http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/sora2/sora2.htm 【曾良の句碑】 より
春にわれ乞食やめても筑紫かな
「春にわれ…」の句碑 勝本町城山公園
句碑 建立へ!!
壱岐では、明治の中頃から大正にかけて、優れた俳人がおられ、勝本にも熱心な人達が句会を行っていました。その当時、句会を初音会と言っていたようです。
明治41年、信濃の曽良の会より代表者が来られ、曽良二百年祭が行われ、当時の勝本の俳友初音会の方が全員参列されました。その時、曽良記念碑建立の計画が出ましたが、実現されませんでした。
昭和8年、松永安左エ門の委嘱をうけて、東京から本山桂川氏が壱岐に来られました。目的は、民俗調査ということで一ヶ月余り滞在されました。桂川氏が俳人でしたから、勝本北斗会で氏を中心に句会が開かれました。(北斗会の前に、北星クラブが大正12年に創立されていますから、この頃、北斗会となっていたようです。)
この時、再び曽良の句碑を建てようということになり、「春にわれ乞食やめても筑紫かな」を刻むことにして、字は桂川氏の斡旋で岐阜の俳誌『海紅』の同人・塩谷鵜平氏に依頼し、彫刻は当時勝本で墓石等を造っておられた、箱崎の川上仲一石工にお願いし、運搬や建立は勝本北斗会が中心になって進められました。
昭和9年5月22日、曽良の忌日に除幕式が行われています。
會良 筑紫路へ!!
曾良は、巡見使の陪従になることを許されると、「ことしわれ乞食やめても筑紫かな」の句を作っています。
芭蕉が世を去って、悶々の淋しい日々を送っていたいた曽良が、巡使に推挙されたことは大きな悦びであったようです。
「今年は、今までのような粗末な服装では旅行できないが、やっと念願筑紫に行ける」という喜びに満ちた気持ちが表れています。
遺品の中には笈があったようなので、帰りは笈を負うて托鉢姿で帰る予定だったようです。
宝永6年11月に、随員を承諾した曽良は、収入のなかった時で、思わぬ旅費手当の臨時収入で、いつにないゆとりのある年越しができるようになり、「千貫匁ねかせてせわし年の暮」と実感のこもった句をのこしています。
又、歳旦の試筆には、「立初むる霞の空にまつぞおもう、ことしは花にいそぐ旅路を」と記しています。
このような当時の曽良の心の弾みからも、「春にわれ・・」の句が生きてくるようです。
行き行きてたふれ伏すとも萩の花 「行き行きて…」の句碑 勝本町城山公園
「 元禄二年(1689)旧暦秋、芭蕉、曾良の二人旅は石川県山 中温泉にたどりついた。江戸深川出発以来百二十余日、行を共に した二人はここで別れることになる。長い道中も終わりに近づき、 健康を害した曾良が師の足手まといになることを懼れた為である。
別れの句を受けた芭蕉は、『行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻
鳧の別れて雲に迷ふがごとし』と『奥の細道』に綴っている。
芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていた。
曾良翁二百八十年忌記念事業実行委員会 平成元年五月二十二日建立 」
句碑の建立
平成元年5月22日、「曽良忌280年祭」が、曽良の出生地信州より、諏訪市長始め、各界代表190名の墓参団が来島され、盛大な記念大法要が営まれ、墓所の側には、「曽良二百八十忌記念碑」の建立や植樹等がなされ、なお、城山公園東入口には、新しく「記念句碑」が設けられました。句碑には、「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の花」の句が刻まれています。
元禄2年6月27日、二人は野山に月日を重ね夜に入ってから、石川県の山中温泉に辿り着いたのですが、ここで腹痛に苦しみ、芭蕉の足手まといになることを心配した曽良は、芭蕉と別れて、伯父の秀精法師を頼るのですが、その折の「曽良の別れの句」です。
これに対し、芭蕉は、「今よりは書付け消さん笠の露」の句を残しています。芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていたので、この同行の字を曽良と別れるために、消さねばならないと悲しんでいます。
「行く者の悲しみ、残る者のうらみ、二羽のケリのわかれて、雲に迷うが如し」と奥の細道に記しています。今日から一人旅になるので、笠に記している「同行二人」の文字を、笠に降りる露で消してしまおう、という師弟の情の濃さが表されています。
https://blog.goo.ne.jp/kanwa_notes2005/e/27a3e7256ab9bf89049770ac4a3823b7 【河合曾良の事ども (諸国巡見使)】 より
「河合曾良の事ども」シリーズは本稿で十本目のエントリになる。だらだら書くのはいい加減にして、間もなく完結させたい。芭蕉のおくのほそ道*は、日本の近世文学史上屈指の作品であり、紀行文中の最高傑作であることは万人が認めるところである。これに花を添えたのが随伴の曾良が遺した曾良旅日記である。このリンク先にも「奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要である」とある。曾良旅日記には俳諧書留も載っており、第一級の史料であことは論を待たない。拙ブログの前稿でほんの一部の章を紹介したので興味のある方はご覧ください。
* おくのほそ道の中の秀句で且つ私のお気に入りの句は本編の最終稿で掲載したい。
おくのほそ道は歌枕(名所旧跡)を訪ねての旅である。曾良は旅に先立ち巡歴予定の歌枕を調査*している。曾良旅日記の前半に「神名帳抄録」と「歌枕覚書」が載っている。曾良は俳人ではあるが、地理・歴史に明るかったことが数多い門弟の中で芭蕉の随伴に抜擢されたと考えられる。道案内人でありツアーガイドの役目を果たしたといえよう。
* 延喜式神名帳より調査している。
しかしながら旅先での曾良の行動は、芭蕉に随行する以外の目的や任務があったのではないかとする説がある。穏やかでないのは、少数派だが、曾良隠密説であるばかりか、芭蕉隠密説までネットに飛び出してくるありさまだ。なるほど、おくのほそ道の研究が進んでいるとはいえ、今も解明できない謎の部分があるのは事実だ。
例えば旅の行程の長さに驚かされる。約600里(2400Km)の距離を約150日間の日数で走破してしまう。そしてまた、これだけの大旅行の旅費をどう工面したのか?寂び侘びの生活をしていた芭蕉にそんな大金があったのか?芭蕉庵を手放し旅費に充てたとする説もある。名士からの多額の餞別もあったかも知れない。仮に旅費を賄えたとしてもその大金をどのように携帯したのか?付き人や警備の者もいない二人だけの旅だ。道中追い剥ぎに遭っても不思議でない。着ている物も武士のように頑丈なものではなく質素な服装が描かれている。曾良は法衣である。曾良旅日記には托鉢に出ているところが記されている。「一 十九日 快晴。予、托ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。」とある。
そこで曾良の略年譜を次のようにあらためて整理してみる。上述の不可解な部分の謎解きをしてみようという訳である。(笑)
略年表から私が注目する事柄は次の五つである。(1)寛文7年、徳川幕府による諸国巡検使の制度がほぼ確立したこと。(2)その翌年寛文8年、曾良が伊勢長島の大智院滞在時、長島藩へ仕官したこと。書記のような仕事に就いたといわれる。(3)天和元年、曾良江戸へ出立し吉川惟足に入門、神道を学んでいること。(4)宝永6年、幕府派遣の諸国巡検使の用人に任命されていること。(5)巡検使(用人)任務中客死している。
<参考> 江戸幕府巡検体制の一考察-大舘右喜-pdf
さてまとめに入る。以上注目した上の五つは歴とした証拠にはならないが、おくのほそ道の曾良は幕府の密使とか隠密ではない。ましてや芭蕉は歌枕を旅する俳諧師だ。曾良の任務は芭蕉の世話をしながら、陸奥方面への諸国巡検使の事前視察と考えられる。上のリンク先を見ても分かるように、歴史は下って天保7年(1836)の巡検使の動向によれば、巡検正使を使番、副使を小姓組・書院番より選び、編成している。供人数は40名程度を召し連れ、内、用人2名、給人2名、侍7名、徒歩5名、足軽中間又者が24名と書いてある。曾良は芭蕉亡きあと幕府派遣の巡検使の用人にまで出世したのである。従っておくのほそ道行脚は、その下積み生活だったと思料できる。このように考えると、先に述べた謎はすべて氷解するのである。
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