https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191216-444301.php 【【 松島 】 <島々や千々に砕けて夏の海> 絶景から生まれた『誤解』】 より
月光に照らされた松島湾。「ほそ道」からうかがえるように、松島の月は芭蕉の憧れだった仙台を出た松尾芭蕉と河合曽良は一路塩釜、松島へ。道中、多賀城の「壺碑(つぼのいしぶみ)」をはじめ歌枕や塩釜神社を巡り、船で松島に渡った。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)冒頭で「松島の月先心にかゝりて」と記していた念願の地だ。曽良の「日記」によると、到着は1689(元禄2)年5月9日(陽暦6月25日)の昼ごろ。快晴だった。
心ひかれる場所
260余りの島々からなる松島。日本三景の一つに数えられ、古くから歌枕、瑞巌寺を擁する霊場として知られていた。芭蕉以前には伊勢出身の俳人大淀三千風(みちかぜ)が訪問している。三千風が1682(天和2)年に出版した「松島眺望集」は芭蕉の句を「桃青」の号で収録。眺望集が松島行を促したとの見方もある。
「ほそ道」に従い、記者は塩釜港(宮城県塩釜市)から遊覧船で松島に向かった。船内ガイドによると、東日本大震災で一部が崩壊、変形した島もあるという。個性的な島々を間近に眺め、50分ほどで松島の船着き場に到着、「ほそ道」に従い「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。
にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに翁(おきな)の企(たくら)みがありそうだ。原点に立ち返ろう。
「ほそ道」は創作だ。技巧的には「白河の関」で披露した「絶景の前の沈黙」という「文学的ポーズ」(連載第9回「道標」参照)が想起される。黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である。俳聖をも黙らせる景観を求め、記者は高台の「西行戻しの松公園」へ駆け上った。
狂歌師流の諧謔
〈松島やああ松島や松島や〉。松島湾を見渡し口ずさむ。美人に「キレイですね」と言い寄っても仕方がないように、圧倒的な光景にただただ嘆息するばかりである。芭蕉の句と思われがちなこの歌。実は江戸後期の狂歌師田原坊の作で、感嘆詞の「ああ」は元々「さて」だった。仙台藩の儒学者桜田欽斎の松島案内「松島図誌」に収められ、流布したようだ。絶景を前に言葉を失った芭蕉への、狂歌師流の諧謔(かいぎゃく)といったところか。松島町文化財保護委員長の今野勝正さん(74)によると、町内では昔からこの歌が書かれた風鈴などが土産物として売られていたという。「庶民の間で広まったのだろう。地元でも勘違いしている人がいる」と笑う今野さん。「松島に参った芭蕉の姿をうまく突いているよう」と語る。
〈島々や千々に砕けて夏の海〉(「蕉翁句集」)。芭蕉は松島をこう詠んだ。「散在する島々。眼前に広がる夏の海に、美しく砕け散っているようだ」。描写の重複を嫌い採用を見送ったのか、虚飾を排した写生のような一句。「ほそ道」の華美な記述とは対照的だ。人知を超えた自然の造形を前に、虚勢など意味をなさない。陸海空が織りなす松島の眺望は、ありのままの人間を慈悲深く包み込んでくれるようである。すがすがしい表情で兜(かぶと)を脱ぐ俳聖の姿が浮かぶ。
「ほそ道」では、11日に瑞巌寺を詣で、翌12日に平泉へ出発。途中「道を間違え」、石巻の港で万葉歌人大伴家持も詠んだという金華山を望む。「日記」によると、瑞巌寺は9日中、雄島の前に訪れており、出立は翌10日。石巻は旅程に入っていたとみられる。道中、喉の渇きに苦しみ、宿に困り、大雨に降られた。旅の厳しさを演出し、石巻港からは地理的に見えないはずの金華山をも海上に眺めた。旅の感慨は、芭蕉流の意匠で文芸作品へと昇華されている。
淡い期待を抱き石巻漁港(宮城県石巻市)の岸壁から太平洋をにらんだ記者だったが、変わらぬ海に広がる現代的な消波ブロックに「不易流行」を感ずるのみだった。
https://oniwa.garden/tenrinin-temple-%E5%A4%A9%E9%BA%9F%E9%99%A2%E5%BA%AD%E5%9C%92/ 【瑞雲峰天麟院について】 より
「天麟院」(てんりんいん)は松島の国宝寺院『瑞巌寺』の並びにあり、国重文寺院『円通院』に隣接する仙台藩主・伊達家ゆかりの寺院であり、伊達政宗の長女・伊達五郎八姫の菩提寺。境内は無料で拝観できます。
五郎八姫は伊達政宗と正室・愛姫との間に生まれた長女であり、弟には正宗の後を継いで二代目仙台藩主となった伊達忠宗が、そして異母兄には宇和島藩初代藩主・伊達秀宗が居ます。
五郎八姫自身は徳川家康の六男で高田藩主の松平忠輝に嫁いだものの、忠輝が高田藩主を改易になったことをきっかけに仙台へ戻り出家。政宗は愛娘に同情して、信仰生活を全面的に支援した――のだとか。境内の奥にある五郎八姫御霊廟は円通院三慧殿などと並び松島の三霊廟とも言われるそう。
本堂の横にこじんまりとした池泉庭園があります。五郎八姫は晩年茶の湯をたしなまれ、それに伴った井戸や築山、池苑の存在が案内板には書記述があります。この池泉庭園がそれであるとは書かれていないけど、“200年以上も経た名木”というドウダンツツジの姿がこの池泉の周辺に見られるので、この池泉もその当時からの遺構なのではと思われます。池の頭上にあるモミジとの組合せが紅葉時期にはきれいなんだろうなー!
ちなみに天麟院境内と円通院の間にはもう一つ池があり…こちらは自然な感じにはなっているけどちょっと気になる存在。
https://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=145 【天麟院 てんりんいん】より
天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺で、 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。
五郎八姫は、徳川家康の六男、松平忠輝の正室でしたが、忠輝は父である・家康の政略方法に反発を強め、大阪夏の陣遅参等により、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門へ入りました。政宗は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的に支援したといわれています。
なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっています。
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