柳田国男 サンカの民「実在」を信じた

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15832164 【【福嶋敏雄の…そして、京都】(56)柳田国男 即位式に興奮…サンカの民「実在」を信じた】 より

 京都の街は御所を中心に栄えた。「右京」や「左京」といった区名、「下ル」や「上ル」といった地名表記も、すべて御所を中心にしている。現在も市民や観光客の憩いの場として、御所にかこまれた御苑はにぎわっている。

 この御所で大正4(1915)年11月、大正天皇の即位式や大嘗祭(だいじょうさい)が営まれたことは「森鴎外」の項でとりあげた。式典には、もうひとりの文人も参列した。

 貴族院書記官長で民俗学者、柳田国男、40歳である。すでに『石神問答』や『遠野物語』を上梓し、民俗学研究の機関誌「郷土研究」の刊行をはじめていた。式典について、柳田は「大礼の後」という短いエッセーを書いている。

 「一言にして言へば此時、我々の祖先は目覚めた。日本が永く日本でなければならぬ実状が発露した。しかも同時に時代の改まったことが今更ながらしみじみと感ぜられたのである」

 宮中最大の儀式に参列できたことで、柳田はさすがに興奮していた。当時の新聞談話では、「一家の名誉」とまで語っている。

 だがこの京都滞在が「柳田民俗学」にとって意味を持つのは、柳田がサンカを実見したと、思いこんだことである。10年後に書かれた『山の人生』には、こんな一節がある。

 「京都の御大典のとき(略)、なお遠く若王子(にゃくおうじ)の山の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼等はわざとそうするのではなかった」

 若王子山は御所から見て東南方向の、なだらかな山である。ふもとには南禅寺の伽藍(がらん)が建っている。

 柳田は、その山の中腹でサンカが火を燃やしていた、もちろん大典を祝して燃やしているのではなく、食事の仕度などをしているのだろう--とみなしたのである。

 「山窩」「散家」「山嫁」などとも書かれるサンカは、山から山を漂泊し、戸籍にも編入されていない化外の民にことである。箕(み)や箒(ほうき)、籠作りなどを生業として、ときたま山から人里におり、米などと交換したといわれる。

 作家の三角寛がセンセーショナルに取りあげてから知られるようになったが、現在の民俗学では、一時的に山にこもった民はいたが、サンカそのものは「非実在」が主流となっている。

だが柳田は、サンカや山人(さんじん)の実在を信じていた。かれらを、「天孫族」である日本人とは別種の、村落共同体のワクから除外された先住民とみなしていた。「郷土研究」にも「拙者の信ずるところでは、山人はこの島国に昔、繁栄していた先住民の子孫である」と断じている。

 『遠野物語』いらい、柳田はそうした先住民の遠い足跡を追いつづけた。山人やサンカだけではなく、イタカ、毛坊主、天狗などについて、同情と愛惜にみちた文章をつづっている。

 日本人という民族を、日本人ではない先住民族の視点から複合的に見なおす初期の柳田民俗学は、だがこの『山の人生』以降、大きく転回する。サンカや山人にたいする関心は急速に薄れ、やがて「常民」と呼ばれる稲作農耕民の世界に踏みこんでいった。いわば、山から里に降りていったのである。

 民俗学のフィールドをせばめてしまったことについては、「転向」とみなして、さまざまな批判が出ている。柳田の学問が「一国民俗学」とか「新国学」といわれるゆえんである。

 若王子山からたち昇った幾筋もの白い煙は、サンカが燃やしていたとは、筆者などは思えない。大典を祝して、京の人々が燃やしたのであろう。

 柳田がサンカだと信じたのは、関心が薄れつつあった先住民にたいする愛惜からではないだろうか。


http://fanblogs.jp/bukki/archive/57/0 【サンカと神代文字】より

4月2日のブログhttp://fanblogs.jp/bukki/daily/201404/02/で古史古伝の話を書いた。その中で、漢字が到来する以前にあったとされる神代文字について触れた。今回テーマとした「サンカ」もその神代文字が深く関わってくる。サンカを取り上げた理由は、定住地を持たない職能民として、全国を渡り歩いたことの歴史的な背景と、現在の生活状況に興味があったから。西欧ではジプシーの存在がそれにあたり、独自の生活規範や部外者との排他的な交流などが余りにも似ている。

 サンカの存在を初めて世の中に知らしめた民俗学者・柳田國男は、サンカを「原日本人(あるいは縄文人)でヤマト王権により山間部に追いやられた異民族」とする説を打ち出した。また、「動乱の続いた室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源」とする説、「江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱までの間に山間部に避難した人びと」という説もあり、これまではっきりと説明できたものは見当たらない。いずれにしても、時代の国家権力に馴染まなかった、山の生活を基盤とした「まつろわぬ」人々で、原始的共同体を維持しているという特徴を持つ。生活規範は異なるが、体制から自ら離れた落ち武者部落民や被差別部落民との関わりも当然あるだろう。

 このサンカが漢字やカタカナ、ひらがなではなく独自の文字を持っていたといわれている。サンカの使っていたとされる文字は、神代文字の「豊国文字」とそっくりで、同じ時代に形作られたもとだとすれば、豊国文字で記された「上記(ウエツフミ)」との関わりも否定できない。『上記(ウエツフミ)』は1837年(天保8年)に豊後国(現在の大分県)で発見された豊国文字で記されている古史古伝のひとつ。古事記、日本書紀以前の伝書(ツタヘフミ)で、 神話や伝承の他に民俗、習俗、地理、言語、暦制、天文、教育、医薬、医学など多岐にわたり記されている。

 序文には、1223年(貞応2年)に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したとある。記載されている主な内容としては「神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代」「中国に農業や文字を伝えたのは日本」「日本では精密な独自の太陽暦があった」などがある。また、サンカに伝わる伝承として、「仲間を1600人も殺され、神代からの書物一切を奪われた」、その後「自分達の文字は一切秘密となり、仲間以外には見せなくなった」とある。

 山の民といわれるサンカも、昭和40年代後半には地域社会に溶け込んだことから姿を見ることがなくなったという。先祖がサンカだったという事実を知らない、あるいは親から教えられない世代がほとんどを占めているようだ。

独自の文字を持つからには、文化や世界観も一般の日本国民とは異なっていたと考えられる。特に歴史については、古事記や日本書紀の正史と相容れない内容を子々孫々に伝えてきたのだろう。サンカの研究者は多いと聞く。その研究者たちが、サンカの視点で日本の歴史を解き明かしていくことを期待している。

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