東松浦郡史 ⑥

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

  三 外征の軍議

 五大老たる徳川家康・毛利輝元・浮田秀家・上杉景勝・前田利家、三中老なる生駒一正・中村一氏・堀尾吉晴・五奉行の浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束政家等打ち連れて、天正十八年三月九日大阪城に豊公に伺候せしに、俄に山里丸にて御茶を給はり、かくて仰せ出されけるは、既に国内も治平一統を見るに至つたから、今より朝鮮に押し渡りて彼の土を征伐し、それより明国に攻め入り数国を併有し、我が政令を彼の地に布き、功労の臣を彼の土に封ぜんと思ふ、利害得失果して如何にと。然るに満座其の企図の大をるにより、各々相譲りて答ふるものなかりしが、家康進み出でて申しけるは是れ実に快挙なりと、其の旨を賛したるに、豊公大に悦び意遂に決す。同十五日には異国征伐の首途の祝宴を張り、宴終りて観世・寶生・金剛・金春の四座の太夫に命じて、能楽の典などありて歓楽湧くが如き有様であった。

   四 外征軍の配備

 名護屋在留の総軍勢 十萬二千四百十五人、

      其の内訳をなせば、

△在陣諸将

一萬五千人   武臓大納言      一萬人      大和中納言

八千人       加賀宰相       三千人      穴津中将

千五百人    結城少将       千五百人     前尾張守(常眞)

五千人      越後宰相        三千人      會津少将

二千人     常陸侍従        千五百人、    伊達侍従

五百人     出羽侍従         二千人      金山侍従

八百人      松任侍従       八百人      八幡山京極侍従

百五十人    安房侍従        千人       羽柴河内侍従

千五百人    龍野侍従      六千人      北庄侍従舎弟美作守

二千人     村上周防守     千三百人      溝口伯耆守

五百人       宇都宮弥三郎    五百人     木下宮内少輔

千人      水野下野守      千人    青木紀伊守

二百二十人   秋田太郎       百五十人  津軽右京助

二百人     南部大膳太夫     百人    本多伊勢守

二百五十人   那須八郎       七百人   眞田源吾父子

三百人     栃木河内守      五百人   石川玄蕃允

三百人     日禰野織部正     二百人   北條美濃守

千人      千石越前守      二百五十人 木下右衛門督

千人      伊藤長門守

   計 七萬四千七百廿人

△前衛の士

六百五十人   富田左近将監     八百人    金森飛弾守

百七十人    峰屋大膳太夫     三百人    戸田武蔵守

三百五十人   奥山佐渡守      四百人    池田備中守

四百人     小出信濃守      五百人    津田長門守

二百人     上田左太郎      八百人    山崎左馬允

四百七十人   稲葉兵庫頭      二百人    市橋下総守

二百人     赤松上総守      三百人    羽柴下総守

   計 五千七百四十人

△弓鐵砲の諸士

二百人     大島雲八       二百五十人  野村肥後守

二百五十人   木下與右衛門尉    百七十五人  舟越五郎右衛門尉

二百五十人   伊藤弥吉       百三十人   宮本藤左衛門尉

百五十人    橋本伊賀守      百人     鈴木孫三郎

二百五十人   生熊源介

   計 千七百五十五人

△馬廻の諸士

四千三百人   御傍衆(六組)     三千五百人  小姓衆(六組)

五百人     室町殿         八百人    御伽衆

千五百人    木下半介組       七百五十人  御使番衆

千二百人    御結衆         八百五十人  鷹師衆

千五百人    中間以下

   計 壹萬四千九百人

△後備の士

三百人     羽柴三吉侍従      五百人    長束大蔵大輔

百三十人    古田織部正       二百五十人  山崎右京進

二百人     蒔田權佐        百七十人   中江式部大輔

百三十人    生駒修理亮       百人     同主殿頭

百人      溝口大炊助       二百人    河尻肥前守

五十人    池田弥右衛門尉     百二十人   大鹽與一郎

百五十人   木下右京助       百人     矢部豊後守

二百人    有馬萬介(後に玄蕃頭) 百六十人   寺澤志摩守

四百人    寺西筑後守 同次郎介  五百人    福原右馬助

二百人    竹中丹後守       二百七十人  長谷川右兵衛尉

百人     松岡右京進       七十人    川勝右兵衛尉

二百五十人  氏家志摩守       百五十人   氏家内膳正

二百人    寺西勝兵衛尉      百人     服部土佐守

二百人    間島彦太郎

     計 五千三百人

朝鮮国渡海の総軍勢 二拾萬五千五百七十人、

     其の内譯をなせば

△先発の諸勢

七千人    小西攝津守       五千人    對馬侍従

三千人    松浦刑部卿法印     二千人    有馬修理太夫

千人     大村新八郎       七百人    五島若狭守

    計 壹萬八千七百人

八千人    加藤主計頭       一萬二千人  鍋島加賀守

八百人    相良宮内少輔

    計 二萬八百人

六千人    黒田甲斐守       六千人    羽柴豊侍従

    計一萬二千人

一萬人    羽柴薩摩侍従      二千人    毛利壹岐守

千人     高橋九郎 秋月三郎   千人   伊藤民部大輔 島津又七郎

    計一萬四千人

五千人    福島左衛門太夫     四千人    戸田民部小輔

七千二百人  蜂須賀阿波守      三千人    羽柴土佐侍従

五千五百人  生駒雅楽頭

    計 二萬四千七百人

三萬人    羽柴安芸宰相      一萬人    羽柴小早川侍従

千五百人   羽柴久留米侍従     二千五百人  羽柴柳川侍従

八百人    高橋主膳正       九百人    筑紫上野介

    計 四萬五千七百人

 ▲後続の軍勢

一萬人    備前宰相         三千人   増田右衛門尉

二千人    石田治部少輔       千二百人  大谷刑部少輔

二千人    前野但馬守        千人    加藤遠江守

    計 一萬九千二百人

三千人     浅野左京太夫     千人     宮部兵部少輔

千五百人    南條左衛門督     八百五十人  木下備中守

四百人     垣屋新五郎      八百人    齊村左兵衛督

八百人     明石左近       五百人    別所豊後守

三千人     中村右衛門太夫    千四百人   郡山侍従

八百人     服部釆女正      四百人    一柳右近将監

三百人     竹中源介       四百五十人  谷出羽守

三百五十人   石川肥後守

   計 一萬五千五百五十人

八千人     岐阜少将       三千五百人  羽柴丹後少将 後細川越中守

五千人  羽柴東郷侍従元長谷川藤五郎 三千五百人  木村常陸介

千人      小野木縫殿助     七百人    牧野兵部大輔

五百人     岡本下野守      二百人    加須屋内膳正

二百人     片桐東市正      二百人    片桐主膳正

三百人     高田豊後守      二百人    藤懸三河守

百二十人    太田小源五      二百人    古田兵部少輔

三百人     新庄新三部      二百五十人  早川主馬正

三百人     毛利兵部       千人     亀井武蔵守

   計 二萬五千四百七十人

△海軍の兵勢

千五百人    九鬼大隅守      二千人    藤堂佐渡守

千五百人    脇阪中務少輔     千人     加藤左馬助

七百人     来島兄弟       二百五十人  菅平有衛門尉

千人      桑山小藤太 同小傳次 八百五十人  堀内安房守

六百五十人   杉若傳三郎

   計 九千四百五十人

 動員出征の総軍勢計三十萬七千九百八十五人。

  五 諸兵船の用意

 この遠征に、大軍の輪送兵糧兵仗供給等の違算なからしめんには、数多の艦船の用意がなくてはならぬ、それで左の如き周到なる命令は下された。

一、東は常陸より南海を経て、海に添ひたる国々、北は秋田酒田より中国に至って、其の国々の高十萬石に付て、大船二艘宛用意可有之事。

一、水手(カコ)の事、浦々家百軒に付て、十人宛出させ、其の手其の手の大船に用ひ可申候、若し有余の水手は至大阪可相越之事。

一、蔵納めは高十萬石に付て、大船三艘中船五艘宛、作り可申之事。

一、船之の入用大形勘合候て、半分之通り算用奉行方より請取可申候、相残る分は船出来次第請取可申之事。

一、船頭は見計ひ次第、給米等相定め可申之事。

一、水手一人に扶持方二人、此の外妻子の扶持つかはし可申之事。

一、陣中小者中間以下、女扶持其の者の宿々へ遣はし可申候、是は今度高麗名護屋へ立て申候者、不残如此可遣之事。

 右條々無相違令用意、天正二十年之春、攝津・播州・泉州之浦々に令着岸、一左右可有之者也。

      天正十九年正月廿日            秀 吉

  六 出征軍役の定め

 外征軍兵貝の徴収割當は、地理の便否遠近によりて、員数の多寡を定め、左の如き実行命令は下された。

 一、四国九州は、高一萬石に付て六百人の事、

 一、中国紀州邊は、同じく五百人の事、

 一、五畿内は、同じく四百人の事、

 一、江州・尾・濃・勢四ヶ国は同じく三百五十人の事、

 一、遠・三・駿・豆邊は、同じく三百人、是より東は何れも、同じく二百人たるべき事、

 一、若州より能州に至て其間、同じく三百人の事、

 一、越後、出羽邊は、同じく二百人の事、

  右之分、来年極月に至て、大阪へ可被参着候、出勢之日限重て可被仰出候、守其旨宿陣不指合様に、成其用意可申者也。

     天正十九年三月十五日     秀 吉

  七 外征軍に関する諸規定

 今は外征に就きて、諸般の準備略々成りたれば、軍律風規の振作取り締りにかゝはる、厳粛犯すべからざる軍令の発布を要とし、こゝに周密なる布達の発令を見る。

 一、人数おしの事、六里を一日の行程とす、乍去在所の遠近、六里の内外、奉行計ひ次第たる

  べし、即ち宿奉行定めの條、前後諍論なく、萬順路に可有之事。

 一、旅宿屋賃は出し申すまじく候、薪秣の代は、宿主と相對し出し可申候事。

 一、津々浦々番等に有之者、屋賃の儀出し申べく侯、鐵砲の者などの儀、其の主人出し可申候事。

 一、とまりとまりにて、扶持方馬の飼令下行の事。

 一、強買(オシカ)ひ、狼藉、追立夫其の外萬ツ非儀有るまじき事。

 一、泊々宿々に於て、理不盡の儀仕出すものあらば、當座にとがめかゝり、口論に及ぶまじく候、其の主人仮名実名、能々記し付け、其の上を以て可相理之事。

 一、何方に於ても、いたづら者、一揆の徒黨がましき様子あらば、密に告知すべし、一廉御褒美可被行の事。

 一、一里一里に、はやみち二人づゝ置き候て、名護屋と大阪との用所、早速相叶ふやうに可有之事。

 右條々堅く可相守此旨、若違背の儀あらば、奉行人迄告げ知せ可申者也。

 されば文禄元年三月朔日(紀元二二五二)より、先陣の将小西攝津守・加藤主計頭を先頭として、連日絶えまもなく夥しき軍勢は大阪を発し、漸く先発隊の西下も終りたれば、同十六日豊臣太閤も都を打ち立たせ、行装の荘厳華麗比類なく、其の偉観を見るところの老若男女の歓聾は各所に洋溢した。同廿七日後発隊も続々として出で立ち、四月五六日頃には肥前名護屋に到着し、総軍三十有余萬の大軍、松浦半島一角の山野を掩ひて、意気衝天既に明韓の地を圧するの慨がある。

   八 名護屋城造営

 名護屋の地たる、東に名護屋湾、西に外津(ホカハツ)湾の湾入迂曲によりて、狭搾せられたる約一里の地頸部より、西北は壹岐水道に突出して居る丘陵性の一小半島にて、延長約二里幅員大約一里内外の地であって、脚下は狭長にして水深く、海波眠りて碧潭を湛えたる如き同名の湾がある、湾口に加部島横はりて自然の大防波堤をなしてゐる。景致頗る雄偉壮大にして稀有の眺を有し、近きは辨天・鷹島の小嶼より、加唐・松島・馬渡(マダラ)・向(ムク)島、其の他今は長崎縣下に属する壹岐・二上・大島の諸島など煙波の間に散点碁布し、確に遠征将卒の無聊を忘れしむるに足る絶好の地区である。此の地は朝鮮海峡の最狭搾部に位置し、其の間に壹岐・對馬の二大島を点綴して、渡韓航路としては無上の風浪避難の好泊地である。且つ直北に鶏林半島を隔つる故に、この海にて困難なる北風を真軸に受くることを得て、航路また最も安全である。遮莫豊公が曩に小早川氏をして博多に築かしめて、對韓策源地の根拠を造らしめたるに関はらず、我が名護屋の形勝にして、航路の安全なると最短距離なる地点なるを知りて、幕営をこゝに定めたるも故なきにあらずや。

 もとこの地は波多氏の家臣名古屋越前守藤原経述の領地たりし、垣副山の要害を利して、天正十九年より翌文禄元年春までに、九州の諸侯に課して築かしめたる鐵壁であって其の規模の雄大なること一時の仮営とは思はれざる程である。城廓の四邊に小丘陵の波濤状に起伏してゐる岡上は、悉く天下侯伯の幕営地である。其の間を縫へる幾多の低地渓間は、皆これ遠近より集へる賈人の、物資を販く店舗を列ねし所であって、今猶畦畔田園の間、一々舊時の町名を存して居る。

 豊公は天正十九年職を養子秀次に譲りて太閤と称し、翌年大遠征軍を指揮統率せんがためにこの地に到った、されば松浦半島の一角は、東亜の大威力発動の地として、其の名遠く明韓に震ひしのみならず、イスバニヤ領フイリツピン太守は使僧を名護屋城に送りしなど、所謂當時の南蛮人即ち西欧人間にも其の名は知られてゐたのである。

 今其の城の結構につきて述ぶるであらう。

一、本丸(東西五十六間南北六十一間)西北角に天守臺あり、城高十五間ありて之に建設されたる家屋門廊は、これ又諸侯伯以下夫々分担造営せしものである、

    造営物           造螢者

    数寄屋           長谷川宗仁法眼

    書院座敷は河れも花鳥山水、 狩野右京亮畫きて、善美を盡す。

    本丸より山里へ裏小門    寺西筑後守

    本丸と二ノ丸間、北間ノ門、午間ノ   河原長右衛門

    同大手門          御牧勘兵衛

    同脇櫓           芦浦観音寺

    同取附二階矢倉       同 人

    同四間梁五門矢倉      羽柴美作守

    本丸西ノ角櫓、四間梁十間  大和中納言

    同取附矢倉、二間梁三間   同 人

一、山里九(東西八十間南北五十間)

    数寄屋           石田木工頭

    本丸より山里へ裏ノ露地   寺西筑後守

    書院、五間梁六間      太田和泉守

      座敷不残 狩野右京亮畫

  御臺所、七間梁十六間      河原長右衛門

  添ノ間、十間梁十一間      石河 兵蔵

  御座ノ門(西王母ノ絵)右京亮これ畫く 寺澤志摩守

   築山遺り水等の体、千年も経たるやうに苔むしたり、

  同次の間(耕作の絵)右京亮畫く、

  三の間(花鳥の絵)同人筆

  上臺所、六間梁四間

  表御座の間(慈童の絵)長谷川平蔵畫く

  同次の間(山水の絵)同人筆

  同臺所、九間梁十七間      石川兵蔵

   右取附け料理ノ間

   山里局、六間梁十三間     石田木工頭

    右間毎に花鳥の絵右京亮畫く

   同局、五間梁十五間      建部壽得

   同湯殿            仙石權兵衛

   同御蔵、六間梁十間    戸田清左衛門

   同御蔵、五間梁廿間    小西攝津守

   同取附櫓           御牧勘兵衛

   同国ノ木番所         同 人

   同国ノ木作門         同 人

   同二階間           仙石木工頭(又石田木工頭とす)

   同菜園            同人(又同人及び観音寺とす)

一、二之丸(東西四十五間南北五十九間)東北東角

   二階櫓、四間梁五間      溝口伯耆守

   同天守ノ下、冠木門      太田和泉守

   同三階櫓、九間梁十二間    伊藤長門守

   南ノ門、三間梁七間櫓     館侍従

   同升形、七間梁四方四間石垣  同 人

   大手三階鐘楼堂、五間梁四間  羽柴五郎左衛門

   同東ノ櫓、四間梁十間     長東大蔵太夫

   同北ノ櫓、四間梁八間     大和中納言

   同西ノ方二階櫓、四間梁十八間 淺野弾正少弼

   南取附矢倉、三間梁八間    同 人

   大手櫓、三間梁十三間     鍋島伊平太

一、三之丸(東西三十四間南北六十二間)

   同西ノ方櫓、三間梁三間    羽柴河内守

   同冠木門、三間梁五間櫓    羽柴右近

   同西ノ門、三間梁五間     羽柴加賀宰相利家

   同西北ノ角櫓、四間梁五間   同 人

   同取附、二間梁四間      同 人

   同大手東門、四間梁七間櫓   羽柴右近

一、避撃ノ曲輪(東西二十六間南北二十四間)

一、南ノ方弾正曲輪(九十間に四十間-三十間)

一、水ノ手曲輪、十五間四方

一、山里曲輪ノ間、数ヶ所に出でたり、(此下腰曲輪小曲輪合十一曲輪あり)

一、城の周囲、十五町

一、城門、五ヶ所

 維新の頃名所舊跡を自然に放置して廃頽に委するもの往々なりしが、この古城址も亦其の轍を免れず、所々の石垣殊に北方の要部は破壊せられて廃残の跡物哀れに、松籟の音のみ寂しく往時を喞つ有様であつたが、近時其の村にて保存に多少労するところあるは喜ぶべきことである。

  九、出征軍勢の配置

 陸軍の兵勢は、小西攝津守・加藤主計頭を魁として、後続隊は二十萬余騎を算す。水軍の勢は、九鬼大隅守・島津陸奥守・加藤左馬助・藤堂佐渡守・脇坂中務大輔・来島(クルシマ)兄弟にて、其の数一萬余人に達せんとして居る。水軍の奉行には福島右馬助・熊谷内蔵丞・毛利民部大輔・筧和泉守等で六千余人を率ゐ。総大将として海陸両軍の統宰者は備前中納言浮田秀家、総奉行の役は増田右衛門尉・石田治部少輔・大谷刑部少輔である。留守都の政務は古田兵部少輔に一任してある。

 予て水軍は名護屋にて軍議を遂げ諸事相定むべき事となりゐたれば、文禄元年四月十日、悉く名護屋に到着して、九鬼嘉隆は最も経験に富める水軍の将であれば、諸将其の船に集合して軍議を凝らし、評定一決の後、各々起請文をなして其の志を示した。

    敬白起請文前書の事

 一、船中軍評諚の義、各々多分に付て其宜しきを、そだて可申之事、

 一、誰々の船によらず、難義に及びなば可助成之事、

 一、珍らしき敵の行あらば、互に可申談之事、

 一、忠節の深浅、依怙贔屓なく、有りのまゝに可申上之事、

 一、他人の労を盗み、我が手柄などに仕間敷事、

 一、物見の疾舟、一大将より二艘宛出し可申事、

 一、名護屋御本陣へ注進仕候共、奉行衆の加判にて可申上之事、

 右條々相違有るまじく候、若し違背の義於有之者、八幡大菩薩・愛宕山大權現の御罰を罷り蒙るべき者也、仍起請文如件

    卯月十日     各連判にて宛所は奉行衆

 この時福島右馬助云ひけるは、かやうに評議相調ふは互に目出度き事である、さらば酒を物し船祝ひせんとて、折二合と樽三荷を出しければ、九鬼嘉隆大に之を賛して、湯漬などいとなみ、各深く興に入り、佐渡守は千秋楽は民を撫て萬歳楽には命を延ぶと、舞ひ出でて座を立ち出でしなど其の歓楽の状には海神も感応影向しつらんと思はる。

   一○ 名護屋よりの出征艦船

 先陣の大将小西攝津守二萬の勢を具し、つゞきて加藤清正二萬余騎、黒田長政一萬余騎、其の他十数萬の軍勢は四月十二日名護屋を発し、石火矢を放ち鯨波を揚げ、数千艘の帆柱は林の如く、やざ声挙げて帆を張り上げ、互にのゝしる声々天地を動かす計りの有様である。浦を立ち出でたる幾多の大艦小船は、家々の紋章を染め出せる幔幕を打ち廻らし、思ひ思ひの旗指物を飾り立てたれば其の海を掩へる壮観は言語の盡すところでない。順風に帆を孕まし翌朝壹岐の勝本(カザモト)に着いたが、風向忽ち変じて投錨旬日余に達したが、廿五日暁明の頃風稍々静まりしも、名残の海波は穏でない、行長思へらく海波静穏に帰せんには何れの船も出帆せんとて、夜半密に船を出し翌日對島豊崎に安着した、残余、軍船は行長が兵船見えざるに驚き、急ぎ船を出さんと打ち噪げる間に、日漸く高く、五六里も帆走せしと思はるゝとき、逆風俄かに起りて勝本に引き返すに至つた。行長も豊崎に着せし甲斐もなく逆風に喞ち居たるに、空の気色聊か変りたれば船出の用意をなして待ち居つゝ、廿八日朝海波末だ高かりしも船を出し、釜山浦に到着して直ちに上陸し此処を略有せんとせしに、敵兵二萬余騎矢ぶすまを作って射かけて防戦したれば、我軍は鐵砲を以て應戦し、終に敵を城中に逐ひ込め、午前十時頃完全に此処を占領し、敵兵八千五百余人を討ち取り、捕虜二百余人を獲た。依って生虜に就きて敵状を糺し、其の西北に東莱城あるを知り、人馬の休養を與へたる後、即日東莱に進発し鬨を作って攻め寄せければ、釜山浦の戦に我軍の強猛を知りて、防ぎ戦はんともせず悉く遁亡したれば、小西主殿・木戸作右衛門尉をど之を追撃して、敵首九百余級を獲得し、其の夜はそこに陣を布き人馬を休息せしめた。(総て朝鮮役の月日は太閤記による、野史其の他には多少之を異にす)

   一一 陸軍の行動

 清正は行長に後るゝこと数日にして釜山に着き、諸軍も亦相次ぎて到達した。朝鮮国は我軍の侵入するや否や疑念を抱き居りしも、萬一に備へざるべからざれば、宰相柳成龍は金応南をして明廷に報じ、まね国境防衛として全*(目卒・スヰ)を慶尚道に、李洸を全羅道に、尹先覚を忠清道に各々監司たらしめ、殊に慶尚道は侵寇の要路に當れば、沿道に城塞の備を巌にし、李舜臣をして水師を管して邊海を警戒せしめはしたものゝ、泰平日久しく寛軍旅に慣れず、防備も十分ならざるは自然の道理である。

 かくて侵入軍は三道より進みて、第一軍の小西行長は釜山を陥れ東莱を抜き、中道を取って進み密陽を略し、忠州に進むだ。こゝは天嶮の要害であったから、軍を分つて二軍となし、一軍は山壁を傳ひ、一軍は達川に沿ひて突撃せしに、韓兵潰走して川に溺れて死するもの算なく、其の将申石も川中に溺没し、李*(食益イツ)は僅かに逃走することを得た。此に於で忠州又小西の手に帰し、そこで第二軍の至るを待った。第二軍は加藤清正・鍋島直茂等之に将として、道を右方に取りて梁山・彦陽を経て新羅の舊都慶州城に入りしに、敵は既に我軍の襲来するを察して足影だにない、依って新寧・義興等を攻め、咸昌にて第一軍と會し、烏嶺を超えて忠州に入り、京城攻略の方策を議し、両軍合して首府漢城に向つた。

 これより先漢城にては右相李陽元を主将とし、李*(セン)邊・彦琇(シウ)を左・右大将とし、以下京畿・平安・黄海諸道警備の諸官を任じて防衛を計ったけれども、忠州の天嶮陥落した報が至るや、上下震駭甚しく、国王は柳成龍と北方義州に逃れ。我が軍は破竹の勢を以て進発して、行長は東大門より清正は南大門より侵入して首府を奪ふた、時に五月十一日にして行長が釜山に上陸せしより僅かに二十余日を費し、百五里の行程を踏破したるは実に嘆賞の外なく、かやうに敏活に疾風迅雷耳を掩ふの暇もなき有様であったのは、今日でも軍事當路にある人の賞讃措かざるところである。黒田長政・島津義弘等の率ゐたる第三軍は、釜山より左して全羅・忠清の両道を経て行々敵を破り、其の月漢城に到った。本隊の浮田秀家の兵も相次で漢城に入り、こゝに愈々語軍相會した。

 漢城陥落の捷報名護屋の軍営に達するや、豊公は明の援軍の至らん事を懼れて、援軍六萬余騎を朝鮮に送る、如ち増田長盛・石田三成・大谷吉継・前野長康等の兵合せて一萬七千余騎、浅野幸長・南條元晴・中川秀政の兵合せて一萬五千騎、岐阜少将織田信秀・丹波少将羽柴秀勝・長谷秀一・木村常陸介定光・粕屋内膳正武則・片桐直盛等の兵二萬五千にして、之を三軍に分つた。一方漢城では各道討伐の諸勢を派遣し、小西・宗等は平安道に、加藤・鍋島等は咸鏡道に、毛利吉成は江原道に、毛利輝元は慶尚道に、黒田・大友等は黄海道に向ひ、浮田秀家は漢城にありて之を統帥した。清正・行長の北進部隊の臨津に至るや、韓将金命元を奇計を以て潰裂し、開城より行長は平壌に向ひ、清正は咸鏡道に入った。平壌にては又金命元が防戦したけれども、気魂充たざる敵軍はこの要害をも支持することが出来ず、巨多の糧食を残して直ちに敗走した。行長は漢城の秀家及び三奉行に書を寄せ、明国に長驅殺到せんことを請ひしも、全羅・江原地方未だ平定せず、然るに今深く敵地に侵入するは策の得たるものでない、宜しく水軍の至るを待ちて並進すべしと命した。然るに明廷では朝鮮の警報頻りに至るを以て遼東の鎮兵五千を発し、祖承訓・朱儒算を将として赴き救はしめ、七月十六日天明平壌に襲来した。城兵之を覚りて銃を放ちて應戦し、敵将朱儒算を仆せしに、祖承訓恐れて全軍潰走し、我兵之を追撃して千余騎を獲た。翌八月韓兵攻め寄せしも亦直ちに之を撃破した。清正は咸鏡道に入り海汀倉に至り、韓将韓克誠と戦ふ、其の兵騎射に巧にして、我が兵銃戦を以て之に應じ、夜に入り密かに敵を包囲し暁明に及びて砲撃せしに、敵兵驚き敗走し、追撃して克誠を鏡城にて檎虜となす、清正猶北進して會寧府に至り、先に此の地に逃れ居たる臨海君・順和君の二王子を捕へ、鏡城に留置して兵をして之を守らしめ、自ら兀良哈(オランカイ・満州間島の邊)に入りて兵威を輝かした。南方にありては小早川隆景等は、慶尚道より全羅道に入り、全州に權慓の軍を破り、毛利輝元・島津義弘等も各々不逞の徒を討ちて功を遂げ。漢城の本営にては韓将卒洸・權慓等五萬騎の奇襲を撃退した。

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