ビバ・デュアリティ!(私が二重化する日)・・・パート1

https://ameblo.jp/tomel31/entry-12094532629.html 【ビバ・デュアリティ!(私が二重化する日)・・・パート1】 っより

デュアリティの日!

みなさん、こんにちは。

1ヶ月ぶりのブログ更新となります。

本日は11月11日。何やら巷ではポッキーの日というらしいですが・・・。

11と言えば、デュアリティ、日本語訳はずばり「双対性」!

その11が二つも重なってるんだから、マジヤバイ、「デュアリティの日」です!

本日のお題は「ビバ・デュアリティ!・・・私が二重化する日」。

ビバデュアリティ

前々回から2回に分けて、「ワンネス」の注意点について書かせて頂きました。

一見聞こえの良い「ワンネス」ですが、実は諸刃の剣なのだということをお伝えしたかったのです。「一つになろう」というスローガンが持っている罪深さを明らかにしたかったのです。この言葉の下にどれほどの抑圧と暴力が行われてきたのか。そして現在も行われているのかということを。

ヌーソロジー的に言えば、この世界は既に一つにさせられてしまっています。いわゆる物質世界、そしてひとつの時空として。地球規模ではグローバル化、ワン・ワールド。最近になってようやくこのグローバル化が諸悪の根源であったということを人々が理解し始めています。グローバル化・平準化というのは人々に万遍なく恩恵をもたらすようですが、同時にローカル性、つまり一人一人の、地域ごとの良さや差異をむしりとってしまう弊害があります。量的なものが幅をきかすようになり、そうなると強いものが勝つようになります。強いものが弱いものを抑圧する。ジャイアンの台頭する世界。

ヌーソロジーが目論んでいるのは、ひとりひとり固有の場所、固有の空間があるじゃないかと。それは永遠不変で絶対的な場所であり、大切なもの、価値の基準となるところ。ず~とず~と前から存在し、これからも存在し続けるところであり、その場所を取り戻そうということです。私の本当の家。「アナスタシア第4巻」で語られている「各自が建てるべき家」とはそのことの比喩でもあるでしょう。そして12歳のイエスが行方不明になった時、心配した両親に語った言葉「どうしてわたしをお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)も同様のことです。

各自の家、固有の空間・・・それを「差異」と言います。それは他との比較による「違い」ではありません。「他との比較」とは横の価値観、幅の世界です。90度回転させなければなりません。縦の世界、奥行きです。「それ自身との関係」という世界に入ります。それが「差異」です。それこそが存在の根拠となる場所です。「内部空間」・・・魂や霊の空間です。まず各自がその場所を取り戻すこと。「天上天下唯我独尊」です。まさしく「自分教」ですね。

安易なワンネスは、この大切な空間を「台無し」にしかねないのです。この空間が失われれば、人は必ず消耗していきます。やがてその果てには「虚無」が待っています。虚無は真実の方向性とは正反対です。ある意味分かりやすい指標ですね。「にわか悟り」が「良いも悪いも無い」というかも知れないけれど、方向性の間違いは「虚無」という結果を突き返してくれるでしょう。

悟りは「差取り」だとよく聞きます。「差を取って、違いがない、みんな同じだ」ということが分かるようになることだと。これは「差を取り除く」という意味でしょう。現象としてそういう面はあります。しかしヌーソロジー的にはそれとは正反対なのです。悟りとは「差を取る(=テイク)」、つまり「差異」を見いだすということなのです。「違い」をはっきりさせることなのです。何と対照的な違いでしょうか。この違いを前々回のブログから2回に渡って構造的に説明しました。「中和のワンネス」と「等化のワンネス」ですね。

さてそうすると「あなたはワンネスに反対なのですね」と思われるかも知れません。「ワンネス」そして現在流行している新しい潮流としての「ノンデュアリティ」。ですが反対してるなんてとんでもない誤解です。反対どころか大賛成なのです、この潮流に対して。ノンデュアリティは「変換人型ゲシュタルト」としてデフォです(→デフォルト・初期設定・標準装備)。

半田広宣さんはシリウス革命(1999年著)の中で以下のように書いておられます。

(冥王星のオコツトより)・・・覚醒とは人間の個体性が意味を持たなくなることを言うのですから、人間の個体という次元で起こる作用ではありません。ですから、「誰かが覚醒を起こした」などといった表現自体が意味をなさないのです・・・

書かれたのは1999年ですが、この情報自体はさらに10年ほど前に受け取っておられます。

この言説は、昨今のノンデュアリティのティーチャー達が語る内容と全く同じですね。

・・・この感覚によって人間の内面性に見出されていた個我の位置、つまり身体の位置はほとんど意味を失い、自我は自然消滅していきます・・・(シリウスファイル:19911122)

コーセン:「ちょっと待って下さい。では私たちが現在、宇宙と呼んでいるものは何なのですか」

オコツト:「すべて有機体の妄映です」

オコツト:「4次元対称性の認識が生まれてくると、物質という概念は全く意味をなくしてしまうでしょう」

コーセン:「物質という概念が意味をなくす・・・・・?どういうことですか、4次元では物質が存在しなくなるということですか」

オコツト:「概念がなくなるのですから、物質が消えてしまうと言ってもよいのではありませんか。とにかく、あなたがた畏怖している1999年の人類滅亡とは、物理的にこの地球が壊滅するということではなく、人間の世界認識に極めて大きな変化が起こり始めることと考えて下さい。」

(人類が神を見る日p88より抜粋)

新しい潮流としての「ノンデュアリティ」とは、まさにオコツトが言うところの「人間の世界認識に起こりつつある極めて大きな変化」というこですね。この潮流はどんどん発展していってもらいたい。ノンデュアリティは大いに流行していくべきです。それによって「人類滅亡」がもたらされます(苦笑)。半分冗談ですが、半分は大真面目です。

さてさて、その後からです・・・「ノンデュアリティ」と「ヌーソロジー」が袂を分かつのは(笑)。ノンデュアリティのティーチャー達を拝見していますと、大抵はそこで留まろうとしているように思えます。手に入れた「自我解体の公式」を使って、何度も何度も千本ノックのように公式を反復することで、ほぼ全自動で自我を解体し続けられる・・・。ノンデュアリティのティーチャー達に垣間見られる「無機質な台無し感」はそういうところに起因しています。何ものも寄せ付けないような。ですがそんな外野の反応など目もくれず没頭し続けられる・・・それぐらい魅力的な世界です、ノンデュアリティは。人間世界の辛酸をなめ尽くしてきたような人ならなおさらです。そこには不動の静寂があります。「人間」にまつわるあらゆる弱さや欠点が丸ごと落ちてしまうのですから!

実はこのような態度はノンデュアリティに始まったことではありません。「熱心な信仰者」もある領域に達すればこうなります。20代の頃、自己啓発系の教材からあるエピソードを知りました。それは自動車王フォードの言葉・・・「神様がいるのだから、もう何も悩む必要は無い」・・・といった内容でした。これには本当に驚きましたね。単純明快な言明。これはキリスト教信仰の「到達地点」です。「神がいる」・・・これがもう答えだというのです。全ての問題を解決するマスターキー。全ての問いかけはここで終わるのです。「神がいる」・・・これで人間の苦しみは終了だというのです。これがキリスト教の横綱級の信仰なんですよ。悩みが生じるのは「不信」してるだけということ。何を?って、「神の存在」をですよ。

一つの得た公式で全てを斬り、一切例外を認めない・・・これは一つの手法です。「ジェネラティブ・トランス」・・・自己創発的なトランスです。トランスとは変成意識。変成意識状態というのは早い話、「現実より意識の方が上位」になってる状態です。この場合に大事なのは主導権を自分が取ること。自分が何をやっているのか、ということをよく知らねばならない。トランスを上手に乗りこなせれば、人間は現実に対して主導権を取るようになります。こうなれば何でも実現できるようになります。

「信仰」の場合はその根拠となる「情報」が他者からもたらされる場合が多いです。そうなると「ジェネラティブ・トランス」は創発できません。必ず情報の提供元が主導権を握るようになります。これが洗脳でありマインドコントロールです。どれだけ自分で頑張ってもその根源を他人に捕まれていますから、自家発電状態、つまりフリーエネルギー状態にはなりません。それで外部からエネルギーを収奪してくる必要が生じます。これがエネルギー・バンパイアが繁殖する仕組みです。そして必ずや悲劇的な結末を迎えます。

ノンデュアリティの場合は自分で考えよう、考えて自分で自分自身を見つめて、その現場で自分自身で発見しましょうということですから遙かに健全だと言えます。自我が実は幻想であることを「直接見ること」で発見していく・・・。ヌーソロジーで言うところのψ3空間(人間の外面)の発見、そしてその対化としてのψ4空間(人間の内面、物質としての無の領域)の発見ということですね。「色即是空」を見抜くということです。

お~と、まったく本日のお題「ビバ・デュアリティ!」に近づく気配がありません。これはまた長くなりそうな。今回もまた二~三回に分けることにします。ですが続きは早めにアップしますね。すみません。

最後にまとめと提言をしておきましょう。

・ワンネスには注意が必要である。

・安易なワンネスは「差異」を台無しにしてしまう恐れがある。

・ヌーソロジーの目論見とは各自が「差異」を見出すこと。「同一性の解体」とも言う。

・「差異」は各自固有の家、内部空間。魂の空間。

・ヌーソロジーはノンデュアリティ(非二元・ワンネスと同じ)に反対しているのではない。

・むしろノンデュアリティは変換人としてデフォ(標準装備)である。

・ノンデュアリティはそこで留まろうとする。ヌーソロジーはそこから出発する。

ノンデュアリティを標準装備とする変換人はそこからどこへ向かうのか。それが今日のお題、「ビバ・デュアリティ!」ということです。

「"ノン"デュアリティ」ではなく「デュアリティ」です。デュアリティは二元性というよりも「双対性」という訳の方がいいでしょう。ヌーソロジーは双対性宇宙論なのですから。

「宇宙全体の自己他者構造」という大きな双対性もあるのですが、今回テーマにしたいのは自分自身が「双対化」していくという点です。自分自体の中で双対性が顕著になっていきます。自分自身がデュアル化していく。デュアルエンジン・・・4サイクルのデュアルエンジンです!ノンデュアリティは2サイクルの結果もたらされた一元性(非二元性)、2サイクルのシングルエンジンでしょうか。

それに対して変換人型ゲシュタルトは4サイクルのデュアルエンジンです。これこそ本日11月11日が表していることなのです!!・・・とお後がよろしいような感じですが全然よろしくない! 肝心の本題が次回になっちまった!本当に失礼しますた。続きをお待ち下さい。ほどなくアップしますから。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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