣竝河太左衛門の邸宅を得て其の座敷押入内に存せしものを手寫し、原本は藩公に献ぜしといへるものゝ復寫を、更に復寫して存するものに就き(唐津町船越清太郎氏所有)略記せんものである。

   二、幕府の直轄時代

 正保四年十一月兵庫頭自殺して家門断絶しけるが、何人も所期せざることとて俄に適當の後主を得ざれは、翌慶安元年の一年間は領主封建のことなく幕府の直轄となる。當時幕府よりは、上使として津田平左衛門・齊藤左源太下向して當城に入り、目付として兼松彌五左衛門着任した。城廓の始末には、塹濠本丸や請取役として備中松山城主水谷伊予守、三ノ丸収受には豊後竹田城主内膳正其の任を命ぜられ、寺澤家の遺臣との間に無事引き渡しを終へたるが、転封などゝ違ひ家門破滅の場合なれば、悲痛惨劇の程思ふも掬涙の情に堪へざる次第である。因に伊予守は知行五萬三千石にして兵庫頭の姉聟である。

 三、大久保氏

      (慶安二年(二三〇九) 延寶六年(二三三八))

  第一代 忠職(タダモト)

一  出身経歴

 一時天領に帰したる唐津藩は、慶安二年大久保加賀守忠職播州明石城より、同じく風光明媚なる唐津に転対し来つた。抑も寺澤氏は外様大名であって太閤の恩顧によりて唐津を領したのである。然るに堅高子なくして卒しければ、茲に當藩が徳川譜第恩眷の大久保氏を戴くことになつたから、爾後譜第の臣を以て封建せらるゝの端を開くに至つた。初め徳川氏は諸侯制馭の政策上、其の家門に継嗣子なき時は、養子嗣を以て襲封することを許さなかったからである。

 忠職の先は粟田口関白藤原道兼より出づ、道兼の曾孫なる宗圓下野国に赴き、宇都宮の座主となる。其の子宗綱初めて士林に列した。宗綱の子朝綱右大将源頼朝に仕へて勲功あり、其の後雄を下野に称し、累世連綿家名を揚ぐ。其の後裔に泰藤といへるものあり、新田義貞に従ひ建武の役に戦功少からず、遂に北越に転戦し、義貞の歿するや参河に蟄れ宇津野氏と称して、岡崎附近の和田に住す。玄孫常善始め松平信光に奉仕せしより世々、親忠・長親・信忠・清康・廣忠に歴仕し、参河在住以来累世徳川氏の譜第の家臣となる(松平は家康の時より徳川と称す)。常善の曾孫忠俊始めて大久保氏と號した。忠俊の弟に忠員あり弘治・永禄の間に戦功多かりしが、其の後忠世・忠隣・忠常等の名称を経て忠職に及ぶ。

 忠職は忠常の長子なり。母は奥平信昌の女にて家康の外孫である。慶長十六年家康秀忠の二君に謁す、時に年齢僅かに八歳なりしが、父の封邑を嗣ぎ二萬石を領した。寛永三年十二月従五位下に叙し加賀守と號す、九年正月美濃国加納城を賜はつて、食禄倍加して五萬石を領するに至った。十一年三代将軍家光上洛するに當り、之を領内州ノ股に奉迎して駄餉を献じて忠勤を表し、序で公に扈従して京師に伺候す。十六年加納城より転じて播州明石城に移り、封七萬石を賜はり切りに栄進して慶安二年唐津城に移り、又禄秩を加へ総て八萬三千石を領するに至つた(松浦郡に七萬石怡土郡に一萬三千石)。

 唐津領は名護屋を包有し、曾て太閤の征韓策源の要地であって、今幕府の精選に當りて此の地を守るに至つた。爾来封内の民治に意を用ひ邊防を忽にせず、或は江戸参勤を怠ることなければ、公儀の恩眷益々悃篤を加へ、寛文七年十二月江戸にありしが、四代将軍家綱は幕下の老臣にして勤厚なるものを選び 叙位を奏請せしに、忠職亦階を進めて従四位下に昇叙せらる。翌年西蹄するに臨みて、其の累世の忠勤を賞して西海九州の鎮護職に補任し、外国不虞の変患に備へ、鎮西の国防上の大任を托せられたるが、これ世に称する所の探題職であって、公のこの大任を受くるは如何に将軍の息眷握きを知ると共に、公の材幹凡庸ならざるを窺ふことが出来る。九年公起居快からずして常に復せず、然れども江戸参府の期に及びたれば、病を力めて海陸道程の長きをも辞せずして発足し、江戸に至れば病勢彌々篤く薬餌の効験乏しかりしが、稍々快さを得たれば強て登営し臺顔を拜し其の志を遂ぐることを得たるも、終に癒ゆること能はずして、十年四月十九日城西麻布の第に易簀す、壽六十七、第の南方なる立行寺に葬り、遺骨を京師の本禅寺に蔵めた。これ変世の舊縁存するによるからである。塔を立て本源院日禅大居士と號した。

 忠職資性敦厚篤実にして浮華虚飾を悪みて身を持すること薄く、坐作進退の際にも常に上を奉戴敬虔するの念須臾も怠らず、例令遠国に在りと雖も東に向って脚を伸べず、其の意を用ふることかやうに細心であった。又家士庶民を愛撫すること子を見るが如くす、故に士民其の恩に感じて柔順職を奉じ闔藩泰平の治に浴した。其の病篤き時子女家臣に遺言して曰く、我祖常善よく信光君に仕へて以来九世に及べるが、家族廣しと雖も一人の異志あるものなし、中にも我が一派最も家門を高うするは殊恩を蒙る大なりと云ふべし、我常に君恩に報ぜんことを忘るゝことなし、汝等亦我が意を継ぎて忠義を励まば、我れ笑って泉下に赴かん、死生命あり何をか憂へんやと、公はまた曰へるに、何ぞ婦人の手に死せんやと、乃ち内子侍女を座に就かしめず。又曰く、我れ逝くの後葬送には平生の儀の如くにして、僧侶をして混ぜしむる勿れと、言畢つて遂に歿した。

  二 明暦の大火と江戸藩邸

 公の在世中即ち明暦三年(紀元二三一七)江戸大火起りて殆んど全市烏有に帰したが、江戸の藩邸も亦類焼の炎に罹りしが、其の藩邸築造用材切り出しに就きて面白き記録がある。「江戸御屋鋪も御類焼御普請御入用に付き、伊岐佐瀧上の作礼(サライ)山にて山中一番の鬼櫟(クヌギ)といふ大木を伐り、御門の冠木に相成る、長五間にて三尺四面の角、山所瀧下岩の間千人にて引き通す、其の節酒二斗樽二十挺、人足の者共へ勝手次第に給り候様にと被下候、御家老杉浦平太夫殿差図にて、伊岐佐村名頭喜左衛門と申者、釆を振り木遣りをなし舟場まで運び出し申候云々」、かやうにして建築用材なども、遙に藩地より輸送せられたのである。

  三 諸 掟

一、山林伐採のこと、百姓の住居に隣接せる山林は、加賀守時代より入用次第其の伐採自由たるべき許可があった。後に土井侯時代よりは奉行所へ願出でゝ、採伐許可書を得ざるべからざることゝなった。

一、各郷村よりの年貢中、縄・茅・薪・苧麻等の上納額は正確の規定なかりしが、當時代より石高に就きで歩率を定められ。又御馬飼料、人足扶持、日雇銀等の定めもあつた。

一、百姓所有の山林立木の調査臺帳を備へ附け、御用次第差し上ぐべきこと。

一、人夫米として各村収穫の一分五厘上納の事、こは藩士の所用のため度々百姓を使役し、百姓の不便甚しきを以て、御雇料米として差し出すべき旨百姓より願ひ出でたれば、爾後は収穫一分五厘の率にて上納すべき旨達せらる。丁度往古の庸の制度のやうである、この法規は他国にも存してゐた。

一、名頭の事、志州公は領内巡検の際に百姓一般に訓示せんとする時は、村中残らず召集して旨を達せし故、村民一般に之を不便とせしが、此時に至り爾後村々百姓中より相當の名望ある者を選みて、名頭なる役儀を設け百姓一般の代表となした、これより村々に名頭なるものが創まった。

城主入部に際し左の如き嘉例の端を開く。

一、大小庄屋引見の事、同時に各村各組より鳥目壹貫文づゝ献上のこと。

一、「焼物師は御茶碗献上のこと。

一、鑓柄師は御鑓の柄を献上すべきこと。

 四 公の墳墓と碑銘

  ○墳 墓

 公の墓所は鬼塚村字和多田の田畝の間に、周囲四五町程もあらん位の一小丘がある、頂上に老松矗々たる下に百数十坪の塋庭がある、其の中央に東面して、本源院殿前加州大守日禅大居士の碑石が鎮座す。これなん公の墳墓である、遺骨は京師に埋葬すれば、この地には遺品などを葬むらしものと思はる。石材は怡土郡片山より採取せしものにて、碑身高一丈一尺六寸、前幅四尺側幅三尺四寸五分、石笠は碑身と一体にして、厚一尺計りにて左右に半圓形を画きて両翼を垂る臺礎は三階に分れ、上者は高一尺九寸、前幅七尺五寸側幅五尺七寸、前面には霊亀他の三両には波紋を刻す。次者は高一尺一寸、前幅一丈六寸五分側幅八尺七寸にして二石を畳む。下者は数多の石を以て築き高一尺五寸、前幅一丈七尺側幅一丈五尺を有す。其の大は寺澤志摩守の碑に次ぐも、石質及び製作の美なるは歴代の碑石中の最佳なるものである。

   ○碑 名

 肥前国唐津城主中大夫大久保君碑銘

                        弘文院学士  恕 撰

 大夫姓藤原、氏大久保、諱忠職。其先出自粟田口関白右大臣道兼公、公曾孫宗圓赴下野国、為字 都宮座主。其子宗鋼始列士林、宗綱子朝綱仕右大将源頼朝、有勲労為一州之豪、累世聯綿而揚 家声。其後葉泰藤従左中将源義貞建武之役戦功不少、遂従難于北越不貳其志、義貞有事、義 助狼狽之後、泰藤蟄参河州、称宇津野氏住州之岡崎邊和田。玄孫常善幼名辰若、始拜謁松平信 光君、自是世々、歴仕親忠君・長親君・信忠君・清康君・廣忠君、常善曾孫忠俊始號犬久保氏。天文六 年廣忠君僅二歳寓居勢州、忠俊與其弟忠員及同志者四人、運籌奉迎之入岡崎城其翼戴之功為大矣、其後久奉仕東照大神宮*(尸婁)嘗難虞、攻守之勤不可枚挙其忠志之厚為国士無雙、其事顛末人々口銘、年老致仕改名常源、其族類瀰蔓皆以常源為宗依頼之。忠員亦在弘治永禄間戦功許多。其子忠世號七郎右衛門自天文至天正大小百戦、或任一隊師先登破強敵、或守要害之城以鎮一方、凡平参州併遠州拘駿河長篠之役鏖武田壮鋭、攻略甲信二州、至長久手之戦、皆無不有抜群之功、及神君領関東八州、賜相州小田原城、食禄三萬石、累世勤労之験於是顯矣。、忠世多男、其長曰忠隣、永禄五年冬、神君討一向宗邪徒駐御駕于和田、大久保群族奉迎接之、時忠隣十歳在其列、神君一顧日比兒有非常之相、可養之以令近侍、刀携之帰于岡崎城、十一年遠州二股之役、忠隣入城、獲首級、時年十六、十二年従而攻今川氏眞于遠州懸川城、叔父忠佐以矛刺敵顧忠隣曰、孺子取首、忠隣曰我何仮人之力哉、自馳別獲首級、同年天方之戦亦獲敵首、元亀元年江州姉川之役、忠隣自麾下與其同僚十二人突出進加于前鋒。各獲首級遂破朝倉軍、三年遠州三方原之役我軍不利、忠隣徒跣不離御馬傍、及獲敵馬乗之奉衛護之、天正三年諏訪原之行、途中遇敵交矛斬之、十二年長久手之役、神君率麾下親候敵軍、令曰不可妄進、然忠隣突衝入陣接戦、被疵堕馬而僅幸免焉、忠隣匪啻勇敢。兼備智量故、神君挙之、奉行参遠駿甲信五州内外諸事、於是忠世出鎮万面、忠隣入総枢機、父子威望赫然、十六年従而入洛、叙従五位下號治部大輔、後改相模守、及神君治関左、忠隣別賜封邑、忠世歿後忠隣嗣領小田原城、食禄総六萬三千石、文禄二年神君使忠隣為臺徳公之老傳、當秀吉秀次相鬩之時、神君在東、臺徳公在洛、秀次欲、招公於聚楽城以為其助、忠隣見其機、而請公早到伏見侍秀吉、其身留在洛。既而秀次使者至、忠隣應曰、我公既赴伏見、未幾秀次敗矣、慶長三年秋秀吉病篤、神君及公倶在洛、少焉秀吉薨、忠隣不請神君命、密使公乗巳輿馬速東行、無人知焉、時謳歌多端岌岌乎、然以公既東帰之故国家根本堅固、神君甚感忠隣善謀也、其余輔翼労猶多、五年公征奥州班師討信州、忠隣監軍事、既而神君克于関原夷凶賊天下一統、定臺徳公為嗣君、忠隣輔佐之験於是顕矣、十年神君譲天下于臺徳公、公入洛任征夷大将軍、参内拜賀、鹵簿威儀厳粛、忠隣駿馬為殿後、自是神君以駿城為菟裘、公在江戸城統御闔国、忠隣為元老、廷臣侯伯以下至郡主邑長、無不受其指麾。忠隣多男、長子忠常少於臺徳公一歳、夙夜勤侍、及成童元服於御前賜御諱字、先是天正十八年小田原之役、公初出軍忠常奉従之、慶長五年奥州信州之行、忠隣侍麾下、忠常代之率其隊先駆、此冬従而入洛、叙従五位下號加賀守、十年臺徳公有将軍宣下、拜賀之時忠常勤御焉之事、此非近臣則不能為之、故擇其人也、忠常度量豁達、且有殊遇之恩、有威勲之庇、故諸侯亦結交際、麾下之士皆具憺焉、別賜食邑二萬石、十六年忠常不幸不禄、時年三十二、聞訃者無親疏無不哀惜焉。十九年忠隣有故蒙譴責蟄居江州、然不含憤不懐怨、不屈於人、閑散無為、

   寛永五年卒干謫所年七十六。

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