大籠 東北の隠れキリシタンと伊達政宗の野心

https://ameblo.jp/o-tude/entry-11955698709.html 【大籠 東北の隠れキリシタンと伊達政宗の野心】 より

「架場(はしば)…」 凄い地名だな…

やや日が傾きかけた午後。実を言うとそのバス停を初めて見たとき、内心そう思いました。

“架”という漢字は例えば「十字架」と用いられるように、本来「柱に木や板をかけわたす」意味があります。でも、私はこのあたりで昔なにがあったかを予め学んで来ていたおかげで、この地名をみておおかた由来を察知できました。

それはつまり、ここが「首を架けた場所」だったということです。

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諸星大二郎の漫画に『生命の木』という名作があります。

1976年に発表されたこの作品は、東北のとある隠れキリシタンの里を舞台にした伝奇ものですが、独自の創世記や隠れキリシタンの弾圧史を織り込み、独特の作風とあいまって奇妙な迫力をもっています。

初めてこの作品を読んだ時、そもそも東北に隠れキリシタンなどいたのだろうか…と、たいへん興味を持っていると、ある地域で隠れキリシタンの大弾圧があった歴史に行きあたることがありました。

それが、岩手県の大籠という場所です。

岩手県一関市の中心部から車で約1時間ほど。

宮城県との県境にある大籠地区は車以外での交通手段が難しい辺境の地で、かつて藤沢町の一部でしたが、現在は平成23年の町村合併で一関市に編入されています。

冒頭の「架場バス停」で大籠地区に入ったことを知った私は、まず大籠キリシタン資料館に立ち寄ってみました。

江戸期の大籠地区は仙台藩領として伊達家の支配に属しており、たたら製鉄の盛んな土地でもありました。

この地にキリスト教信仰が持ち込まれた正確な経緯はよくわかっていないようですが、ここでは永禄元年(1558)、備中から招いた千松大八郎という製鉄技術者が伝えた、と説明されています。

―慶長三年より、元和にかける迫害が大籠にも開始されるようになった。けれども辺地の千松に依って蒔かれた種はすくすくと生長し、強い迫害にもひるまずキリストの教えは確固たる地盤の下に信仰の根を養っていたのである。 (『大籠の切支丹と製鉄』より)

藤沢町文化振興協会発行の冊子『大籠の切支丹と製鉄』を読んでいると、やけに肩入れした前フリが目立ちます。

これは他の隠れキリシタンの里(例えば天草や長崎など)でも散見されるクセのようなものですが、キリスト教を信仰あるいは擁護したい者の意向が十分含まれた資料の特徴で、もとより中立性や客観性は期待できません。

しかし綿密な調査をもとに点在する史跡をあきらかにしている点で価値があるのと、この地では今もキリスト教、あるいは教会が一定の影響力をもっていることが推察される点で参考になります。

ではなぜ、大籠のキリシタンは弾圧されたのか。

この地を統治する仙台藩伊達家は、当初キリシタンに温情的でした。

それは支倉常長がスペインへ派遣された「慶長遣欧使節」にみられるように、藩祖・伊達政宗が外国とのつながりを重視したためもあったでしょうが、大籠の地においては製鉄の労働力を重視したためでもあったでしょう。

たとえば、大坂の陣で「騎馬鉄砲」という他家にない兵科を用意できた伊達家の経済基盤には、この大籠の存在があったかも知れません。

また、慶長8年(1603)、徳川秀忠に謁見したスペインの宣教師ルイス・ソテロが東北地方で布教活動を許された例があるように、徳川幕府も当初は禁教に積極的ではありませんでした。

が、スペインなどが植民地政策の一環として用いたキリスト教とそれに感化されたキリシタンたちは幕府体制に組み込まれることを嫌い、当時貿易相手だったイギリスやオランダが幕府に忠告するまでになりました。また、外国勢力に接近する伊達政宗の姿勢は、やっと戦国の世を終わらせた幕府にあらたな危機を感じさせるのに十分でした。

この危機感は、たとえば先の宣教師ルイス・ソテロが本国スペインの国王や宰相にあてて、

―スペイン国王陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するよう仕向けるしかありません。

―政宗は幕府によって迫害を受けている日本の30万人のキリシタンの力を得て幕府を倒し、みずから皇帝になろうとしている。

と記した書簡が残されていることからも、あながち的外れではないことが考察できます。

慶長17年(1612)。

幕府は慶長の禁教令を発布し、キリシタンを厳しく取り締まりはじめます。

当時、伊達政宗がスペインなど外国勢力と結託し、キリスト教の力を利用しようとしていたことには多くの状況証拠がありますが、幕府の嫌疑を受けた政宗は自らの保身のため、領内にいたキリシタンへの態度を一変させました。

保護していた彼らを、弾圧しはじめたのです。

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元和9年(1624)年。政宗のお膝元である仙台の広瀬川で、カルヴァリヨ神父ら9名が真冬の川に水牢で漬けられた末、凍死しました。

寛永13年(1636)、政宗が死去。

さらに寛永14年(1637)10月、あの島原の乱が勃発したことで全国的にキリシタン弾圧が加速します。

ここ大籠に多くのキリシタンが潜伏していることを把握していた仙台藩ははじめ、幕府には「転んだ(転宗した)」ことにして届けようとしたそうですが、それを知った信徒たちが「転んでない」と騒いだことから方針を転換。

そして、寛永16年(1639)からその翌年にかけて、大規模な隠れキリシタン弾圧が行われたのです。

架場のバス停から道路沿いに少し行った場所に、やはり首塚がありました。

架場(はしば)首塚です。

文字のかすんだ案内板にはこうあります。

「殉教者の首を曝首(架掛)にして後、その傍に穴を掘り、斬罪の理由書とともに埋められた」

左は「首実検石」。

仙台藩の検視役がここに腰を下ろし、処刑の模様を確認した場所なのだとか。

右は「地蔵の辻」。

首実検石から道一本をはさんだこの場所では合計200余名におよぶ処刑が行われ、流れ出た血が近くの二股川にまで及んで川を赤くした、と伝えられています。

 

左は「台転場」の跡。

地区の入り口であったこの場所には柵が設けられ、踏絵をもってキリシタンの詮議がなされました。踏めないものは地蔵の辻にて処刑されたと伝えられます。

案内板には「当時は毎晩亡霊が出て地元民を悩ませたため、南無阿弥陀仏の碑を建てた」とあります。

キリシタンの霊が化けて出て、南無阿弥陀仏で成仏した…のかどうかは大いに疑問ですが、このあたりが日本的信仰の面白いところです。

生き残った者たちは、もしかすると彼らのために十字架でも建ててやりたかったかもしれませんが、やはり禁教の世でそれは憚られたのでしょう。

右は「千松の墓」。

大籠に最初にキリスト教を伝えたという、千松大八郎その人の墓とされています。その所在はずっとわからないままでしたが、近年になって発見されたのだそうです。

その他にも、「上野刑場」「祭畑刑場」「トキゾー沢刑場」…と、大籠地区には10数ヶ所におよぶ処刑場跡などの関連史跡が点在していて、この異様さは島原や天草にもみられないものです。集落の規模と比較しても、その処刑者の多さには驚くほかありません。

―伊達家の保護で発達したキリシタンは、やがて徳川幕府より異端視される日が来た。

『大籠の切支丹と製鉄』では、「伊達家は幕府ににらまれてしぶしぶ弾圧を…」といったイメージをつくりたいようですが、藤沢町の教育委員会まで編集に名を連ねる冊子にしては陳腐な内容に思えます。

戦国期から江戸期にかけての歴史をあらためて眺め直してみると、この大籠で起こった大規模な弾圧のその源流には、「福音を宣伝する方策」に奔走するソテロとそれを信じた民衆、さらには伊達政宗の野心と保身の影がちらつくのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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