https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=732 【歌仙】 より
(一)
古く歌泉(『万葉集』)とも。歌道において特に優れた者。のちには特定の歌人を指すに至った。『古今和歌集』序により、柿本人麻呂・山部赤人を二歌聖、在原業平・小野小町・僧正遍照・喜撰法師・文屋康秀・大伴黒主の六人を六歌仙と称した。のちに成った各種の新六歌仙・続六歌仙などと区別し古六歌仙ともいう。ついで藤原公任の『三十六人撰』に選ばれた三十六人(人麻呂・貫之・躬恒・伊勢・家持・赤人・業平・遍照・素性・友則・猿丸・小町・兼輔・朝忠・敦忠・高光・公忠・忠岑・斎宮女御・頼基・敏行・重之・宗于・信明・清正・順・興風・元輔・是則・元真・小大君・仲文・能宣・忠見・兼盛・中務)を三十六歌仙と称し、略して歌仙ともいう。俳諧の歌仙はそれによる。三十六歌仙にならったものとしては、新三十六人(藤原基俊)、後六々撰(藤原範兼撰か、『中古三十六歌仙』)、新撰歌仙(九条基家撰か、『新三十六人撰歌仙』)、女房三十六歌仙(『女房歌仙』)以下、その類がきわめて多い。→三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)
[参考文献]
久曾神昇『三十六人集』(『塙選書』四)、同『西本願寺本三十六人集精成』、国宝西本願寺本三十六人家集刊行会編『西本願寺本三十六人家集』
(久曾神 昇)
(二)
連歌の様式の一つ。歌仙(の)連歌の略。名称の由来は和歌の三十六歌仙であるが形態は必ずしも一定していない。大別して、(一)作者が三十六人であるもの、(二)句数が三十六で完結するもの、(三)句数はやはり三十六で、各句に三十六歌仙名を隠題(物名)として詠み込んだもの、の三種類が認められる。現存最古の歌仙連歌は、応永三十年(一四二三)の「法楽歌仙」と表題された賦山何連歌百韻(熱田神宮蔵)で、四枚懐紙から成る一般の百韻連歌と同じ形式だが、作者は社務上州満範・祝師仲稲以下三十六人で、(一)に該当する。ただし(一)の実例はこれ以外に認められないので歌仙連歌として一般的な形式であったとは考えられない。長享二年(一四八八)の『北野社引付』に三十六句連歌の記事がみえるが、歌仙と称したかどうかわからない。明応二年(一四九三)の『後法興院政家記』に三十六句の歌仙連歌の記事があり、(二)に該当するものの初見と思われる。ただし(三)である可能性もある。享禄三年(一五三〇)常桓(細川高国)独吟の「山かきのもとつは染よ秋の雨」に始まる三十六句、大永五年(一五二五)かといわれる宗碩独吟「滝川の薄氷(うすらひ)とまるみ草哉」のそれは、ともに(三)に該当する。『再昌草』享禄三年条に記されるような各句に歌仙名を詠み込むのはきわめて特殊な賦物であり一般的に広く行われたとは考えにくい。したがって江戸時代の歌仙俳諧の源流をなしたものは(二)の場合であろう。
[参考文献]
伊地知鐵男『連歌の世界』(吉川弘文館『日本歴史叢書』一五)
https://shinmai-shufhu.com/36kasen_tte-1098 【三十六歌仙(さんじゅうろくかせん)ってだれ?】より
京都国立博物館で2019年10月12日(土)~11月24日(日)まで開催される『特別展 流転100年
佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美』について、書いていこうと思います。
今回は、初級編として「三十六歌仙って…?」について調べてみました。
三十六歌仙ってなに?
そもそも三十六歌仙って言われても聞きなれない言葉ですよね。んで、誰が言い始めたの?
って思いますよね。言い出しっぺがおられました!!
それは、平安中期の公卿で歌人でもあった藤原公任(ふじわらの きんとう)さんです!!
出典:Wikipedia
彼が編集した歌仙集『三十六人撰(さんじゅうろくにんせん)』に載っている平安中期までの
和歌の歌仙(名人)たちのことを指します。
そこで選ばれたのが三十六人だったので、三十六歌仙って呼ばれています。
なので、もし十八人だったら、『十八歌仙』だったでしょうね。
ちなみに続編ともいえるものあります。平安末期の公家である藤原範兼(ふじわらの のりかね)さんの『後六々撰』(6×6=36ってこと?)に載っている「中古三十六歌仙」や女性版三十六歌仙ともいえる「女房三十六歌仙」などなど…。
三十六歌仙ってだれ?
さて、だれが言い出したのか?は、判明しましたので、次は、だれが三十六歌仙なのか?について…です。
①柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)出典:出光美術館飛鳥時代の歌人。山部 赤人(やまべの あかひと)と共に「歌聖」と称えられています。
②凡河内 躬恒(おおしこうちの みつね)平安前期の官人で歌人。
③大伴 家持(おおともの やかもち)奈良時代の公卿で歌人。
④在原 業平(ありわらの なりひら)出典:Wikipedia平城天皇の孫で平安前期の貴族で歌人。
六歌仙の1人。小倉百人一首の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川からくれなゐに 水くゝるとは」で有名。清和天皇の女御になる前の藤原高子(ふじわらの こうし)などと禁断の恋愛したりと当代きってのプレイボーイ。『伊勢物語』の主人公と目されてる方です。最近ではマンガ『応天の門』の主人公としても有名かな。
⑤素性法師(そせいほうし)平安前~中期の僧侶で歌人。
⑥猿丸大夫(さるまるだゆう)生没年不明の歌人。実在すら疑われています。(゚д゚)!坊主めくりで一番最初に覚えた名前だったのにぃ
⑦藤原 兼輔(ふじわらの かねすけ)平安中期の公家で歌人。
⑧藤原 敦忠(ふじわらの あつただ)平安前~中期の公卿で歌人。藤原 時平(ふじわらの しへい)の三男。
⑨源 公忠(みなもとの きんただ)平安前~中期の貴族で歌人。子は源 信明[30]。
⑩斎宮女御(さいぐうのにょうご)平安中期の皇族で歌人。醍醐天皇の皇孫にして伊勢斎宮。
⑪源 宗于(みなもとの むねゆき)平安前~中期の貴族で歌人。
⑫藤原 敏行(ふじわらの としゆき)平安前期の貴族で歌人。そして書家。多くの人から法華経の書写の依頼を受け、魚を食べるなど、不浄の身のまま200部以上書写していたので、地獄に落ちて苦しみを受けた。というエピソードも残ってます(苦笑)
⑬藤原 清正(ふじわらの きよただ)平安中期の貴族で歌人。
⑭藤原 興風(ふじわらの おきかぜ)平安前期の歌人。
⑮坂上 是則(さかのうえの これのり)平安前~中期の貴族で歌人。
⑯小大君(こおおきみ)出典:Wikipedia平安中期の歌人。
⑰大中臣 能宣(おおなかとみの よしのぶ)平安中期の貴族で歌人。梨壺の五人(なしつぼのごにん)の1人。『後撰和歌集』を撰集。
⑱平 兼盛(たいらの かねもり)平安中期の貴族で歌人。
⑲紀 貫之(きの つらゆき)出典:Wikipedia平安前~中期の貴族で歌人。『古今和歌集』の選者の1人。紀友則[23]の従弟仮名日記文学『土佐日記』の作者。
⑳伊勢(いせ) 平安中期の歌人。
㉑山部 赤人(やまべの あかひと)奈良時代の歌人。山辺赤人と書かれることもあります。柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)と共に「歌聖」と称えられています。
㉒僧正遍昭(そうじょう へんじょう)平安前期の僧侶で歌人。六歌仙の一人。俗名は良岑 宗貞(よしみねの むねさだ)。歌舞伎舞踊の『積恋雪関扉』に出てきます。
㉓紀 友則(きの とものり)出典:Wikipedia平安前期の官人で歌人。紀貫之[19]の従兄。『古今和歌集』の選者の1人。
㉔小野 小町(おのの こまち)平安前期の歌人。六歌仙の一人。絶世の美女で深草少将の「百夜通い(ももよがよい)」が有名ですねー。
㉕藤原 朝忠(ふじわらの あさただ)出典:Wikipedia平安中期の公家で歌人。
㉖藤原 高光(ふじわらの たかみつ)平安中期の貴族で歌人。壬生 忠岑(みぶの ただみね)平安前期の歌人。『古今和歌集』の選者の1人。子は壬生忠見[35]。
㉗大中臣 頼基(おおなかとみの よりもと)平安中期の貴族で歌人。
㉘源 重之(みなもとの しげゆき)平安中期の貴族で歌人。
㉙源 信明(みなもとの さねあきら)平安中期の貴族で歌人。父は源 公忠[9]。妻の一人は中務[36]だったらしい。
㉚源 順(みなもとの したごう)平安中期の貴族で歌人そして学者。梨壺の五人(なしつぼのごにん)の1人。『後撰和歌集』を撰集。多才過ぎて、あまり評価されてなかった人。『竹取物語』、『宇津保物語』、『落窪物語』などの作者がわからない作品は、大抵この方かも?ってなっています。
㉛清原 元輔(きよはらの もとすけ)平安中期の貴族で歌人。梨壺の五人(なしつぼのごにん)の1人。『後撰和歌集』を撰集。娘は『枕草子』を書いた清少納言。
㉜藤原 元真(ふじわらの もとざね)平安中期の貴族で歌人。
㉝藤原 仲文(ふじわらの なかふみ)平安中期の貴族で歌人。
㉞壬生 忠見(みぶの ただみ)出典:Wikipedia平安中期の歌人。壬生 忠岑[26]は父。
㉟中務(なかつかさ)平安中期の歌人。源 信明[29]の妻だったらしいです。
平安前期にできた勅撰和歌集『古今和歌集』ので序文で挙げられている歌聖2名と6人の歌人(六歌仙)の全員が取り上げられてるわけでもないんですね。
それは、藤原公任さんの好みにもよるのかな。
六歌仙っていうから、さぞ序文で褒めているのかな?と思いきや、「あいつのここは良いいけど、ここがダメ。」みたいに褒めて落としてるんですよ、コレが(苦笑)
それはまた同じ意味で平安末期から鎌倉初期にかけての公家で歌人でもある藤原定家さんが
選んだ『小倉百人一首』に三十六歌仙全員が入ってないのもそういうことなんでしょうね。
あいつとは違うのだよって意味で、ワザとなんかな?
100人も選んだのにぃ。藤原敏行さんのエピソードは笑ってしまいました。
それにしても源信明さんは、父の源公忠さんも妻の中務さんも三十六歌仙だなんて、凄かったですね。
そうそう余談ですが、『歌仙』と呼ばれてる刀があります。明智 光秀さんの娘で細川 ガラシャの夫である細川 忠興(ほそかわ ただおき)さんの刀です。
理由は、この刀で家臣36名を斬ったから。
「36名=三十六歌仙」っていう連想で。。。
https://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/62/15_treasure/index.htm 【シリーズ 龍谷の至宝3 『三十六歌仙畫帖』】より
『三十六歌仙絵』は、平安時代中期の歌人藤原公任が三十六歌仙を撰んだ『三十六人撰』に基づいて、その歌仙の姿と詠んだ和歌を書いた「歌仙絵」の代表的な作品である。そもそも「歌仙絵」は歌合形式に歌人の姿と和歌を描いたもので、平安末期から盛んに作られるようになったものである。
これは平安末期以降の歌合や肖像画の隆盛に相まって盛んになったものであるが、鎌倉・室町時代には、『新三十六歌仙絵』『中古三十六歌仙絵』『女房三十六歌仙絵』など次々に新種の「歌仙絵」が作られている。
『三十六歌仙絵』の現存本で最も著名なものに、鎌倉時代の画家で歌人の藤原信実が描いたとされる佐竹本『三十六歌仙絵』がある。時代は下がるが、本学図書館にも、江戸時代に絵を狩野益信が描き、和歌を賀茂真渕が書いたとされる『三十六歌仙絵』二巻が収蔵されている。
さて、この度紹介する『三十六歌仙畫帖』は、折帖装の一冊、表紙は唐草模様の緞子装、見返しは金泥模様入、裏には金切箔を散らしている。歌仙の絵は絹本に彩色され、和歌は金の霞を散らした料紙に墨書きされている。見開きに和歌と絵が対になる形で貼り込まれ、絵の左下に「探幽」の正方形の朱印の落款がある。巻末には「飛鳥井雅章卿三拾六人歌仙」と墨書きされた古筆分家の極札が貼付されている。
和歌を墨書きしたとされる飛鳥井雅章(1611~79)は、古今伝授を受けた江戸時代前期の歌人で、後水尾院の古典講釈の聞書などを残した公家である。その筆跡から極礼の鑑定にほぼ間違いないものと思われるが、絵を描いたとされる狩野探幽(1603~74)については、落款はあっても確証が持てない。しかし、歌仙の絵は、衣装や調度の細部まで精密に描かれた美しいもので、和歌の筆とともに小品ではあるが雅趣に富んだものである。
ここにあげた絵と歌は本画帖の中、「六歌仙」並びに「三十六歌仙」の一人、小野小町のものである。和歌は小町の代表作で、百人一首にも入っている「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」の歌である。自分の容色のおとろえを嘆く意と、散りゆく花を惜しむ意を重ねて詠んだ名歌である。
(文・大取一馬文学部教授)
0コメント