https://senjp.com/raikou-mi/ 【源頼光「大江山鬼退治」わかりやすく2分で解説】
源頼光 大江山鬼退治
源頼光(みなもと-らいこう)は、948年の平安時代中期に生まれた武将で、正式な読み方は「みなもと-の-よりみつ」となります。
父は、摂津国多田荘を相続した多田源氏の祖・源満仲/多田満仲(ただ-の-みつなか)で、母は、嵯峨源氏で貴族である源俊(みなもと-の-すぐる)の娘です。
父・源満仲と源頼光は、摂関政治を行っていた藤原道長に仕えた側近であり、武勇に優れた弟・源頼親(大和源氏の祖)、源頼信(河内源氏の祖)なとがいます。
地方など各地の国司も歴任したことから、一族は「武勇人」として盗賊の追捕にあたり、治安回復にも努めています。
源頼光の家来としては、母方である嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭に、坂田金時、碓井貞光、卜部季武と言った「頼光四天王」と言う屈強な家臣がいました。
坂田公時は、相模・足柄山「金太郎」で有名です。
1018年3月、一条天皇より、大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、源頼光は、頼光四天王4名と、嫡男・源頼国、藤原保昌ら総勢50数名を引き連れて、摂津国大江山へ向かい夷賊討伐(いぞく-とうばつ)を行いました。
大江山(おおえやま)は京都府の北のほう、天橋立と福知山城の中間あたりと申し上げますと、分かりやすいでしょうか?
その大江山には「土蜘蛛」(つちぐも)と呼ばれた、大和政権と言った中央政府に従わない野蛮人・盗賊の勢力がいて「鬼」とも呼ばれていました。
その首領の名は「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と言い、茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子など多くの鬼を従えていたと言います。
源頼光らは、山伏の姿に変装して、出家には手を出さない酒呑童子に接近し、接待を受けると、手土産の神変奇特酒(眠り薬入り酒)を飲ませて、成敗したと伝わります。
茨木童子(いばらきどうじ)は渡辺綱と戦いましたが、逃亡したとされます。
なお、源頼光が酒呑童子の首を刎ねた刀は、「童子切安綱」(どうじきりやすつな)と呼ばれ、古来、天下五剣に数えられる名刀の筆頭です。
豊臣秀吉、徳川家康・徳川秀忠も、この童子切安綱を所持し、現在は、国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵されています。
<注釈> 有料で見学できる展示物は、収蔵品の中から、期間を定めて交換して展示されるため、いつも展示されているとは限りません。(公式サイトで展示内容を要確認)
模造刀「童子切安綱」太刀
源頼光は、御伽草子(おとぎそうし)などで、化け物・妖怪退治の第一人者となっており、大江山鬼退治は、能・歌舞伎として今日に伝わり、映画・宝塚歌劇・ドラマにも、酒呑童子などが登場しています。
1021年7月19日、源頼光は死去しました。享年74。
源頼光の子孫としては、戦国武将の小国重頼などがいます。
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kimon.html 【平安京の鬼門と守護・鎮護の神仏】より
北東は鬼が出入りする方角とされ「鬼門」と呼ばれていました。
そのため、平安京では北東に延暦寺・日吉大社・貴船神社・鞍馬寺を配置、裏鬼門と呼ばれる南西の方角には石清水八幡宮を配して魔を封じたのだそうです。
参考までに・・・
貴船明神が降臨したのは「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」で、鑑禎(がんてい)が鞍馬寺を開いたのは「寅の月、寅の日、寅の刻」なのだとか。
鬼門(丑寅)の方角にあったからなのでしょうか・・・
~御所の鬼門にあった安倍晴明邸~
晴明神社
陰陽師・安倍晴明の屋敷は、御所の鬼門の位置にあったそうです。
晴明神社は、晴明の屋敷跡に建てられた社。
朱雀門は、平安京(大内裏・平安宮)南面の宮城門で、朱雀大路の北に設けられた平安京の正門でした。
~鬼門除け・鬼門封じ~
鬼門除けの猿
赤山禅院も平安京の鬼門の方角にあります。
拝殿の屋根には猿が置かれていますが、猿(申)は、方位でいうと鬼門の反対である西南西を指すことから、邪気を払う力があるとされているようです。
京都御所の北東の築地塀は凹んでいて、築地屋根の蟇股には猿が祀られています。
猿は日吉大社の神の使いとされています。
鬼門封じの石垣
石清水八幡宮の社殿の石垣は、北東の部分が切り取られています。
牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅の方角「鬼門」(東北)を封じるためのものなのだそうです。
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