縄文・弥生時代の対馬

http://mitsusima.jugem.jp/?cid=22 【縄文・弥生時代の対馬 】 より

縄文時代、対馬人の食生活。

地球温暖化が深刻な環境問題として度々マスコミなどで取り上げられています。人為的な要因がどれほど地球環境に影響を及ぼすかについては、今後、二酸化炭素の増加が原因として100年間に0.7度の気温上昇を予想していますが、これをはるかに上回る現象が、約1万2千年前に起きていました。このころのグリーンランドでは大規模な気候変動が起きていて、気温はわずか10年間に8度の割合で急上昇していたそうです。この大規模な温暖化によって極地域の氷河が溶け、海水面は一気に上昇したそうです。

地質時代では、更新世~完新世境界にあたり、環境が激変した時代です。

この頃、大陸と対馬は陸続きでしたが、次第に対馬暖流の流れ込みで氷河が溶けて、対馬海峡を通って海水が日本海に侵入していきました。この頃の朝鮮半島南岸と対馬の間は水路でさえぎられているほどの距離しかありませんでした。

この頃の対馬の部族は「海物を食して自活」するのは最も重要な生活法でありました。入江を覆う岩礁には『アワビ』『サザエ』『レイシガイ』が豊かに棲息し、磯では『クサビ』『アラカブ』などの小魚や『ワカメ』などの海藻がよく採れました。

そして船に乗って対馬海峡での漁は、日本海に侵入してくる『ブリ』『イルカ』『クジラ』『マダイ』『クロダイ』などの中・大型魚や海獣を捕っていましまた。この頃の貝塚の貝層から(対馬市上県町・志多留貝塚・図1の⑤)これらの海物や、また、このような漁を可能にする石ノコ、結合式釣り針を始めとする各種釣り針、網のおもりである石錘も出土していることから、古今東西の普遍的漁法である突漁、釣漁、網漁がすでに完備していたことを示しています。

対馬の部族はこの頃から、現代と変わらぬ高級海棲動物を食していました。


弥生時代『魏志』東夷伝の対馬

『魏志』「東夷伝」で、《対馬国》は、

・(狗邪韓国より)海を渡り、千余里て、対馬国に至る。

・土地は、山険しく、深林多く、無良田(良田無し)

・道路は、禽(とり)と鹿(けもの)の小道のようである。

・千余戸があり、卑狗(ひこ…大官)、卑奴母離(ひなもり…副官)が居る

・海(産)物を食べて自活している

・船に乗り、南北に(出て)市糴(してき…米を買うこと)をしている

などと記述されている。

「良田無」とは米ができないことを表すが、東夷伝の中で、「無良田」と記載されているのは、高句麗と対馬国だけである。ゆえに対馬は南北に市糴した事情がよくわかる。市糴とは、米や粟を買うことだか、これが交易を表す熟語となったもので、対馬が市糴した南は日本列島、北は朝鮮半島にほかならない。自給自足のできない対馬では、南北に市糴(交易)することが当然の道だったのではないかと推察されている。

『魏志』東夷伝、高句麗の時代(日本の弥生中後期)の青銅器・漢式土器(漢窯風に焼いた陶質土器)などが対馬で出土したことから、「南北交易」した対馬の船は、北は高句麗(以前は漢の楽浪郡)まで通行したことが推察される。また、対馬の浦々の岬に、石積みの墳墓群があって、倭系と漢系・韓系の遺物がある。豪勢な青銅器や鉄器を副葬している者は、南北に交易した海商で、浦主と呼ばれた土豪と推定されている。

★『魏志倭人伝』の中で卑弥呼は、鬼道(きどう=神事)に通じていたため、人々をよく惑わす(信服させる)ことができたと記されいる。

その卑弥呼は、記紀(古事記と日本書紀)の天照大神であるとも言われている。天照大神は日の神であり、神政を行ったとされています。

大和岩雄著『邪馬台国は2ヵ所あった』の3章 「卑弥呼の鬼道と鏡」の中で、『魏志』東夷伝の馬韓条に、『常に五月を以て種を下し、あえて鬼神を祭る。群衆、歌舞し、酒を手昼夜休む事なし。その舞は数十人、倶(とも)に起(た)って。相随(したが)い、地を踏み、あるいは昴(たか)く、あるいは低く、手足相応ず。その節奏は鐸舞に似る。十月、農事を畢(お)え、また同じ祭りをなす』

天神は我が国では、抽象的な"天"ではなく、照り輝く太陽、"日"に具象化され、日神になっている。祖霊としての皇祖神天照大神は、日神でもあり、祖霊としての鬼神(人々の災厄を除く鬼で、修験道や神道、陰陽道などの思想を色濃く受けている鬼的存在)が天神(日神)だとされています。

鬼神・天神を祭る馬韓(紀元前2世紀~4世紀中期)の"ソト"は我が国では日神を祭る聖地になっているが、"卒土(そと)"のある対馬の天道山を、我が国第一のアジール(侵すことのできない、神聖な場所)と言われています。

対馬では、仏教や神道に加え独特の天道信仰などによって山や森林が聖地・霊地や忌み地とされてきました。

天道信仰は天道(天童)法師という山林修行者の英雄伝説によって色づけされているが、その本質は、そのまた"遥かな昔から"続いてきた太陽信仰にあり、太陽崇拝も古くから行われてきたと言われています。

対馬では、天照大神という概念が大和で成立するずっと以前から、対馬の日子は太陽の子供として崇拝の対象です。逆に、こうした信仰が発達して天照大神となったと見ることができます。

元々、天道信仰は霊山"龍良山"を御神体として崇拝するものであり、神道の原点とでも言うべき自然崇拝であるとされています。天道法師という人格神は、仏教の信仰と習合することで促進され、天道を拝むための祭祀場が形成されていきました。

太陽のことをお天道様と言うこともありますが、それが神格化されたのが天道信仰であると言われています。内山盆地内にある照葉樹林としては世界に類を見ない高い自然度と広さを保った原生林に入ると、一本一本に神や仏が宿っていると言われているスダジイ、イスノキなどの巨木、耐陰性の強いヤブツバキ、アオキなどが自生している中を歩けばかつて縄文人が見ていたはずの、極相に達した照葉樹林を体感することができます。龍良山の頂上に立ち、水平線上から昇ってくる太陽(沈んでいく太陽の方には韓国が)を眺めれば、それだけで敬虔な気持ちになります。

日本人の信仰は、自然物や自然現象を拝むことから始まりました。万物に、生物・有機物をとわない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方が原点にあると言われています。


弥生時代・対馬での神功皇后伝説

★神功皇后(170年生~269年)………仲哀天皇(『古事記』『日本書記』に記されている第14代天皇)の皇后。『日本書記』などによれば、201年から269年まで政事を執り行った。200年に夫の仲哀天皇が急死した後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応仁天皇)を妊娠したまま海を渡り、対馬の北端の鰐浦から出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したと言われている(三韓征伐)。……『Wikipedia』より

★三韓征伐(新羅征伐)………『日本書記』で、ヤマト王権の正当性を主張するために倭(九州の王朝)の歴史を自らのものとして記述するために、主人公の神功皇后が行ったとされる新羅出兵物語。

対馬では、神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠として、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承が、全体の物語の構成としても不自然さがない(リアリティーがある)ことが挙げられています。

★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー1『日本書記』……「冬十月の己亥(きがい)にして辛丑(しんちゅう=3日)に和珥津(☆1・わにつ=鰐浦)より発ちたまふ。時に飛廉風(かぜのかみかぜ)を起し、陽候浪(うみのかみなみ)を労(いたつ)かずして、便ち新羅に至る。…… 」と記述されている。

☆1・和珥津(わにつ)………対馬の北端、上対馬町の鰐浦(わにうら)

対馬の北端の鰐浦に宿泊中、人質とした新羅の奈勿(なもち)王の子、微叱己知(みしこち)が奪還される場面で、「人質とした新羅の奈勿(なもち)王の子、微叱己知(みしこち)と新羅の使者毛麻利叱智(もまりしち)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城龍津彦(かづらきのそつひこ)と共に対馬に至り、鋤海(さひのうみ)の水門(☆2・みなと)に宿る。」

☆2・鋤海(さひのうみ)の水門(みなと)は、鰐浦(対馬北端、上対馬町の鰐浦)と同じ地ではないかと推定されている。

★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー2『対州神社誌』……「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀(峰町佐賀、対馬中部の東海岸)の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事…☆2」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌籏と鈴とを浜辺に張り巡らし、捕虜の釈放(放生会の初め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒(峰町の東海岸)を木坂(峰町の西海岸)に遷して廟主となし、神功皇后となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

☆2・津島紀事………対馬府中藩士の平山東山(ひらやまとうさん1762~1816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣士屋帯刀(たてわき)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

★神功皇后の新羅征伐に係わる対馬に関する記述ー3『海神神社☆3(対馬市峰町の西海岸)神社明細書』………一宮を木坂伊豆山(対馬市峰町木坂)に奉祀した由緒「神功皇后新羅より還御の時対州面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ひもろぎいわさか)を定め、斎祭り給ふとなり」とある。これは、厳原町の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述がある。

☆3・海神神社(かいじんじんじゃ)………対馬市峰町木坂にある神社。対馬国一宮。社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八旒を峰町に納めたことに由来するという。籏は後に現在地の木坂山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇運烈風が攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている。

★神功皇后の新羅に係わる対馬に関する記述―4『対州古蹟集』………「神功皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴ニ口宝とす。=〔八旒の旗の内〕ニ口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、ニ口は豊前の宇佐宮に分ち、又ニ口は黒瀬城〔現・金田城(対馬市美津島町)〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と記述されている。

★神功皇后の新羅征伐に係わる記述―5………「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂(対馬市峰町の西方)の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十ニ年に八幡神が現れたとなっている。

            ブログ『彦左の正眼』より


弥生時代の大陸と対馬と日本列島

★対馬は北方と南方が融合した島―1………縄文時代前期(10000年以上前~)の対馬は、日本列島と陸続きで、朝鮮半島と10㎞程の水路でへだてられいるだけであった。それが、最後の氷河期時代が終わり、黒潮海流が日本湖に流れ込み、日本海ができ、対馬海流になって、対馬は『島』になったとされている。

縄文時代後期になって、台湾より南方の島々から黒潮に乗って、たどり着いた鉱山に詳しい部族が対馬列島の原住民になる。また、同じように朝鮮半島にたどり着いた稲作に詳しい部族が弥生時代後期に、朝鮮半島の南岸に山戸の国を建国した。そして、対馬の部族は漁業と猪や鹿の狩り、鉱山の採取で生活したり、朝鮮の山戸の国や九州北部の筑紫の国と穀物を得るために交流を行っていた。そのような経過から、対馬の国は日本と朝鮮の橋渡し役を担っていた。

弥生時代前期には朝鮮を経て、対馬の国を経由して筑紫の国に大陸の文化(水田による稲作、鉄製造術、機織物術等)が朝鮮からの渡来人によってもたらされた。

★対馬は北方と南方が融合した島ー2………… 日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし/縄文人)だったと言われているが。この蝦夷(縄文人)と呼ばれる先住民族が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

蝦夷(☆1えみし)族/縄文人(先住民族)は、日本列島の隅々までを領域としていたが、朝鮮半島を南下した武力に勝る倭族(羅族・呉族)や琉球列島を北上して来た倭族(隼人・呉族系)に、次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り支配者になった。

それが、『邪馬台国』や『対馬国』『一支国』『伊都国』などの「倭の国々」である。

☆1・蝦夷(えみし)………日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称。近世では蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。

★対馬は北方と南方が融合した島ー3…………朝鮮半島と列島をつなぐ位置にある対馬は、神話分析においても重要な位置を占めている。

対馬の天童伝説(☆1)は日神に侍える神女が日光に感精して天童を生むという本伝と、不義の子を孕(はら)んだ高貴の女院が空船(うつろぶね)に乗せて流されてきて、天童を生んだとする異伝の両方がある。

前者は朝鮮半島に見られる高句麗、新羅に共通する“北方系“の神話であり、後者は“南方系“の神話である。このように対馬は海神=国津神もいれば天神=天津神もいるが、争った様子がなく、融合している。

対馬で国津神と天津神が対立しなかったのは、対馬の置かれた環境によることが考えられる。

対馬には良田がなく、半島・列島の両方の市場に出掛けていたと魏志倭人伝にもある。対馬の人々は海商として生きる道を選んだのだ。彼ら対馬の海商たちが開いた海路はいうなれば、海のシルクロードであった。彼らは平和的通交、友好的交易が行き詰まると無闇に野性的暴力を振るう。対馬は悪名高き倭寇の根拠地とも言われるが、その粗さ、組織性は、民族的特性というよりも、環境的習性によるものだろう。そしてそれは、西方のシルクロードを支えた騎馬民族との類似性を持つ。対馬からはオルドス青銅器文化の短剣が出土するのも、楽浪を介してオルドスの騎馬民族との交流があったからであろう。このような同じ商人=海賊・山賊としての親近性が北方騎馬民族起源の天津神と海人族が融合した背景にあるのであろう。

実際、後に国家神道を確立し、ヤマト朝廷の中心に位置する中臣氏は、対馬、壱岐、伊豆の海人族系のト部を重用した。そして対馬にあった「タカミムスビ」を祖神として対馬の日神「アマテル」と壱岐の月神「ツキヨミ」を祀る一族が活躍させ、日本神道を形成していった。

☆1・天童伝説………天童法師という山林修行者の英雄伝説によって色づけされ、その本質はそのまた遥かな昔から続いてきた太陽信仰にあるとされている。

天童信仰の地、対馬では太陽崇拝も古くから行われてきた。天照大神という概念が大和で成立する前ずっと以前から、対馬の日子は太陽の子供として崇拝の対象だった。逆に、こうした信仰が発達して天照大神の神格となったとみられている。

★対馬は北と南方が融合した島―4…………対馬は南方から海と稲の神々が伝来した土地である。

記紀には海神の祖として、“ソコツワタツミノカミ“と“ソコツノオノミコト“が登場する。ワタツミは安曇連の祖、ツツノヲは住吉大神の祖とされる。安曇族も住吉神もさかのぼると対馬の海人族が起源とされている。

また、海人族=江南人は稲作を伴ってきと考えられ、殻をもたらす日照神=オヒデリサマ、降雨神=雷神=イカヅチサマが日本にもたらされたが、そのうちのオヒデリサマ信仰が“北方由来の信仰“と合体してアマテラス信仰に昇華していったとされている。

対馬には、アマテル=阿麻氏留神社を始めとして、一之宮として崇敬されている海神神社、海幸彦・山幸彦伝説の発祥の地と言われている和多都美神社などなど……平安時代に朝廷によってまとめられた官社の一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」には、西海道(九州全体)で107座の神社が記載されており、これらの神社は「式内社」と呼ばれ、古来より名の通った神社として、一種の社格となっています。

対馬は神社の多い島で、式内社の数が九州最多の29の座。お隣の壱岐の24座と合わせると、2つの島で九州全体の約半数を占めています。

★『魏志倭人伝(☆1)』の対馬……………『所居絶島方可四百余里土地山険多林道路如禽鹿径有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴』=〈住んでいる所は四方を海に囲まれた孤島で、広さは方四百余里ばかり、土地は山が険しく、深林が多く、道路は鹿や禽(とり)の通う小径のようである。人家は千余戸ある。良田がなく、人々は海産物を食料として自活しているが、船によって南や北へ交易に出かけたて米を買ってくる〉

☆1・魏志倭人伝…………「魏志倭人伝」は、正式には「『三国志』魏書東夷伝倭人条」と言う。これは、3世紀後半に陳寿(ちんじゅ)という人物によって書かれた、『三国志』という歴史書の中の、魏の国について書かれた「魏書」という部分の中にある、中国から見て東にある地域について書かれた「東夷伝(とういでん)の中の、倭人について書かれた部分という意味。


弥生時代早期~弥生時代後期の対馬

23……山辺(やんべ)遺跡・約2300年前~約300年(弥生時代前期~弥生時代後期)

★弥生時代早期頃から、大量の新モンゴロイド(☆1)と呼ぶ渡来系弥生人が対馬を通って、日本列島に移住してきたと言われています。そのため、この時点を境として新モンゴロイドとこれまでの旧石器時代からの日本人が混血して大きく変化し、現代人になっていったと言われています。それは、遺跡から出土する人骨の比較研究で明らかになっています。

☆1・新モンゴロイド………人類は今からおよそ450万以上年前にアフリカで誕生したとされていますが、それからずっと時代が下がって、進化した新人の一部が東南アジアに移り、現在の東南・東アジア人全体のルーツとなりました。彼らを古モンゴロイドと呼びます。彼らは誕生以来、熱帯に適した特色を持っていたそうです。

しかし、古モンゴロイドの一部は、アジア大陸の北部シベリアに移り住み、氷河期の寒冷な気候に適応できるように進化しました。この寒冷地適応タイプを新モンゴロイドと呼びます。

★『魏書』東夷伝倭人条に、狗邪韓国(韓国南部)から対馬、そして九州北部は倭に属していたことが書かれています。

★山辺遺跡(三根遺跡)………中国の史書『魏志倭人伝』などの資料と、考古学上の発見からすると『対馬国』が邪馬台国を中心とする倭国連合に参加していたとされているが、その『対馬国』の中心とみられる弥生時代の大規模集落跡が、峰町の西海岸の三根湾奥から三根川を蛇行しながら遡上した右岸に位置する三根遺跡の山辺地区で見つかっている。

これまで百本以上の柱穴が出土。少なくとも三、四棟の高床式倉庫や二基以上の竪穴式住居跡が確認されている。調査されたのは、山辺区約四万平方メートルのうち、七千~八千平方メートルで、三根遺跡全体では山辺区の十倍以上に広がっているとみられている。

合計一万点以上の弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮半島・楽浪郡系の土器や陶質土器が出土、盛んな“国際交流“を思わせる。

魏志倭人伝には三十のクニグニの名があるが、位置が確定しているのは対馬国、一支国、末盧国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県前原市付近)、奴国(福岡県春日市付近)のみで、対馬国中部の三根湾周辺は、青銅器を副葬した首長級の墳墓の密集地で、これらと深いつながりがあるとみられている。また、魏志倭人伝の情報は、峰町辺りに使者が滞在して、あの紀行文を書いた可能性が高いと言われている。

山裾の東から西に伸びた舌状の丘陵地(長さ120メートル、幅60メートル、標高は16メートルから8メートル、舌端は三根川に達している)の中央部から側壁2面を石で張り、石蓋(いしぶた)で伏せた暗渠(あんきょ)が見つかった。長さ50㎝、幅25㎝、深さ15㎝、時代は不明。次の段丘の先端部から住居遺構が発見された。全体の面積は1200平方メートル、うち600平方メートルを発掘している。

遺構は竪穴式住居趾、高床式柱穴140、大溝状遺構、暗渠などである。出土品は縄文終末期から古墳後期までの土器が断絶することなく出土しているが、主体は弥生中期後半から後期終末である。出土品には現在の韓国南岸で製作された土器等が多く、彼我の間で盛んに交易が行われていたことが証明されている。山辺区の遺構は三根湾岸一帯に割拠した弥生海民の住居遺構の一つであり、今まで発見できなかった弥生住居の環境と成り立ちを解明する手掛かりになると言われている。

★約50年~300年頃(弥生時代後期)………弥生時代後期の遺跡は全島に及ぶが、分類すれば墳基と祭祀的遺跡(銅予出土地)に大別される。墳基遺跡の主なものとして、珍しい触角式細形銅剣を含む多くの青銅器を出土した峰町三根の高松壇(図23)および坂堂(峰町)、舶載青銅器と国産銅予を一緒に副葬していた木坂遺跡(図21)、人骨の壺棺を出土した芦ヶ浦洞窟(美津島町)、銅予・小形彷製鏡・長頸壺を出した仁位のハロウ遺跡(図36豊玉町)、楕円形の墳丘上に営まれた経ノ隈遺跡(図1上対馬町)、最大級の見事な石棺を営んだ中道壇遺跡(図51美津島町)があげられ、祭祀的遺跡としては、国産銅予と舶載の銅鏡を出土したクビル遺跡(図8上県町)をはじめ、全島40箇所わかっている。

この弥生後期のころが、『魏志』「倭人伝」に描写された時代であるが、その遺跡より北部九州の弥生式土器と、韓国の金海式土器が共伴することが多く、また博多湾周辺で製作された国産青銅器と、大陸系伝来の舶載青銅器があることから見て、対馬人が南北に市糴したという「倭人伝」の記述がよく証明できる。なお弥生終末期の遺跡において、瀬戸内から流れてきた長頸壺が、島の中央部だけに集中して出土するのが不思議だが、これには玄海を越えて瀬戸内に直通する航路も開けていたのでないかと考えられる。(永留久恵著 古代日本と対馬 より)


縄文時代中期~弥生時代後期の対馬

12……越高遺跡(約6800年前・縄文前期)

16……佐賀貝塚(約4000年前・縄文中期)、26……吉田貝塚下層(約4000年前・縄文中期)、41……加藤遺跡(約4000年前・縄文中期)

11……志多留貝塚下層(約3200年前・縄文晩期)、26……吉田貝塚下層~上層(約3200年前~約2400年前・縄文晩期)、19……井手遺跡(縄文晩期)

28……住吉平遺跡(約2200年前・弥生前期)、11……志多留貝塚上層(約2300年前・2200年前・弥生前期・中期)、2……泉遺跡(約2300前年~2200年前・弥生前期)、19……井手遺跡(約2300年前~2200年前・弥生前期)、53……鶏知遺跡(約2200年~2100年弥生前期後半)、47……玉調遺跡(約2200年前~2100年前・弥生前期後半)、56……つつ遺跡(約2200年~2100年・弥生前期後半)

☆吉田遺跡(図26…縄文中期・約4000年前~弥生後期・250年)………貝塚を伴う遺跡で、厚さ30㎝直径3~4メートルの貝層からカキの殻が、縄文後期から弥生早期につくられた土器が発掘された。さらにその下から縄文中期の土器と打製石斧も出土した。また縄文土器に伴って韓国櫛目文土器が出土した。

☆対馬における弥生時代の遺跡は、南端のつつ地区から北端の豊地区に至るまで、各地の浦で知られているが、それらの浦々に共通した条件として、後背にいくらかの耕地をひかえ、前面に良好な入り江をもっていることで、全体に南部(下島)より北部(上島)に多く、西海岸の中央部(図19~27)に遺跡の密度がもっとも高い。弥生文化の発祥地(北部九州)に近い東南部(厳原町東海岸)に遺跡が少なく、韓国南部と向き合った西北部(上県町、峰町西海岸)に多いということは、一見奇異な感をもたせるが、これは南部に良い入り江が少ない地理的条件によるものと考えられる。

そこで主要な遺跡をあげてみると、先ず豊玉町曽の住吉平遺跡(図28)があり、ここでは縄文晩期の夜臼式土器を出した貝塚と、弥生初期の板付Ⅰ式・Ⅱ式土器(福岡市博多区)を出土した貝塚が相接していた。また峰町三根浦の沿岸には、夜臼式土器を出土した吉田貝塚と、板付I式・Ⅱ式土器を出土した三根の井手遺跡(図19)があり、この状況から見て、対馬でも北部九州と同様に、縄文文化へと以降した過程が知られる。なお志多留貝塚(図11)の上層からも板付式土器が出ているが、この時期の遺跡から太い蛤刀の磨製石斧や、抉入石斧、石包丁など、初期の稲作農耕にともなう大陸系の石器が出土していることも同じである。

続く弥生前期の遺跡として、宝満山(厳原町)、賀谷洞窟(美津島町)、志多留(上県町)、泉(図2)…(上対馬町)があり、前期後半から中期前半の遺跡としてつつ地区(図56)…(厳原町)、鶏知(図53)・玉調(図47)…(美津島町)、仁位・佐保(図35)・水崎(図41)…(豊玉町)、三根(図20)・吉田(図26)…(峰町)、仁田・志多留(図11)…(上県町)と、全島的な分布をしているが、その数は少なく、密度がうすい。このころの特色を示す出土品として、有柄式磨製石剣・磨製石鏃があり、中期になると細形銅剣も出てくるが、これらは朝鮮半島からもたらされたものにちがいない。

そして『中期後半(およそ一世紀)になるとにわかに遺跡が増加』し、これより後期にかけて、空前の活況を呈したことがあらわれている。それは舶載の青銅器や鉄器、玉類を輻輳した墳基が出現し、後期になると巨大国産銅予(広予)が大量に移入されていることなどから考えて、このころ、重大な歴史的変動があったことは間違いなく、それは対馬国の誕生を示すものと推量される。『永留久恵著 古代日本と対馬 より』


四千年前~三千年前(縄文時代後期)の対馬

11……志多留貝塚

12……越高遺跡

16……佐賀貝塚

縄文時代は、採集、狩猟、漁労に生活の基盤をおいた時代である。縄文とは、縄やむしろのようなものを押しつけた文様があることから名付けられたもので、この縄文文様の土器を製作し使用した時代を縄文時代とよんでいる。この土器を出土した対馬の遺跡は、人骨のほか建物跡や腕輪、装飾具が同時に発見された佐賀遺跡、そして上県町西部の志多留地区で発見された『志多留貝塚(4000年前~3000年前頃)』である。

この志多留貝塚は、広い範囲に貝層が断続し、中心部では、上下ニ層をなしている。その上層は弥生中期から前期、ところによっては縄文晩期を含み、下層は、縄文後期の出土品がある。

出土品は、8体の人骨、3000年前の縄文層からは北部九州の黒曜石の鏃(矢じり)や骨で作った狩猟具・鐘ヶ崎式土器、弥生層からは対馬で唯一の石包丁が出土している。この発見は、ここで稲作が普及していた可能性を強く示唆している。

対馬の郷土史家 永留久恵氏が、サイコーメトリー(超能力の一種)などによって得られた情報によると、貝塚は、縄文人が大量の貝殻や、獣・鳥・魚の骨、植物の種子などの食べかす、壊れた道具などを捨てた「ゴミ捨て場」だと考えられている。しかし、貝塚からは丁寧に埋葬された人骨や犬の骨も出土している。このため、縄文人にとっての貝塚は、自然の恵みや道具に感謝するとともに、供養と再生とを祈った「聖なる送り場」でもあったのではないかという説もある。私は、この葬地=聖地説をとりたい。志多留地区には縄文時代後期から、弥生、古墳時代の遺跡があるということで、単なる「ゴミ捨て場」ではなく、むしろ祭祀は、茂地の木の枝に貝殻、魚の骨、木の実の殻など、人間の食べた物を掛けて、神への感謝の祈りを捧げるというものだった。木の上には山の幸、下の方には海の幸をかけて奉っていた。その祈りとは、天の恵み、山の恵み、海の恵みが増え、また食べられるように、そして、日が照り、風がなぎ、海が荒れないようにと願っていた。

ここの祭祀を司っていたのは、女性である。彼女たちは幼いうちからシャーマンとして集落の子供の中から選抜され、初潮を迎えたときに【神の妻】としてのイニシエーション(通過儀礼)を受けた。そのイニシエーションとは、目と喉を潰して、何も見えず、何も話せなくするというものであった。失明させることによって、心の眼を開眼し、声を奪うことによって、余計なことを話さず、秘密を守ることができる。神に仕える巫女には、人と神の間を取り次ぐ霊媒としての機能だけが要求され、神や人の声を聞く耳だけがあれば十分であると考えられた。肉眼は神の姿を感得するのにじゃまであり、託宣を依頼する人の姿を覚えることを回避する必要があった。こうして、巫女として選ばれた女性は自分の一生を神事を執り行うための人生として捧げたのである。

志多留集落に住んでいた人は方角をとても気にしていた。病気を退散させる方向、死者の向かう方向、新しい魂がやってくる方向といった具合に、方角によって祭祀のやり方、祈りの内容も異なっていた。たとえば、死者の供養といっても「成仏してほしい」と思って祈るのではなく、死者の世界、黄泉の国に〈送って〉、戻ってこないように念じるというものであった。もっといえば、死んだものが「こちらの世界」に甦ってくることを極度に恐れていた。

こうした呪術の痕跡を物的証拠によって裏付けることは困難であろう。ただ、志多留貝塚の発掘調査を通じて判明したこと重ね合わせてみると、

☆多種類の貝殻、土器、魚類、哺乳類、鳥類の骨、石器、骨角器、黒曜石が出土した。

☆縄文時代特有の屈葬人骨がニ体出土した。腕に貝輪をした老男性である。頭には石が置かれていた。人骨は頭を北の方角に向けていた。

☆人骨と共に、珍しい貝殻、玉石、獣の牙で作った垂れ飾り、腕輪が出土しており、これらは呪いをするときに使う霊具であると思われる。それを着装した人物は呪術者であると考えられる。

ということで、少なくともこの貝塚自体が〈送り〉の葬地でもあり、呪術的な意味を持っているのではないかと言われている。


4000年前・縄文時代後期の対馬

★4000年前……、対馬市中部東海岸の佐賀貝塚(☆1)で、縄文時代後期(約4000年前)の北太平型漁具といわれる回転式離頭銛・結合式釣り針(北海道には縄文早期から、三陸方面には前期からあった)などが出土した。

また、南方系海民と観られる人骨が出土し、さらに南海産の貝殻を呪具(まじないの道具)も出土して、列島を結ぶ交流がこの頃からあった形跡が推定される。また、その南北でなく、日本列島にはいない(朝鮮半島には確認されている)キバノロの牙で作った呪具も出土したことから、東北アジアの大陸文化とも接ししていたことを示している。

☆1・佐賀貝塚……対馬市中部の東海岸、峰町佐賀で縄文時代後期頃に、古代の人が食した魚、獣の骨や貝殻、土器などを捨てた場所。

貝塚を構成する貝種は50種類で、魚骨、鳥骨、海獣骨が含まれてある。

▼土器は縄文後期を中心とし、朝鮮半島土器も1点出土している。

▼石器の特徴としては打製石斧が312本も出土しており、石斧の生産、供給基地となっていたと考えられている。

▼この他、400点以上の骨角器が出土しているが、この中には北海地域まで海獣の捕獲に使用される離頭銛や東シナ海で用いられる『地獄針』と呼ばれる釣り針もあり、韓国南部海岸から西北九州での漁労方法が似通っていたことを示している。

▼鹿笛と呼ばれるシカの角を加工した特異な狩猟具が出土している。


四万年前~約六千年前(縄文時代前期)の対馬

★4万年前~1万数千年前(氷河期)……氷河期の4万年程前、対馬は大陸と陸続きであったので、対馬の先住民は氷上を歩いて北方(大陸)へ、南方(日本列島)へと交易を行っていたと言われています。一万数千年前、樺太は大陸と陸続きで、対馬海峡(朝鮮海峡)は川ほどしかなく、日本列島はほとんど『弧』に近い半島だった。

一万数千年前の対馬海峡

★10000年前……およそ1万年前に氷河期が終わり 、現在の朝鮮半島と日本列島との間が切れて、それまで大きな湖であった日本海が東シナ海に通じて、対馬は『島』として誕生した。この頃の対馬の地勢は南北約88キロメートル、東西約18キロメートル、海岸線の長さは915キロメートルにも及び、面積は約710平方キロもあった。現在と同じような温暖湿潤なモンスーン気候が広く覆うようになった島は、各地に実り多い恵みをもたらす森林が発達し、採集、狩猟、漁労によって得た海の幸山の幸のさまざまな食料資源を活用し、豊かな文化を育む縄文時代の生活が始まったと言われています。

また対馬の人々は当時先進国であった中国や朝鮮の文化を採り入れるために大陸へ『海のシルクロード』をつくり海商となって交易を行い、北九州や大和に伝えていた。この頃の対馬を根拠とする海女族は古代の政治に大きな影響力を持っていたということで、後の日本書紀や古事記が伝えた海幸彦山幸彦物語は、この対馬のことであります。

縄文・弥生・古墳時代の遺跡地

★8000年前~6000年前(縄文早期)…8000年前頃からモンゴル南部オルドスの騎馬民族が使っていたと言われているオルドス青銅器が対馬で出土している。

越高遺跡(図12)、久原遺跡(上県町)、西加藤遺跡(図41)では縄文早期(約10000年前~6000年前)の土器が出土しており、中でも西加藤遺跡からの土器が対馬で一番古いとされている。また、久原遺跡で出土の土器は、貝殻による押し引き紋であることから南九州系の早期末の土器と考えられている。

対馬の北端にある鰐浦地区から南南西へ約20キロのところに位置する越高遺跡☆1(8000年前~6000年前)では、北九州の縄文文化の土器・石器などや、韓国東南部(釜山の東三洞貝塚遺跡☆2など)の櫛目文文化の土器や石器などが出土しており、対馬を中心とした韓国東南部と北九州との交流があったことを示唆してくれている。

☆1・越高遺跡……8000年前~6000年前(縄文時代早期末~縄文時代前期初頭)の対馬最古の遺跡。韓国釜山の東三洞貝塚出土の韓国石器時代の隆起文土器(りゅうきもん)と同じものが発掘された。縄文早期頃は韓国系の土器が多く、次第に九州系の土器が増え、縄文前期は韓国系土器が多く発見されている。

石器に関しては、黒曜石とそれを加工した、北九州ではよく見られる大型の石鏃(矢じり)が出土されている。

8000年前~6000年前から大陸と日本列島の間に対馬を挟んで交流があったことが確認された。

☆2・東三洞貝塚……東三洞貝塚では新石器人が日常生活に使用した多数の櫛文土器が出土しています。櫛文土器は使い方によって色々な形に分けられ、基本的な形は底部が丸いか、それとも平たい鉢です。鉢は食べ物を煮たり保管したり、壺は主に保存用として使われていました。この他特殊な目的や葬式用に使われた彩色土器、磨研土器、船形土器等もあります。

東三洞貝塚の人々は、周辺で求められる石や動物の骨、貝殻、あるいは交易を通して獲得した黒曜石のような材料を用いて日常生活と生活活動に必要な形の道具を作りました。

狩猟用・漁猟用には鏃、槍先、骨銛、釣り針、漁網錘などがあり、それらを使って鹿、猪、マグロ、サメ、鯨、ボラ、真鯛等を確保したり、サザエ、ハマグリ、巻き貝、ホタテ貝、ウニ等の貝類なども採取して重要な食料資源にしていました。

東三洞貝塚をはじめとする韓国東南部の各貝塚等から出土した日本の縄文土器・石器・黒曜石と九州の西唐津海岸遺跡、対馬佐賀遺跡、対馬越高遺跡から発見した各種櫛文土器と装身具等で当時の文化交流の様相がよく見られます。東三洞貝塚から出土した各種縄文土器と黒曜石製石器は当時の東三洞貝塚人が海を越えて日本地域と直接交流したことが分かる跡であり、特に多数出土した貝製腕輪は韓国の色んな地域だけでなく、九州地域の黒曜石との交易物として対馬等に供給されたものと思われます。

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